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史劇の二大名作「スパルタカス」と「ベン・ハー」 [映画の雑感日記]

史劇の二大名作
 私が大作史劇が大好きな人間であることは、すでにあちこちに書いている。今回はその「スパルタカス」と「ベン・ハー」という二大歴史劇の話をしよう。
 ひところ大作と言えば史劇という時代があった。それは同時に、その手の作品が大好きな私にとっても映画の黄金時代であった。私は、小遣いの許す限り西洋チャンバラ映画を求めて主として映画館に通い続けたのである(この時代に見た他の名作、駄作については、次回に書こうと思う)。そうした史劇鑑賞歴30年の上に立って、さて史劇の名作は、と考えるとすぐに浮かんでくるのが史劇の二大名作「スパルタカス」と「ベン・ハー」なのである。
 まず「スパルタカス」だが、この映画は、主役の二人カーク・ダグラスとジーン・シモンズに目をつむってさえいれば、実に語るところの多い名作である。私は、スタンリー・キューブリックの代表作として「2001年宇宙の旅」「博士の異常な愛情」と合わせてこの「スパルタカス」を挙げるのに躊躇しない。
 ところが、どこかでキューブリックが「あれは私が全権を取れなかった唯一の映画で、商業映画の監督に心ならずも撤して作った作品だ」というようなことを言ったのを鵜呑みにして、「あれはキューブリック唯一の駄作だ」みたいなことを訳知り顔に言う奴がいるから困ったことになるのである。いったい、お前本当に映画を見たのか、と言いたい。キューブリックの失敗作と言えば「ロリータ」と「シャイニング」に止めを刺し、「突撃」や「バリー・リンドン」「フルメタルジャケット」などがやや退屈な水準作。キューブリックが監督として思い通りにやれたのかどうかということと、出来あがった作品の価値とは全く関係ないことを一言言っておきたい。トルストイだって晩年は「戦争と平和」を否定する発言をしているが、たとえ作者がそう言ったところで「戦争と平和」は、大それたことに世界をまるごと写しとろうとし、しかもかなりの程度に成功した文学史上の大傑作なのである。
 スパルタカスは、紀元前70年頃に実在した人物。こう書くと高校時代ちゃんと授業を受けていた人の中には「そういえばスパルタカスの乱というのが世界史で出てきたなあ」と思い出す人もいると思う。原作ハワード・ファスト、脚本ダルトン・トランボ(赤狩りでハリウッドを追われた一人。ダグラスの「ガンファイター」のシナリオも書いており、その縁で起用されたのではないかと思う。後に「ジョニーは戦場へ行った」というすさまじい映画の監督もしている)。奴隷の反乱の物語なのだから「自由」ということが大きなテーマになるのは当たり前だと思うのだが、そのためにアメリカのいくつかの州では上映禁止になった、というような話を聞いたことがある。アカデミー賞を4部門受賞しているが、助演男優賞(ピーター・ユスチノフ)など地味なものばかりで、興行的にも大ヒットとはいかなかったようである。
 ただ、初めてこの映画を見た時(例の二番館のオーモン劇場)、「あれれー]と思った記憶はある。東映時代劇のような調子で「いい方」「悪い方」と単純に分類して見ていると、いい方はどんどん死んでいってしまい最後には全滅してしまうからである。「ウエストサイド物語」や「北北西に進路を取れ」などのタイトルデザインをしたソウル・バスが絡んでいると言われる合戦シーンにしても、堂々の布陣はじっくり見せるが戦いが始まるとあっと言う間に終わってしまい、「いい方」の大敗北である。
 ところが、何となく気になるものがあったのだろう、リバイバル上映をスカラ座の70ミリ大画面で見たときは感動の嵐。これは別に画面が大きかったからでもない。その数年の間にこちらが成長したからである。この後、東京に出てきてからも「スパルタカス」は映画館で2回見ているが、オールタイムでのベスト10に入るべき名作という評価は、ますます揺るぎのないものになった。
 スパルタカスの奴隷時代から剣闘士養成所の反乱まで、反乱軍の巨大化とローマ守備隊の壊滅まで、自由を目指しての反乱軍の進撃と壊滅、スパルタカスの死まで、という4章が交響曲のように織り成す見事な構成である。しかも、ただ奴隷軍とローマ軍という単純な図式ではなく、元老院の中でも勢力争い(チャールス・ロートンとローレンス・オリビエという二大名優の駆け引きは迫力満点)があり、そのことがラストでスパルタカスの妻と子が自由になる伏線となっているといううまさ。最後の決戦を前にしてのローマ軍総司令官クラサス(オリビエ)と奴隷軍のスパルタカス(ダグラス)の演説を交互に見せる手法も見事としか言いようがない。
 捕まった奴隷たちにクラサスの代理が「司令官の計らいで、お前たちは、許されることとなった」そう告げると死を覚悟していた奴隷たちの間にざわめきが起こる。が続けてこう告げられるのだ「ただし、条件がある。その条件とは、生きていればスパルタカスその者を、死んでいればその死体を指し示せ。そうすればお前たちは許される」というものである。皆を救うためにスパルタカスが名乗り出ようとする。と、それより一瞬早くトニー・カーチスが立ち上がって叫ぶ「アイム・スパルタカス」。スパルタカスであれば、殺されるのである。が、皆が口々に「アイム・スパルタカス」と言って立ち上がり、ほとんど全員が「アイム・スパルタカス」と叫ぶシーンもやや通俗的とはいえ、感動的なシーンである。
 嫌いな女優の口からとはいえジーン・シモンズの「この子は、自由です。あなたの名前と、あなたの夢をこの子に教えます」というラストの台詞には、今でも目頭が熱くなるのを禁じ得ない。何度見ても感動が味わえると断言できる映画というものは数少ないが、「スパルタカス」は、その数少ない映画の1本である。もう一点だけ付け加えておくと、この映画は芸術映画でもなく政治映画でもなく、まぎれもないスペクタクル娯楽映画であること。しかし、娯楽映画であるにもかかわらず、制作者の言いたいことは質を落とさず主張され、それがこちらの心にストレートに伝わってくるという名作である。このことは、「娯楽映画とは何か」ということを考える上で、忘れてはならない点である。このあたりが最近は「お子様ランチ」ばかりになってしまったが、よくできたアメリカ映画の凄いところだと思う。

 「ベン・ハー」は、ユダヤ人ジュダー・ベン・ハーとキリストの受難を重ね合わせたスペクタクル大作史劇で、最初見たときにはとてつもなく感動し、「世の中にこんな素晴らしい映画があったのか」とさえ思ったものだ。もちろん3時間40分の長編だが退屈するというようなことは全くない。
 「ベン・ハー」はよくできた映画で、映画初心者からプロまで満足させるという点でも代表的な歴史映画、いやそういった狭い範疇を超えた映画史上の金字塔と言える。アカデミー賞最多の11部門受賞という記録は「タイタニック」に並ばれてしまったが、1950年代末から60年代にかけての映画がまだ力をもっていた時代での大記録である。比べる方が失礼というものだろう。(念のために言っておくと、「タイタニック」は、一部の評論家の言うように駄作ではないが、大傑作でもない。1998年の洋画の代表作は「L.A.コンフィデンシャル」だと思う。「タイタニック」については、後でまた触れる予定である。)
 これは監督ウイリアム・ワイラーの手腕に帰するところが大きいと思う。さすがに「ローマの休日」「必死の逃亡者」「大いなる西部」などの監督である(「孔雀夫人」などそれ以前の作品にも名作が多いという話だが、私は見ていない)。たとえば、ベン・ハー(チャールトン・ヘストン。この映画でアカデミー主演男優賞を受賞した。納得)と許婚者エスターとのシーンには、バックに格子戸が繰り返し映し出されるが、こういう細かいところをきちんと撮れるかどうかが大画面映画にとってもやはり大切なのである。ちなみに、エスターがベン・ハーと会うときは外付けの階段を降りてくるパターンになっていて、これは天使のイメージを連想させるためではないかと思う(ラストでは、これが逆になり、ベン・ハーが上階で彼の母妹とエスターが階段を上がってくるパターンになる。つまり、ベン・ハーも迷いが吹っ切れたのであることがわかる)。
 ベン・ハーの母親役を演じるマーサ・スコットは、「十戒」でヘストンがモーゼを演じた時も実の母親役をやっている。ワイラーは、こういう映画通をニヤリとさせるところまできちんと考えて作っているのだと思う。ちなみに、妹役の地味なキャシー・オドンネルは確かワイラーの兄さんのお嫁さんだったはず。
 有名な戦車競走のシーンについては何人もの人が書いているので今さら詳しくは書かないが、あれは集合合図がかかり、仇役のメッサラ(スティーブン・ボイド)の戦車が刃物をそなえたギリシャ戦車であることをきちんと観客に知らせ、ミクロス・ローザの勇壮な音楽と共に戦車が場内を一周し、というセレモニニーで盛り上げておいて、スタートとなるので効果的なのである。メッサラの馬が黒で、ベン・ハーの馬が白というのもどちらの馬がどこにいるのか子供でも一目でわかってよい。何周したかを魚のマークで知らせたり、一旦遅れたベン・ハーが追いついたりということろもきちんと描かれている(ちなみに私が読んだ原作の記憶では、ベン・ハーがメッサラの戦車の車輪に自分の戦車の車軸を突っ込んで破壊したはずである。もちろん、映画のような展開の方が遥かに自然である)。
 戦車競走のどでかい競技場にしろ、ローマへの凱旋シーンにしろ、初めの方に出てくるエルサレムの町へのローマ総督の入場シーンにしろ迫力満点なのは言うまでもない。あまりのスケールの大きさに声もないとは、こういう場面のことを言うのである。こんなに金をかけて大丈夫なんだろうか、と心配になるほどだが、こういうシーンに金をかけないと「スター・ウォーズ」(第1作、つまりエピソード4のことです)のラストのようにせっかく宇宙規模で戦われた戦争に勝利したのに記念式典がスーパー・ダイエーの入社式のようになってしまい、映画そのものをだいなしにしてしまうのである。
 ただし、一言言っておきたいのは、ただ巨大セットを作って出すだけではダメだということ。戦車競走のシーンをもう一度例にとれば、まず戦車の集合場所は背後に壁があり、前方には太い柱がある、という閉鎖された空間である。それが競技場に出て行って初めて空間が広がり、巨人像が映し出されて度胆を抜かれ、さらに競技場全体の俯瞰(後方にエルサレムの丘と空が広がる)が示されて「うわーっ、すげえ」ということになるのである。こういう見せ方に関してもワイラーは、手抜かりがない。
 海戦にしても、その前にガレー船の櫓の漕ぎ方や司令官アリアスとの関係などをきちんと描き、船の形や色、各々の服飾などもちゃんと整理されているので迷うことはない。戦闘の前に奴隷は鎖に繋がれるのだが、ベン・ハーだけは鎖をはずされる。そして露を漕ぐシーンに移るのだが、満身の力で漕ぐので漕ぎ終えた姿勢は自然と上を向くことになる。すると甲板から見下ろしているアリアスの姿が見える。彼が鎖をはずしてくれたんだとそれでわかるわけで、その後、ベン・ハーがアリアスを助けることにも納得がいくのである。
 もう一つ書いておくと、この映画の縦糸の一つに「水」というものがある。砂漠でイエスから水をもらって生き延びたベン・ハーが、十字架に向かうイエスに水を差し出す感動的なシーンがあるが、あれも都合よく差し出すわけではない。イエスをもっと間近でと歩くベン・ハーが警備のローマ兵に、邪魔だとばかりに盾で強引に押し出し押し付けられる。そこに水場があり、そうだと水を汲んで差し出すという過程がきちんと描かれている。決してご都合主義のシナリオではないのだ。
 エンド・マーク前に夕陽の十字架を背景に羊の群れが移動していく、まるで絵画のように美しいシーンが映し出されるが、これも「神は迷える子羊を導きたまう」とでも言うべきメッセージで、3時間40分という大作を締めくくるのにピッタリのシーンである。ラストはハレルヤコーラスと共に幕となるのだが、全編を彩るミクロス・ローザの音楽の素晴らしさについてはすでに書いたので、そちらを参照されたい(私は2000円もするMGMレコードを買って楽曲をすべて暗記したのだ(^^;)。
 そんなわけで「ベン・ハー」は、映画史上最大の大作の一つであると同時に、いい意味で非常にわかりやすい映画になっているのである。小学生は小学生なりに、プロはプロなりに楽しめる映画なのである。従って、私は、「歴史映画を1本だけ見たいのですが、どんな映画を見ればいいのでしょう?」という問いには、容易に答えられる。
「『ベン・ハー』を見なさい」


「エル・シド」は駄作ではない
 今ではほとんど忘れられかかっている映画「エル・シド」について書こうと思う。異教徒からスペインを救った中世の英雄ロドリゴ・ディアス(強いだけではなく情けも知る武将であったことからエル・シドと称された)の物語である。
 主演は「ベン・ハー」のチャールトン・ヘストン、ヒロインにソフィア・ローレンという両アカデミー賞受賞俳優、監督に「ウインチェスター銃73」のアンソニー・マンという豪華70ミリ大作で30数年前の封切り時にはそれなりに話題になりヒットもしたのだが、最近では話題にのぼることもあまりない。3時間を超える長編なのでTV放映されることも今ではまずない。あっても大幅にカットされているのが常なので見る気はしない。かつてレーザーディスクが出ていたが、今はどうだろう? しかし、この映画、「昔の映画」という一言で消してしまうには、あまりに惜しい。
 ということで、手近な本をめくってみたら清水義範が「映画でボクが勉強したこと」という本の中で「エル・シド」に触れていた。が、合戦シーンなどスタンリー・キューブリックの「スパルタカス」がいかによくできていて、「エル・シド」がダメなのかという証拠として触れられているだけなのでちょっと異論がある。「スパルタカス」は、私が映画のベストテンを選べば必ず入ってくるほどの名作で、そういった映画史に残る名作と比べて駄作と決めつけられたのでは、かわいそうな気がするのである。その辺も含めて書いていきたい。
 制作は、当時スペインに本拠をかまえ、キリストの生涯を描いた「キング・オブ・キングス」、故・伊丹十三(当時、一三)も出ていた「北京の55日」、「ベンハー」の仇役メッサラのスティーブン・ボイド主演の「ローマ帝国の崩壊」といった70ミリ大作を続々と制作していたサミュエル・ブロンストン。スベクタクル好きの私は、「70ミリ映画は全部見てやるぞ」と心に決め「黄金の矢」「シエラザード」果ては大映の「釈迦」や「秦始皇帝」などという際物まで見ていたくらいだから、上記の作品はもちろん見ている。プロンストンの作品は、それぞれスケ−ルの大きさには目を見張るものがあるが、正直隙間風が吹き抜けるといったものが多く、唯一、スペインの英雄を主人公にしたこの「エル・シド」がロケーションの素晴らしさとあいまって最高の出来栄えとなったのである。
 監督は、前年一旦「スパルタカス」の監督に決まりながらもプロデューサー兼主演のカーク・ダグラスと衝突して監督の座を追われたアンソニー・マン。紀元前と中世の違いこそあれ、同じ70ミリ大作の歴史劇ということもあり、「この映画で見返してやるんだ」といった気迫が画面の随所に感じられる。原作はコルネイユの「ル・シッド」(この戯曲を読みたいだけのために私は筑摩書房の世界文学大系「古典劇集」という菊判の分厚い本を買ってしまったのだ)といえないこともないが、コルネイユの戯曲は「ロミオとジュリエット」に代表されるような家と家との対立という部分に力点が置かれており、別にスペクタクル史劇ではない。映画は別物と考えた方がいい。また後に岩波文庫から「エル・シードの歌」という叙事詩が出たが、これは読んでいない。
 主演のチャールトン・ヘストンは、まさに適役。風貌といい彼以外にエル・シド役は考えられないといってもいい。ヒロインもソフィア・ローレンのような大柄の女優でなくては騎士の妻は勤まらない。スペインを侵略するイスラム教徒の敵役ハーバート・ロムは「ピンク・パンサー」で間抜けな警部役を演じている俳優だが、ここでは憎らしいほどの鬼気迫る演技を見せている。従って敵が巨大で憎らしいほど、エル・シドの活躍もまた引き立つというわけである。
 エル・シドの主な戦いは4つ。
 最初は、後に彼の妻となるシメーヌの父親との闘い。これは、家と騎士の名誉を賭けた闘いで、相手が婚約者の父ということもあり、建物の中で行われ、エル・シドの闘いたくはないのだが闘わなければならない心情を表すように、画面全体が暗い。
 2番目がカラオーラという土地の所有をかけた王の最高騎士としての闘い。相手の挑戦を受ける建物の中(相手の投げた手袋を拾い上げる=挑戦を受けたという印、ヘストンが実にかっこいい。映画としては「ベン・ハー」の方が上かもしれないが、俳優ヘストンとしては、こちらの方が光っているというのが私の持論である)から屋外の城と闘技場までをパンで見せる切り替えが見事。スペインの古城が否が応でも雰囲気を盛り上げる。闘いの前の儀式の見せ方も騎士のプライドがよく伝わり、これに二人の女の意地までからんで、わくわくさせるものがあり、このような中世の一対一の闘いを描いた場面としては、最高のものではないかと思う。
 3番目は13人の騎士との闘い。これは、ストーリー的には大して重要な場面ではないが、静の場面が続いた後だけにリズムとスピードが際だち、合わせてエル・シドの強さを印象付ける名シーンである。
 そして、最後のスペインの存亡を賭けたバレンシアの戦いとなる。空間的にも登場人物の数からいっても、どんどんスケールが大きくなり最後にどーんと大決戦があるわけで、シナリオのうまさである。エル・シドを先頭に突進する騎兵の群れでスピード感を出しておき、敵の大群を挟んで、歩兵の大群を前方からと俯瞰の2ショットで見せる見せ方もうまい。激突してからのシーンは、もう少し短くてもいいのかな、という気がしないではないが、エル・シドの横に常に旗を配し、彼の位置を観客にわからせるというのも、なかなかの工夫である。
 エル・シドが「神と国王とスペインのために」と言う言葉が、ラストで国王の口から「神とエル・シドとスペインのために」と言い換えられるあたりも、うまい。「かくしてエル・シドは、歴史の門から伝説の中へと駆けて行ったのである」というナレーションにいたっては、正座して聞きたいというくらい格調が高い。ラスト、エル・シドを乗せた白馬が画面の右から左へと波打ち際を走っていくシーンなどまさに伝説の騎士が天に駆け昇っていくようで、思わず目頭が熱くなる。「笑点」流に言えば、座布団2枚やりたいくらいのものである。
 国王争いをする兄弟がどちらも髭をはやしていて見分けがつきにくいとか、死んだエル・シドが先陣をきるラストの戦いの布陣がわかりにくい(というか、相手方の布陣と城の造りが最後までわからない)、あるいはエル・シドから水をもらうラザルスという病人のもったいぶった言葉はいったいどうなったんだ、などという細かいことは忘れて、ここは一つ西洋講談の名調子に身をゆだねようではないか。

幻の「エル・シド」マーチ
 CATVの「ザ・シネマ」チャンネルで先日亡くなったチャールトン・ヘストン主演の「エル・シド」をやっていたので録画してみた。
「我が『楽聖』ミクロス・ローザ」(後出)でも触れているように、史劇大好き人間、70mm映画大好き人間、ローザの音楽大好き人間の私が、あの「ベン・ハー」ヘストンがスペインの英雄剣士を演じたこの映画を見逃すわけはない。公開前から早々とミクロス・ローザ作曲のサウンドトラック盤LPを買い、映画自体も劇場で三度も見ている。もちろんビデオも持っている。NHK-BS2で放送されたものも無論S-VHSで録画したものなのだが、ノーカットなのはいいとしても残念ながらインターミッションの間奏曲(勇壮なマーチ風の曲なので「エル・シドマーチ」とも言われる)がカットされメインタイトルの曲でごまかされていた。どうせ40年以上も前の古い映画だからわかりはしないだろう、ということなのだろうがこちらはサウンドトラック盤LPをハミングできるくらい何度も聞いているし、買ってはいないもののレーザーディスクでも「エル・シド」を見ている(さすがにレーザーディスクのものはちゃんと間奏曲が入っていた)。たちどころに「おいおい」ということになった。インターミッションの時間そのものも短くなっていたので、「皆様のNHK」としては時間短縮のためこういった「暴挙」にでたのだろう。
 民放で放送されるときは序曲までカットされるのがほとんど。それよりはマシというところなのだが、納得はいかない。インターミッションの前と後では十数年の月日が経っているという設定なので、やはりきちんとインターミッションを入れ、ヘストン演ずるところのエル・シドの戦いをイメージさせる「エル・シドマーチ」を聞きたいところである。
 幸い、「ザ・シネマ」チャンネルはノーカット放映なので、よしよしと思って録画したのである(なにせ朝6:00からの放送なのでタイマー録画)。このチャンネルはトリミング版で放送される映画が多いので危惧していたのだが、ノートリミング版で第一関門クリア。序曲もあって第二関門クリア。ところがである、インターミッションがまるまるなくて後半戦に突入してしまうのである。唖然呆然とはこういうことをいう。怒り狂って(^_^;録画データは消してしまったのだが、こうなると「エル・シド」マーチを聞くにはDVDを買うか、WOWOWで放送されるのを気長に待つしかないのかもしれない。


史劇のプロムナード
 前回、私が無類の西洋チャンバラ映画好きだということを書いたが、今回はそうした映画の中で記憶に残っている名作、駄作の散歩道を行く先を決めずにのんびりと歩いてみようと思う。
 まず「十戒」。史劇といえば、この大作を外すわけにはいきません。「聖書」の「出エジプト記」を題材としたセシル・B・デミル監督の西洋講談。紅海が割れるシーンが話題になったが、出エジプトのユダヤ人やそれを追撃するエジプト軍のモッブシーンがともかく凄い。民族と民族の戦いなのだから、これくらいの人数がいないと説得力がないのだが、こういうシ−ンを撮ることは人件費の問題もあって今では不可能だと思う。「ベン・ハー」がイタリアで、「エル・シド」や「スパルタカス」のモッブシーンがスペインで撮られたことを考えると、これはハリウッドで撮られた最後のモッブシーンなのかもしれない。サイレント版もビデオで見る機会があったが、一部が今の「十戒」の話で二部が現代の話という二部構成で、現代編は説教調で退屈極まりない。今のヴィスタ・ビジョン版だけ見れば十分だと思う。エルマー・バーンスタインの音楽も堂々たるもので印象に残る。それにしても「十戒」は、大スペクタクル史劇なのに、戦闘シーンが全くないという不思議な大作ではある。
 「サムソンとデリラ」もデミルの作品で、フォード西部劇でお馴染のビクター・マチュアが怪力サムソンを演じたが、ラストの宮殿がどどーんと崩れ落ちるスペクタクルを除いては退屈な映画だった。だったら見なければいいのに、と思うのは素人で、映画は見てみなければその価値はわからないのだ。
 「聖衣」は、キリストが処刑される時に着ていた「聖衣」をめぐる物語。活劇は意外と地味で記念すべきシネマスコープの第1作という以外に評価すべき点はなかった。「クォヴァディス」は、ノーベル文学賞を受賞したシェンキェヴィッチ原作の映画化。時代設定といい、音楽がミクロス・ローザであることといい、MGMが「ベン・ハー」の予行演習で作った映画である。原作では全裸で牛にしばりつけられているはずのヒロイン(デボラ・カー)が映画では着衣でしばりつけられているというその一点で私を大いに失望させた映画でもある。まだ若かった白痴美のデボラお姉さんは、原作に忠実に映画化するためにも、青春の記念のためにも断然ここで脱ぐべきだったと思う。ただし、皇帝ネロを演じたピーター・ユスチノフは絶品。「スパルタカス」の剣闘士養成所のおっさん役にしろ、この人はともかくこういうちょっとひねった人物を演じさせるとめちゃうまい。
 ノーベル文学賞作品の映画化としては「バラバ」も忘れられない。ラーゲルクヴィストの原作で、キリストの代わりに放免されたバラバのその後の物語である。私は岩波書店の岩波現代叢書でこの原作(同じノーベル文学賞受賞作といっても、通俗的な「クォヴァディス」よりはよほど文学的な傑作)を読んでいたので、映画化されるとさっそく見に行った。主演はアンソニー・クインで、これははまり役。イタリアで作られた70ミリ大作だが、ともかく暗い映画だった。「シェーン」で黒づくめの殺し屋ウイルソンを演じたジャック・パランスとの決闘も活劇というよりも暗い闘いだった。ただし、この手の映画につきものの奇跡のシーンを完全に廃した作りは好感がもて、地味ながらも私はそれなりに評価している。
 「ソロモンとシバの女王」は、ソロモン王=ブリンナー、シバの女王=ジーナ・ロロブリジータという配役の大作というか駄作。「十戒」でエジプト王の経験もあるブリンナーはともかく、ロロブリジータでは肉感的ではあっても女王としての品格に欠ける。名前は覚えていないがこの映画と「バラバ」の音楽は、曲調が似ているので多分同じ作曲家だと思う。「バラバ」は、ちょっとスローなボレロ調、「ソロモンとシバの女王」はコーラスを楽器のように使った曲調で、どちらも悪くはない(その後の調べで予想通り同じ作曲家であることがわかった。マリオ・ナシンベーネというイタリアの作曲家で、他に「激しい季節」「黄金の矢」「恐竜100万年」など)。
 「トロイのヘレン」は、ギリシャ神話を題材にイタリアの女優ロッサナ・ポデスタがヘレンを演じた退屈な作品だが、この頃の彼女は本当に美人だった。ロバート・アルドリッチ監督の「ソドムとゴモラ」は、そのロッサナ・ポデスタがトウがたって何だか変な顔になってしまってからの作品。前髪だけが白いという変な男優のスチュアート・グレンジャーが主役のロトを、ソドムの街の女王をアヌーク・エイメが演じていた。前にも書いたように私はミクロス・ローザがスコアを書いているというだけで見に行ったが、映画自体は旧約聖書に載っている話だとしても退屈で(ソドムを振り返った者が塩の柱になってしまうというシーンにしても、もう少し出し方というものがあると思う)、画面もくすんだ色でどうということのない出来だった。
 チャールトン・ヘストンが中世の騎士を演じるというので「エル・シド」の感動を期待して見に行った「大将軍」は、どこが「大」なのかさっぱりわからない大凡作。あ、大凡作の大だったのか。やっぱり映画は俳優よりも監督で見に行かなければならない、という当たり前のことを再確認した作品であった。
 70ミリ超大作「クレオパトラ」は、ご存じエリザベス・テーラー主演の虚大作。この作品がコケて「タイタニック」の20世紀フォックス社が沈没しかかったのである。はっきし言って、4時間近いこの映画を退屈せずに見られる人がいたら「全日本我慢大会」に出場させたいと思う。「ローマ帝国の滅亡」は、「ベン・ハー」の仇役メッサラのスティーブン・ボイドでは70ミリ映画は支えきれないことを証明した作品。これまた70ミリの「聖書」もジョン・ヒューストンにしては凡作なのだが、故・黛敏郎がなかなか立派なスコアを書いていた。黛の政治的言動を見ているとほとんど馬鹿と言って差し支えないが、音楽の才能はこの映画で見直した。こと音楽に関しては、才能のある人ではあった。
 「キング・オブ・キングス」は、キリストの生涯を正面から扱った70ミリ凡作。キリストを演じたジェフリー・ハンターのコンタクトを入れた青い目とローザの音楽だけが印象に残る作品。この映画でサロメを演じたブリジット・バズレンというアバズレ風女優はMGMが売り出しに力をいれていたが、「西部開拓史」にちょっと出ていたくらいで消えてしまった。シネラマの「偉大な生涯の物語」もキリストの生涯を描いた大作で「シェ−ン」のジョージ・スティーブンスが監督。私は「シネラマ=70ミリ以上の大作」というイメージだけで中日シネラマ劇場へ見に行った。マックス・フォン・シドー(ベルイマンの映画によく出てくるといってわからなければ、「エクソシスト」の神父といえばわかってもらえるだろうか)はなかなかの適役だったが、作品自体は隙間風がビュービューと吹き抜けるような凡作だった。キリスト物としては、白黒の低予算映画ながらパゾリーニの「奇跡の丘」の方が遥かに上である。 
 フランスの70ミリ史劇だというので、どんなもんだろうと見に行った「シェラザード」も予想通り退屈な作品だったが、フランス映画らしい?透明感のある色彩と、敵の兵士が風呂場に侵入する場面で女性のおっぱいが見え、ハッとした記憶だけが残っている(ウブな年ごろでした)。主役のアンナ・カリーナは、ゴダールの映画では適役だったが、やはりこの手の通俗大作での起用は無理があった。「ユリシーズ」は、ホメーロスの「オデュッセイア」に題材をとった作品で、カーク・ダグラス主演。ま、可もなし不可もなしといったところか(凡作「ニュー・シネマ・パラダイス」の中で一部上映されていたので覚えている人もいるかと思う)。同じくカーク・ダグラス主演の「バイキング」は、後半、海戦ではなく陸戦になってしまってやや話が分裂しているのが惜しいが、バイキングのテーマ音楽はなんとなく「スター・ウォーズ」のテーマ音楽と似ていると、私は密かに思っている。
 史劇の黄金時代を過ぎてから制作されたブアマンの「エクスカリバー」やメル・ギブソンの「ブレイブ・ハート」は、様式こそ歴史映画だが私の考える史劇とはちょっと肌合いが違うのでここでは無視する。
 それよりも、期待しないで見に行って、「ああ、おもしろかった」と帰ってきた作品に「ピラミッド」がある。「ピラミッド」という作品は他にも作られているが、ここでいうのはワーナー・ブラザースのハワード・ホークス作品のことである。話はどうってことない古代エジプトの物語なのだが、群衆シーンもそれなりにきちんとエキストラを動員して作ってあり、ジャック・ホーキンス演じるエジプト王の墓(要するにピラミッド)を守る仕組みがよく考えられていて、ううむ、と唸ること請け合い。ラストは迫力もあり、観客の溜飲も下がるという、うまい作りになっている(最近話題になった「ハムナ・プトラ」も、このラストシーンをパクっていると思う)。エジプト物としては「クレオパトラ」など問題にならない傑作。ホークスは「リオ・ブラボー」など西部劇だけの監督かと思っていたが、この映画を見て大いに点数を上げた記憶がある。ともかくホークスの作品は、結構深刻なストーリーを扱っても見終わった時には「満足」という気分が大きく、変に深刻にならずに映画館を出てこられるのがよい。
 こうした所謂(制作費が)A級の作品から、「片目の巨人」(所謂「鉄腕マティステ」物で、ともかくマティステ役のゴードン・ミッチェルだったかミッチェル・ゴードンだったかの人間離れした筋肉が凄い)、「妖姫クレオパトラ」(これは高校一年の時に猪飼、酒井という悪友たちと、日曜日にわざわざ名古屋の大須の方の映画館まで遠征して見た。全裸の女性が描かれている看板に嘘はなかったが、後ろ向きのヌードが最後に一瞬だけ出たと思ったら幕が降りてきた)。「放浪の剣豪」(これもパンダ・ヘアのスチュアート・グレンジャー主演)といったB級際物作品まで私は次々と見ていったのである。日本では大映の70ミリ大作「釈迦」や「秦始皇帝」なども見に行ったが、語りたくない。一生懸命見に行ったわりには、だいたい7〜8割りは金返せの馬鹿野郎ものだったのだが、史劇というか西洋チャンバラ物が全くといっていいほど作られなくなった今になってみると、これらの駄作も懐かしく思い出されるのである。
(2000年という20世紀最後の年になって、「グラディエーター」という史劇大作が実に久しぶりに公開された。「ベン・ハー」と「スパルタカス」を足して2で割ったような作品だが、どうも「ちょっと違う」という印象がつきまとって仕方がない。史劇というものは、監督はもちろんのこと、俳優の顔がそれらしくなくてはいけないし、時代考証、美術、音楽などもそれらしくなくてはいけない。日本でちゃんとした時代劇が作れなくなったように、ハリウッドも史劇を作れるスタッフがいなくなってしまったのかもしれない。CGを駆使してモッブシーンを作り上げているが、これも「ベン・ハー」のモッブシーンを見ている者の目には、どうしても説得力に欠ける。要するにローマ帝国はアメリカで、ちょいと間違いをすることもあるが、栄光は不滅ですという図式は、もう飽きた。長島引退宣言じゃないんだから。)


我が楽聖=ミクロス・ローザ
 私にとって映画音楽の大作曲家といえばミクロス・ローザである(ハンガリー出身の音楽家で、最近ではロージャと書かれることが多い。多分、こちらの方が原語の発音に近いのだろう。が、ここでは当時愛聴したサウンド・トラック盤の記述に従ってローザとする。でないと、調子がでない)。ほとんど「楽聖」と言っていい。
 ヒッチコックの「白い恐怖」や「二重生活」(この映画は見ていない)、「ベン・ハー」で3度もアカデミー賞をとったハリウッドの大作曲家である。このほかにイギリス時代に「鎧なき騎士」「バグダッドの盗賊」、ハリウッドに移ってからはワイルダーのアルコール映画「失われた週末」やヴィンセント・ミネリの「炎の人ゴッホ」などのスコアも書いているのだから幅も広い。
 二昔以上というか半世紀近くの昔、ハリウッドで大作史劇が続々と作られたことがある。その「クォ・ヴァディス」「キング・オブ・キングス」「エル・シド」「ソドムとゴモラ」といった当時の大作史劇の音楽を一手に引き受けていた作曲家なのだから、誰もがローザの曲を一度は聞いているはずである(聞いていないような人は、この雑文では相手にしない(^^;;)。さしずめ一昔前なら「アラビアのロレンス」「ドクトル・ジバゴ」のモーリス・ジャール、現在では「スター・ウォーズ」「インディー・ジョーンズ」「ジュラシック・パーク」などのジョン・ウイリアムズといったところだろうか。
 ちなみに同じ頃、大作史劇の音楽を担当した音楽家に「クレオパトラ」「スパルタカス」のアレックス・ノースがいるが(そして「スパルタカス」の音楽はなかなか出来がいいと思うのだが)、ことサントラ盤で聞くにはメロディー旋律が明解で覚えやすくバラエティーに富んでいるローザの方に断然軍配が上がる。ノースの音楽は、映画と共に聞いているとなかなかいいのだが、映像なしの音だけで聞いているとやや単調なのだ。私が、ローザのレコードは次々と買ったにもかかわらず、ノースのレコードは遂に一枚も買っていないのは、その辺りに起因しているのではないかと思う。
 今から30年以上も前の小遣いが月1000円しかないころのサントラ盤=2000円である。買う方だって、それ相応の覚悟がいる。買えるのはせいぜい半年に1枚である。従って、買ってくると、その1枚を繰り返し繰り返し、寝ても覚めてもレコードが擦り切れるほど聞くのである。
 「映画でボクが勉強したこと」という本の中で清水義範が「私は、ベン・ハーとエル・シドの音楽をハミングできた」と自慢しているが、「ハミングできた」と言っても、せいぜいが序曲のことなのだろう。まだまだ甘いねえ。私に言わせれば、そんなものは常識であって、自慢でも何でもない。
 というのも私は、「ベン・ハー」「エル・シド」はもちろんのこと「キング・オブ・キングス」や「ソドムとゴモラ」(この2作、とくに後者は「金返せ」的駄作なのだが、私はローザの音楽が付いているというだけで許し、サントラ盤も買ったのである。「キング・オブ・キングス」は映像が迫力のある音楽に負けてしまっているため、映画音楽としてはちょっとやかましい感じがしないではないが、サントラ盤として音楽だけ聞くには堂々として実に素晴らしいものである)といったローザ史劇の序曲、メインタイトル、テーマ曲などをご希望があればサントラ盤の順番通りに次々とハミングできたのである。たとえば「エル・シド」についていえば「序曲」「メイン・タイトル」に始まって「宮廷の音楽」「カラオーラの闘い」「エル・シドと13人の騎士」「間奏曲」(エル・シド・マーチといわれる行進曲風の勇壮な曲)から最後の「バレンシアの戦い」までスラスラと出てくるのだから、まさに、人間ジュークボックスと言っていい。
(そういうわけだから、NHK-BSが「エル・シド」を放映した際、「間奏曲」と称して「メイン・タイトル」の曲を流したりするとついつい怒りだしてしまうのである(^^;;。)
 ところで、こう言うと「いったいそれが、何の役に立つのかというのだ。何の役にも立たないじゃないか」という声がどこからか聞こえてきそうである。が、違うんだなあ。というのも、当時はビデオなんてものがこんなに早く家庭に入ってくるなんて全く予想もできず、映画というのは、映画館で上映されなくなると見る機会は永久に失われてしまったのである。我々の手元に残されるのは、パンフレットしかない。しかも、パンフレットを売っているのはロードショー館だけで、二番館ではそのパンフレットすら手に入らないのである。
 だから私のように二番館、三番館メインで映画を見る人間は、そこで感動する映画に出会ってもパンフレットを手に入れる術が無い。今のように二、三年待っていればテレビで放映されるような時代でもない。そこで、勢いサントラ盤を買うということになるのである。もちろん、音楽と共に印象深い場面を思い起こすためである。
 ただし、名曲と言われているものでも「シェーン」のように「遥かなる山の呼び声」1曲というのは、音楽からは冒頭とラストしか思い出せないのでサントラ盤としてはあまり適切ではない。ちなみに「シェーン」の音楽を担当したヴィクター・ヤングは「エデンの東」「八十日間世界一周」など実に親しみやすいヒット・スコアを書いているのだが、記憶に残るメロディーは、いつも一曲だけなんだなー。
 その点、ローザの音楽はバラエティーに富んでおり、メロディアスで覚えやすい。「ベン・ハー」を例にとれば、勇壮な序曲はもちろんのこと、キリストの誕生、エスターとの愛のシーン(ほらバックの格子が浮かんでくるでしょ)、捕らえられたベン・ハーが鎖につながれて砂漠を歩く熱砂のシーン、ガレー船(ただ櫓を漕ぐだけで今の監督にあの迫力が出せますか?)、海戦、凱旋マーチ等々、私はハミングと共に鮮やかにそのシーンを脳裏に浮かべることができるのである。映画音楽のアンソロジーに「ベン・ハー」が収録されるときは、だいたいが「序曲」か「愛のテーマ」なのだが、「ユダヤへ帰る」と題された曲も静かだが実にエキゾチックな味わいがあって、私は好きである(蛇足だが、どういう経緯なのか「ベン・ハー」のサントラ盤には、あの有名な「戦車の入場シーン」の音楽が入っていない。そのため3回目の観劇の時には、全神経を集中してそのシーンの音楽を記憶するように勉め、めでたくハミングできるようになったのである。
 またサントラ盤での「序曲」というのは正確には「メイン・タイトル」とでも言うべきもので、キリスト生誕のシーンが終わった後、所謂タイトルバックに流れる曲である。映画での「序曲」は映像が出る前に6〜7分程度あり、勇壮というよりは、どちらかというと緩やかな曲である。この序曲が静かに終わるとMGMのライオンが吠えていきなりキリスト生誕の場面、その後にレコードでいう「序曲」が始まるのである。私の勘違いかと思っていたが、レーザーディスクで確認できた。さらに言えば「キング・オブ・キングス」にしろ「エル・シド」にしろ指揮はミクロス・ローザ自身がとっているのに「ベン・ハー」のレコードだけはなぜかカルロ・サヴィーナという人物がローマ交響楽団の指揮をとっている。ところが「サントラ盤」の解説書には「ガレー船」のシーンの音楽指揮をするミクロス・ローザの写真が載っているのだ。確かに「ベン・ハー」はローマのチネチッタ・スタジオで撮影されたのだが、これはどういうことなのか? ジャケットにオリジナル・サウンドトラックと明記してある「ベン・ハー」のサントラ盤は、本当にサントラ盤なのかという疑惑が実はあるのだが、ここでは深入りしない)。
 追記。……と書いたもののやはり気になるので調べてみた。
http://homepage1.nifty.com/kotachi/ben_hur.htm
 に「ベン・ハー」の音楽という記述があり、LPレコードの「オリジナル・サウンドトラック」というのは全くの嘘であることがはっきりした。長年の疑問が解けてホッとしたとともに、当時2000円という大金をはたいて買ったものが偽物と知って少々落胆も。
 ところが、これほど売れっ子作曲家だったミクロス・ローザの名前が(私が見た順で言うと)「ソドムとゴモラ」を最後にパッタリと聞かれなくなってしまったのである。歴史劇が作られなくなった頃と合致するのだが、別にローザは歴史劇の音楽しか描けないわけではない。「白い恐怖」のようなサスペンスタッチの音楽も描ければ、D.リーンの「超音速ジェット機」のような音楽も描けるのである。
 その後、私は、別れた恋人を探すように、映画を見に行った時には必ずMUSIC BY ……を注意深く見た。そのかいあってか、2度だけローザの名を見つけることができた。
 1度は「シンドバッド黄金の航海」。R.ハリーハウゼンの特撮によるシンドバッド(アメリカでは、シンバッドとなる)ものの第2作で、タイトルミュージックと6本の腕を持つカーリ神との闘いの場面の音楽は記憶することができた。もう1度は「タイム・アフター・タイム」。SFの父H.G.ウエルズがタイムマシンで現代にやってきて、切り裂きジャックと闘うというタイムトラベルものの佳作で、この映画のヒロインが、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の第3作でドクと結ばれるおばさんである。映画は思わぬ拾い物といったところだが、音楽としてはとりたててどうこういう出来ではない。従ってハミングもできない。が、この映画がミクロス・ローザの名前を見た最後の映画になってしまった(後に、ビリー・ワイルダー晩年の佳作「悲愁(フェードラ)」もミクロス・ローザの音楽であることを、ビデオで知った。これもほとんど記憶には残らない音楽だったが、「タイム・アフター・タイム」とこの「悲愁」のどちらかがローザ最後の映画音楽になるのではないかと思う)。
 訂正。後に「スター・ウォーズ ジェダイの復讐」を監督するリチャード・マーカンドの「針の眼」というまあ可もなく不可もないスパイ映画の音楽をローザが作曲しているのを知った。ビデオで見ていたのだが、全く気がつかなかった。これが1981年なので(「タイム・アフター・タイム」は1979年)最後の作品の可能性が高い。
 さらなる訂正。
 ……と思っていたら私は見ていないが「スィーブ・マーティンの四つ数えろ(もちろんハメットの「マルタの鷹」を映画化したハードボイルドの傑作「三つ数えろ」のパロディ)」のスコアを書いていてこれが1982年。これが最後か?
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SF映画、特撮映画について二言三言 [映画の雑感日記]

 最近ではVFXとかSFXなんて言われていますが、特撮なんて言われていたかなり昔に書いた雑文で、最近の映画にも触れようとしたのですが全面改稿しなければならないほど様変わりしているので断念。少しだけ変更しましたが基本的にはそのままアップします。

★やはり名作「2001年宇宙の旅」
 私はこの映画を学生時代、名古屋のSF同好会「ミュータンツ」の連中と一緒に今はなき中日シネラマ劇場で見たのだが、ポカーンとして帰ってきた記憶がある。キューブリックが秘密主義で公開前に内容を一切発表しなかったこともあり、私は、全く予備知識なしにこの映画を見たのである。
「それでは、皆様、宇宙の旅をお楽しみください」
 と言うような女性アナウンス(なんと的外れ!)が流れると共に、場内は暗くなった。そして、今ではあまりに有名になってしまったR.シュトラウスの「ツアラトゥストラかく語りき」の音楽と共に手前に月、その向こうに地球が見え、さらにその向こうから太陽が顔を出す。まさしくこれぞ宇宙SFそのものといった有名なオープニングが終わると、いきなり猿が出てくるのだから、あれれっ、というところである。それで、どういう映画なのかは各自で考えなさいとでも言うような、あの突き放したようなラスト。これではポカーンとしない方が不思議というものである。
 「ミュータンツ」のメンバーの感想もこの映画には否定的で、その頃読んだ「キネマ旬報」の福島正美(「SFマガジン」編集長)、星新一、小松左京の座談会でもこの映画に関しては3人とも駄作と決めつけていた(映画とアーサー・クラークの原作とは別物と考えなければならないのに、「原作ではこうだ」「そこが原作と比べて映画でははっきりしない」など的外れの発言が続き、当時公開された「猿の惑星」の方が遥かに評価が高かった。
 まあ「猿の惑星」もそれなりによく出来た映画だが、映画史に残る「2001年」とは比べ物にならない。3人のうち2人はすでに亡くなってしまったが、そんなこともあって私は以後彼らの映画評に関しては一切信用していない)。普通、こういう事態になると「あの映画はダメだ」ということになるのだが、何か気になるところがあったのだろう。二番館のオーモン劇場で公開されると、私は、また「2001年」を見に行った。評価が一変したしたのは、この時からである(この映画こそ大画面で見ないと真価がわからない。東京に出てきてからも、今はなきテアトル東京で見ている)。
 初回の時はいきなり原始人が出てきた戸惑いと、「宇宙の旅をお楽しみください」というアナウンスに幻惑されていたのだ。変な先入観なしで見れば、そんなにわかりにくい映画ではないのである。
 モノリス(突如出現した黒いプレート)に触れた猿が道具を使うことを覚え、その知恵が遂に人類を宇宙に進出させるまでになった、ということは猿が投げ上げた骨が宇宙船に切り替わる今ではあまりにも有名になったショットを見れば誰もが納得するところである。問題は、その後、宇宙船に乗っているフロイド博士は、食事をし、トイレの使い方を読む、というシーンがある。最初に見たときは宇宙旅行の1シーンとしてしか認識していなかったが、実は深い意味のあるシーンだったのだ。猿も食事をしていた。フロイド博士は、宇宙船の中だけではなく月でも車の中で食事をしている。木星へ向かうディスカバリー号の中でも食事のシーンがある。そして、見知らぬ惑星にたどり着いたボーマン船長は白い部屋でもまた食事をしている。そこに再びモノリスが出現するのである。
 なぜこんなに食うシーンにこだわるのか。それは、こういうことだと思う。原始時代、モノリスに触れた人類は飛躍的にテクノロジーを発展させ宇宙に進出するまでになった。しかし、食べて排出するという肉体的には原始時代の猿と何ら変わっていない。次に求められるのは、肉体の変化である。オープニングの「ツアラトゥストラかく語りき」、つまりニーチェの「超人」思想は、ちゃんと意味を持つ選曲だったのである。ディスカバリー号でコンピューターのHALがちょっと細工しただけで乗組員の大半はあっさりと死んでしまう。そんな脆い肉体では宇宙時代を担うことはできない、と映画は言っているのである、と私は勝手に結論している。
 ついでに書いておくと、HALの反乱も単なる反乱ではなく、人間かHALのどちらが最後のモノリスにたどり着くのか、という一種の生存競争で、闘いの結果、人間が勝つものの、未来を担うのは別に人間でなくてもいいではないか、という視点は明らかに原作者クラーク独特の視点である(その後の「2010年」ではプログラムの問題にすり替えられてしまっているが、そういう問題ではないと思う)。
 木星で木星の月とモノリスが十字架状にならぶ(原作者A.C.クラークの言葉を借りれば)スター・ゲイトを通過したボーマン船長が未知の世界へ導かれていく過程は、当時サイケデリック云々という的外れな批評が目に付いたが、別に奇をてらっていいかげんに作られているのではなく、よーく見るとこれもきちんと意味があるように作られているのである。ボーマン船長のポッドは、まずゲートをくぐり、いくつかの星の誕生や爆発を見、菱形の道標に従って、ある惑星の白い部屋に導かれるのである。嘘だと思う人は、映像と映像のスピード感に注意して、もう一度このシーンを見ていただきたい。
 特撮については、デジタル化された操縦室(とはいえ30年も前の映画なのでコンピューター技術も発達しておらず、デジタルと見えるのはアニメだそうである)を初め、この映画が画期になったところは、無数にある。それまで宇宙SFにつきものだった丸メーターがずらりと並んだ操縦室は一掃されてしまった。宇宙船の形も(考えてみれば当たり前のことだが)別に空気抵抗がないのだからどんな形でもいいではないか、ということになり流線型宇宙船は、私の知るところでは「猿の惑星」が最後となった。既製のクラシック音楽を使うことも、この映画の後一時流行したが、成功したものも失敗したものもある、とだけ書いておこう(それにしても東映「宇宙からのメッセージ」でショスタコーヴィチの交響曲第5番をアレンジして使ったのは、あまりに安易じゃないのかなあ)。
 いずれにしても、「2001年」なくして「スター・ウォーズ」以降の特撮映画は有り得ないのだが、そのどれもがファンタジーであってSFとは言い難い。要するに技術・見せ方だけを盗んで、そのSFマインドは盗めなかった、と言うより初めっからその気もなかったのだろう。特撮技術はさらに向上して、今見ると宇宙船のシーンなど「2001年」よりうまく処理されている映画はいくつかある。「スター・ウォーズ・特別編」はもちろん、「スター・シップ・トゥルーパーズ」のようなB級作品にしても、そのあたりは見事なものである。が、宇宙の広さ、その中での人類のひ弱さと孤独感を「2001年」より以上に描いてくれた映画は皆無である。その意味でも、「2001年宇宙の旅」は、画期的な映画であると同時に、孤高の映画である、と言うことができると思う。
 ところで、「2001年」の後は「2010年」「2061年」「3001年」と原作は続くのだが、広大な宇宙のを背景に人類の新しい歴史がここに始まるとでも言っているような「2001年」に比べて、「2010年」は舞台が木星、「2061年」は木星の衛星エウロパとどんどんスケールダウンしてしまっている。「3001年」は、サブ・タイトルに「ファイナル・オデッセイ」とあるようにシリーズの完結編だが、うまく締めくくられているとは到底言い難い。いかにクラークといえども、1000年後の予想はちと苦しい。要するにシリーズ化する必要は全くなく「2001年」だけでよかったのである。映画とは直接の関係はないが、小説の「2001年」は名作だが、その他は駄作と敢えて断言しておく(映画の「2010年」は、まあ佳作と言っていい出来だったが、ちょっと説明過多。それでも、当時封切られた東宝の「さよならジュピター」という駄作の木星が絵だったのに対し、「2001年」は木星の模様がCGでちゃんと動いていたという点は、率直に感心した。アメリカと協力して木星のディスカバリー号探査に参加するソ連という国がなくなってしまったことが原作者A.C.クラーク最大の誤算なのかもしれない)。

★今時のSF映画に一言
 今ではフィリップ・K・ディックのもの以外こそほとんど読まなくなってしまったが、かつて私はSFフアンであった。学生時代にはSF大会にも何度か出席したし(地元・名古屋での大会はもちろん、わざわざ東京や九州へも行った。こういう大会は東京のフアンが大きな顔をしていてけっこう嫌な思いで恥ずかしい思い出もあるが、そのあたりのことは「彼らのための三章」という作品に書いたので、ここには書かない)、「SFマガジン」の創刊号も持っているくらいの、かなり熱狂的なフアンだったといってもいい。
 私の青春の頃というと、ハヤカワSFシリーズ(といっても最初の頃はSFではなくHF、つまりハヤカワ・ファンタジーと言っていたと思う)こそあったものの、ハヤカワSF文庫はまだなく、創元SF文庫はまだ創元推理文庫の一ジャンルだったという時代である(第1作がフレドリック・ブラウンの「未来世界から来た男」というショート・ショート&短編集で、定価150円。高校時代に本屋で見つけてすぐに買った。こんなにおもしろい分野があったのか、とまさに刮目)。一般の人にはSFとSMの区別も付かず、区別が付く人でもSFは子供の読み物と考えていた時代である。そんな時代のSFフアンとして、当時は日陰者扱いだったSF映画も私は熱心に見た。今と違ってこの手の映画はどうしてもマイナーな評価しか受けない(あるいは完全に無視される)ことが多かったのだが、私の評価で「けっこうよく出来ている」と思ったものを、記録の意味もあって書いておこうと思うのである(「キング・コング」「2001年宇宙の旅」などのメジャーな作品については、別に書いたし、ハリー・ハウゼンや東宝の特撮物については別に書くつもりなので、ここでは触れない)。
 まず取り上げたいのは、今では全くといって話題にならないが、東宝の「ラドン」にも影響を与えた「放射能X(エックス)」。おなじみ名古屋のメトロ劇場で見た。監督は確かリメイク版「駅馬車」で株を落としたゴードン・ダグラスだったと思う。砂漠の原爆実験の影響で巨大化したアリとの戦いの映画で、ピロピロピロというアリの声が聞こえてくるだけでそれなりに怖かった記憶がある。巨大アリは前半なかなか姿を現さないのだが、この声だけでけっこう緊張したものである。バズーカ砲でやっつけたと思ったら女王アリが逃げ都会の地下に新たな巣を作っていたというのも心憎いサービス。やっぱりこの手の怪獣物は都会で暴れてくれないと話が完結しない。
 もう少し話題になったところでは、「宇宙戦争」と「禁断の惑星」。「放射能X」はモノクロだったが、この2作はカラーで、当時はカラー(総天然色)というだけで大作という感じがしたものである。
 「宇宙戦争」はジョージ・パルの作品で、第一次世界大戦はこうで、第二次世界大戦はこうだったというニュースフィルムに始まり、そして次の戦争は、というようなナレーションと共に始まるタイトルからしてわくわくさせるものがある。飛躍を極力廃してリアリティーで迫った侵略ものの白眉。宇宙人の円盤に向かって敵ではない証拠に白旗をかかげながら、白旗が通じるかなあ、と言っているうちにバババとやられてしまう男たちにも現実感がある。この映画は例によって場末のオーモン劇場で母に連れられて見たのだが、その話をすると「寒くて風邪ひいてまったがね」と母は今でも言うのである。主演の(よく考えてみると何の役にも立っていないのだが)科学者を演じたのは後のTV「バ−クにまかせろ」のジーン・バリー。
 「禁断の惑星」は、遠く離れた宇宙の惑星での物語で、はっきりと太陽系以外の星を舞台とした映画としては始めてとは言わないがそれに近いものだと思う。イドの怪物という設定自体が50年代の映画としては恐ろしく斬新である(メトロ劇場で見たと思うのだが、私は「井戸の中から怪獣が出てくるのだ」と思っていた)。また、この映画の要塞のイメージを東宝の「地球防衛軍」がミステリアンの要塞にパクっていることにも注目しておきたい。話題になったロボットのロビーが登場するが、SF=子供物という概念を否定した真面目な作り方が共鳴できる。何も見えないのにロビーが「何かが近づいて来ます」と言うあたりも迫力があった。後にTVの「ハニーにおまかせ」をやることになる若き日のアン・フランシスが超ミニスカートでサービスに勉めているが、当時はそんなことには気付かず、社会人になってビデオで見て再発見?した次第である(ミニスカートといえば「宇宙戦争」のジョージ・パルが作った凡作「タイムマシン」のイベット・ミミューもいい感じだったが、こちらは「おばさん化」が早かったなあ)。
 同じく太陽系外を舞台にした映画に、惑星間で戦争が繰り広げられているという、「スター・ウォーズ」の元祖のような「宇宙水爆戦」というすさまじいタイトルの映画があり、惑星の表面がボロボロに破壊されていシーンなど見ごたえがあった。が、やや構成が粗くたい誰にでもお勧めできるというほどのものではない(脳に目鼻が付いたような宇宙人が話題になったので、それだけ覚えている人もいるかもしれない)。
 SFというよりもホラーの色彩が強いが、ドン・シーゲルの「狙われた街」は、よくできた侵略物SFの佳作。ラストもうまい(原作はジャック・フィニイで記念すべきハヤカワSFシリーズの第一弾。フィリップ・カウフマンのリメイク版は駄作。カウフマンの映画は「ライト・スタッフ」以外おもしろかったためしがない)。もう1本挙げるとすると、ハワード・ホークス制作の「遊星からの物体X」(原作は「アナログ」誌の名編集長だったジョン・キャンベルの「影が行く」で、侵略物SFの古典。これもジョン・カーペンターのリメイク版は駄作。たく、カーペンターの映画は「ニューヨーク1997」などすべて駄作と考えてよい)。カウフマンとカーペンターの駄作は、どちらも終わったと見せかけて実は……、という最近流行のラストに作り替えているのだが、芸がないなあ。
 もう少し時代が下がるとSFというジャンルが一般にも認められ、さすがに多少の評価を得ることになる「ミクロの決死圏」と「猿の惑星」がある。「海底20000哩」のリチャード・フライシャー作品「ミクロの決死圏」は、ある機密を知っている科学者の脳を縮小された人間が体内に入って治す話だが、小さくなっていられるのは60分と限られた時間を設定したのが緊迫感を生んでいる。ただし、潜航艇を体内に残したまま放棄して脱出してくるのだが、あれって大きくならないのかしら。「パットン大戦車軍団」のフランクリン・J・シャフナー作品「猿の惑星」は、公開当時「2001年宇宙の旅」よりもヒットし、この後駄作が4つも作られ全5部作として完結したが、今ではあまり話題になることもない。が、この第1作だけは(もちろん「2001年宇宙の旅」には及ぶべくもないが)、一種のタイムトラベル物としても、それなりに評価されていい作品だと思う。原作は「戦場にかける橋」のピエール・ブール。TVの「ミステリー・ゾーン」のロッド・サーリングが書いたシナリオはいかにも「ミステリー・ゾーン」タッチのオチで原作とは全く違うが、これはこれでいいと思う。
 「2001年宇宙の旅」のスタンリー・キューブリックの「博士の異常な愛情」も当時の評価はあまり高くなかったが映画史に残る傑作と言っていい。この作品を私が「2001年」「スパルタカス」と並ぶキュ−ブリックの3大傑作と考えていることは、すでに書いた。「パットン大戦車軍団」のジョージ・C・スコットが演じる軍人は土壇場になっても「今、攻撃すれば勝てる」と言いきる男で、とんでもない設定にもかかわらず、異様なリアリティーがあった。戦略爆撃機B52の凄さを最もよく出した映画でもあり、水爆を抱いてロデオさながらに落下していくキング・コング少佐のおっさんも迫力と悲しさがあった。詳しいストーリーは書かないが、この二人を見るだけでもこの映画を見る価値があると思う。未見の人は騙されたと思ってぜひ見てもらいたい。ただし、キューブリックのSF3部作といわれる「時計じかけのオレンジ」は、買わない。監督がピーター・ハイアムズに替わった「2010年」も、傑作ではないが、まあ合格点だろう。
 SFの短編ベスト10をやると必ずベスト3には入るダニエル・キイスの傑作「アルジャーノンに花束を」を映画化した「まごころをきみに」も、こういうSFもあるのかと世間に示した功績を加味して佳作に入れていい。谷洋子が出たポーランド映画の「金星ロケット発進す」や、ロケットがカーブを描いた滑走路を助走してから飛んでいく「地球最後の日」、ロバート・ワイズの「地球が静止する日」「アンドロメダ病原体」などはたいしたことはなく、むしろアンドレイ・タルコフキスーの「惑星ソラリス」の方を評価したい。確か3時間くらいある映画で、退屈なところもあり、ラストのオチは誰でも予想できるものだが、独特の映像美がなぜか印象に残る(タルコフキスーは多分「映像の力」とでもいうものを信じていた作家で、妙に印象に残る映像を創り出す男なのだが、ストーリーはそっちのけで、それだけで映画を作ろうとすると「ストーカー」のような退屈なだけの映画ができてしまう)。戦前の「メトロポリス」というフィリッツ・ラングのサイレントもビデオで見たが、あんなに簡単に和解してしまうラストには甘過ぎてついていけなかった。

★SF映画にもう一言
 「スター・ウォーズ」以降、特撮アクション映画は儲かると映画会社が踏んだのだろう、今日では、所謂パニック物、怪獣物、ファンタジー物を含めれば「SF映画」は大流行である。が、私は、それらをSF映画とは呼ぶ気になれず、特撮映画と呼ぶ。
 というのも、SF映画という看板をかけていてもよくよく見ると単に特撮で驚かすだけの映画だったり、怪獣映画だったりアクション映画だったりすることが多いからである。確かに「スター・ウォーズ」(第1作)は、わりとよくできた映画なのだが、あれはSF映画ではなく、ファンタジー映画である。舞台が宇宙になっているだけで話自体は中世の騎士物語、たとえば「エル・シド」と大差ないと思う。また「エイリアン」はホラー映画であり、「エイリアン2」は戦争映画である。これならまだ「プレデター」の方がSF的要素が強い。
 最近級にブームになってきた「ディーブ・インパクト」や「アルマゲドン」もSF映画ではなく、デザスター映画である。というのも、別に隕石や彗星でなくて地震とか津波でもあの映画の本質的な部分は成立するわけで、要するに隕石であるのは、単に話のスケールを大きくしたいというだけのことなのである。つまり、本質的な部分はSFとは全く関係ないのである。では、科学的解説がついていればSF映画かというと、DNAから恐竜を蘇らせるというもっともらしい解説がついている「ジュラシック・パーク」は単なる怪獣映画である。力点が恐竜を蘇らせるというところではなく、恐竜が暴れる点に置かれているためなのだが、これならまだ昔の「キング・コング」の方が巨大怪獣が生息している謎の島という設定を考え出しただけでもSF的である。センス・オブ・ワンダーというか、SFマインドが感じられない映画はやはりSF映画とは区別して考える必要があると思う。
 ただ、そこには厳密な区別があるわけではもちろんなく、ケース・バイ・ケースで体験に照らし合わせて考えていくしかない。だからそうした私の考えでは、タイムトラベル物としては、大ヒットした「バック・トゥ・ザ・フューチャー」よりも「タイム・アフター・タイム」の方が(映画の出来を無視すれば)SF映画としては、より本質に迫っているということになる。何よりも、未来の新聞で恋人が殺されるのを知る、という部分にSFのタイム・トラベル物ならではのセンス・オブ・ワンダーを感じるからである。
 同じようにフィリップ・K・ディック原作のものとしては「ブレードランナー」は映画としてもSF映画としても傑作だが、「トータル・リコール」は、所詮アクション映画の範疇にとどまる。というのも「ブレードランナー」(原題「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」)では、アンドロイド(映画でいうところのレプリカント)も電気羊の夢ではなく羊の夢を見るのだ(つまり、人間と同じなのだ)という実にSF的構造が核にになっているのに対し、記憶というディックならではの設定を使ってはいても「トータル・リコール」は、それが小道具の域に留まっているからに他ならない。
 その点、公開は少し昔になるが、「佳作」とか「まあ合格点」だとかそれほど評価していない「2010年」は、まごうことなきSFである。SFという看板を掲げたファンタジーや内実ホラー、史劇、アクション映画が氾濫する中で、「2010年」は、ことSF映画ということ考えればもっと評価されてよい。
 アメリカSF界の大御所だったロバート・A・ハインラインの「宇宙の戦士」を映画化した1998年の大作「スター・シップ・トゥルーパーズ」も、残念ながら所詮はアクション映画であり戦争映画だった(故ハインラインは自他共に認めるタカ派で、それがいい方向に出ると「赤い惑星の少年」や「夏への扉」のような作品が生まれるが、ストレートに出てしまうと「宇宙の戦士」や「人形つかい」のような作品になってしまう。ここでは宇宙からの侵略者は明らかに共産主義者とオーバーラップされているのだが、そういうテーマ性はともかくとして、軍隊に入ると立派な男になれるという単純かつヒステリックなその論調にはちょっとついていけないものがあるのも確かである。この手の軍隊は男を一人前にするという論調はアメリカ人はことのほか好きなようで「愛と青春の旅立ち」や「トッブ・ガン」など繰り返し使われて映画を台なしにしている)。
 だいたい「虫」の大群と戦うというのになぜ歩兵だけで戦うのか。第二次大戦だって、戦車を先頭にその後に歩兵が続くというのが常識だったのに歩兵だけで敵地へ乗り込んでいくのは、どう考えても無謀というか馬鹿である。せめて地盤が悪くてそうした走行兵器が使えない惑星だというくらいの説明はほしい。それに、湾岸戦争などを見ていればわかるように、空爆をきっちりやればそれで済むのではないか。映画の中でも一度だけ空爆シーンが出てくるが小規模なもので、その後に続く歩兵隊が危機に陥るというのは、何とも間抜けである。別に気流が悪いわけでもないのだから大々的な空爆をやるというのが作戦的には常識なわけで、それが出来ないなら出来ないで、これも納得できる説明をしてくれなくてはSFと言えない。
 さらに、あんな岩と砂漠だけの惑星に万といる「虫」たちは、いったい何を食べているのだろう、という疑問もある。「虫」の放った小惑星爆弾でブエノスアイレスの両親が死んだということが、一度除隊しようとした主人公が再度戦うことになる重要なポイントになっているのだが、さーて、「虫」たちがどうやってそんな小惑星を地球に誘導することができたのかは最後までわからない。「虫」といってもカマキリみたいのから空を飛ぶもの、火を吐く巨大な奴、さらにはプラズマ砲を発射する奴と様々だが、これを哺乳類に置き換えてみれば人間とライオンとコウモリと鯨が同盟を結んで共通の敵と戦うようなものである。昆虫同盟とでもいうものが成立しているのだろうか。これまた説明は一切ない。謎が謎を呼び、謎のまま映画は終わってしまうのである。
(後に「スター・シップ・トゥルーパーズ2」という映画をWOWOWで見た。スケールも小さければ話もいいかげんなさらなる駄作だった。いわゆるビデオ用かテレビ用の映画だったのだろうか?)
 それにしてもだ、「エイリアン2」にしてもこの映画にしても、遠い未来の話なのに、どうして大きくて重い機関銃を持って戦うという、ベトナム戦争の海兵隊ののりになってしまうんだろう。ラストのトンネル内の戦いは「エイリアン2」のダクトの中での戦いのパクリだと思うが登場人物の一人(「エイリアン2」では二人)が爆死するところまで同じとは、バーホーベン監督さん、ちょっと芸がないじゃないですか。とまれ、SFXに金をかけた大作であることは認めるものの、オールドSFフアンとしては、もう少しSFマインド(センス・オブ・ワンダー)溢れる映画が見たいなあ、と思う今日この頃である。
 この後に封切られた作品では、「マトリックス」と「シックスセンス」が、まあ合格点かな。とくに「マトリックス」は、SF的設定がセントラルアイデアで、仮想と現実のせめぎ合いをもう少し掘り下げれば大傑作になったのに、アクションに流れてしまったのが惜しまれる。それでも近年屈指のおもしろさ、と言っておこう。「シックスセンス」は、いってみれば超能力物で、ラストのどんでん返しが話題になったが、少年がもっている能力を考えると、こうなるはずだ、とネタが割れてしまうのがちょっと残念。クリント・イーストウッドの「スペース・カウボーイ」は近未来SFとしてそこそこおもしろかった。CGに頼りすぎ埋め尽くされた近年の映画はどうもちょっと……と年寄りは思ってしまうのである。

★物に命を与える
 アニメが物に命を与える、という意味では素材は別にセル画である必要はない。チェコのイジイ・トルンカや日本の川本喜八郎は人形を使ったアニメを制作している。今回は、その人形アニメのことを書こうと思うのだが、要するにレイ・ハリーハウゼンのことを書きたいのである。
 ハリウッドにおける人形アニメは、かの「キング・コング」以来の伝統をもつのだが、ハリーハウゼンは、それを集大成した人物であり、今後はCG(コンピュータ・グラフィックス)に移行していくだろうことを考えると、おそらく最後の巨人である。
 ハリーハウゼンの名前を初めて知ったのは、小学生の時で映画の題名は「シンジバッド七回目の航海(冒険)」であった。ただし、まだ一人で自由に映画館へ行ける年齢ではなく、私はポスターに描かれた一つ目の巨人、双頭の鷲、ドラゴン、骸骨などの絵を見ながら「見たいなあ」と思いつつ見ることができなかったのである(後にレーザーディスクでやっと見ることができたが、期待にたがわぬ傑作であった。一つ目の巨人=サイクロップスの迫力や骸骨と人間との闘いなど東宝着ぐるみ特撮ではとうてい不可能な映像満載で、1958年という制作年を考えると驚異と言うしかない。)。
 ちなみに弟は「原始怪獣現る」というレイ・ブラッドベリの「霧笛」をベースにハリーハウゼンが特撮を担当した映画をオーモン劇場で見ているが、私はどういう理由からか連れて行ってもらえず、見ていない。これも後にビデオで見る機会があったが、「まあ、こんなもんかな」という程度の映画だった。
 ハリーハウゼンの映画を映画館で初めて見たのはずっと下がって「恐竜100万年」。だいたい古代人類の時代に恐竜が生息していたという設定からしてインチキで、ラクウェル・ウエルチのセミヌードだけが売りのような映画だったが、それでもハリーハウゼンの特撮はすばらしく、投げた槍が恐竜に突き刺さるシーンなど「おおっ」と歓声を上げたくなるほどの出来であった。
 ただ周囲でハリーハウゼンの名前を挙げる者はおらず寂しい思いをしていたのだが、遂に彼が脚光を浴びるその日が来たのだった。学生のとき、東京でのSF大会でハリーハウゼンの最高傑作と言われている「アルゴ探検隊の大冒険」が上映されることになったのだ。場所は、岩波ホール。まだビデオなどない時代である。一緒に上京して来た清水も神谷(と、彼が文通していた彼女が同席していた ! )も森も、そして私も題名だけは知っていて、特撮が凄いという話は聞いていたが、どんな映画なのかは全く知らない。知らないからこそいやが上にも期待は高まったのである。
 探検隊ということから何となくアルゴ星へ探検に行く、宇宙探検をイメージしていた私は、いきなりギリシア神話ということで、まず度肝を抜かれた(後でわかったのだが、ジェイソンのアルゴ船の探検というのは、有名なギリシア神話らしい)。やや退屈な出だしだったが、青銅の巨人が動き出すあたりから俄然おもしろくなった。後は崩れ落ちる岩とポセイドンの登場、ヒドラ(体が一つでいくつもの頭をもつ竜。日本のヤマタノオロチのようなもの)との闘い、そして、極めつけ複数の骸骨戦士との死闘という見事な特撮シーンのつるべうちである。「シンジバッド七回目の航海(冒険)」での骸骨戦士との闘いは1体であったが、ここではそれが軍団にパワーアップされており、何より薄暗い室内ではなく、特撮が難しいとされる明るいギリシアの遺跡を背景に闘われる点が大迫力を生んでいた。
 エンドマークとともに大拍手が起こったのも当然であった。ブルーバックだったかイエローバックで俳優を撮影し、骸骨はミニチュアでコマ撮りし、大きさを合わせて合成する、と言葉で言うのは簡単だが、複数動くものがあってのコマ撮りであり合成である。コンピュータのない時代にそれらをピタッと合わせるのは名人芸・神業以外のなにものでもない。セットや精巧な人形を作るのも大変だろうが、1日かかっても数秒しか撮影できないという話も聞いたことがある。あの岩波ホールでの拍手をハリー・ハウゼンに聞かせてやりたかったと思うのは私一人ではないと思う。
 以後、ビデオ時代になり「恐竜グワンジ」「空飛ぶ円盤地球を攻撃す」「シンドバッド黄金の航海」「シンドバッド虎の目大冒険」「タイタンの戦い」などハリーハウゼンがかかわった映画を次々と見ることができた。アメリカのTV番組を収録した「レイ・ハリーハウゼンの世界」というレーザーディスクまで見ることができたのである。けっこうマイナーな作品が多く、以前ならリバイバルなど望むべくもなく、もう一生見られないのか、と思っていた映画が小さな画面とはいえ、見られるようになったのである。ありがたい時代になったものである。 
 中では、やはり「アルゴ探検隊の大冒険」が出色の出来と言える。ともかく骸骨戦士との死闘は、何度見ても凄いの一言に尽きる。「シンドバッド七回目の航海(冒険)」の音楽も担当しているバーナード・ハーマン(ヒッチコックの「北北西に進路を取れ」などで知られる)の音楽も、これが一番出来がいい。他の作品はやはりちょっと退屈なところがあるので、そんなところは早送りで飛ばし、一つ目の巨人との闘い(「シンジバッド七回目の航海(冒険)」)やカーリ神との闘い(「シンドバッド黄金の航海」)、メドゥーサとの闘い(「タイタンの戦い」=多分これがハリーハウゼンの最後の映画だと思う。それまでのコロンビア映画ではなくMGMで撮っている)などを見て、やはりハリーハウゼンは凄い、と一人悦に入るのが私の一般的なパターンである。
 で、こうして次々とハリーハウゼンの作品を見てくると、ある一つの感想を持たざるを得ない。彼が関心があったのは、命をもたない物に命を与えることだけだったのではないか、と。そのためのストーリーであり、そのための映画なのである。だからハリーハウゼンの映画(監督ではないのだが、あえてこう言う)では、主役は常に人間ではなく、彼によって創造されたクリーチャーたちである。
 だから、「原始怪獣」「グワンジ」「恐竜100万年」などに出てくる恐竜にしろ、「七回目の航海」の竜にしろ、あるいは「タイタン」のサソリ、「黄金の航海」の頭が鷲で体がライオンの動物、「虎の目大冒険」の巨大トラなど命を持ち動いて不思議のないものの特撮は、どれも出来が悪いわけではなく、最初見た時は「ほう」と感心するのだが、今一つ印象に残らない。対照的に、骸骨戦士や青銅の巨人、カーリ神、あるいは「タイタン」のゼンマイフクロウなど本来的に命の無いものが動き出し、(そのほとんどが)遂には破れ去っていく姿はい、いつまでも記憶に残っているのである。
 もしかすると、ハリーハウゼンは、命のないものに命を与えることに命を賭けていたのかもしれない。そんな気がするのである。CG全盛の現代ではハリーハウゼンの技術はもうほとんど過去の遺物だが、「トランスレーター」「スピードレーサー」といった全くのむ内容でCGのみに頼った駄作映画を見ると、ハリーハウゼンのカタカタ髑髏の動きに驚嘆した時代が懐かしく思えるのは歳のせいなんだろうな、多分。

★日本映画の代表は、やっぱりゴジラ
 「ゴジラ」がアメリカで映画化された、というのでそれなりに期待して見たが、ありゃ「ゴジラ」とは別物ですね。「ゴジラ」としてではなく、巨大恐竜、巨大トカゲものとして見なければ辻褄の合わないところが山ほどある。放射能熱線を吐いて近代兵器と対決するところにゴジラの真骨頂があるというのに、ビルの間をささーっと逃げ隠れするなんざ、本家「ゴジラ」が見たら怒るぞ。エメリッヒという監督、ヘタですねえ。アメリカ版「ゴジラ」は、「ゴジラ」ということを度外視してもどうしようもない映画であった。「スター・ゲイト」にしろ「インデペンデンス・デイ」にしろ、彼の作品はやたらドンパチやるだけで、構成は粗雑だし全くダメ。こんなヘタクソに大作・話題作を撮らせるな、と声を大にして言いたい。
 ということで、口直しに本家「ゴジラ」と東宝特撮映画の話をしようと思う。
 「ゴジラ」を見たのは小学生の頃だが、島の丘の上からうわーっと顔を出すシーンなどいくつか覚えている、という話は最初に書いた。その後、ビデオの時代になり、私は何十年かぶりにモノクロ初代ゴジラと対面することになったのだが、これが自分でも意外と思えるほどおもしろかった。シナリオも真面目に書かれ、子供向きではなく大人の鑑賞にも耐えられる要きちんと作られているのである。後期の怪獣プロレスごっこに慣れてしまった目には、初代ゴジラは信じられないほど凶暴で、かつ核を廃絶出来ない人類に対して怒っているようにも見えた。それはまた、戦災から復興した東京の町も、このままでは再びこうなってしまうのだぞ、という怒れる神の暗示のようにも見えた。要するに、ゴジラは単なる怪獣ではなく、愚行を繰り返す人間に鉄槌を下す神の怒れる使者なのである。
 島でのゴジラ踊りとか、怪獣の登場のさせかたとか、走って来る電車が被害に合うとか、名作「キング・コング」との類似点がいくつかないわけではないが、十分に合格点をあげられる出来にあった。すでに書いたが、伊福部昭の音楽もいい。
 こうした視点が欠如し単なる巨大トカゲになってしまったところが、(後期の怪獣プロレスに登場するゴジラもそうなのだが)アメリカ産ゴジラを見たときに感じる最大の違和感であり失望感だろう。
 続く「ゴジラの逆襲」は、アンギラスという新手の怪獣を出現させ怪獣プロレスへの道をひらいた凡作。むしろ、この次に作られた総天然色映画「空の大怪獣・ラドン」の方が注目される。
 まず、メガヌロンという巨大なやごを出現させておいて、その巨大なやごをついばむ超巨大な怪鳥という設定がいい。最初にメガヌロンが人間を襲うシーンがあり、その大きさを実感しているため、その巨大なメガヌロンを餌にしているラドンの大きさもまた実感できるのである。前半の炭鉱の部分は丁寧に作られていて怖く、恐怖の限界を超えた弟が父と場外へ出て行った、という話は初回時に書いた。今見ても炭鉱の水の中を進んでいる男がわーっと引き摺り込まれていくシーンなど十分に怖い。炭鉱の中を進んで行くと奇妙な音だけが聞こえて相手が見えないシーンや、記憶喪失になった人間があるきっかけで思い出すところなど、アメリカの巨大蟻映画「放射能X」の影響が見られるが、これも許される範囲である。正体不明(といっても観客は、その正体を知っているのだが)の巨大な飛行機雲を自衛隊のF86Fジェット戦闘機が追跡して行くシーンや、ソニックブームにより福岡の町が壊滅していく屋根瓦がさーっと飛んで行くところなど、今でも見ているものをわくわくさせるものがある。
 こういう映画を今、ビデオで見ると、もちろん特撮が古臭い感じがすることは否めないが、この頃は今と違って、子供映画だからと手を抜かず(制作者には子供映画という意識はなかったかもしれない)、かといって一部のマニア向けに作るのでもなく、怪獣を出しておけばいいんだという作今の映画と違って、シナリオもきちんとしていたんだなあ、と何だか寂しい気持ちになってしまうのである。
 「地球防衛軍」にしても(侵略者ミステリアンの地下ドームが「禁断の惑星」のクレール人の地下世界のイメージをパクッているところはあるにしろ)そういう意味ではきちんと作られている。「ゴジラ」に続いて「地球防衛軍」にも黒澤の「七人の侍」のリーダー志村喬が科学者役で出ているが、やはりこういう役者が出ていると映画の重みが違ってくる。ただし、唯一の疑問としては空飛ぶ円盤(当時はUFOとは言わず、こう呼んでいた)が何機か逃げていくし月にあると想定されているミステリアンの基地はそのままなので、これで安心していいのだろうか、という点がある。おそらくその疑問に答えるために作られたのだろう続編にあたる「宇宙大戦争」はしかし、駄作であった。
 その他では怪獣を退治するのではなく神として謝ってしまうという視点が新鮮な「モスラ」と、近づいて来る質量の巨大な星(今でいう中性子星か)から地球が一時的に軌道をずらして逃げるという発想がおもしろかった「妖星ゴラス」(怪獣マグマのシーンをカットすればという条件付)あたりが合格点をつけられる。以降の怪獣プロレス作品よりはむしろ、地味だが「美女と液体人間」「電送人間」などの方が手抜きせずに作られていて好感がもてる。ヒットしたが一時東宝が作っていた小松左京SF物「日本沈没」や「エスパイ」は凡作。「エスパイ」は原作では由美かおる演じるマリアがレイプされるシーンがあり、私はそのシーンだけを期待して見に行ったのだがおっぱいがチラリと見えるだけで期待はずれに終わった(ほとんど馬鹿)。角川の「復活の日」は凡作でこれならまだ半村良原作の「戦国自衛隊」の方がましか。駄作の「ノストラ・ダムスの大予言」は、特撮物ではあってもSF映画ではない。
 近年のゴジラシリーズは特撮が進歩した分、見ごたえは増したが怪獣プロレスのパターンは依然として同じであり、多少なりとも納得できたのは、タイムトラベルと組み合わせた「ゴジラVSキングギドラ」くらいのものである。ただ、中川安奈さん残念ながら動きがどんくさいですなぁ。
 他社作品では「宇宙からのメッセージ」などという金返せ駄作を作った東映には見るべきものはない。むしろ、大映作品の「大魔神」が神話・民話的作りでもともとが人間型なので着ぐるみも無理がなく一定の評価ができる。「ガメラ」も昔のものはひどかったが、金子監督がリメイクしたもの(といっても話はまるで違い、ガメラというキャラクターを使っただけ)は、怪獣に対する人間の視点というポジションがきちんと守られていてそれなりの出来に仕上がっていた。特撮も悪くはない。近々「3」が封切られるようだが「2」も自衛隊の本物の戦車が出てきたりしてそれなりのリアリティーがあった。これで、スティーブン・沈黙シリーズ・セガールの娘がもう少しちゃんとした演技ができればエポックになったのに、と惜しまれる。(その「ガメラ3」だが、家族を殺された少女の怨念が○○と合体して……、というところがどうもすっきりしなかったが、特撮には見るべきものがあった。)
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遥かなる西部劇 [映画の雑感日記]

遥かなる西部劇

 最近は西部劇がほとんど作られなくなりました。作られても西部劇ではなく開拓史だったり、「ラストモヒカン」のようなものだったりします。インディアンをインディアンと言えなくなり先住民=ネイティブアメリカンと言い換えなくてはならない状況も影響していると思います。西部劇大好きだったおっさんの戯言だと思ってお読みください。

★西部劇はTVから始まった
 まずは、TVの話から。
 私がヒッチコックの名前を初めて知ったのは、TVの「ヒッチコック劇場」を通してのことであった。私の父はともかく新し物好きで、我が家にTVが来たのは小学生の時。町内で一番早かった。放送も民放はまだなく、NHK名古屋(JOCK-TV。何でCKなのかと思ったら、東京がAKで大阪がBK、名古屋はCK。要するに日本で三番目ということであった。名古屋はこの「日本で三番目」というのがやたら多いんだよね)の実験放送があるだけの時代である。昼間と夕方から夜の放送がちょこっとあるだけだったが、そのおかげで指人形劇の「があがあクラブ」とか「ガンツくん」「とびっちょ、はねっちょ」、マリオネットの「テレビてん助」などという友達が知らない番組を見ることができたのである。
 「ちろりん村とくるみの木」や「ひょっこりひょうたん島」を知っている人に「いやあ昔の『テレビてん助』や『があがあクラブ』は、おもしろかったなあ」と言ってもたいていの人は知らない。そこで私の自慢話が始まるのである。このあたりのことを私が話始めるとまず2時間は止まらないから、聞かされる方こそ、えらい迷惑なのだろうが。仕方がない。それが嫌なら、私に昔のTVの話をするきっかけを与えないことだ。
 ともかくTVに何かが映ってさえいれば満足な時代が続き、チャンネルを回すなどということはずっと後の時代で、NHKしか映らなかったが、「私の秘密」「ジェスチャー」「お笑い三人組」なんていう番組を私も一生懸命に見たのである。そんな中で時代はさらに後になるが民放が映るようになってから「ヒッチコック劇場」も私の御用達番組の一つとなった。だから、ヒッチコックというのは、「ヒッチコック劇場」の最初と最後に出てくる太ったおもしろいことを言うおじさん、というのが彼に対する私の最初の認識である。要するにコメディアンだと思っていたんですねー(^^;;。ただ、番組は、スリラー風でいてウイットに富んでいたりして、その出来の良さは似たもの番組の「スリラー」と比べてみるとよくわかる。ヒッチコックは、「映画も撮る」監督だと知ったのはさらにその後、「ヒッチコック・マガジン」などという雑誌があることを知ったのは高校生になってからであった(ミステリの雑誌なのになぜか洋画ベスト10なんて企画も載せていたのは、ヒッチコックの雑誌ならでは。中原弓彦=小林信彦が編集長だった)。
 当時はミステリもファンタジーもSFも同じ範疇に考えていたので、同じような似たもの番組として「ミステリー・ゾーン(トワイライト・ゾーン)」の方が「アウター・リミッツ」より上だという認識もあった。 
 だいたい民放が始まっても「月光仮面」や双葉十三郎原案の「日真名氏飛び出す」など少数の例外を除いて国産のものにはろくなものがなく、おもしろい番組は外国物と決まっていた。「サンセット77」では私立探偵というかっこいい職業があるのを知り(クーキーの櫛って、知ってます?)、ついでに巻頭「プレゼンテッド・バイ・ワーナー・ブラザース」と言うので「ワーナー・ブラザース」という映画会社がアメリカにあることを知った。「原子力潜水艦シービュー号」や「タイムトンネル」は、「20世紀フォックス」の制作(というか、のちに「ポセイドンアドベンチャー」「タワーリングインフェルノ」などのいわゆるデザスター映画をプロデュースしたアーウィン・アレンの制作)であった。私は、外国TV映画ならほとんど何でもという感じで見ていったのだが、ただ困るのは似たようなタイトル(あるいはイメージ)が多いことだった。「うちのママは世界一」と「パパはなんでも知っている」、「名犬リンチンチン」と「名犬ラッシー」「名犬ロンドン」、「奥様は魔女」と「かわいい魔女ジェニー」なんて今のような多チャンネル時代なら絶対にビデオのタイマー設定を間違えていると断言できる。
 で、今になって考えてみると当時は西部劇の時代だったんだなあ、という気がするんですねー。
 前出の「名犬リンチンチン」は、所謂騎兵隊物である。オハラ軍曹なんて覚えている人いるかなあ。その他、思い付くまま挙げていっても「シャイアン」(主演のクリント・ウォーカーと「ライフルマン」のチャック・コナーズでは、どちらがデカイかなんてどうでもいいようなことが我が家では話題になった。確かクリント・ウォーカー2m2cm、チャック・コナーズ1m98cmだったと思うのだが記憶に自信はない)、「ブロンコ」(主演のタイ・ハーディンは「バルジ大作戦」にもそこそこの役で出ていた)、「シュガーフット(アリゾナ・トム)」、「コルト45」、「連邦保安官」、「テキサス決死隊」(出来はたいしたことなかったが、主題歌は「ローハイド」と双璧と言っていい名曲)「胸に輝く銀の星」(大物俳優ヘンリー・フォンダの出番は少なかった)。それにしても、もう何十年も前に見た玉石混交のこれらの映画のすべての主題歌が今でも歌え、主題曲をハミングできることに私自身が驚いている。
 「ローハイド」のフランキー・レインの主題歌だけが記憶に残っている「ガンスリンガー」、「パージニアン」(これは確か90分ものだった)、「西部の対決」(ビリー・ザ・キッドと保安官パット・ギャレットの友情と対決の物語。ずっと見ていたのだが最後は見逃した ! )、「ライフルマン」(小坂一也の唄う和製主題歌「どこからやって来たのやら……」けっこう流行りました)、「走れ名馬チャンピオン」、「拳銃無宿」(言わずと知れたスティーブ・マックイーン主演の名作。岡三証券提供で、私は懸賞で当たったジミー時田が和製主題歌を唄うソノシート「A LONLY HUNTER」を今でも持っている。テレビ東京の「なんでも鑑定団」に出せば5000円くらいの値が付くのではないかと個人的には思っているのだが?)。これらのテレビ西部劇映画は全部見た。
 まだまだありますよ。
 主役のヒュー・オブライエンのベスト姿が決まっていた「ワイアット・アープ」、後に西部劇ではないが「バークにおまかせ」でもいい味を出したジーン・バリーの「バット・マスターソン」、「幌馬車隊」、「アニーよ銃をとれ」(同名のミュージカルとは別物で完全な西部劇。ぶさいくだがともかく銃のうまいお姉ちゃんでした)、「マーベリック」(主演のジェームス・ガーナーは、メル・ギブスン主演の同名の映画にも出演。最近の「スペース・カウボーイ」でも元気なところを見せていた)、「ララミー牧場」(人気沸騰のロバート・フラーは「続・荒野の七人」で前作スティーブ・マックイーンがやったヴィン役を演じた。全くの別人なのにクリスことユル・ブリナーが親しげに「ヴィン」なんて呼ぶので戸惑った。ま、映画は戸惑いを遥かに越えた駄作だったが。解説で、にぎにぎおじさんこと淀川長治=当時「映画の友」編集長TV初登場。それが今日の日曜洋画劇場の解説につながっている。ボニー・ジャックスの唄う主題歌「草は青く……」は、日本で無理やり歌詞を付けたもので意味がよくわからん)。
 「ローハイド」は、ローレン、ローレン、ローレンの主題歌が、ともかくいい。それもそのはず、作詞=ネッド・ワシントン、作曲=ディミトリイ・ティオムキン、歌=フランキー・レインという「O.K牧場の決闘」トリオのものなのだ。マカロニウエスタン「荒野の用心棒」で名をあげ、今や大監督になったロディ役のクリント・イーストウッドも若かった。この映画は家族で見ていて、後に撮影中の事故で死んだフェイバー隊長役=エリック・フレミングの「さあ、行くぞ。しゅっぱーつ」は、我が家でも流行したほどである。また、「ローハイド」のレコードは、私が小遣いを貯めて買った始めてのレコード=ドーナッツ盤としても記憶に残る(どうでもいいことだがB面はマーティ・ロビンスの唄う「エル・パソ」だった)
 いや、切りがない。
 私は、勉強もせずにこれらのTV映画を見、主題歌を必死になって覚えたのである。今でも部分的になら上に挙げた作品は全部歌えますね。自慢のように聞こえるかもしれないが自慢である。学生時代のコンパでは、これら西部劇と「少年ジェット」「まぼろし探偵」などいわゆる少年ヒーロー物のリクエストが必ずきたものである。中には「名犬リンチンチン」なんて主題歌のないリクエストもあったが、そういうときは奇兵隊のラッパの音とともに整列するシーンの物真似をして喝采を浴びたものである。あれっ、今にして思うと人生で喝采を浴びたのは、このときだけだったのかな?
 それはともかく、そうした経験を通して西部劇のルールや、映画の見方等を学んだのではないかと思う。また、TVに出ていて知っている俳優が映画に出ているから、と見に行ったものも何本かある。逆に、映画を見に行ってTVで知っている顔が出ていることにより、その映画に親近感を覚えるということも何回かあった。
 「荒野の七人」を見て「あっ、『拳銃無宿』のジョッシ・ランドルが出ている」と思い、「O.K牧場の決闘」の冒頭のクレジットを見て「あっ、『ローハイド』と同じトリオが作った歌だ」と思い、「荒野の決闘」を見て「あっ、『胸に輝く銀の星』のヘンリー・フォンダが出ている」と思い(いやあ、その時までフォンダを大俳優とは知りませんでした(^^;;)、「大いなる西部」を見て「あっ、『ライフルマン(チャック・コナーズ)』だ」と思ったのだから(逆だっちゅーの)。クリント・イーストウッドを「荒野の用心棒」で見たときはもう学生だったので、さすがに「あっローハイドのロディ・イエイツだ」とは思わなかったが、それでも親近感をもって見られたのは事実である。考えてみれば、いや別に考えてみなくても、テレビからは多くのものを学んだなあ……(しみじみ)。早々とTVを買ってくれた、今は亡き父親に感謝。

★ジョン・フォードと西部劇
 小林信彦の映画の本を読むと、ジョン・フォードの「荒野の決闘」に対する評価が異様に高い。本当にそんな凄い名作なのだろうか。私も別に駄作とは思わないし、ワイアット・アープを演じるヘンリー・フォンダにしろドク・ホリデイ役のビクター・マチュアにしろ、いい味を出している。見ている人にだけわかるように書くが、香水のシーンや教会のダンスシーンに見られるユーモアも悪くない。が、どうしてもそれほどの名作とは思えないのである。こちらの気が短いのか、あのゆったりとしたテンポに退屈を覚えてしまうのである。何十回と見たわけではないが、映画館で2度、レーザーディスクで3回見ているので、そう本質ははずしていないと思う。
 「荒野の決闘」は、ジョン・フォードの作品群としては、「捜索者」や「黄色いリボン」よりは上だが、これは西部劇ではないがせいぜい「静かなる男」と並ぶ程度で、最高傑作は段トツで「駅馬車」である、というのが私の意見である。だから決して駄作ではなく西部の空気というものを実によく出している傑作なのだが、その傑作度は同じ題材を扱ったジョン・スタージェス監督の「O.K牧場の決闘」より多少出来がいいかな(ただし、決闘シーンは、ジョン・スタージェスの方がうまいと思う)、という程度のものなのである。歌がヒットしたことだけが記憶に残る「騎兵隊」「バッファロー大隊」「リバティー・バランスを撃った男」や、ジョン・フォード最初にして最後の70ミリ映画「シャイアン」いずれも退屈したので、ここには取り上げない。「シャイアン」は、当時の70ミリ大作御用達のテアトル名古屋で見たのだが、途中のワイアット・アープ(ジェームズ・スチュアート)が登場する寸劇が妙に浮いている変な作品だった。
 といういささか強引な振りで「駅馬車」の話をしよう。しかしよく考えてみると、この映画、騎兵隊の護衛をつけて走る間にだんだん人が乗り込んでくる前半、騎兵隊と離れて単独で走る中盤とインディアンの襲撃、そしてラストの一通り話が終わってしまった後の決闘、と随分話の展開に無理があるのだが、その無理を疾走する駅馬車のスピード感とリズムで一気に見せてしまうところにジョン・フォードのうまさがあると思う。原作は昔「エラリー・クイーンズ・ミステリマガジン(EQMM)」がミステリ雑誌なのに「西部小説特集」なのものをやっていて、翻訳されたものを読んだことがあるが、どうってことない短編だった。展開に多少の無理があったにせよ、これは素直に脚本(ダドリー・ニコルズとベン・ヘクト)をほめていいと思う。
 まず、前半の少し走る度に様々な過去をもつ人々が徐々に乗り込んでくるのだが、実にこれがテンポがいい。黒澤が「七人の侍」の侍集めのシーンの参考にしたという話を読んだことがあるが、確かにテンポの良さは似ているような気がしないでもない。ともかく「寂しい草原に俺を埋めてくれるな」というウエスタンを軽快にアレンジした曲にのって走る駅馬車を見ているだけで、わくわくしてくるのは演出の力だろう。リンゴ・キッドを演じるジョン・ウエインの登場は、このテンポよく走る駅馬車をライフルで止めての登場なのだから、こんなにおいしい登場の仕方はない(それまで駅馬車を囲むように進んでいた騎兵隊が、このときだけはなぜか遅れて離れているというのはご愛嬌)。
 後半のインディアンの襲撃シーンでは、撃たれたインディアンが駅馬車の下を通った後にむっくりと起き上がってから倒れるという有名なスタントシーンがある。もうダメかと思われたその時、騎兵隊が現れ、騎兵隊が画面手前から向こうへとインディアンを追って行く、向こうから手前へ駅馬車が入って来る、という構図が何といっても憎らしいくらいにうまい(ゴードン・スコットがリメイクした時にはこのシーンはなく、乗組員自身の力でインディアンを撃退してしまっている。全く、何を考えていることやら)。
 それほどの名作なのにフィルムの保存状態が悪く(同じ1939年に制作された「風と共に去りぬ」が今でもほとんど傷がなく発色もいいのとはえらい違いである)、逃げようとしたリンゴがインディアンの狼煙を見て逃げるのを思いとどまるシーンは、ビデオやTV放映で見ると空が写っているだけで何も見えないので、初めての人は「何のこっちゃ」と思ってしまうだろう。残念なことではある。
 さて、ジョン・フォードの西部劇でわすれてならないものに音楽(ウエスタン・ミュージック)の使い方のうまさがある。「駅馬車」の音楽の素晴らしさについては、すでに書いたが、テーマ曲からフォスターの「金髪のジェニー」に転調するあたりもうまいものである。「荒野の決闘」の「いとしのクレメンタイン」(なぜか日本では「雪山賛歌」として知られる)や「黄色いリボン」も印象に残るし、ジョン・ウエインとウイリアム・ホールデンが組んだたいしておもしろくもない「騎兵隊」にしても「騎兵隊マーチ」や「ジョニーが凱旋するとき」など音楽だけは私の記憶に残っている。音楽そのものももちろんだが、挿入の仕方がうまいのである。すべての作品に言えることだが、「ここ!」というところで、ちゃんと音楽が聞こえるのである。
 あといくつか西部劇の傑作を挙げようと思っていたのだが、意外というか、予想外にないんだな、これが。誰にでも薦められるのは、せいぜい「シェ−ン」と「大いなる西部」あたりだろうか。
 「シェーン」は股旅西部劇だなんて非難された時期もあるが、ワイオミングの美しい景色を背景に最後の決闘までじっくりもっていったジョージ・スティーブンスの腕が冴えた名品。巻頭のシェーンが牧場へやってくるあたりのまさに絵に描いたような景色の美しさ。この美しさは、ちょっと他に例がない。また、あまりにも有名なラストで、撃たれたシェーンが十字架の建ち並ぶ向こう側へ消えていく場面などガンマンたちの時代の終わりを暗示しているようで思わず「うむ」と頷いてしまううまさである(今頃になって、「シェーンは、撃たれていた」なんて騒ぐ馬鹿がいるが、子供が「シェーン、血が」と、ちゃんと言っているし、今頃……という気がしないでもない。また、後で機会があれば触れるが、私は、シェーンのアラン・ラッドより敵役のジャック・パランスの方が絶対に速かったはずだと今でも信じている)。ビクター・ヤングの音楽も画面にぴったりの名曲であった。「ジャイアンツ」や「偉大な生涯の物語」なんて空虚な作品を作ったジョージ・スティーブンスにどうしてこんな傑作が撮れたんだろう? シェーンを演じたアラン・ラッド、全身黒づくめの殺し屋ウイルソンを演じたジャック・パランスにとっても、一世一代の名演といえよう。後にクリント・イーストウッドが「ペイルライダー」というこの映画へのオマージュのような作品を作った。「シェーン」を超えるほどのものではないが、傑作である。
 「大いなる西部」は、巨匠ウイリアム・ワイラーの作品で冒頭広大な荒野を走って来る馬車のシーンから、これほど西部の広さを実感させてくれる映画は他になく、西部劇の傑作としてお勧めできる。ペックとシモンズのミスキャストについては別のところで書いたのでここでは書かないが、それでも一言だけ。有名なペックとヘストンの延々と続く殴りあい、いくらなんでもペックのほうがやや優勢での引き分けというのは無理ありすぎ。決闘前にヘストンがズバッ、ズバッとズボンを履くかっこよさは当時私も真似をした ! ものだが、とてもああはうまくいかなかった。ラストのブランコキャニオンの渓谷でのカメラの切り返しのタイミングも見事。
 それと、ペックが去った後、丘の上にポツンと小さく見える点が次第に近づいて来るとチャック「ライフルマン」コナーズだったりするあたり、あの「アラビアのロレンス」の砂漠の地平線から蜃気楼のようにアリ(オマー・シャリフ)が近づいて来るシーンに影響を与えているのではないかと思うのだがどうだろう。西部の雄大さを彷彿とさせるジェローム・モロスの音楽は、フジテレビの競馬中継の中でも使われているので、耳にした人も多いと思う(追記。最近では「お茶」のCMに、ややスローにアレンジした曲が使われていた)。ただし、この映画も保存状態があまりよくないようで、ビデオはもちろんレーザーディスクで見ても巻頭のシーンなどセピア調のようで悲しいものがある。リバイバル上映だったが私がテアトル名古屋で見た印象では枯れ草のむせ返るような匂いが伝わってくるような色でもっと黄色が強く、空もスカット青く抜けていたはずである。「ウエストサイド物語」や「北北西に進路を取れ」のタイトルバックを担当したソウル・バスの素晴らしいタイトルデザインも一言記録しておきたい。
 上記3作品と比べると少し落ちるかもしれないが、ハワード・ホークス監督の「リオ・ブラボー」も西部劇を語るときには欠かせない傑作。相手が弱すぎるのが難だが、ともかく痛快というか、おもしろい西部劇で、見終わってニコニコできるという点ではこれが一番かもしれない。ジョン・ウエインにはピストルよりライフルが似合うと再認識するのもこの映画。ディーン・マーチンやリッキー・ネルソンなどもいい味を出している。「ライフルと愛馬」などの歌も楽しい。話の流れを止めてしまわないようにうまく挿入されており、これはせっかく歌が唄える俳優が出ているのだからというホークス監督のサービスだろう。こういうサービスは、大歓迎である。ちなみにディーン・マーチンが歌を唄い、リッキー・ネルソンがギターをひき、ウォルター・ブレナンが間の手を入れたりハーモニカを吹いたりしている間、ジョン・ウエインはやることがなく、ただにこにこと笑っているだけ。脚線美が自慢のヒロイン=アンジー・ディッキンソン(後年「殺しのドレス」でシャワーシーンを披露し、あっという間にエレベーターの中で殺される中年おばさん)も結局のところは、この映画だけだった。ラストのジョン・ウエインのディッキンソンに対するプロポーズの言葉「逮捕するぞ」は、かつて「クイズ・ダービー」の問題にもなったので覚えている人もいるかもしれない。同じくホークスの「赤い河」もTV映画「ローハイド」の原型のような映画で音楽も「ローハイド」と同じディミトリイ・ティオムキンと悪くはないが、ジョン・ウエインの相手役のモンゴメリー・クリフトがどうにもミスキャストで減点1。
 もう1本、比較的新しいところで「許されざる者」を挙げておこう。これはクリント・イーストウッドの西部劇に対するオマージュのような作品だが、西部の景色の美しさや、ラストのたった一人で乗り込んでの決闘の迫力たるや近年出色の出来である。仇役のジーン・ハックマンがいかにも憎々し気で、仇役が強く憎たらしいと映画がおもしろくなる見本である。見終わって爽快になる映画ではないが、今の時代が時代なのだから、この点はしょうがないだろう。全編に過ぎ去りし西部のノスタルジーが漂うが、それだけに終わらずちゃんと西部劇の決まり事を守ってくれているので、見た充実感がある(明らかに「シェーン」を連想させる「ペイルライダー」もなかなかの佳作だった)。
 この他には黒澤の西部劇版「荒野の七人」あたりがお勧め品。心に残る名画というわけではないが、まあレンタルビデオ代くらいの価値はあって腹は立たないはずである。あとラストに関してはすっきりと余韻を残した終わり方で、この部分だけはややだらだらした「七人の侍」よりうまいと思う。
 クーパーVSランカスターの対決で当時話題になったアルドリッチの「ヴェラクルス」は、それなりにおもしろい映画だが、もっとスピード感のあるストレートな話にしたら、かなりの傑作になったのにと惜しまれる。ラストの二人の対決シーンは話題になったが、「シェーン」のときと同様、私にはランカスターの方がクーパーより絶対に速いように見えて不満だった。ところが最近、ビデオで見直して見ると、決闘の後、クーパーがランカスターの銃を調べて「む……」という表情をしているのに気付いた。ランカスターは、多分、空砲を撃ったのだ。死に場所を求めていたのだ。ううむ……、アルドリッチ監督、そこまで考えていたか。「ソドムとゴモラ」や「飛べフェニックス」は駄作だったが、「ヴェラクルス」は十分に合格点。
 巨大なシネラマ画面に隙間風が吹き抜ける「西部開拓史」(ただし、序曲、メイン・タイトルを含むアルフレッド・ニューマンの音楽だけはいい。私はサントラ盤のLPを買ってしまった。ただし、LPには間奏曲と終曲は収録されておらず、レーザーディスクの発売まで20年以上待たねばならなかった(^^;;)、70ミリ画面を持て余しサンタ・アナ軍が突撃して来るまでの長い時間退屈であくびが出る「アラモ」(これもディミトリイ・ティオムキンの音楽だけは悪くはないが……)は、見るだけ時間の無駄か。オードリー・ヘップバーンの出た方の「許されざる者」や「黄金」「真昼の決闘」「白昼の決闘」「片目のジャック」などは、少なくとも西部劇としては全く買わない。その理由については、下の「西部劇の呼吸と『ワイルド・バンチ』」参照。

★西部劇の呼吸と「ワイルド・バンチ」
 クリント・イーストウッドの傑作「許されざる者」と同じタイトルだがオードリー・ヘップバーンの出た方の「許されざる者」や「黄金」「真昼の決闘」「白昼の決闘」「片目のジャック」などは、どれもけっこう有名な映画であるが、西部劇としては私は全く買っていない。
 と書くと、フレッド・ジンネマン監督の「真昼の決闘(ハイ・ヌーン)」は歌もヒットしてアカデミー賞もとったし、西部劇の名作じゃないか、という人がいると思う。確かに西部を舞台にしていて撃ち合いもあり、老いたりとはいえ主演はケーリー・クーパーで、テックス・リッターの素朴な歌も悪くはない(デミトリイ・ティオムキン作曲、ネッド・ワシカトン作詞というのは「OK牧場の決闘」やテレビの「ローハイド」と同じコンビ。なぜかレコードはフランキー・ローハイド・レーンのものがヒットし、私の持っているのもこれである)。その点では間違いなく西部劇なのだが、私の考える西部劇独特の「呼吸」というか「空気」とでもいうべきものが、この作品には全くないのである。
 要するに西部を舞台にしただけで「西部劇」ではないのである。これならまだマカロニ・ウエスタンの「荒野の用心棒」やその続編の「夕陽のガンマン」の方が西部劇になっているといっていい。
 「真昼の決闘」は、当時の狂ったようなマッカーシズム・非米活動委員会(赤狩り=いわゆるリベラルも赤と決めつけられ、チャップリンなどもアメリカを追われた)の行動に対して、過去の西部という舞台を借り、「アメリカ人は、独立心に富み、勇気がある」と言われているが本当にそうなのか。という疑問を誰一人助けてくれない中、完全と一人悪に立ち向かうクーパーの姿を借りて訴えた作品である。社会劇としてはそれなりの水準にある作品だと思うのだが、主張が強すぎて、こと西部劇としての評価となるとほとんど0点に近い。他の「黄金」などの作品も同様に西部劇としての評価は0点である。なぜ西部劇と認められないのか、もう少し具体的に話をしよう。
 たとえばウイリアム・ワイラーの傑作「大いなる西部」のラストちょい前。待ち伏せしているとわかっている峡谷へ頑固な大佐が向かう。反対しながらもチャールトン・ヘストンがその後を追い、黙って轡を並べる。これが西部劇の呼吸というものである。その後、行けば死ぬとわかっていながらスクリーンの左端にその後に続く牧童たちの一群が映る、というあたりは、もちろん監督ワイラーのうまさ。グレゴリー・ペックとヘストンが延々と殴り合った末に互いを認め合うというのも「西部劇の呼吸」の典型といえる。ヘストンが、ズバッ、ズバッと一気にズボンを履くときのかっこよさ。
 西部劇の登場人物は、正義であろうと悪であろうと、なによりもまずかっこよくなければダメなんだな。「シェーン」に出てくる殺し屋ジャック・パランスにしたって、悪の典型のような役どころだが、全身黒づくめで実にダンディーだった。
 ジョン・スタージェス監督の「O.K.牧場の決闘」でバート・ランカスター、カーク・ダグラスら4人が横一列に並んで決闘に向かうかっこよさ、「リオ・ブラボー」でジョン・ウエインがリッキー・ネルソンからライフルを受け取るや否やぶっぱなす豪快さ、またラストの撃ち合いで「(相手に)裏側へ回られたらまずいぞ」と言っているその時、裏側へ回ろうとした敵がババーンと撃たれ、爺さんがドンピシャリのタイミングで「ひっひっひ」と登場する名シーン、「ガンファイター」で弾を装填していない拳銃でガンファイトに臨むカーク・ダグラス。こういう西部劇の「呼吸=空気」とでもいうべきものがない作品を、私は西部劇とは呼ばないのである。要するに、日本映画でいうと時代劇(チャンバラ)と歴史劇の違いといっていいだろう。
 同じ題材をあつかっても「荒野の決闘」と「O.K.牧場の決闘」は西部劇だが、最近の「ワイアット・アープ」は歴史劇なのである。同様にアカデミー賞を受賞した「ダンス・ウイズ・ウルブス」は、西部開拓劇、あるいは歴史劇ではあっても西部劇ではない、ということになる(ちなみにこの映画、私はつい見逃してしまったのでレーザーディスクを買って見たのだが、思わせ振りな正義感が鼻に付くばかりで、どこがいいのかさっぱりわからない映画だった)。
 そんな意味でいうとサム・ペキンパーの「ワイルド・バンチ」は、西部開拓劇でも歴史劇でもなく、間違いなく西部劇である。
 ペキンパーの名前を初めて知ったのは、チャールトン・ヘストンが主演した「ダンディー少佐」という西部劇で、テアトル名古屋で見た。これは「金返せ」ものの駄作だったがいつの間にか腕を上げ、この「ワイルド・バンチ」は、紛れもなく西部劇の傑作であり、数あるペキンパー作品の中でも、私の一番のお気に入りである。この作品を例にどんなところが西部劇の「呼吸」なのか、具体的に話を進めたい。
 一般にワイルド・バンチと呼ばれた無法者集団が壊滅して西部劇の時代は終わったとされるのだが、まず出演者がウイリアム・ホールデン、アーネスト・ボーグナイン、ロバート・ライアンといった初老の大物達をずらりと並べたところに「西部劇の挽歌」を撮るぞ、というペキンパー監督の意図が明瞭に見える。だから撮り方もきちんと西部劇になっている。
 西部劇とは=ダンディズムといってもいいくらいのものなので、無法者集団ワイルド・バンチのボスであるホールデンが歳はいっていてもびしっとネクタイまでしてかっこよく決めているのがうれしい。髭も似合う。監獄に再び入るのを免除されるという条件と引き換えにワイルド・バンチを追うかつての仲間ロバート・ライアンもラフに着こなしたジャケットが決まっている。ロバート・ライアンは、「キング・オブ・キングス」の予言者ヨハネなんかより、こういう役の方がよっぽど似合うなあ。彼は「リバティー・バランスを撃った男」のような失敗西部劇にも出ているが、断然この映画の方が決まっている(あ、よく考えてみたらこの時、共演したジェフリー・ハンターが「キング・オブ・キングス」ではキリストか ! )。
 巻頭、いきなり襲撃シーンから始まる、というのがまずいい。その撃ち合いの中で、様々な過去を引きずる各人の個性を全部出してしまう手際のよさ。このスピーディーな展開にまず拍手する必要がある。
 面々がメキシコへ逃げていくときも、西部劇だから、ペキンパーは、決してしょぼしょぼと俯きかげんには撮らない。勇壮な音楽とともにずらりと並んで走って来るところを正面から撮るのである。そういうふうにかっこよく撮ってくれなくては西部劇にならないのである。列車から武器弾薬を強奪するシーンにしても、西部劇は「大列車強盗」から始まったといわれるくらいだから、西部劇の挽歌を撮るには絶対に必要なシーンといえる。ここでは、ワイルド・バンチを追うロバート・ライアンのグループが馬に乗ったまま列車の中からさーっと出てくるシーンのスピーディーな展開とかっこよさに西部劇の「呼吸」を感じてほしい。
 橋を爆破するあたりの迫力たるや死人の一人や二人出たんじゃないかと思わせる迫力で、人や馬を乗せたまま橋がドーンと落ちるところをノーカットかつお得意のスローモーションで撮っている。この映画、一対一でのガンファイトがないのだから、巻頭とラストの一大銃撃戦を含めて、やはりこれくらいのドン・パチがないと西部劇として成り立たないのである(余談だが、撃たれると服に穴が開いて血が飛び散るということを意識的にやったのはペキンパーが最初だが、これは多分、黒澤時代劇の影響だと思う。また、この橋の爆破シーンは、スローモーションの効果的使用で有名なペキンパー作品のなかでも白眉といえるものだが、このスローモーションも黒澤「七人の侍」あたりの影響があるのだと思う)。
 ちなみに、死を覚悟した面々が最後の決戦に向かう時もまるで「OK牧場の決闘」を再現するかのようにホールデン、ボーグナイン以下4名はライフル片手にずらりと横に並んで歩いてくるのをカメラは正面から捉えている。間違いなく死ぬというのに、4人とも逃げも隠れもせず胸を張って堂々と歩いてくるのだ。いいねえ。西部劇は、理屈抜きにこうでなくちゃいかんのだよ。
 そんな「ワイルド・バンチ」の中で最も西部劇の「呼吸」が色濃く出ているところはどこか、ということになると(これはもう私の好みになってしまうのだが)やはりラストシーンということになるか。ワイルド・バンチが全滅した後にやってきたロバート・ライアンが、死体を確認する仲間と別れて城壁の入口の所に呆然とした顔をして座っている。そこへ負傷していて銃撃戦の場にいなかったためたった一人生き残ったじいさんが仲間を連れてやって来て言う。「わしは、この連中と暴れ回ることにした。来ないか。昔通りというわけにはいかんが、一人よりはいいぞ」。すると、ロバート・ライアンは、ニヤリと笑うのだ。その渋さ、かっこよさ、昇華されたダンディズム、これこそが西部劇の「呼吸」の真髄だと言っても過言ではない。
 「ワイルド・バンチ」で私が唯一不満をもっている点は、音楽。「駅馬車」や「シェーン」といった名作は勿論、「バッファロー大隊」や「誇り高き男」、前出の「リバティー・バランスを撃った男」のような凡作でも西部劇の音楽というのは記憶に残るものなのだが、「ワイルド・バンチ」の音楽は全く記憶に残っていない。その点、邪道と言われたマカロニ・ウエスタンの方が「荒野の用心棒」や「夕陽のガンマン」のエンニオ・モリコーネを筆頭に、「南から来た用心棒」「皆殺し無頼」のようなB級まで、音楽だけはきちんとやっている。
 とまれ、そういったシーンの全くない「明日に向かって撃て ! 」は、同じワイルド・バンチが登場して銃撃戦があっても(青春映画として実によくできた映画で、ラストも実に鮮やかだとは思うのだが)、西部劇ではない、ということになる。
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双葉十三郎さんの映画評とベストテン [映画の雑感日記]

双葉十三郎さんの映画評とベストテン

 双葉十三郎さんの『外国映画ハラハラドキドキぼくの500本』(文春新書)について、のんびり話しましょう。
 私の高校生の時だから今からもう40年も昔(古(^^;;)、NHKラジオで毎年暮れに映画のベスト10を選出する座談会が放送されていた。映画評論家が3人参加していて、その総計でベスト10を決めるというものである。その一人が双葉十三郎氏だった。
 双葉氏の名前はそのさらに昔のテレビドラマ「日真名氏飛びだす」の原作者として、レイモンド・チャンドラー「大いなる眠り」の翻訳者として(ただしあまりうまい翻訳ではなかった)知っていたが、ある年のこと、双葉氏はその年のベストワンにヒッチコック監督の「鳥」を選んだのである。「双葉さんの1位が『鳥』というのは?」と他の座談者がきいた。「いくらなんでも『鳥』が1位というのはちょっと変じゃないか」というニュアンスがそこにはあった。すると双葉氏、平然とこう言ったのだった。
「まあ『鳥』が1位とは思わないけど、順位を上げたかったんでね」
 そういう感覚でベスト10を選出する評論家は双葉氏が最初で最後である?
 ヒッチコックが来日したときの座談会が小林信彦(当時、中原弓彦)編集する『ヒッチコック・マガジン』に載った。その座談会で「北北西に進路をとっていったら、三十九階段が見えたのですが」と双葉氏が切り込み、ヒッチが「あなたがサイコでなければいいが」と応じたのは圧巻。映画「北北西に進路をとれ」の元ネタが、ヒッチがイギリス時代に撮ったジョン・バカン原作「三十九階段」(映画の邦題は「三十九夜」)であることを鋭くついたのである。少なくともヒッチを奉るばかりのトリュフォー(『ヒッチコック・トリュフォー映画術』という退屈な本)より双葉氏のほうがはるかに切れ味が鋭かった。
 そんな双葉氏の『外国映画ハラハラドキドキぼくの500本』という本が文春新書で出ていた。すでに『外国映画ぼくの500本』『日本映画ぼくの300本』という本は読んでいたのだが、この本のことは知らなかった。発売日を見ると去年の11月。ちょうど私の入院中の刊行だった(;_;)。
 双葉氏は芸術映画も娯楽映画も区別なく見て公平に評価できる希有の映画評論家だが(かつて「芸術」偏重のキネマ旬報ベスト10に「007危機一発」、改題「ロシアから愛をこめて」を入れていたことあり)、とくにサスペンス、ミステリには造詣が深い。そんな意味でも氏にぴったりの本といえる。そんな本の余白に雑感を少々付け加えてみた。
 まず感じたのは、500はちょっときつかったかな、ということ。パラパラっとページをめくったたげでも「悪魔のいけにえ」「ウエストワールド」「コーマ」「サスペリア」「スターゲイト」……といった空虚な作品が取り上げられているのは、いくらなんでもという気がしないでもない。ハラハラドキドキする前に眠くなるはずである。あ、「サスペリア」は異様にうるさかったから眠ることもできないか。最悪ですな。本のボリュームのことなどもあったのだろうが、せいぜい日本映画と同じ300本にしたかったところである。
 以下、ランダムに個人的雑感を。ただし本に選ばれていても「エイリアン2」「オーメン」のようなメジャーなものは取り上げない。
★「華氏451」
 レイ・ブラッドベリの原作をトリュフォーが映画化したもの。華氏451とは本が燃える温度で、書物が禁止されている近未来が舞台。そのためタイトルや配役は声で紹介されるのだが、字幕スーパーが入ってしまうのが惜しい。双葉氏のいうハラハラドキドキはあまりないのだが、「ラストには崇高な感動がわく」というのには全く同感。ジュリー・クリスティーの扱い(二役だが清純な少女役には無理がある)や簡単に森に逃れられてしまうなど映画の出来にはやや疑問がないではないが、この映画のラストこそ、映画史上最も美しいラストだと私は未だに信じている。ちなみにマイケル・ムーアの「華氏911」のタイトルは、もちろんここからのいただき。
★「キャリー」
 スティーブン・キング原作の映画化ではこの「キャリー」をほめる人がけっこう多い。まあ「ミザリー」にしろ「ペットセメタリー」「デッドゾーン」「呪われた町」(私が見たのはテレビドラマ)にしろぱっとしないし、キューブリックの「シャイニング」に至っては見事な失敗作だった。もう一つ世評が高い「ショーシャンクの空に」はラストの海の青さ明るさにみなだまされているのではないのだろうか。妻殺しの犯人を知っているそぶりを見せた男が刑務所の係官に射殺されたりして思わせぶりたっぷりなのに結末がないのは大減点。その意味では「キャリー」は無難な出来だが、ラストのあのオチが読めてしまうのが惜しい。基本的にはこの手の「いじめ映画」は嫌いなのだが、私は公開後のビデオで見たため、あの「ハスラー」のパイパー・ローリーが母親役で出ていたり、「ビッグ・ウエンズデー」のウイリアム・カットやかの「サタデー」ジョン・トラボルタらが、「あっ、出てるじゃん」という感じで楽しめた。
★「コレクター」
 最近同名の映画ができたため混乱してしまう。有名作品の同名はぜったいにやめていただきたい。ウイリアム・ワイラーは「ベン・ハー」「大いなる西部」などの大作から「ローマの休日」「必死の逃亡者」まで本当に失敗作の少ない大監督だが(戦前の作品は知らん(^^;;)、これはちょっと異色の作品。主役のテレンス・スタンプはクリストファー・リーブの「スーパーマン2」で敵の将軍をやった役者だが、何かにつかれた役にぴったりの人で、とくに特殊メイクをしているわけでもないのに顔をみているだけで怖かった記憶がある。引き出しを開けると、どの引き出しもチョウの標本でびっしりというのも怖いが、ドアを閉めた瞬間、振動でピンで留められている標本がぶるぶるっと震えるというすごい演出が記憶にのこっている。このワンショットで逃げようにも逃げられないヒロインの心境を表しているのだから、さすがワイラーである。
★「ザーレンからの脱出」
 私は名古屋の二番館オーモン劇場で見た記憶があったのだが、誰も取り上げてくれないので、そんな映画本当にあったのかと自信がなくなりそうだったのだが、この本で確認できた。よかった、よかった。監督ロナルド・ニーム(「ポセイドン・アドベンチャー」)とは驚き。捕らえられた地下運動の指導者(ユル・ブリンナー)の脱出・逃避行だが、双葉氏は「すがすがしい後味」と書いている。それは、脱出するのは他の囚人や地下運動家など5人ほどで自分だけ助かろうと考える奴もいる。嫌な奴だなあと思っていると、その嫌な奴にもちゃんと見せ場が用意されているのである。そのため脱出に成功した後「○○はいい奴だった」みたいなことを言われたブリンナーはちょっと考えた後「いや、みんないい奴だった」みたいなことを言う。45年以上前の記憶で書いているので確信はないが、双葉氏の「すがすがしい後味」とはそのことなのではないかと思う。そういえば「ポセイドン・アドベンチャー」も脱出映画で、各人に見せ場があったのをこの一文を書いていて思い出した。
★「脱走特急」
 なんとなんとこの映画は名古屋のロードショー館、「ベン・ハー」「アラビアのロレンス」「サウンド・オブ・ミュージック」など名作の数々を上映してきたテアトル名古屋で見た。このレベルの作品は前述の二番館オーモン劇場で見ることが当たり前だったので、実に不思議である。が、もう40年も前のことなので、どうしてそんな金があったのか今となっては思い出せない。映画の出来は、まあ腹が立たない程度のもの。主人公のフランク・シナトラは最後に撃たれて死んでしまうのだが、その死体に「きみは一人でも脱走できたらこちらの勝ちだと言った。……」というようなナレーションがかぶさる。つまり、これだけの大人数が脱走できたのだから、きみの勝ちだということ。双葉氏が「最後にシナトラが死んじまうのもうれしい」というのは、そのことだと思うので誤解なきよう。
★「電撃フリントGO!GO!作戦」
 今ではほとんど忘れられてしまった映画だが、当時(60年代半ば)映画界の企画力のなさを露呈するように大量生産された(最近のホラー映画の洪水をみると、この状況は今でもあまり変わらない)007亜流映画としてはなかなかの出来である。というか、見て腹が立たなかったのは、この映画くらいではなかろうか。主人公は「荒野の七人」「大脱走」で男を上げたジェームズ・コバーン。大金持ちでかっこよく、当然のように女にももてもての人物。政府の高官がフリントを訪ね「この難題を解決できるのは、あなたしかいません。どうかご出馬をお願いします」と懇願するので、「仕方ない、暇つぶしにいっちょうやってやるか」と乗り出すパターンがまず笑える。パララ〜パララ〜と鳴る電話の音も、いと楽し。ただし、続編の「アタック作戦」は駄作でした。
★「ふくろうの河」
 「梟の城」じゃないですぞ(あれは司馬遼太郎の忍者小説)。ロベール・アンリコは名作「冒険者たち」の監督だが、この30分足らずの白黒短編は全編緊迫感にあふれた傑作。ある男が吊し首にされそうになるが、そのなわが切れて……。一気に見てしまって見終わった後、一瞬呆然となる。すくなとも私はそうだった。ビデオもDVDも出ていないようだし、またWOWOWあたりで放映してくれないかなあ。
★「放射能X(エックス)」
 この白黒映画は名古屋のメトロ劇場で見た。まだ子どもだったので、ヒュロヒュロヒュロという音が巨大アリの出す音とは気がつかなかった。今にして思えば火炎放射器でやっつけられるのだから、そうたいした怪物でもなかったのかな。後年見た東宝のそれなりによくできた怪獣映画「ラドン」はこの映画からかなりパクっている、というのが私の持論(というほどのことでもないか(^^;;)。
★「ユージアル・サスペクツ」
 高く評価する人もいるが、私は全く買っていない。そもそも存在するのかどうかさえもが伝説となっていたカイザー・ソゼなる人物が実在して、しかも顔さえ割れてしまったのにしたり顔でゆうゆうと逃走するというのが理解できない。もう一つ文句を言いたいのはタイトル。ユージアル・サスペクツとは何か事件が起こると、あいつではないのかと呼び出される常連の容疑者のことらしいのだが、何かいいタイトルはなかったのかね。たとえば上の「放射能X」の原題は「Them(やつら)」。「大アマゾンの半魚人」は「クリーチャー・フロム・ザ・ブラックラグーン」。「ナバロンの要塞」だって原題通り「ナバロンの大砲(ガンズ・オブ・ナバロン)」としないで「要塞」としたところなど、それなりの工夫が感じられるではないか。後に原題をカタカナにしただけでリメイクされたヒッチコックの「バルカン超特急」の原題が「レディ・バニッシュ(貴婦人失踪)」。英語をカタカナにするだけでは能がないと言われても仕方ありませんぞ。
 てなところだが、双葉氏の本を読むとまだ見ていないし、おそらくは一生見ないのではと思われる「名画」がいつも半数以上あるので焦りますね。(^^;;


双葉十三郎さんのハラハラドキドキ映画 2
 双葉十三郎『外国映画ハラハラドキドキぼくの500本』から続き。
★「アンタッチャブル」
 テレビ版はけっこう見ていたが、これはデ・バルマの映画版。主演のエリオット・ネス役はケビン・コスナーだが、彼に協力する警官がショーン・コネリー、アル・カポネがロバート・デ・ニーロなのですっかり影が薄くなってしまった。駅の階段での銃撃シーンでは乳母車がうまく使われているが。もちろんこれはエイゼンショテインの映画史に残る名作「戦艦ポチョムキン」の中でも有名なオデッサの階段シーンのパクリ、と言って悪ければオマージュ。この映画を見た若い人が「いやあ、あの乳母車のところは映画史に残る名シーンですね」と言うのにはまいった。
★「ウインチェスター銃73」
 名銃ウインチェスター銃をめぐる西部劇なのだが、強いと思っていたジェームズ・スチュアートがいきなり殴り倒されたり、アンソニー・マン監督の演出はどうも一貫性を欠く。この映画もさほどハラハラドキドキしないのだが、それよりも途中から出てくるちょっと水っぽいお姉さんに注目したい。どこかで見たような気がするでしょ。それもそのはず「ポセイドン・アドベンチャー」のあの水泳が得意なデブのおばさん、シェリー・ウインタースその人。人間、25年も経つとこうも変わってしまうんですねえ。(^^;;
★「ボディ・スナッチャー」
 早川書房がSFのシリーズを出したときの(当時はハヤカワ・ファンタジイと言っていた)第一弾がこの映画の原作ジャック・フィニィの「盗まれた街」だった。この映画は後に「ダーティ・ハリー」を作ったドン・シーゲル版(56年)と78年のフィリップ・カウフマン版がある。私はドン・シーゲル版の方がいくらか好きかな。フィリップ・カウフマンはこれも私が大好きな「ライトスタッフ」の監督で、その意味でも期待していたのだが、この手のラストシーンはちょっと飽きたという気がする。
★「黄金の七人」
 ロッサナ・ポデスタという女優がいる。もう50年も前の映画だが「ウエストサイド物語」「サウンド・オブ・ミュージック」を作ったロバート・ワイズに「トロイのヘレン」という作品がある。このときヘレン(ヘレナ)を演じたのがロッサナ・ポデスタで気品もあり本当にきれいだった。その美女が「ソドムとゴモラ」あたりになるとかなり崩れてきて、この「黄金の七人」ではメス豚と言われても反論できないほどの容貌になってしまった。上に書いたシェリー・ウインタースは単なるデブになっただけだが、世紀の美女ロッサナ・ポデスタはちょっと不気味な顔になってしまって、ギター侍ならずとも思わず「残念!」と叫びたいところである(蛇足ながら、ロッサナ・ポデスタが「プレイボーイ」だったか「ペントハウス」だったかで脱いだのは、もちろんメス豚となったさらに後のことである)。
★「スタートレック」
 ロバート・ワイズ作品。ロバート・ワイズはミュージカルの二大名作の監督として知られるが「戦艦サンパブロ」「アンドロメダ病原体」「罠」「ヒンデンブルグ」などなんでも作る人でしたなあ。この「スタートレック」はテレビでは「宇宙大作戦」として放映されていて、それが70mmの映画になったというのでは見に行かないわけにはいかない。しかも特撮は「2001宇宙の旅」のダグラス・トランブル。ジェリー・ゴールドスミスのテーマ曲も迫力満点で、名作の誕生を予感させた。が、その後がいけなかった。エンタープライズ号の出動までにもたもた、しかも相手がすごすぎて手も足も出ないというシナリオミス。ぐーんと規模が縮小された「2」の方が戦闘シーンもあり。まだ楽しめた。
★「タイム・アフター・タイム」
 上の「スタートレック2」を監督したニコラス・メイヤーが作ったのがこの作品。「タイム・アフター・タイム」には、時を越えてみたいな意味があるのだろうか。普通の娯楽作品を作る監督なので、かっちりした構成とかは期待しないが構成はまあかなり緩い。それでも、未来の新聞で好きな女性が殺されたという記事を見て……というところはけっこう緊張感もあって合格。それよりも地味なおばさんのメアリー・スティクバーゲンは「バック・トゥ・ザ・フューチャー3」でもドクの恋人役で出ていた。よほど時間旅行が好きなのかも。
★「ディック・トレーシー」
 ウォーレン・ビーティはシャーリー・マクレーンの弟で「レッズ」(要するに「赤」!)のように、アメリカ映画の中でインターナショナルの歌声が鳴り響くような作品を監督するかと思えば、この作品のように軽いお遊び映画も作る。シャーリー・マクレーンは「青い目の蝶々さん」で日本人になるし、実に何と言うか変な姉弟である。ということはともかく、この映画で特徴的なのは色の使い方。とくに特撮というわけでもないが実写であるにもかかわらずアメリカンコミックの雰囲気をよく出している。マドンナがナイトクラブの歌手役で出ているのがおまけ。
 あまりだらだらと続けても反感を買うばかりなので、ここらで打ち止め。


 双葉十三郎さんの映画の本のことを書いたら、おもしろそうなので三冊とも買って読んでみたが自分の評価とずいぶん違っていた、というメールをいただいた。違っていて当たり前だと思うのだが、どうも「そこが不満である」というニュアンスが読み取れるのが不思議だった。メールをくれた人は、他人の評価にいったい何を求めているのだろうか? 
 双葉十三郎さんは映画をたくさん見ていて、掘り下げた見方もできる人なので、「ああそういう考えもあるのか」と納得し、「いやそれはちょっと違うと思うよ」と少しだけ異論をとなえ、たいていは見ていない映画が半分近くあるので「あ、そういう映画だったのか」と知る喜びがあって、「ああ面白かった」と読み終えるのが、まあ普通である(正確に言うと「ハラハラドキドキ500本」のうち私が見ているのはテレビでカットされた吹き替えのものも含めて212本。半分にも満たなかった。劇場で見たものはおそらく50本程度、つまり1割しかないことになる(^^;;)。
 異論といっても反論というほどのものではなく、たとえば双葉さんは岡本喜八監督の「独立愚連隊」のことを絶賛したあと「喜びすぎて、続編も作られたが気が抜けてしまった」というようなことを書いているが、「『独立愚連隊』ももちろん面白かったけど、続編の『独立愚連隊 西へ』のほうがもっと面白かったと思うよ」程度のことである。逆に「フランス映画の凡作『ニキータ』」なんて一文にでくわすと、「グランブルー」にしろ「ヤマカシ」「ジャンヌ・ダルク」にしろあるいは我が敬愛するジェット・リーが主演した「キス・オブ・ザ・ドラゴン」にしろリュック・ベッソン監督の映画がおもしろかったためしがない私としては、思わずニヤリとしてしまうのである(「フィフスエレメント」なんて、ありゃ「ダーク・クリスタル」のパクリじゃござんせんか)。
 ヒッチコックではないが「たかが映画」である。映画への接し方も見た本数も私の方が比較にならないほど少ないのだが、この希代の映画評論家とのキャッチボールは実に楽しい。違う人間が見ているのだから評価が違って当たり前。そんなつもりで、どこが同感できどこに異論があるのかを楽しみながら読んでいけばいいのではないかと思う。
 ついてに言っておくと、こういう遊びは相手が双葉十三郎さんのような視野の広い人の評価なのでおもしろいのであり、逆に集団のベストテン相手では全くおもしろくないし、意味がない。そもそも何人ものベストテンを集計して一見客観性があるようなベストテンを決めることに果たして意味があるのだろうか?
 あ、あの人はこういう評価なのか、この人はこんな評価をしているのか、ということを知るのはまあ多少の意味があるとしても、それを集計してしまったのでは各人の個性が消されてしまいほとんど意味がなくなってしまう断言してもいいだろう。たとえば、3人の映画評論家がいて2人が絶賛して10点をつけたのに1人が見ていなかったため(意外と多い)空欄にした作品Aは合計20点。ところが3人が「まあまあかな」と7点つけた作品Bは合計21点となって作品Aの上にくることになるのである。これでA>Bという評価が果たして下せるのか?
 だからこそ(そういう無意味さがわかっているからこそ)、双葉十三郎さんは「順位を上げるため」にヒッチコックの「鳥」を1位に推したのである。
 ちなみに集計されたベストテンがいかに無意味なものなのか、「権威がある」と言われている「キネマ旬報」のベストテンを調べてみると、たとえば多くの人が黒澤明監督の代表作、いや日本映画の代表作とする「七人の侍」は何と年間のベストテンの3位である。
★1954年度キネマ旬報ベストテン
1.二十四の瞳 監督:木下恵介
2.女の園 監督:木下恵介
3.七人の侍 監督:黒沢明
4.黒い潮 監督:山村聡
5.近松物語 監督:溝口健二
 木下恵介監督の名作「二十四の瞳」はともかく(といっても「七人の侍」より上だと言っているわけではない。誤解のないように)、「女の園」という映画は見ていないが、果たして「七人の侍」を超える名作なのかどうか、見ている人がいたら教えてほしい。
 また、昭和の終わり頃だったかにある週刊誌でやったオールタイム・ベストテンで堂々の1位に輝いた「天井桟敷の人々」も年間のベストテンでは第3位という評価。
★1952年度キネマ旬報ベストテン
1.チャップリンの殺人狂時代 監督:チャールズ・チャップリン
2.第三の男 監督:キャロル・リード
3.天井桟敷の人々 監督:マルセル・カルネ
4.河 監督:ジャン・ルノアール
5.ミラノの奇蹟 監督:ヴィットリオ・デ・シーカ
 「第三の男」は私もベストテンに間違いなく入れる名作なので「天井桟敷の人々」より上に置く人がいてもおかしくはないと思うのだが、チャップリンの「殺人狂時代」はチャップリンの作品ではせいぜい中位のでき。とてもベストワンをとるような作品とは思えない。
 オールタイム・ベストテンで2位になったのは「2001年宇宙の旅」だが、これまた年度のベストテンではさらに下がって5位に甘んじている。
★1968年度キネマ旬報ベストテン
1.俺たちに明日はない 監督:アーサー・ペン
2.ロミオとジュリエット 監督:フランコ・ゼフィレッリ
3.質屋 監督:シドニー・ルメット
4.マルキ・ド・サドの演出のもとにシャラントン精神病院患者によって演じられたジャン=ポール・マラーの迫害と暗殺(マラー/サド)監督:ピーター・ブルック
5.2001年宇宙の旅 監督:スタンリー・キューブリック
 私はこの映画は当時、日本一の大画面(左右31m)といわれていた名古屋の中日シネラマ劇場で見たのだが、評論家たちの評価が低いのは試写室の小さなスクリーンでしか見ていなかったのでは、と思わざるを得ない。後にレーザーディスクで見たときに思ったのだが、「2001年宇宙の旅」を小さな画面で見たのでは価値は半減どころか1/10にもならない。私は「俺たちに明日はない」と「ロミオとジュリエット」は見ているが、それなりによくできた映画であることは認めるものの、アウトスタンディングな映画ではない。
 人気のある宮崎アニメにしても1984年度ベストテンで「風の谷のナウシカ」が7位に入り、「天空の城ラピュタ」(8位)ときてついに「となりのトトロ」で1位になった(1988年度ベストテン)。以後、「魔女の宅急便」(5位)「紅の豚」(4位)「もののけ姫」(2位)「千と千尋の神隠し」(3位)といつたぐあいに快進撃が続く。ところが「ナウシカ」以前の作品「ルパン三世・カリオストロの城」は今でこそカルト的な人気があるが、当時は全く話題にもならなかった(私の知る範囲では、森卓也というアニメに強い評論家が絶賛していただけである)。もちろんベストテンには入っていない。なぜか。見ていないのである。で、「ナウシカ」が話題になってからはさすがに見るようになったわけだが、「もののけ」や「千」のよさは私にはわかりません。順位をつけるとき、興業成績と作品価値がごっちゃになっていませんかね?
 映画評論家には一つでも多くの映画を見て、あまり話題になっていないがおもしろいという映画を発掘してもらいたいのだが、それが仕事なのに恐ろしいほど映画を見ていない人が多い。以前、あの黒澤明の娯楽大傑作「隠し砦の三悪人」を「見ていなかったのでベストテンには入れなかったが、今回見てベストテンに入れてよいと思った」なんて書いていた評論家がいて空いた口がますます空いてしまったことがある。
 こんなことからも集計されたベストテンがいかに意味のないものかわかってもらえると思う。ベストテンはその人の個性が反映された「個人」のものに限る。
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俳優雑談1 [映画の雑感日記]

★嫌いな俳優2人
 今回はちょっと趣向を変えて嫌いな俳優について語ることにしよう。ただ、嫌いな俳優といってもいろいろ種類がある。むしろ、ここでは許せない俳優といった方がいいかもしれない。
 たとえば、いつも寝ぼけたような顔をしているミッキー・ロークや顔と首の幅が一緒のシルベスター・スタローン、のっぺり二枚目でエイズで死んだロック・ハドソンやウイリアム・ホールデン、女優では爬虫類を連想させるジョディ・フォスターや馬鹿面のキム・ベイジンガー、無表情のメリル・ストリープなどは嫌いな俳優だが、許せない俳優ではない。なぜなら、大した映画には出ていないので、彼らの出ている映画を見なければいいからである(ミッキーとキムの出ている「ナインハーフ」なんて映画は、金を貰っても見たくもない。ただしキムが脱いだリメイク版の「ゲッタウエイ」は見てしまったけど……)。許せないのは、私が好きな映画に端役程度ならいざ知らず、でっかい顔で出演し、せっかくの名作を台なしにしてしまう困った奴らなのである。
 というと、けっこうな数になってしまうので、もう少し限定しよう。実は、何十年も映画を見てきて、こいつだけは許せないという俳優が2人いる。具体的に言ってしまおう。
 許せない俳優の1番手は、何といっても「名優」グレゴリー・ペックである。
 こいつはなぜか似合わない役ばかりをやりたがり、名作に数多く出演し、しかも演技力がないので多くの名作を台なしにしてしまうという、いわば映画史上のA級戦犯である。 たとえば、「大いなる西部」。
 いうまでもなくウイリアム・ワイラーの傑作西部劇である。ペックはプロデューサーにも名を連ねているので当然の如く主役である。元船乗りという設定で正義感を撒き散らし、しかも女にももてるという役どころを気持ち良く演じている。それだけでも厭な奴なのだが、まあここまでは許そう。とてもあの時代の船乗りが勤まるとは思えないが、これも目をつぶろう。しかし、あのペックが丸太のような腕をしたチャールトン・ヘストンと殴り合って互角(というか、私見では四分六でペックの判定勝ち)、ライフルマンことチャック・コナーズと殴り合ってKO勝ちというのはどう考えても納得がいかない。
 その上、荒馬は乗りこなすし、決闘では度胸満点。やってる本人はさぞかし気持ちよかっただろうが、とてもそうは見えないという点が見ている者を興ざめにするのである。つまり、完全なミスキャストなのである。それを、自分がプロデューサーなのをいいことに強引に主役を演じてしまったのである(と、私の目には映った)。というわけで「大いなる西部」は映画史上の大傑作になるチャンスを永遠に逃してしまい、単なる西部劇の傑作という地位に甘んじることになったのであった。まことに腹立たしいと言わねばならない。
 ペックの犯罪は他にも数え上げたらきりがない。たとえば、戦争アクションの傑作「ナバロンの要塞」。様々な分野のプロフェッショナル達が協力し合って難攻不落の要塞に挑むという、この手の映画のはしりであり未だに代表作である。この映画のペックの役どころは、ロッククライミングの天才というところなのだが、馬鹿も休み休み言ってもらいたい。どう贔屓めにみたってペックに運動神経があるとはとても見えないではないか。
 第一、あの間抜け面では高尾山でも無理だと私は断言する。しかも、女にもてるというルーティーンはちゃんとこなしているのだから開いた口がふさがらない。こらこら、生死を賭けた場面で女と乳繰り合っている場合か。この映画、途中でリーダーのアンソニー・クエイルが骨折してペックがリーダーになってしまうのだが、私にはどう考えてもクエイルの骨折はペックの陰謀としか思えないのである。
 世評の高い「ローマの休日」にしたところで私にはペックはただのスケベなおっさんにしか見えない。あの顔でジャーナリストはとうてい無理なのである。ヘップバーンもお姫様だけあって、男を見る目がないなあ。
 これだけで三本。それもみんな名作である。「白鯨」のエイハブ船長もひどい。これはもう腹立たしいとかという枠を遥かに越えて犯罪である。何度も見たい映画なだけに「何でお前が出てるんだ。馬鹿野郎!」と、私はその都度叫んでしまうのである。彼はせいぜいがところ「アラバマ物語」や「オーメン」に出ているだけでよかったのである。
 男優のA級戦犯がグレゴリー・ペックなら、女優のA級戦犯は、何と言ってもジーン・シモンズだろう。
 まあペックよりは多少演技力もあり、その点では許せるのだが、生理的に全くダメなのである。なぜかあの爬虫類的な顔と奥目が私は気にいらないのである。姥面でカサカサした感じで女性としての魅力が全くないのだ(いいかげんな理由だなあ。しかし、そういう生理的な側面があるからよけい許せないということも言えるのである。ただし、高校生の頃はむしろ魅力を感じていて社会人になった頃からこうなったのである。私の女性の好みというのもまた、いいかげんなのであった)。ということは、私にとって彼女は、「付き合いたい」とか「守ってあげたい」とか「寝てみたい」とかいう対象になり得ないのである。つまり、「こんな女どうでもいいや」というか「できれば近くにいてほしくない」存在ということになりその途端、映画の魅力は半減してしまうのである。
 まあ、それでも凡作に出ているのなら別に何も言わない。すでに書いたように、そんな映画は見に行かなければいいのだから。しかし、この嫌いな女優が前述の「大いなる西部」とキューブリックの映画史に残る傑作史劇「スパルタカス」に出ているとなると話は違ってくる。
 「大いなる西部」について言えば、コナーズとペックが何でこの女に好意を持っているのかが納得できないし、「お前がしっかりしていて両方に水を与えれば別に争いは起こらなくて済むんじゃないか」と、これは本当はキャスティングの問題なのだが、私の怒りは彼女に向いてしまうのである。ペックとシモンズのツーショットとなるともう悪夢以外のなにものでもない。繰り返しになるが、哀れ「大いなる西部」は、ペック、シモンズという二人に足を引っ張られてしまい大傑作になるチャンスを逃してしまい、西部劇の傑作という評価に甘んずる結果となってしまったのである。大根の代名詞のようなチャールトン・ヘストンが意外にも納得の演技をし(ペックとの決闘の前にジーンズをスバッ、ズバッと履くシーンだけでも座布団1枚あげたい)、キャロル・ベーカーが地そのままの馬鹿面演技をし、バール・アイブス、チャールズ・ビッグフォードなんていう脇役のおっさん達がいい味を出していただけに実に惜しい。
 「スパルタカス」に至っては彼女の罪はさらに重い。「大いなる西部」は、ペックとの共犯だがこちらは紛れもなく主犯だからである。カーク・ダグラスが彼女に惚れるのは奴隷と剣闘士の生活で全くといっていいほど女を見る目がなかったから、と納得するにしても、ローマの大将軍であるはずのローレンス・オリビエが彼女に惚れるという設定はどう考えても納得がいかない(ホモセクシャルを思わせるトニー・カーチスを取り戻すために戦争を仕掛けたと言った方がまだ納得できる。シモンズは、この頃オリビエの愛人だったという話があるので、撮影中一緒にいられるということから、オリビエが出演の条件に彼女との共演を出したのかもしれない。本当だとしたら、とんでもないことである)。
 素晴らしいシナリオを書いたダルトン・トランボもこれでは浮かばれないだろう。この映画もピーター・ユスチノフ、チャールス・ロートン、ウッディー・ストロードといった脇役達がいい味を出していただけに私はよけいに腹が立つのである。そんな時、こういう大根はせいぜい脱いで観客の目を楽しませてくれるくらいしか芸がないのだが、ダグラスとの出会いのシーンにしても水浴のシーンにしてもシモンズは出し惜しみで見えそうで見えない。私のイライラはさらに募るのであった(このへんになってくると、もうほとんどイチャモンである)。
 いうまでもなく、映画というものは基本的に撮り直すことができないし、ここに上げた名作をリメイクするにしてもとても前作を上回る傑作ができるとは思えない。その意味でも、グレゴリー・ペックとジーン・シモンズの二人だけは、絶対に許すことができないのである。


★動きの美しさ
 映画を見ていて、俳優の動きに「あ、美しいな」と思うことがある。この美しさというのはけっこう重要なファクターで、主人公の動きが美しいか否かで映画のランクが違ってしまうことも多い。フレッド・アステアやジョージ・チャキリスのようなショー・ビジネスの世界から映画に転進した踊れる連中やブルース・リーのような武道の経験のある連中の動きが美しいのは、まあ、当たり前なのだが(とはいっても物事には必ず例外があり、アステアと並ぶもう一人のミュージカル・スター=ジーン・ケリーの動きは体格からくるものなのか重く感じられて美しくはないし、ジャッキー・チェンの動きも凄いが美しくはない。何かピシッとくるものがないのだ)、天性なのか本人の努力なのか、そういった世界以外でも動きの美しい俳優がいる。
 最近では、「スピード」のキアヌ・リーブスがそうだった。犯人のデニス・ホッパーや相棒の警官の動きが鈍重に見えてしまうほど、その動きは美しいものだった。冒頭の屋上で拳銃を構える姿も決まっているが、バスからその横を走っている車に、まるで重力のない世界を歩くようにサッと跳び移る姿勢などオリンピックの体操競技なら10点満点をあげたいくらいの美しさ。マイケル・ジャクソンのム−ン・ウォ−クが意識してやっているのに対して、キアヌの動きは自然に見えるだけに凄い。要するに「スピード」の成功は、キアヌの動きの美しさに半分は負っているのである。前にも書いたが「スピード2」のつまらなさは、脚本がダメというのが一番の原因だが、シナリオを読んだキアヌが「つまらない」と、降りてしまったことも大きく影響しているのだと思う。彼こそ当第一の動きの美しいスターと言える。(最近の「マトリックス」は、アイデアが現実を突き崩すところまではいっておらず、その意味では「惜しいなあ」と思わせるSFアクション映画の佳作だが、キアヌ・リーブスの動きの美しさは際だっていた。とくに覚醒してからのラストの「エージエント」との闘いの美しさにはほれぼれするものがある。掛け値なしに素晴らしい。もともと太ってもいないキアヌがさらに減量したということだが、凄みのようなものまで感じさせるのである。この動きの美しさだけでも、十分に1800円の価値はある。文句は言わない。この映画は、ディカプリオやブラッド・ピットでは絶対に成立しなかったはずである。)
 それと並ぶ、あるいはそれ以上に動きの美しいスターというと、リー・リンチェか。こちらは彼の初期の代表作「少林寺」でわかるように武道からくる美しさである。こと動きのうつくしさと速さ、滑らかさという点では、ジャッキー・チェンはもちろん、ブルース・リーも彼にはかなわないと思う。人間業とは思えないものすごい動きを楽々とこなしてしまう点にかけては、まさしく天才である。その凄さは、「ともかく見てくれ」と言うしかない。特撮を使っている様子もなく、これはもう人間業ではない、と言い切ってしまってもいいくらいのものである。惜しむらくはいい映画に恵まれなくて、このまま消えていってしまうのかと思っていたら、その名もジェット・リーと変え「リーサル・ウェポン4」の悪役で見事に復活した。「マッドマックス」のメル・ギブソンも体を張って頑張ってはいるのだが、リーの前ではただただ鈍重にしか見えない。「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ」という駄作映画など、彼の動きの美しさだけでもってしまうのだから凄い。
 キアヌ・リーブスはまだ若いが(注・この原稿を書いた「スピード」のころはまだ青年だった)、動きの美しさは別に年齢には関係ないようで、若くてもブラッド・ピットやディカプリオの動きはあまりよろしくない。逆に「スター・ウォーズ」の時のアレック・ギネス(オビ・ワン)は、けっこうな年だったと思うのだが動きは悪くない。総じてアメリカの二枚目俳優は動きが悪いようで、少し前のロバート・レッドフォード、ケビン・コスナー(「ボディガード」でのあの重い動きじゃとてもじゃないが人は守れないぞ)、さらに遡るとグレゴリー・ペック(「ナバロンの要塞」でロッククライミングの世界的スペシャリストと言われても誰も信じないよ)、ロック・ハドソン、ケーリー・グラントと一種の伝統になっているような気さえする。所謂二枚目をやっていてそこそこ動きが美しかったのは、ゲーリー・クーパーくらいではないかと思う。
 「ダーティハリー」のクリント・イーストウッドは拳銃を構えて走る姿が決まっているだけでなく、陸橋の上に立っているだけで様になるほど動き・姿勢のいい俳優だが、彼を二枚目スターと呼ぶにはちょっと抵抗がある。一時サーカスにいたこともあるバート・ランカスターも「ヴェラクルス」の動きなど実にいいものがあったが二枚目とは程遠い。古いところでは「スパルタカス」「プロフェッショナル」の黒人ウッディ・ストロードも印象的な目とともに動きがきれいだった。
 「ターミネーター」のアーノルド・シュワルツェネガーも、いい動きをしていた。と書くと、あんな重そうな奴のどこが、と言われそうだが、鍛えられた筋肉で撃たれても撃たれてもむっくりと起き上がってくる動きは、やはり美しいと言っていいと思う。
 ちょっと古いところでは、ショーン・コネリーとスティーブ・マックイーンか。コネリーは、今では「貫禄」と「世界一かっこいい禿」で売っているが、「007シリーズ」初期の頃のコネリーの動きは実に美しかった。アタッシュケースを持ってジェームズ・ボンドのテーマとともにちょっと肩を振る感じで歩いているだけでほれぼれするくらい絵になるのである。その後のボンド役者=ロジャー・ムーアやピアーズ・ブロスナンに決定的に欠けていたのは、この動きの美しさではないかと思う。
 マックイーンの動きの俊敏さ・美しさが最も発揮されたのは「荒野の七人」での最初の戦いでの場面で、ピストルを撃ちながらパッと物陰に身を隠したり、馬を走らせながら乗って追跡するシーンでは、ユル・ブリンナー、チャールズ・ブロンソン、ジェームズ・コバーンといったアクションに自信のあるスターたちの動きが鈍重に見えたほどである。前半でのブリンナーと馬車で墓地へ行く場面でのショットガンの弾を振って確認する手の動きも悪くない。
 邦画で動きが美しいと思わせた代表は、「七人の侍」の宮口清二(「荒野の七人」ではジェームズ・コバーンのやった役)だろう。ともかく歩いたり走ったりする姿が七人の中で断然美しいのである。宮口は、どちらかというと小男の部類に属するのだが、背筋をきちんと伸ばした歩き方が美しいので大きく見える。その典型を一つだけ紹介しておこう。七人が百姓たちの村に着き、水車小屋で村の長老と話をしていると、野武士が来たことを知らせる拍子木が打ちならされる。侍たちは、さっと立ち上がって走り出すのだが、その先頭を走るのが宮口なのである。それも、ただ走るのではない。腰がびしっと決まって、上体が全くぶれず、走っていてもいつでも刀が抜けるという雰囲気がある。ほれぼれするほどの美しさである。
 植木等も動きはいい。彼の動きがピカ一なのは、「大冒険」のラストのメンバーの踊りを見ればいい。ともかく動きにリズムがあるのである。初期の「渡り鳥シリーズ」がおもしろいのも、小林旭の動きの美しさに負うところが大きい(同じ日活アクションといっても、鈍重な石原裕次郎の動きと見比べれば、その差は歴然である)。それにしても、旭にしろ裕次郎にしろ梅宮辰夫や山城新吾にしろ皆なんで中年になるとあんなに太ってしまうんだろう。山城新吾が「風小僧」だったなんてあの体型で空を飛べるとは誰も信じないと思う。梅宮辰夫だって若い頃は「遊星王子」で空を飛んでいたんだから。俳優は体が資本なのだからむやみに太っちゃいかんよ。動きの美しいデブはいないのだから。その点、年よりのくせに(という言い方も何だが)椅子から立ち上がったり、歩く姿が妙に決まっていたのは滝沢修で、興味のある人はレンタルビデオ屋で、この名前を探して見てみることをお勧めする。


★信頼できる役者
 映画はまず監督で選ぶというのは当たり前のことだが、それでも信頼できる役者というのはいる。これは名優とイコールではない。世の中には付き合いのいい名優やいて、ギャラでYESと言ってしまう名優もいるのである。が、中にはきちんとシナリオを読み、監督やプロデューサーと話し合った上でOKを出す役者もおり、そういった役者の出ている映画というのはだいたいにおいて駄作はないのである。
 私の経験からいくと、そういう信頼できる役者というのは、えてしてヒーロー役よりも、脇役、場合によっては悪役の多い役者に多い。ヒーロー役の役者は、この役の自分はかっこよく見えるだろうか、というようなことばかり考えているのに対して、それなりに大物の脇役・悪役俳優は、その役が自分という役者にとってどうなのかということを真剣に考えているためだと思う。
 たとえば、ジョージ・C・スコット。「ハスラー」にしろ「パットン大戦車軍団」にしろ、きちんと仕事を選んでいるのがわかる。「俳優を競い合わせるべきではない」とアカデミー賞を辞退したくらいだからその反骨ぶりには筋が通っている。同じようにアカデミー賞を辞退しても、いいかげんな生活で無残に太って大物ぶっているマーロン・ブランドあたりとはちょっと格が違うのである。
 ピーター・ユスチノフも「クォ・ヴァディス」「スパルタカス」「トプカピ」と駄作がない。アレック・ギネスもさすがというか「戦場にかける橋」「アラビアのロレンス」「ドクトル・ジバゴ」とデビッド・リーン作品のキーマンだが、「スター・ウォーズ」のような作品でも彼が出るとランクが確実に一つは上がる(「スター・ウォーズ」でアレック・ギネス演じるオビ・ワンがダース・ベイダーに倒される前にルークに向かって、「わしは、消えるが心配するな」という表情を見せ、ベイダーが確かめるとオビ・ワンの姿が消えている。こういう場合、映画の文法からすると必ずどこかで復活してくるはずなのだが、3部作の最後までオビ・ワンの復活はない。どうでもいいようなことだが、何か健康上の事情でもあったのか、それともルーカスと意見が合わなかったのか、何となく気にかかったまま今日まできている。追記・それにしてもアレック・ギネスのイメージが強すぎるせいか新三部作でのユアン・マクレガーは違和感があるなあ)。007ショーン・コネリーも一時の低迷ぶりから脱却して「インディー・ジョーンズ最後の聖戦」「レッド・オクトーバーを追え」「アンタッチャブル」と仕事を選んでいる世界最高の禿役者である。渋いところではエド・ハリスも「ライト・スタッフ」「アビス」「アポロ13」と駄作がほとんどない(最近の「スターリングラード」でもドイツのスナイパーを好演)。
 日本映画では、故・志村喬か。ともかくこのオランウータンに似たおっさんが出ているだけで映画の重みが違ってくるのである。黒澤映画以外でも「ゴジラ」や「地球防衛軍」などの学者でいい味を出していた。あまり話題になることはないが、「男はつらいよ」第1作でのヒロシの父親役も印象に残る。映画の出来不出来はあっても、彼の出ているシーンだけは間違いなくおもしろい、という役者なら原田芳雄か。「祭りの準備」や「闇の狩人」のような凡作でも彼の出ているシーンだけはおもしろかった。最近では「鬼火」。これ、役者が原田芳雄でなければゴミのような映画なのだが、原田の存在感だけで佳作になってしまった。
 そうした中で、信頼できる役者のナンバー・ワンを選ぶとしたら、やはりロバート・ショーではないだろうか。「007ロシアから愛をこめて」のあのスメルシュの殺し屋である。目にちょっと思い詰めたような狂気の輝きがあり、制作者もそうした目で彼を選び、また本人もそのことをよく知っていて役を選んでいたように思える。ともかく、「007ロシアから愛をこめて」でロバート・ショーを初めて見たときの印象は強烈だった。こういう人間が本当に自分の近くにいたら大迷惑なのだが、頭はよかったのだろう。厳つい顔に似合わずロバート・ショーは仕事を選ぶ人間だったようで(と過去形で書かねばならないのが残念だが)、その作品にはクズがない。
 その次に見たのが「バルジ大作戦」のドイツ軍戦車大隊の隊長。狂気の輝きがあるのだからナチの軍人というのは、まさにぴったり。彼が行動すれば何事も可能になるような錯覚さえ受け、ヘンリー・フォンダなど老体に鞭打って頑張ってはいるし、ロバート・ライアン、チャールズ・ブロンソンなんて役者も出ているのだが、所詮映画はロバート・ショーのワンマン・ショーで他の俳優は皆彼の引き立て役。ごくろうさんといったところである。
 もちろん「ジョーズ」の鮫漁師も忘れられない。「007」の時の殺し屋が今度は、鮫の殺し屋になったようなもので、敵にしたらこんな恐ろしい相手はいないが、味方にしたらこんなに頼りになる味方はいない。「ジョーズ」の後半は完全に鮫とショーの一騎討ちの様相で、署長と海洋学者もそれなりに頑張ってはいたものの、ほとんど存在感はない。海洋学者に至っては邪魔とばかりに途中から出番がなくなってしまったほどで、これまたロバート・ショーのワンマン・ショーが楽しめる映画になっていた。
 「ブラック・サンデー」は、テロリストとの攻防を描いた映画で、上映すると爆破するという脅しがあったとかいう馬鹿な理由でオクラ入りになった、ジョン・フランケンハイマーの作品。もちろん私もレーザー・ディスクでしか見ていないが、大画面で見たかったと強く思わせた傑作。フランケンハイマーの作品としても、「グランプリ」と並ぶ傑作だと思う。ともかく飛行船が離陸してからの二段構え三段構えの攻防の迫力たるや並みではない。ロバート・ショーは、テロリスト対策の方の役だがいわば攻める方と守る方との狂気と狂気のぶつかりあいとでも言いたくなるような緊張感で、こういう役にはやはりこの手の面構えでないと説得力がない。
 「スティング」は、ポール・ニューマンとロバート・レッドフォードのコンビによる映画だが、ロバート・ショーは、二人にまんまと金をだまし取られるやくざの親分の役をやっている。彼にしてはちょっとコミカルな演技も見せているのだが、こういう凄みのある男がだまされて初めて話として成立するわけで、この映画もやはりロバート・ショーを抜いては語れない。
 ということからもわかるようにロバート・ショーの出演映画にはクズがない。彼がそれだけきちんとシナリオを読み、スタッフと話し合った上で出演をOKしていたからだと思う。そういう意味でもロバート・ショーは、頼りになる役者であった。合掌。
 このロバート・ショーの跡を継げるのはルトガー・ハウアー(「ブレードランナー」のレプリカントの親玉。「ヒッチャー」でもなかなかの狂気ぶりだった)しかいないと思う。貴重な悪役兼個性派俳優として、彼には出る映画を選んでもらいたいと思う。



★悪役こそ真価発揮の場
 ロバート・ショーは、007の悪役で売り出した。
 ジョージ・C・スコットにしろ、エド・ハリスにしろ、ルトガー・ハウアーにしろ皆立派な悪党面である。二枚目ではないのだから彼らの生き残る道は存在感のある演技をするしかないのだ(逆に言えば、ちゃんとした悪役ができるということは、演技力があるということである)、と言ってしまえばそれまでだが、もうひとつ悪役をやらせてもらえるという「役得」もあるのだと思う。英語で言えばヒーローに対するアンチ・ヒーローなのだが、実はこれ本質からいうと逆転していると思う。つまり、ヒーローがあってアンチ・ヒーローがあるのではなく、アンチ・ヒーローがあって初めてヒーローというものが成り立つのだ。もっとはっきり言ってしまえば、アンチ・ヒーローがいない場所ではそもそもヒーローなるものは存在しえないのだ。悪の存在しない世界では、正義のヒーローなるものは存在のしようがないのだ。しかも、その働きは悪を滅ぼすということしかない。その点、アンチ・ヒーロー、つまり悪党は自分の意志で勝手に悪事を始めることができ、様々なバリエーションの悪事を働くことができるのである。正義のヒーローは「非生産的」なのに対し、悪役は「生産的」なのである。
 そんな意味も含めて悪役俳優のことをちょっと書いてみたい。ただし、「ダーティ・ハリー」のサソリのようないやらしい粘着質の悪役は嫌いである。悪役は、顔からして悪役顔であり、悪役に誇りをもち、かつ散り際は潔くなければならない。最後に追いつめられて、おろおろと逃げまどうというのは、(たとえそれが現実であろうとも)私の悪役像に反する。
 そんな条件を満たす悪役俳優というと真っ先に浮かんでくるのが、前に書いたロバート・ショーなのだが、こと純粋悪役?ということに限ればジャック・パランスも負けてはいない。「シェーン」に黒ずくめの殺し屋ウイルソンといて登場してきたときには、確かウォルター・ジャック・パランスと名乗っていた。南部の小男を殺すシーンにしても、さっと断然早く銃を抜き、「だから俺に逆らうなよ」と罵倒して許してやるのかと思った瞬間、ニヤリと笑ってバーンと撃ち殺すふてぶてしさ憎らしさ。このニヤリは、小林旭の「渡り鳥シリーズ」で宍戸錠がさかんに真似していたが、到底及ぶところではない。なにしろ(映画を見ている人だけにわかるように書くが)犬も逃げ出すほどの恐ろしさ・迫力なのである。それにしてもその動きのカッコイイこと、あまり運動神経がいいとも思えないアラン・ラッドに呆気なく負けるとはどうしても信じがたいものがあった。殺し屋という存在の是非はともかくとして、別に人質をとるわけでも闇討ちをしたり罠をかけたりするわけでもなく、堂々と正面から対決して敗れ去っていくのだから、清々しいという言い方も変だが、悪党の誇りを全うしたというか、文句のつけようがない。
 バート・ランカスターやリー・マービン、ウッディー・ストロード(名作「スパルタカス」でカーク・ダグラスと対決する剣闘士を好演した黒人)といった強者たちを相手に悪役を一手に引き受けた「プロフェッショナル」では、悪役俳優の貫禄と誇りすら感じさせたものである。あまり話題にはならなかったが70ミリ史劇「バラバ」でのアンソニー・クインとの闘技場での闘いも印象深い。ともかくあの爬虫類顔で「はははは」と笑いながら人を殺していくのだから、その恐ろしいこと不気味なこと。そうそう「バットマン」の悪役というと第1作のジャック・ニコルソンや第2作のペンギン役者ばかりが話題になるが、第1作の悪の親玉、我がジャック・パランスを忘れてはいけない。こんな人間、絶対に近くにいてもらいたくないと思うのだが、ともかく悪役というと真っ先に浮かぶのがこのジャック・パランスである。ともかく、彼が悪役のひとつの典型を作ったことは確かである。
 ジーン・ハックマンも悪役を代表するスターである。「ポセイドン・アドベンチャー」の神父のようなヒーロー役もあるが、だいたいあの映画はアーネスト・ボーグナインのような悪役俳優までもが準ヒーローだったような映画なので例外。「スーパーマン」を相手に悪の限りを尽くすルーサーとか、「許されざる者」の悪党保安官のような役こそが本来の持ち味である。超人やクリント・イーストウッドが相手なのだからバランスからいってもハックマンくらいの貫禄と迫力がなければドラマが成立しない。けっこう卑怯なこともやっているのだが、サソリと違っていやらしくはなく堂々と!卑怯をやっているところが素晴らしいのである。「クリムゾンタイド」の潜水艦艦長だって扱いは悪役そのものなのにラストでは純白のセーラー服をばっちりと決めて場面をさらっていってしまった。本来のヒーローであるデンゼル・ワシントンが完全に霞んでしまうわけで、ま、人生経験の差とでも言っておこうか。
 「スーパーマン」と言えば、ゾッド将軍をやったテレンス・スタンプも悪役としての素質はA級。だいたい自分が悪いことをやっておいて全く反省がなく、罪を課せられたら逆恨みしてスーパーマンに復讐するという性格がすごい。反省がないといえば、ワイラーの「コレクター」での女性を蒐集する変質狂も全く反省がなかった。蒐集してきた女が死んでも、気の強いあの女が悪いんだ、と死因を女のせいにしてしまい、何ら悪びれるところなく次の女を蒐集しようとするあたり、悪党として見事な心構えである。悪事を悪事として認識していない、つまり反省のない悪党という点では彼が一番かもしれない。
 「カサブランカ」のリックことハンフリー・ボガードは、この映画のせいで何となく渋い男の代表のように言われているが、彼も本来は悪役スターだと思う。だいたいあのゴリラ顔にヒーローは、似合わない。「三つ数えろ」の探偵にしたって正義の味方とは言い難いし、「必死の逃亡者」の最後には殺されていくような悪役の方が遥かに持ち味が生きているように私は思う。
 もう1人、リー・バン・クリーフも挙げておこう。これまたジャック・パランスが蛇だとしたら、蜥蜴を連想させるような爬虫類顔で、俳優になれたのが不思議なくらいの人物である。ジョン・スタージェスの「O.K.牧場の決闘」では名前も小さく、出て来たと思ったらすぐ殺されてしまうような役だったのにマカロニ・ウエスタンで大変身。「夕陽のガンマン」ではクリント・イーストウッドと対等に渡り合い、「続・夕陽のガンマン」では、そのクリント・イーストウッドを完全に喰ってしまった。単なる悪役ではなく、人生を引き摺っての悪役であるところがいい。
 もちろん普段はヒーローを演じる役者も悪役をやらないわけではない。「少林寺」のリー・リンチェが悪役として見事に復活したことについては別項で書くつもりだが、悪役をやったヒーロー役者は意外と多い。アラン・ドロンも「レッド・サン」では悪役だったし、グレゴリー・ペック(「ブラジルから来た少年」)やジョセフ・コットン(「疑惑の影」)、古いところではタイロン・パワー(「情婦」)も悪役をやっている。が、どうも「俺は本来はヒーローなんだ」というプライドが邪魔するのか、悪役としての迫力がなく、もうひとつピンとこない。
 そんな中でヒーロー役者のやった悪役の白眉といえば、「ベン・ハー」のチャールトン・ヘストンだろう。悪役とはリシュリュー宰相。映画はリチャード・レスターの「三銃士」。このときのヘストンは、よくよく見ると適度な悪党面であり、かつ貫禄も十分。これも悪役俳優には欠かせないドラキュラ役者のクリストファー・リーが部下なのだから、ヘストンくらいの貫禄がないとバランスがとれないのである。


★植木等は偉大である
 俳優雑談の最後に、私の青年期の精神に大きな影響を与えた人物のことを、いっちょうパーッと語ろうと思う。その人物とは、もちろんクレージー・キャッツのギタリスト兼ボーカリストであり、コミックソングで一世を風靡し、俳優としても大きな足跡を残している植木等のことである。
 ただ、こういうことを言うと、すぐ「クレージー・キャッツが一番おもしろかったのは、有名になる前のジャズ喫茶などの舞台で、そういう舞台を見ていない者に彼らを語る資格はない」などと言う人間が出てきてしまうのが、ちょっと困るところである。小林信彦や大滝詠一、根津甚八、清水義範あたりからも何か言われそうである。が、誰にも自分の人生に即して何かを語る資格はあるわけで、当然、私にも私にとっての植木等を語る資格はあるはずである。クレージー・キャッツに関しては「クレージー・キャッツのことは、俺が一番よく知っているんだ」という熱狂的フアンがそれだけ多いのだ、ということにしておこう。
 クレージー・キャッツを最初に見たのは、TVのお笑い番組で、面々は洗面器で殴り合うなんていう音楽ギャグをやっていた。で、その個性的な面々の中でも妙に目立っていたのが、二枚目とも三枚目ともつかない風貌の植木等だったのである。何か体が軽いというか、動きがかろやかというか、リズム感がいいというか、ともかく彼の動きに不思議な印象を受けたことを覚えている。
 次に見たときには、スーダラ節を歌っていたのか、「シャボン玉ホリデー」で「お呼びギャグ」をやっていたのかどうも判然としないが、ともかく街を歩けばスーダラ節という日々が続いた。
 その植木等主演で映画が作られた、となると見に行かないわけにはいかない。「ニッポン無責任時代」で、がははと笑って帰ってきた私は、第二作の「ニッポン無責任野郎」ができると再び映画館へ足を運び、「第一作よりちょっと落ちるかな」と思いながらも、それなりに満足して帰ってきたのであった。
 ヒーローの誕生である。
 というところで、それに前後する「シャボン玉ホリデー」で、強烈な体験を書く必要があるだろうと思う。これは、かなりの人があちこちで書いていることだが、やはり私も書かずにはいられない。
 それは、ある日のことであった。画面に下駄、腹巻き、ちょび髭という植木が出てきて突然歌い出したのだ。歌は、「無責任一代男」。例の「おーれーは、この世で一番……」という奴である。で、衝撃は、その最後にやってきた。「コツコツやる奴ぁ、ごくろうさん」と歌い終えた植木がとことこと向こうに歩いていくのだが、突然振り返って「はい、ごくろうさん」と言い、クククッと笑ったのだ。その瞬間、コツコツやることの虚しさ、馬鹿馬鹿しさを私は、一瞬にして悟ったのである。スイスイーッと人生を渡っていきたいと思ったし、その思いは今でもある。
 その具体的姿が「ニッポン無責任時代」で植木等演じる平均(たいらひとし)の中にあったのだ。これはもう、熱狂するしかなかった。冒頭、香典泥棒の話が出てきて解決されないまま終わってしまうというような変な部分がないではないが、主人公に「どうせ三流大学出でしかも中退なんだからせいぜい(会社を)利用させてもらうよ」という一種の悪漢ヒーロー的な部分があり、それが植木のキャラと相まって魅力だったのだと思う(後のシリーズがなんとなく「サラリーマン出世太閤記」的になってつまらなくなってしまったことを考えると、やはり第1作のヒーロー像は際だっていると思う)。
 私は植木の映画を追い続けたが粗製乱造で「ホラ吹き太閤記」や「香港クレージー作戦」「怪盗ジバコ」のような駄作もあり、第1作以外でそれなりに満足できたのは「日本一のホラ吹き男」と「「クレージー黄金作戦」くらいのものである。
 中でも「クレージー黄金作戦」は、2時間40分という長編ながら、植木、ハナ、谷の3人がアメリカ行きで集まってくる前半部、そして一度別れた3人が再び集まって宝探しの大冒険というストーリーに無理がなく、サラリーマン出世物というパターンにちょっと飽きがきていた私を十分に満足させてくれるものであった。すべてのストーリーを一旦中断し、ラスベガスの大通で7人が「とうとう来たぜ、ラスベガス…」と歌って踊る場面(今日、レーザーディスクで見直してみると、実際のロケは最後の部分だけで、前半は日本の駐車場に看板を作りその前で踊っているのがわかるが、映画館で見たときは、すべてがラスベガスロケだと思っていた)は、日本のミュージカル・シーンのエボックで、それを超えるものは未だにない。それに続く、クレージー・キャッツの音楽コントショーも、記録として貴重である。
 そんなクレージーの人気もいつしか下火になり、グループとしての活動もあまり見なくなり、植木の姿もいつしかTVから消えていた。そんな植木がリメイク版の「喜びも悲しみも幾年月」で老人の役をやり、ブルーリボン助演男優賞を受賞したというニュースは、私にとって実に複雑なものがあった。植木の復活はうれしいのだが、役はシリアスな老人の役である。年齢からいって老人の役というのは仕方がないが、シリアスというのが気に入らないのだ。だいたい日本の喜劇人は、自身が喜劇を一段低いものと見ているようで、フランキー堺にしても森繁久哉にしてもいつしかシリアスな役へと移行していく傾向がある。レッド・スケルトンやボブ・ホープのように生涯一喜劇人というスタンスがどうしてとれないのか、そういう不満が私には以前からあったからである。植木の笑いは、おそらく彼の出発点がジャズにあったことに起因しているのだろう、それまでの日本のウエットな笑いとは異質なドライな笑いであるところに価値があったのである。受賞を喜びつつも、我が青春のヒーロー植木等もまた……、と思うと残念と言うしかないのだった。
 が、何十年もフアンを続けていても、私はまだ植木を理解していなかったようである。その杞憂は、うれしいことに見事に吹き飛ばされたのだ。映画は、黒澤明の「乱」。この映画を私は映画館で見そびれ、レーザーディスクが出てから家で見た。映画自体はもう一つすっきりしないものだったが、驚くべきことに世界の、天下の黒澤映画において、植木は、あのスーパー無責任ヒーロー植木のままだったのだ。後半の合戦での場面、丘の上から勝ちどきを上げるシーンで植木は「無責任」時代の時と全く同じ口調でこう言うのだ。
「もういっちょ」
 その声を聞いた時、私は部屋の中で一人つぶやいたのだった。
「ははーっ、植木等様、あんたは偉い!」
 今では70を越えている植木等は、おそらく死ぬまで現役のコメディアンを演じてくれるはずである。偉大である。エノケンなども生涯コメディアンだったが、晩年のエノケンは、見ていても笑えなかった。植木は、笑えるのである。仕草、言葉に老年の痛々しさが全くなく、実に軽やかかつ清々しく笑えるのである。これは、日本にあっては(絶後とは言わないが)空前のことである。それだけでも植木等は、偉大である。
 なお、植木は、クレージー映画以外でも、山下清をモデルにした小林圭樹主演の「裸の大将」の記者役や、ミュージカル映画「努力しないで出世する方法」でとっくりから指が抜けないで最後まで歌に参加できない役など印象に残る役は少なくない。ちなみにさらに後のことだが、街のレコード・ショッブで「クレージー・キャッツ全シングル」という、それまでに発売されたクレージーの全シングル・レコードを集めた2枚組CDを見つけた私はすぐに買い、それは今でも私の家宝である。(どうでもいいことだが、植木は「死霊」の作者・埴谷雄高に、クレイジーの同僚・谷啓は映画監督の今村昌平に似ている。容貌が似ているだけでなく、話し方までもが、そっくりなのである。誰もそのことを指摘しないのは、不思議なことである)
(注・これは10年も前に書いた雑文で、まだ植木等は存命だった。青島の葬儀に鼻チューブで出席した姿をテレビのニュースで見たのが最後となった。合掌。)
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映画監督雑談1 [映画の雑感日記]

★映画の二大巨匠=ウイリアム・ワイラーとデビッド・リーン
 昔、何かの機会に書いたことがあるが、名監督と言われる人の作品をちょっと強引に分類してみると、映像派名監督とストーリー派名監督に分けられると思う。
 文字通り「映像派」とは映像が強く印象に残る監督であり、「ストーリー派」とは話・構成のうまさが印象に残る監督のことである。と書いてもわかりにくいかもしれないので具体的な例をあげよう。
 まず、映像派名監督の代表はなんと言ってもアルフレッド・ヒッチコックである。「レベッカ」の光るコップ、「鳥」のカモメの群れが街を攻撃するようにさーっと降りて行く大俯瞰、「北北西に進路を取れ」の飛行機追っかけ、ラシュモア山でのアクションなど印象に残るシーンのオンパレードである。あまりに有名になった「サイコ」のシャワーシーンやあの建物、「裏窓」のキスシーン(観た人ならわかるはず)なども加えてよい。もちろんスタンリー・キューブリックもヒッチコックと並ぶ映像派の巨匠である(この人、私が高校生のころにはカブリックと呼ばれていた。その後、クブリックなんて読み方も混じってようやくキューブリックに落ち着く)。「2001年宇宙の旅」の冒頭シーン、骨からロケットへの大ジャンプ、何だかよくわからん映画だったと感じた人でもこういったシーンは絶対に覚えているはずである。あるいは「博士の異常な愛情」での水爆とともに落下していくシーンなどを思い出してもらえれば納得してもらえることと思う。この派の監督の欠点は、それほど強く印象に残るシーンがあるため映画館では納得して見ているものの、ビデオ時代になって後刻見直してみると構成・展開がけっこう緩い点である。
 「北北西に進路を取れ」なんて、スパイがどうのと大騒ぎしているわりには敵方の組織はもちろん味方の組織についてもいっこうによくわからず、数人で騒いでいるだけのような気がしないわけでもない。ようするに人物の背景・広がりが一向に見えて来ないのだ。ラシュモア山で手を伸ばして彼女を引き上げるシーンが寝台車のベッドに引き上げるシーンにつながり、そのままトンネルに入って行くという唖然とするような鮮やかなラストのため、映画館で観たときには全く気にならなかったが、ビデオで再見しているうちに気になってきた。ラストといえば、「鳥」のラストにしても結末がついていないので不気味さが増すなんて言う評論家がいるが、私にはこの映画ヒッチコックは鳥が人間を襲うシーンをあの手この手で撮りたかっただけで、ラストは投げ出しているとしか思えない。要するにその後人間たちがどうなるのかなんてことには端っから関心がないのである。キューブリックにしても、かのダルトン・トランボがシナリオを書いた「スパルタカス」はともかく、「2001年宇宙の旅」のディスカバリー号の内部構造や「博士の異常な愛情」のペンタゴン内部の位置関係など監督の関心のない部分については全くわからない。これまた、キューブリックが描きたかったのは今までの映画とは全く違う宇宙の静けさ、怖さであり、水爆が引き起こす人の狂気であって、そういう部分に関しては関心がないのだと思う。
 一方、ストーリー派名監督の代表はビリー・ワイルダーでこの人の作品は「アパートの鍵貸します」のシャンパン、「翼よあれが巴里の灯だ!」のコンパクトの使い方など典型だが、うまいなあとうならされることが多い。「あなただけ今晩は」などのちょっと緩い作品でもエレベーターの使い方など実にうまいものである。ちゃあんと観る者の印象に残るように前もってうまく登場させているので、いざそれが必要になったとき突然、実はエレベーターがあってという泥縄にならないのである。「情婦」のような作品でも最後にキーポイントになる女性をうまーく傍聴席のチャールス・ロートンのお抱え看護婦の横に印象に残るように配置している。最近の日本映画ではビリー・ワイルダーの影響を受けている(と思われる)三谷幸喜さんがこのストーリー派である。「有頂天ホテル」のスッチー(あ、最近はCA=キャビンアテンダントと言うんでしたね)の制服の使い方などななかのものだった。ストーリー派の弱点は、というとつまり映像派の裏返しになるわけだが、ううむと唸らせるような印象的な映像があまりないことである。
 と、考えてきて、いや待てよ「映像もストーリーも凄い」監督を2人思い出した。ウイリアム・ワイラーとデビッド・リーンの2人である。
 ウイリアム・ワイラーは「必死の逃亡者」や「探偵物語」「コレクター」「嵐が丘」から「ローマの休日」「大いなる西部」「ベン・ハー」とサスペンスから文芸作品、ロマンチック・コメディ、西部劇、スペクタクル史劇と様々なジャンルの映画を撮っているがともかく失敗作というものがほとんどないない(もちろん失敗作はあるのだろうが、私は見たことがない)。
 70mm大作の「ベン・ハー」はワイラー作品としてはやや緩いところがあるものの、「キング。オブ・キングス」「クレオパトラ」「クォヴァディス」「ローマ帝国の衰亡」など当時続々と作られた歴史劇大作のなかで残ったのは「ベン・ハー」と「スパルタカス」だけという状況を考えれば、格が二段も三段も違っていたことがわかると思う。決して戦車競争だけの映画ではない。で、波瀾万丈のスペクタクルだけと思っていると、タイトル終了後の冒頭、ローマンマーチの音楽が流れる中、子どもが梯子を昇るのに合わせた見事なクレーン撮影に始まり、インターミッションの前の絶妙の落ち葉の舞い方、ラストの神は迷える子羊たちを導きたまうという声が聞こえてきそうな名画といっていい素晴らしい珠玉の映像が散りばめられている。映像もストーリーも群を抜いた巨匠と言えると思う。
 「大いなる西部」の月明かりの下でのグレゴリー・ペックとチャールトン・ヘストンの殴り合いも以後多くの模倣をうむ名シーンだった。その直前のペックの前でヘストンがジーンズをシュボッ、シュボッと履くシーンなども充実している。ラストのブランコキャニオンでの闘いのカメラ割りは編集の教科書。ストーリーも各人の個性を際立たせながらも、古い西部が滅び新しい西部の時代がやってくることをきちんと描ききって立派。ううむ、得点高いなあ。
 もう一つ例をあげれば、「コレクター」はほとんどテレンス・スタンプとサマンタ・エッガー2人だけのサスペンス劇なのだが、緊迫したストーリー展開はもちろんのこと、この映画にも素晴らしいシーンがある。さらわれてきたサマンタ・エッガーが机の引き出しを開けるとそこにはずらりとチョウの標本が並んでいる。別の引き出しを開けてもまたそこにはチョウの標本が。自分がこのチョウたちと同じようにコレクションされたのだと悟る名シーンである。凡庸な監督ならヒロインの独白など入れて心理を説明してしまうところなのだが(名作と言われる内田吐夢監督「飢餓海峡」だが八重の不自然な独白シーンに私はすっかり興ざめてしまった)、ワイラーは映像だけでそれをわからせてしまうのだから、すごい。そして、さらにすごいのは呼ばれたサマンタ・エッガーが慌てて部屋を出るとき乱暴にドアを閉める。すると、その振動でピンで留められている標本のチョウが一瞬、ぶるっと震えるのである。逃げたくても逃げられない状況を表す見事なモンタージュではないか。もう40年も前の作品だが「コレクター」というと私は今でもこのシーンが鮮明に浮かぶほどである。
 映像だけでなく、構成の素晴らしさを示す例を一つだけあげておこう。誰もが見ているはずの「ローマの休日」のラストシーン。ヘップバーンが各通信社・新聞社の記者と挨拶を交わす場面がある。これって普通の監督がやると間延びしてしまうか、途中を端折ると思うのだが、ワイラーはじっくり構えて一人一人の挨拶を丁寧に撮っていく。それが全然間延びしない。というのも、観客は記者団の最後にグレゴリー・ペックがいることを知っているので、そこまできたときどうなるんだろうという緊張感をもって他の記者たちとのやりとりを観ているからである。だれないだけでなく、あ、この映画はこれで終わってしまうのか、終わってほしくないな、とさえ思わせる。この観客の気持ちに答えるように一人になったペックのシーンをENDの前にちょっとだけ挟み込む。まさに名人芸と言ってよい。
 もう一人の巨匠デビッド・リーンも「オリバー・ツイスト」「旅情」「戦場にかける橋」「アラビアのロレンス」「ライアンの娘」とこれまた文芸作品からロマンチック・コメディー、超大作と幅広く、しかも安定度抜群で失敗作がない(私はある雑文で「ドクトル・ジバゴ」を失敗作と書いたことがあるが、それはあくまでデビッド・リーンにしては、という前提条件の下でのものである。他の監督なら十分に佳作以上の作品である。葬儀のあとバラライカの調べとともに舞っていく白樺の枯れ葉やラストのダムにかかる虹など額縁に入れて飾りたいような「名画」である)。
 代表作の70mm大作「アラビアのロレンス」はきちんと考え抜かれたストーリーとともに「名画」が散りばめられた映画史に残る傑作で、砂漠の向こうに昇ってくる朝日にしろ、列車の屋根の上を歩く白衣のロレンスにしろ、印象に残るシーンをあげていったら、それだけで一冊の本になってしまう。あえて一つだけあげるとすれば、やはりアカバの町への侵入シーンだろう。砂漠の方から侵入していく行くロレンスたちからカメラがずーっと移動してくると海に向けられた大砲が写り(観客は、アカバの大砲が海に向けられており、砂漠にの方には向けられないことを、すでに知っている。このあたりがストーリー展開としてもうまいところである)その向こうに青い海が見える。このシーンは、まさに映画史に残る名場面と言えるもので、茶色い砂漠のシーンが続いた後だけに思わずはっと身を乗り出させるくらいに印象に残る。それでいてストーリーに手抜きはなく、ロレンスのやや夢想的な考え、現実的なイギリス政府の考え、アラブの考えなどをきちんと交通整理して(つまり観客にわかるように)描ききっている。こういうのを名画、傑作と言うのである。
 「ライアンの娘」は興行的には「ドクトル・ジバゴ」ほど話題にならなかったが、私に言わせれば「アラビアのロレンス」には及ばないものの(「ドクトル・ジバゴ」はもちろんのこと)「戦場にかける橋」を凌ぐ傑作である。冒頭、崖から落ちて行くパラソルのシーンは素晴らしい映像であるだけでなく、その後のヒロインの落ちて行くストーリーまで暗示していて見事。つまり、単なるはったりの映像ではなく、その映像がストーリーと密接に関係しているわけである。軍人と会う夜のシーンの画面右下に咲く匂うような百合の花、まるで夢物語のような森のメイクラブのシーンなど、これまた決して映像派の巨匠たちに負けていない。ヒロインが夢物語を追っていて地に足がついていないことをふまえて、リーンは森のシーンを思いっきりきれいに、美しく「夢のように」撮っていることは言うまでもない。撮影中に俳優の一人や二人死んだのではないかと思えるほど手に汗握る迫力に満ちた嵐の夜の海のシーンにしろ、ロバート・ミッチャムが海岸の砂浜で足跡を見つけるシーンにしろ、素晴らしいと言うしかない。息をのむほどに美しい砂浜に残された足跡とミツチャムの表情だけで彼が妻の不倫を知ってしまった、と観客にわからせてしまうわけで、リーンのような監督以外誰もできないように思う。これまた名人芸。
 ベルイマンやフェリーニ、ルネ・クレール、マルセル・カルネ(いつだったかのキネマ旬報オールタイム・ベスト10で「天井桟敷の人々」が1位だった)を忘れちゃ困るじゃないか。チャップリン、グリフィス、ジョン・フォードも忘れるな、なんて声が聞こえてきそうですが、決してそういった名監督を否定しているわけではありません。私としては、この2人はアウトスタンディングな監督だったんですねえ、と言いたいだけです。ということで。


★「たかが映画じゃないか」(ヒッチコック)
 「007ロシアから愛をこめて」のヘリコプターのシーンは「北北西に進路を取れ」のいただきだというようなことは、あちこちで書かれている。「北北西」の監督は言うまでもなくサスペンスの巨匠アルフレッド・ヒッチコックである。
 しかし、実は「007ロシアから愛をこめて」を見たときには私はまだ「北北西に進路を取れ」は見ておらず、「007」のクライマックスが「北北西」のイタダキ云々という記事を雑誌で読み、なんとか見たいものだと切望したのであった。こんなところにもビデオが普及していない時代の悲劇があるのだが、切望かなってようやく大学生になってから「北北西」を見ることができた。結果は肩透かし。「北北西」も駄作ではないが、「007」のスピーディーな展開になれた目には、「北北西」はいかにも展開がのろく、第一、ショーン・コネリーと初老のケーリー・グラントでは動きが違った。
 問題のシーンも「北北西」は、農薬を蒔くふりをしていた軽飛行機が襲ってくるが、ケーリー・グラントはただトウモロコシ畑の中を逃げ回るだけで、別にライフルをもっているわけでもない。軽飛行機が操縦を誤ってタンクローリーに激突して炎上するだけである。だいたい話の展開からいって「北北西」にどうしてもこのシーンが必要だとも思えず、こういうシーンっておもしろいんじゃないか、とヒッチが無理やり挿入したのではないか、と私は想像している。話の流れの中できちんと処理し、撃ち落とすところまで見せる007の方が本家より遥かに出来がいい。
 そもそもこの「北北西」という映画、巻き込まれパターンの典型的な映画で、まるで思い付きの行き当たりばったりといった作品なのである。では、否定されるべき作品なのか、というとそうも言いきれないのがヒッチ作品の困ったところである。
 だいたいヒッチコックは、サスペンスの巨匠とかスリラーの帝王などと言われているが、構成には緻密さがあまりなく、場面のおもしろさで見せていく監督だと思う。だから、ヒッチコックの作品は、どれも見ていない人に対して話しやすい。「タイトルの時、ささーっと上や横から線が出てきてそれが国連ビルになるんだ」(ソウル・バスのデザイン。この映画のタイトルデザインが「ウエストサイド物語」のタイトルデザインにつながっていったのだと思う)「飛行機が突然襲って来るんだよ」「ほら大統領の顔が刻まれた山があるだろ、ラストは、あそこで追っかけをするんだ」等々。
 どれも、聞いた人はその映画を見たくなるような話ばかりである。で、見に行くと期待したほどではないが、嘘ではないので、「どんな映画だった?」と聞かれると同じように答えるしかないのである。
 「飛行機が突然襲って来るんだよ」
 考えてみると、ヒッチほど印象に残る場面を撮った監督は外にいないと言っても過言ではない。「レペッカ」の光るコップ、「見知らぬ乗客」の眼鏡に映る殺人現場と暴走するメリーゴーランド、「白い恐怖」のシュールな幻想シーン、「海外特派員」の冒頭の行き交う傘を真上から撮ったシーン、「裏窓」のキスシーン、「鳥」のジャングルジムに群れるカラス、そして「サイコ」のシャワーシーン等々どれも強烈に印象に残るシーンばかりである。「第三の男」のジョセフ・コットンが悪役をやった「疑惑の影」もちょっとタルイところのある映画だが、すごいのは最後に汽車が…、あ、思わずラストをばらしてしまうところだった。こういう映画でラストを語るのは明らかに反則。いかん、いかん。というくらいにヒッチの映画には、必ず一箇所は印象に残る場面があるのである。だったら、そのどれもが名作か、というとそうでもない。
 「白い恐怖」は退屈なフロイド物だし、「サイコ」は前半と後半で話が分裂している。場面は強烈だが、作品全体として見ると、構成が甘くあまり高い点はつけられないのである。たとえば「鳥」の有名なラスト、今はまだおとなしい鳥の間を静静と車が行くところで終わるのだが、これを「結末がはっきりしないだけによけい不気味だ」と言う人もいるが、私にはヒッチ自身がうまく結末がつけられなくなって投げ出してしまったのだ、としか思えない(「レベッカ」の原作者でもあるダフネ・デュ・モーリアの原作も結末をつけていないが、映画としてあの結末はいただけない。なぜ鳥が人間を襲うようになったかを説明する必要はないが、何らかの結末はつけるべきだと思う)。
 ただ、そうした印象的なシーンが映画人にどんな影響を与えたかは、容易に想像できる。ともかく印象が強烈なので「俺も、あれ、やってみよう」ということになるのである。たとえば、「鳥」の板を打ちつけた扉を破ってカラスの嘴が出てくるというシーンは、後のゾンビが扉を破って手を出すシーンの原型になった。結末のつかないラストは多くのホラー映画で利用され今日に至っている。「見知らぬ乗客」の眼鏡に映る殺人現場という手法は、映し出す物をサングラスやすりガラスに変えて今も使われている。「サイコ」のシャワーシーンに至っては数えられないほどの模倣者を産んだ。バスルームで殺人が行われると必ず血が排水口へ流れていくシーンや出しっぱなしのシャワーなどが出てくるのである。「めまい」の展覧会場を徘徊する目もくらむようなシーンは、デ・パルマが「殺しのドレス」で臆面も無く使っていた(デ・パルマは恥ずかし気もなくパクルのが大好きな監督らしく、「アンタッチャブル」でもかのエイゼンシュテイン「戦艦ポチョムキン」の映画史上一二を争うほど有名なオデッサの階段を落ちていく乳母車のシーンをそっくりパクッている)。
 「レペッカ」の光るコップは中にライトを入れて撮影したのだそうだが、どうやって撮ったか、撮るのかということは映画人の問題で、観客には関係ない。ただ、今まで見たことのないようなシーンはやはり強く印象に残るのである。「裏窓」のグレース・ケリーがジェームス・スチュアートにキスするシーン(コマ落としのスローモーションを見ているような感じでキスをする)にしてもそうである。そう考えてくると、結局ヒッチコックという人は、人を驚かせて喜ぶ悪戯っ子のような人だったのではないかと思う。とりあえずの手段として映画があったので映画を撮っただけであり、他に手段があれば別に映画でなくてもよかったのだろう。日本の夏の伝統の「お化け屋敷」の演出など頼んだらギャラなしでやってくれたのではないかと思う。悪戯のためのシーンを撮れれぱそれでもう十分なのだが、それでは誰もお金を出してくれないため適当に1本の映画として完成させる。だから他のシーンは極論すればどうでもいいわけで、ヒッチの映画の構成のいいかげんさは、そんなところに起因しているのである。
 ヒッチがバーグマンに言った有名な言葉「たかが映画じゃないか」は、別にバーグマンをリラックスさせるためでも何でもなく、文字通り彼の本音だったのだと思う。
 しかし、作家の意思と作品は別物であることもまた事実である。「たかが映画」の中でも私は「めまい」だけはちょっと違うかな、という気持ちでいる。美女というにはキム・ノバクがデブじゃないか、という欠点はあるにしろ前出の徘徊のシーンにしろ、坂の多いサンフランシスコの尾行シーンにしろ、ストーリーともうまく溶け合ってクライマックスへ向かって突き進んでしまう男女の悲劇を盛り上げている。偶然か必然か、一度見ればもういいや、と思わせる映画が多いヒッチ作品の中にあって、この「めまい」だけは、わざわざ途中でネタを明かしてしまうことといい、ちょっと毛色が違う。従って「めまい」がヒッチの最高傑作と言う気はないが、私にとって最も気になるヒッチ作品であることは事実である。


★名監督=クリント・イーストウッド
 最近では俳優としてより監督としての評価の方が高いクリント・イーストウッドの「硫黄島」二部作が公開されたせいだろう、メールで映画についての雑談をしていたら「クリント・イーストウッドの監督ってどうなんでしょう?」というメールがきた。
 「ローハイド」のロディ・イェイツの名前が出たところで、監督=クリント・イーストウッドの話をしよう。まあ撮影現場で一番威張っているのはたいてい監督で、そんなことからか俳優や脚本家で監督になりたがる者は多い。アメリカ映画では威張っているのはプロデューサーだが大物監督はたいていプロデューサーも兼ねることが多いので、まあ監督が一番威張っていると言ってまず間違いではない。ビリー・ワイルダーやダルトン・トランボなどは脚本家→監督で成功した人たちだが、しかし、一流脚本家=一流監督かというとそうでもないことは「羅生門」「七人の侍」「砂の器」などの脚本で知られる橋本忍やジェームズ・三木の無残な失敗を見ればわかる。日本で成功しているのは三谷幸喜くらいのものだと思う。
 俳優となると独り善がりが目立ち失敗確立はさらに高くなりる。ジョン・ウエインの退屈な大作「アラモ」やサモ・ハン・キンポー(香港映画のデブゴン)、勝新太郎などが典型例。日本では、桑田啓佑、カールスモーキー石井、小田正和といったミュージシャン監督の映画も最近はけっこう多いが、論外なので、ここでは触れない。
 アカデミー賞を取り世評も高いケビン・コスナーの「ダンス・ウイズ・ウルブス」やロバート・レッドフォードの「普通の人々」には退屈したし、メル・ギブソンの「ブレイブ・ハート」にしても、ま無難にまとめたかな程度の普通の出来で、傑作というほどのものではないと思う。
 そんな総倒れの中で「こいつは、けっこううまい」と思わせるのは私の知るところ、ジャッキー・チェンとクリント・イーストウッドの2人のみである。さらに厳しく言うとジャッキーはまだ映画全体のバランスをきちんととるところまではいかず(「プロジェクトA」の自転車チェイス、「プロジェクト・イーグル」の風洞アクション、「レッド・ブロンクス」のホバークラフトなどどれもアクションシーンは創意工夫があっておもしろいのだが、異様に長かったり唐突だったりして1本の映画としてのバランスを崩してしまっている)、その意味では俳優監督として最もうまいと言えるのは、クリント・イーストウッドに止めを刺す。
 「許されざる者」(後述)でアカデミー賞を取って監督イーストウッドの評価は一気に高まったが、実はイーストウッドは、最初からうまい監督だったのである。にもかかわらず、それまで監督イーストウッドを評価する声はどこからも聞こえず、私は会う人ごとに「イーストウッドの作品は、意外といいぞ」と薦めては煙たがられていたのである。
 イーストウッド作品を最初に見たのは、「恐怖のメロディー」で、彼の監督第一作である。が、そうと知っていて見に行ったわけではない。何か別の映画を見に行ったら2本立てのもう1本が「恐怖のメロディー」だったのである。ところが、肝心のその時のお目当ての映画は何だったのか完全に忘れてしまっていて、「恐怖のメロディー」だけ覚えているのだから世の中わからない。
 「恐怖のメロディー」は、イーストウッド演じる売れっ子のDJ(だったと思う)が、フアンの女の子をつまみ食いして一夜を共にするのだが……、という今でいうストーカー物のはしりで、私の好きなジャンルの映画ではないのだが、その見せ方は監督第一作とは思えないほど堂に入ったものであった(不倫→ストーカー映画として話題になった「危険な情事」は笑えるが、「恐怖のメロディー」は、けっこう怖い)。出番のない時もぼーっとしておらず、「荒野の用心棒」のセルジオ・レオーネや「ダーティ・ハリー」のドン・シーゲルの演出をよく見ていたのだろう、処女作からすでに演出のコツは、完全につかんでいたと思える。
 一時、ソンドラ・ロックという女優とできてしまいヒロインはいつも彼女というパターンで飽きられたが、彼女を起用した第一作の「アウトロー」の出来は、悪くない。南北戦争で妻子を殺されたジェシー・ウエルズ(イーストウッド)の復讐の物語なのだが、映画の印象は決して暗くはなく、ラストの「もう戦争は終わったんだ」という幕切れが挽歌のイメージを奏でて鮮やかであった。ソンドラ・ロックもまだ少女の面影がありおっぱいまで見せてサービスにつとめている。うん、この頃の彼女は、馬鹿面だが悪くはない。
 「ペイル・ライダー」も、傑作といっていい作品であった。開拓者とそれを邪魔する悪人、そこへふらりとやって来た男は拳銃の名手……、と書けば誰もがあの「シェーン」を思い浮かべるだろう。シェーンの少年をこの映画の少女に置き換えて見れば、ラストの山に向かって消えていくシーンまでそっくりである。これは、つまりシェーンというよりも西部劇へのオマージュである。ただ、最初見た時は、ううむ何となくわからん部分があるぞ、と思ったのだが、実は彼はすでに死んでいる人間で幽霊だと思えば、すべてが納得いくのである。ウエスタンに「ライダース・イン・ザ・スカイ」という首のない幽霊が馬に乗って空を駆けていくという歌があるくらいだから幽霊といっても別に違和感はない。リアルな幽霊という解釈をとりたくなければ、主人公は、すでに過ぎ去りし時代の人間で幽霊のようなものだ、と考えればいい(「ペイルライダー」は同じくイーストウッドの「荒野のストレンジャー」のリメイクだという意見がある。しかし、両者の共通点は、すでに死んでいるはずの主人公ということだけで、素直に「シェーン」へのオマージュととるべきであろう)。
 そして「許されざる者」である。
 この映画は会社のKという男と銀座まで見に行った。イーストウッド演じるのは、かつて非情な賞金稼ぎとして名を売った初老のガンマン。これに若い賞金稼ぎ、かつての仲間、彼らを待ち受ける保安官を配して物語は展開する。まずジーン・ハックマン演じる保安官がいい。自分で家を作るといった家庭的な部分(独身の設定だがイメージはそうだ)と、憎たらしいほどの暴力性を併せ持ち、敵役がうまいと話がおもしろくなる典型である。切られた娼婦が、イーストウッドの亡くなった女房を連想させるあたりもうまい。撮影も、とくに西部の空気を実感させてくれるような画面に久しぶりにお目にかかった。友人で殺されてしまうモーガン・フリーマン(「ショーシャンクの空に」で最後に主人公に会いに来るあの黒人俳優です)も、いい味だしている。
 ラストの対決は、役者と監督としてのイーストウッドの能力が最高度に発揮された名場面で、それまで年のせいかちょっとパワーが落ちたかな、と思われたイーストウッドが一変、その迫力たるや他の俳優ではとても出せないと思う。見事な傑作で、西部劇はアカデミー賞を取れないというジンクスを打ち破って作品賞を取ったのは、当然である。何よりもうれしいのは、イーストウッドの西部劇には、前に書いた「西部劇の呼吸」というものがもきちんと描かれていることで、このラストのイーストウッドのカッコよさ、ダンディズム痺れましたですねえ。イーストウッドの西部劇に唯一欠けているものを探すとしたら、それは印象に残る主題曲がないことだろうか。これだけは、彼の宿題である。
 ところで、かつての「アウトロー」にも言えることだが、「ペイルライダー」にしろ、この「許されざる者」も、見終わったとき、なぜかノスタルジックなものを感じるのは、気のせいではないと思う。
 イーストウッドには、「ダーティハリー」シリーズのような現代のガンマンとでも言いたいような刑事物の当たり役もあるが、何といっても「ローハイド」のロディで世に出、「荒野の用心棒」で認められたという経緯がある。西部劇に対する思い入れは、人一倍のものがあるはずである。ところが、映画全体における西部劇の地位は、ここ20年下がっていく一方である。というよりも、きちんとした西部劇を撮れる監督は、今やクリント・イーストウッド唯一人なのだ(ケビン・コスナーの「ダンス・ウイズ・ウルブス」を私はあまり買っていないが、それを抜きにしてもあれは開拓劇で西部劇ではない)。それは、ここ10年での水準を超えた西部劇がイーストウッド作品以外にないことからも明らかである。イーストウッドは、おそらくこんなことを考えているのだろう。
「自分が死んだら、もう西部劇というものは作られなくなってしまうかもしれない」
 イーストウッド西部劇につきまとう消えていく者へのノスタルジーは、そんなところから来ているのではないか、と私は解釈している。
 2000年になってイーストウッドの「スペース・カウボーイ」という映画が封切りされた。例によって、制作・監督・主演である。私、上野セントラルで見ました。話としては、宇宙を舞台にしたSF映画なのだが、基調音はタイトルからもわかるように、まさに21世紀のウエスタンである。そして、かつての「ライト・スタッフ」へのオマージユでもある(冒頭がモノクロで、墜落の様子や、記者会見で並んでいると、チンパンが出てくるところなど、そっくり)。おそらく、「ライト・スタッフ」に感動し、「よし、俺は、宇宙飛行士に落ちこぼれた連中の映画、その連中が遂に宇宙に行ってしまう映画を作ろう」と考えたに違いない。イーストウッド、70歳。まだまだ若い者には負けんぞ、というその心意気やよし。ジェームズ・ガーナーなど他の面々も年齢を感じさせない元気さで楽しませてくれる。前半の仲間を集めるくだりは、「七人の侍」か。ユーモラスなシーンなども交えて観客を取り込み、後半の緊迫感あふれるクライマックスにもっていく手腕も見事。いいねえ。前半がちょいだれる気もしないではないが、ラストシーンの馬鹿馬鹿しさなども含め、最近「お子さまランチ」ばかりのアメリカ映画の中にあって、イーストウッドの作品は、やはりひと味違う。大傑作とまでは言わないが見て損のない映画である。
(以下、補足)
 さらにイーストウッドは「ミリオンダラー・ベイビー」という映画で2005年のアカデミー作品賞、監督賞を受賞した。ヒラリー・スワンクは女性ながら動きもよくアカデミー主演女優賞は当然の受賞。モーガン・フリーマンも今や人のいい老人の黒人と言えばこの人しかいないというくらいのもので、これまた当然の助演男優賞受賞。さすがにイーストウッドの主演男優賞はなかった。展開に無理がなく、ボクシングシーンは迫力があり、結末も一つの選択肢としての説得力をもっていた。いい映画だったが、当時、闘病中だった私には暗い結末がちょっと重いものがあった。最近の「硫黄島」2部作もなかなかのできだったが、「硫黄島からの手紙」はちょっと通俗に流れたところがあり、シニカルな「父親たちの星条旗」のほうが私にはおもしろかった。イーストウッドはもう70代後半のはずだが、元気ですなぁ。
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映画監督雑談2 [映画の雑感日記]

★ドキュメンタリー?作家=原一男
 「ゆきゆきて神軍」は、映画館ではなくレンタルビデオで何となく借りてきて、何となく見た。いやあ、ぶったまげましたねえ。まさしく、こんなのあり、という映画で、しかも、それだけでは終わっていない映画だった。
 まず主人公の奥崎は、昭和天皇の責任を追及するとしてパチンコ玉を撃った人物である。巻頭、天皇の政治責任を追及する看板で埋められた彼の車の異様さに、まず度胆を抜かれる。右翼の街宣車ではたまに見かけることはあるが、それでもここまで凄いものは見たことがない。当時の関係者の家に乗り込み、最初は穏やかに話しているのが、相手が責任を回避しようとした途端に殴りかかるのも凄い。それを止めることもなく、カメラが回っているのは、もっと凄い。結婚式の発言で奥崎がいきなり「新郎は刑務所に云々」と言い出し、それを周りが神妙に聞いているのに至っては、開いた口がさらに開いてしまうほどの凄さである。
 形式は、確かにドキュメンタリーである。が、果たして素直にドキュメンタリーとして認めてしまっていいのか。私は、原一男の映画は2本しか見ていないが、いつもそんな気がしてしかたがないのである。その手法は、師匠の今村昌平とも明らかに異なる。今村は、日本の土着的なもの、原風景とでも言うべきものに拘りをみせるが、それはあくまで監督・今村昌平のイメージの中での土着的なもの、原風景であり、彼はそれをスクリーンの上に現実化しようと悪戦苦闘しているように見える。それに対し、原一男のカメラは対象の前でただ謙虚に回っている(ように見える)。
 しかし、本当にそうなのだろうか。演出はないのだろうか。いや、演出はあるはずだ。師匠の今村にも「人間蒸発」という一見ドキュメンタリー風にもせておいて、最後に演出でした、とネタバレしている映画があるのだ。たとえ、原が奥崎にあれこれ指示出しをしていなかったとしても、カメラが回っていることを意識した奥崎が、殴りかかるという行為をするかもしれないという計算が絶対になかったと言いきれるのか。少なくとも、1%の期待はあったと思う。また、カメラは淡々と回したかもしれないが、編集の段階で奥崎の普通の行動はカットされてしまったかもしない。
 ともかく奥崎の行動は狂気の色を帯び、平凡な生活を送っている人間から見れば異常そのもののように見える。それを悪いと言っているわけではない。どのような見えない演出があったにせよ、その結果、奥崎に殴られる老人も奥崎も等しく戦争の犠牲者であり、違いは忘れようとするのか、言語と行動で忘れまいとするのか、ということだけだと観客にもわかるのである。「ゆきゆきて神軍」は、紛れも無い傑作となった。
 私の見たもう1本の原一男の映画は「全身小説家」。
 作家・井上光晴を追ったドキュメンタリーで、井上の死で終わる。癌と宣告された井上は、カメラの前で淡々と日常生活を送っている、そして彼の日常生活とは、とりもなおさず小説を書くということなのだが、奥崎の時と同じようにそれは本当の日常なのか、それともカメラを意識した上での日常なのかよくわからない部分がある。そんな日常の裏に、どれほどの病気でどんな大変な手術をしているのか知らしめるためなのだろうが、カメラは手術の様子も克明にとらえる。人間の体からはこんなにもたくさんの血が出るものなのか、と血を見るのが嫌いな私としては思わず目をそらせたくなる場面の連続である。
 いったい井上は、なぜ手術の様子まで撮影を許可したのだろう。不許可にして小人物と思われるのが嫌だったのだろうか。そうでは、あるまい。写されたものは、確かにドキュメントであるが、しかし、それは現実そのものではない。ドキュメンタリータッチのフィクションとでも呼ぶべきものなのである。日常も、日常そのものではなく、あくまでカメラを前にしての演技された日常と解釈すべてものであろう。それは、彼が、この映画で「自分」というものを主人公にした小説を書こうとしたためではないかと思う。
 確実に迫り来る死を見据えて、机に向かうのも、おそらく映画の上で小説を書こうとした決意の表れである、とでも解釈しなければ、この映画の日常性が理解できない。彼が話す自分の生い立ちが、あちこちでフィクションだとわかるのも、自分自身を小説にして演じてしまう、という部分を抜きにしては理解できない。その上での「全身小説家」のタイトルなのである。紙に向かって書くのか、カメラに向かって演技をするのかの違いこそあれ、井上光晴は、全身で「井上光晴」という小説を書いたのである。
 いや、もっと正確に言おう。小説家=井上光晴を起用して、原一男がそういう映画を作ったのである。容赦無くそんなところまで写してしまうのか、と思わせるのもまた演出である。ゴダールの映画のいくつかが、映画の約束事いいかげんにやめましょう、とでもいいたげにドキュメンタリータッチを感じさせるが、原の映画は、それをさらに徹底させたものと言えるかもしれない。しかも、これはほとんど奇跡と言ってもいいが、独り善がりではなく、1本の映画として十分に普遍性と娯楽性をも併せ持っている。
 二度にわたる大手術を受けた井上光晴は、「おやすみ」という象徴的な一言を残して部屋へ消えて行く。直後、観客は彼の死を知らされる。そして、葬儀のシーンに続くラスト。彼のかつての仕事場へ続く階段をカメラが上がっていく。すると、そこに、机に向かい原稿用紙に何かを書いている井上光晴がいる。「全身小説家」というタイトルにふさわしい、見事な締めくくりではないか。
 その結果、この映画を見終わった者は、否応なく自分の限り有る生と向かい合わなければならない。黒澤の「生きる」が演出の極致でそれを問いかけているのだとすれば、「全身小説家」は、演出を感じさせない生の肌触りで同じことを問いかけているのである。いずれにしても、この映画もまた傑作である。
 監督の名前を見ないと、今見た映画が誰の演出によるものなのかわからない作品が多い昨今、原一男の存在は貴重である。彼の映画を見てしまうと、世評の高いマイケル・ムーアの「ボウリング・フォー・コロンバイン」や「華氏911」なんぞ(それなりのレベルにある映画であることは認めるものの)「へ」のようなものである。
 追記・これはTVで見たのだが、浦山桐郎の生涯を描いたドキュメンタリーもなかなかのものであった。浦山の生前のインタビューなどは一切使わず、家族や兄弟、師匠の今村昌平、俳優ら関係者の証言だけで一人の映画監督の生涯を描き、その人間像を浮き彫りにする手法は見事と言うしかない。


★名人ビリー・ワイルダー
 ビリー・ワイルダーという名人がいるぞ、と教えてくれたのは、今は作家をやっている高校時代からの友人のSYである。彼はATG(アート・シアター・ギルドという会員制の映画組織が当時あり、いくつかの映画も制作していた)に入っているくらいの映画好きだったので、彼の言うことなら、と私も見に行ったのである。
 映画は「あなただけ今晩は」。
 シャーリー・マクレーン演ずる娼婦と元警官のジャック・レモンのコメディーで、高校生にとってはまず娼婦というのがピンとこなかった。なんで警官がわざわざ娼婦に惚れるのか理解できないのである。いろいろあってレモンが変装してマクレ−ンに会うことになるのだが、その変装した男をレモンが殺したのではないかということになって、さあどうなるんだろうと思っていると、何とレモンがいるのに、結婚式の教会にレモンが変装したはずの男が出てきてこうつぶやくのだ。「これはまた、別の話」ポカーンとしているうちにTHE ENDとなって、なななんだーっと思いつつ映画館を出てきた記憶がある。変装の場面で使われるエレベターの出し方にしろ、うまいなあと感心するようになったのは30過ぎてからのことである。
 同じコンビでもう一つ出来がいい「アパートの鍵貸します」にしてもマクレーンは上役の愛人で、潔癖な高校生の私としては、そんなふしだらな女になんでレモンが惚れるのか全く理解できないのである。ネタを割らないように書かないといけないので苦しいのだが、睡眠薬やシャンパンの使い方など「ううむ、うまい」と感心したのは、これも30過ぎてからのこと。そういう意味では高校生の分際でこういう映画をおもしろいと思ったSYは、善良・潔癖かつまっとうな青年であった私と比べて、相当マセていたか不良だったと言える。
 もちろん、高校時代に見たワイルダーの映画で感心したものもないわけではない。「翼よ! あれが巴里の灯だ」は、リンドバーグの大西洋無着陸横断飛行を扱った映画で、私が名古屋のミリオン座で見たのは、リバイバル上映だったが、高校生でも十分楽しめる映画であった。シネマスコープの画面をいっぱいに使った飛行の様子にはわくわくし、眠気との闘いにははらはらし、ラストでいきなりニュースフィルムのニューヨークでの大歓迎の様子が出てきたのにも驚いた。この映画でも、離陸前に貰ったコンパクトの使い方など実にうまいものだが、そのあたりの「なるほど」という部分は当時でも納得の伏線だった(ただし、コンパクトをくれる女性の出し方は説明不足で、ワイルダーにしてはやや唐突である)。空港での歓迎の後、ジェームス・スチュアートが暗い格納庫の中で一人、愛機スピリット・オブ・セントルイスに話しかけるような短いしんみりしたシーンを挟み、ニュースフィルムが出てきたところでストンと終わる終わり方もうまい。要するに娼婦だの愛人だのというものさえ出てこなければ、生理的反発なしに映画に溶け込め、一旦その世界に入ってしまえばワイルダーは、ストーリーテラーとして超一流(ワイルダーが、元はシナリオライターだったことを知ったのは、大学に入ってから)なので、高校生でも文句無く楽しめるのである。
 もう一つ、これはレーザーディスクで見たのだが、「情婦」(題名がよくないねえ、これは。直訳で「検察側の証人」とでもしておいた方が遥かによかった)。男女間の物語なのだが、こちらは法廷ドラマなので、一種のサスペンス劇として楽しめた。役者では、弁護士役のチャールス・ロートンが出色。「スパルタカス」の元老院もうまかったが、これも文句のつけようがないうまさ。看護婦役のおばさんもうまいなあ。二人のやりとりは実にウイットがきいていて楽しい。家庭用エスカレーターの使い方も笑える。これで、マレーネ・デートリッヒの過去の回想部分がもうちょっと短ければと思うのだが(この映画にしろ「翼よ! あれが巴里の灯だ」にしろ、いつも回想シーンがちょっとだけ長いのがワイルダー唯一の欠点だと私は思っている)、ただし、それも退屈するほどで長くはない。「情婦」というといつもラストのどんでん返しが云々されるのだが、それよりもどんでん返しの後の看護婦の「旅行は、取りやめる」云々の台詞の方が遥かに味わいがある。
 そんなわけで、私にビリー・ワイルダーの作品を3本選ばせれば「アパートの鍵貸します」「翼よ! あれが巴里の灯だ」「情婦」ということになるのだが、サラリーマン物、冒険物、法廷物と題材はばらばらだが、構成がきっちりしていて軸がぶれないことと、ラストの締めくくりがとんでもなくうまいという点では共通している。どの作品を見ても、馬鹿野郎物の失敗作が一つもないのである。どれも納得のいくようにきちんと構成されており、「情婦」のある女性の出し方にしろ看護婦の横にきちんとそれらしい感じであらかじめ印象的に出してあるので、ラストで「おいおい、そんな安易な」ということがない。たまには、そういう枠を突き破っていくようなエネルギッシュなものがあってもいいようにも思うのだが、それは無い物ねだりということで、これはこれで監督としての一つのスタイルなのだと思う。
 晩年のほとんど話題にもならなかった「悲愁」(フェードラ)は、私もTVでカットされた吹替ものしか見ていないが、ヘンリー・フォンダがヘンリー・フォンダとして登場してくるシーンなど、ぞくぞくするくらいにうまい。ヘンリー・フォンダが「ヘンリー・フォンダです」と言うのは当たり前なのだが、その当たり前にぞくぞくするあたりが演出のうまさというものなのだろう。繰り返しの蛇足だが、この「悲愁」、我が楽聖=ミクロス・ローザが曲を書いていることでも記憶に残る。
 ビリー・ワイルダーでもう一つ特筆すべきは、ラストのうまさ。とにかく最後の決め台詞のうまさはワイルダー映画に共通するもので、観客の意表を突くものであると同時に納得ものであるという見事さである。この決め台詞を聞くだけでもワイルダーの作品は一見の価値がある、と言っても過言ではない。
 高校時代には唖然とした「あなただけ今晩は」の「これはまた、別の話」というのも今見ると実に気がきいている。男優が女装したりするのはあまり好きではないのだが、「お熱いのがお好き」のラストで女装していたトニー・カーチスが実は男なんだと告白した時の相手の台詞も意表をついていて思わず納得してしまう(これは「クイズ・ダービー」の問題にも使われ、確かはらたいらが正解していた)。
 「昼下がりの情事」にしても甘いといえぱ甘いラストだが、はらはらさせて最後によかったとほっとさせる結末などこの手の映画の典型を確立したと言っていい(ヘップバーンも、この頃まではかわいかった)。
 「フロント・ページ」は、もうワイルダーがあまり話題にされなくなってからの作品で、構成もちょっとドタバタしすぎるきらいがあり、傑作とは言えないが、ジャック・レモンにお別れの記念にと時計を渡したウオルター・マッソーの最後の電話「時計を盗まれた云々」には誰もが苦笑と拍手をしてしまうと思う。なぜ苦笑と拍手なのかは、映画を見れば誰にでもわかるはずなので、ここには書かない。レンタル・ビデオででも見ていただきたい。「サンセット大通り」のラスト、グロリア・スワンソンの鬼気迫る演技のうちに終わるラストのうまさ・凄さ・怖さについては、すでに書いた。
 何を撮らせても構成がきちんとしていて軸がぶれないという点では、ウイリアム・ワイラーやデビッド・リーンも立派なものだが、今のご時世あんな大作が撮れるはずはなく、キューブリックでは癖がありすぎる。映画の勉強をしようという人は、ワイルダーの映画を何度もしっかり見るのが現実的だと思う。その度に、ああこのカットがあの伏線になっていたのかとか、あそこでああいう台詞を言わせたのはこのためだったのか、といった新たな発見が必ずあるはずである。


★チャップリンは、やはり偉大
 ビリー・ワイルダーのエンディングがうまい、と書くと「私を忘れてはいませんか」という声が聞こえてきそうである。もちろん、忘れてはいませんよ。ワイルダーと双璧とでも言うべき終わり方チャンピオンは、チャールズ・チャップリンである。どちらもコメディーを得意とする監督というのは興味深い。コメディーは、深刻な映画と違い見ている者の心を開放するという拡散傾向があるので、いいかげんなラストでは、散漫な印象のまま終わってしまう。そのため喜劇の制作者は一般の制作者と比べより一層締めくくりに気を使うのかもしれない。
 チャップリンは一般的には喜劇の王様ということになっている。ここでいう喜劇というのは文豪バルバックが自己の作品を「人間喜劇」と名付けたのと同じような意味での「喜劇」であり、とりあえず人生模様の泣き笑い程度に解釈してよい。が、チャップリンにおける笑いは、どちらかというと藤山寛美がいたころの松竹新喜劇と同じウエットな笑いで、実は私はあまり好きではない。「街の灯」におけるボクシングのシーンは、けっこう笑えるが、それでもその裏には目の見えない女性の手術代を稼がなければならない、という重圧があるので、心の底から笑うというわけにはいかない。
 ウエットの代表的な作品は「ライム・ライト」だと思うが、あそこに出てくる老喜劇役者は、誰がどう見てもチャップリンそのものである。そして、観客の同情を一身に集めるように作られている。そのナルシストぶりに私はついていけないのである。が、当時、赤=共産党狩りのマッカーシズムが吹き荒れており、非米活動委員会によりチャップリンは国外追放になるのだが、その空気を察知して自分に同情が集まるよう、この映画を作ったのかもしれないとも思う。もしそうだとするとなかなかの策士と言える。
 だいたい、あんな風采の上がらない小男に惚れる女性がそんなにいるとは思えないのだが、「モダン・タイムス」にしろ「独裁者」にしろ、チャップリンは映画の中でけっこうもてている。さらに、共演した女優が気に入ると次々と結婚してしまった男なのだから、それくらいのことは考えて「ライム・ライト」を作った、ということは十分に有り得ることである。そして、「もう踊れない」という女性を励ますためにチャップリンが言う台詞は、多分、自分自身を励ますためのものだと思う。
 が、たとえ私的損得関係で映画を作ったにしても、それでもやはりチャップリンは、うまい映画監督だと思う。学生時代は、ちょっとウエットなシーンを作ってそこに逃げ込み、予定調和的な結論に安住する作りに反発したものだが(そして、今でもその部分は嫌いだが)、やはりチャップリンがそれなりの評価を受けるべき映画人であることに異論はない。それは、バスター・キートンの映画と比べてみればわかる。キートンの映画は、「蒸気船」にしろええーっというとんでもないシーンがあって大いに笑わせてくれるのだが、見終わるとどうも印象が薄いのである。構成が弱いので、何だか短編を何本か寄せ集めたた感じで、まとまってどうこうということにならないのである。ローレル&ハーディーやマルクス兄弟の映画にも同じ感想がつきまとう。
 その点、チャップリンの映画は、私が彼の2大名作と勝手に決めている「モダン・タイスム」にしろ「街の灯」にしろ、かなり乱暴な構成でワイルダーとは比べるべくもないが、それなりのまとまりをもった1本の長編映画として見ることができる。
 かつては映画というものは10分とか15分のものだった。が、機材の性能が上がり、映画は長編の時代になった。サイレント時代かなりの数の喜劇人がいた中で、トーキー時代になってもサイレントにこだわっていたにもかかわらず、チャップリン只一人が生き残ったのは、そのためだと思う。
 そして、チャップリンが長編をうまくまとめることが出来たのは一にも二にもラストのうまさ、中でも(ワイルダーと同じように)決め台詞のうまさにあったのだと思う。
 「モダン・タイムス」のラストのチャップリンがポーレット・ゴダードと並んでとことこと向こうへ歩いていく有名なシーン、歩いていったところで何かいいことがあるという保証は全くないのだが、「何もいいことはない。死んでしまいたい」と言う彼女に対して、チャップリンが言う「笑って。さあ、笑って」という台詞がきいているので、観客も何となくいいことがあるに違いないという気になってしまうのである。「街の灯」のラストもうまい.目が見えるようになった彼女が汚い浮浪者のチャップリンが、かつてそれが自分を助けてくれた紳士と気付かず、手に触れて初めて「あなたなの?」ときくシーンは、ぞくぞくするくらいの上手さで多くの模倣作も産んだ。あのギャグまんがの王様を自称する赤塚不二夫ですら「おそ松くん」の中でイヤミをチャップリンにこのシーンを使っていたほどである。チャップリンの困ったような、うれしいような顔のアップで、パッと終わる終わり方も見事(とはいえ、どう考えてみても、「モダン・タイムス」にしろ「街の灯」にしろ、このあと主人公たちを待っているのは、悲惨な人生である。それをなんとなく「よかった、よかった」風にうまくまとめているわけで、まあ、このあたりが若いときに反発する要因だったのだと思う)。
 「独裁者」はちょっとまとまりのない作品だが(とはいっても冒頭の15分は大笑いできることを保証する)、ラストの大演説の後、「アンナ、聞こえるかい…」と呼びかけるうまさ。その途端、大所高所からされていた演説が、突如として観客一人一人に語りかけられるものになり、演説自体は悪い内容ではないので見ている者の心に直接届くのである。「殺人狂時代」(この作品のためにレッド・パージをくらい、アメリカを追われたといわれる)は、キネマ旬報第1位になった失敗作だが、しかし、「1人殺せば殺人犯、100万殺せば英雄」という彼の有名な台詞は実に説得力がある。この台詞だけで作品の価値が1ランクは確実に上がってしまうのだから。
 そんな決め台詞のおかげで、観客は、チャップリンの映画を見終わると初めから終わりまで充実した1本の長編(それは、とりもなおさずもう一つの人生ということになる)を体験したような錯覚に陥り、何らかの力を得たような気分になれるのである。極論すればあらゆる芸術作品が錯覚の上に成り立っていることを考えるならば、チャールズ・チャップリンは、やはり偉大だったと言わねばならない。
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NHK-BS2黒澤明特集「七人の侍」など雑感 [映画の雑感日記]

★黒澤明「赤ひげ」とリメイク「椿三十郎」
 11/1、NHKのBS-2で黒澤明の「赤ひげ」を放送していた。この映画が公開されたとき、こちらは生意気盛りのな若者だったので、なんだかありきたりのヒューマニズムが鼻についてちょっとしらけるところもあり、あまり感動しなかった。見たのは、名古屋の名宝劇場(名古屋での東宝映画の封切館。今はない)。なんとなくおっとり奥様のようなイメージのあった香川京子が演じた凶女や野良猫のように目が光る二木てるみの扱いなどもよくわからず(高校生にああいう女性を理解しろということ自体が到底無理)、「なんだかなあ」といった感じでその後、テレビでの放送やビデオ、DVDの発売などあったものの見直すこともなかった(なにせ3時間ですから)。ただし、「なんだかなあ」というのは決して駄作ということではなく、風鈴のシーンや井戸のシーンなど印象に残るシーンは少なくなく、「自分の集大成」という黒澤の言葉には納得できなくても、それなりの作品であることを感じてはいた。
 で、あらためて見て驚き。確かにステレオタイプのヒューマニズムは感じられるものの、それは表面上のことで、これは加山雄三の成長物語としてとてもよくできた映画だった。加山は「椿三十郎」に続いての起用で、当時、「あ、これで東宝も三船の後継者ができた」と思ったことを思い出した(私の早とちりで、その後の加山の歩みを見れば完全に読み違えていた。同じく「椿三十郎」に出ていた「青大将」こと田中邦衛のほうがよほど俳優としてきちんと歩んだことが今になってわかる)。それに加えて、この映画は実によく人が死ぬ。つまり、「赤ひげ」は「生きる」を踏まえた上で黒澤の考えをさらに発展させた「生と死の物語」であることも再認識できた。黒澤は「この映画を見終わったとき、(ベートーヴェンの)第九が聞こえてこなくては」というようなことを言って撮影現場ではずーっと第九をかけていたということだが、ラストの赤ひげのテーマはもうほとんど第九そのも。静かな感動にひたれるいい映画だった。
 続いて11/2には日本映画専門チャンネルで黒澤「椿三十郎」の森田+織田でのリメイクが放送された。オリジナルの「椿三十郎」は、赤い椿と白い椿が一つのキーポイントになっているにもかかわらず白黒で、何でカラーで撮らないんだろうと思ったもので、「椿三十郎」がカラーでリメイクされたというだけで、私などは、「これは見なければ」と思う訳である。
 というわけで見てみたわけだが、森田監督それなりにがんばったのでは、と思う。黒澤の傑作と比較するから「ううむ……」と思ってしまうわけで、単独の作品として見れば、それなりにおもしろい作品に仕上がっていた。赤い椿と白い椿の対比もカラー作品ならではだし、「乗った人より馬は丸顔」の伊藤雄之助の役が藤田まことというのも適役(顔が長いだけでなく「必殺シリーズ」や「剣客商売」などもやっている人なので台詞回しも不自然さがない)。ラストの決闘ももともとのシナリオには「二人の決闘はとても筆では書けない」というようなことが書いてあるので(もう何十年も前にキネマ旬報に載ったシナリオを読んだことがある)それなりの工夫があった。悪くない。
 ただ、残念なことは、今や時代劇をやれる俳優が本当にいなくなってしまったということだ。織田裕二は殺陣もなかなかにうまいし、面構えもいいと思うのだが、もともと三船敏郎を想定して書かれたシナリオなので、同じ台詞ではやはり違和感がある。松山ケンイチ以下の9人の若侍も黒澤作品ほどうまく描き分けられていない。誰もがそれらしく台詞をしゃべれないのだ。敵役のトヨエツも「懐刀」にしてはしゃべり方を含めて切れがない。小林桂樹演じた「押し入れ侍」をやったのが佐々木蔵之助とは全く気がつかなかった。演技力の差か、演出力の差か。いかん。黒澤のものと比べてしまうと、どうしても……。
 どうでもいいこと。前作のシナリオ通りといいながら、三船が田中邦衛に、「てめえ、めくらか」という台詞は「てめえ、どこに目つけてんだ」と変更されていました。ま、仕方ないか。
 もひとつどうでもいいこと。三十郎が奥方の踏み台になる有名なシーンがあるのだが、黒澤作品では城代家老夫人を入江たか子、娘を団令子が演じていて、太った入江たか子が乗ったとき三船が「うぅっ」とうめく。爆笑のシーンだが今回は中村玉緒と鈴木杏。鈴木杏どういうわけか激太りで明らかに中村玉緒より重そうなのだが、織田裕二はやはり中村玉緒が乗ったときに「うぅっ」とうめく。黒澤シナリオ通りにやるのなら、いくらなんでもここは撮影前に鈴木杏に減量を命ずるべきではなかったのか。

☆NHK-BS2の黒澤明特集
 黒澤没後十周年ということで9/6にNHK-BS2で「七人の侍」が放送された。「七人の侍」は劇場で三度、テレビ画面では何度観たかわからずしかもビデオも持っているのにまた観てしまった。暇人としか言いようがない。心配していた画質は時々かすかなノイズが入るものの満足できるもので(DVDのものよりは若干コントラストが低いような気がした)、後で書くアーカイブスに挿入されるものよりはかなり黒がきちんと出ていた。まあ合格点と言ってよい。最近ではいわゆる「完全版」が主流になったようで、少なくともこの点は評価できる。たとえば以前の短縮版では(勝四郎と志乃のシーンがカットされていたため)勘兵衛が「お前も昨日からもう大人だ」という意味がよくわからなかったりした。
 この映画に関してはすでにあちこちに書き散らしてきたし、知人・友人にも話をしたのでここには書かない。と言いつつ少しだけ書く。
 侍が六人集まって明日出発するという話をしているところへ酔っぱらった菊千代(三船)がやってくる。で、置いた刀をとろうとするのだが、その少し前、右側に自分の刀を立てていた久蔵(宮口)がすっとその刀を左側に持ち替え、菊千代がとろうとする寸前、さっとその刀をとって勝四郎(木村)に渡す。もちろん、そういった演出がなされているわけなのだが、そのときの久蔵の自然かつ目にもとまらぬ動きにはほれぼれする。実際、この映画の久蔵役は「隠し砦の三悪人」における田所兵衛と並ぶ儲け役なのだが、それを立派にこなすのも役者の力量。拍子木の音を聞いて走る姿も腰が決まっているし、勝四郎に「あなたは、すばらしい人です」と言われたとき、何を馬鹿なことをといった顔をしたあと、口元に何ともいえない笑みを浮かべて眠りに入るところなど、その名人芸にこちらの口元も思わずにやりとしてしまう。観るたびに何か発見があるわけで、いやあ名作とはこういうものを言うんですなぁ。
 ただ、これは別のところにも書いたのだが、この名作にも小さな疑問が二つばかりある。一つは、仲間が次々と殺されていくのになぜ野武士たちは執拗にこの村を襲うのかということ。普通ならもっと襲いやすい村に向かうと思われるので、何か理由づけが欲しかった。もう一つは、久蔵がせっかく種子島をとってきたのに(そして菊千代もとってきたのだから種子島は2丁あるはず)なぜ使わないのかということ。雨でも家の中からなら撃てるわけで、事実、野武士の種子島で久蔵と菊千代は命を落としている。納得できない。
(侍探しのところの侍に仲代達矢が出ているのは今では有名な話なのだが、どこかのサイトで見たのか、うちの奥様が「宇津井健もでているらしいよ」と言っていた。それは気がつかなかった。今度観るときには気をつけてさがしてみよう。)
 9/6命日での「七人の侍」に続いて9/7は、NHKアーカイブスの黒澤特集。「七人の侍」はこうつくられたというメイキングと、「我こそは“七人の侍”」という10年前の番組を再放送。いようっ、NHKもたまにはいいことやるじゃないか。メイキングのほうはすでに以前観たことがあり、ビデオに録画もしてあるのでまあ流して観たのだが(なんと2本で3時間以上あるので息抜きが必要なのだ)、もうけものは「我こそは“七人の侍”」。司会が小堺と小林千絵だというので全く期待しないで観たのだが、司会はへぼでもゲストが豪華で知らない話も多く儲け物だった。まず制作側が土屋、津島の俳優(すでに侍は七人すべてが亡くなっていた。合掌)に当時の助監督、美術、カメラ、そしてスクリプターの野上照代。フアン代表がまた豪華で、作詞家のなかにし礼、仮面ライダー・藤岡弘、ピーター・バラカン、そしておおっとびっくりしたのは先日亡くなった赤塚不二夫がでていたこと。考えてみれば愛猫に菊千代(三船敏郎の役)という名前をつけ、村の長老の決めぜりふ「やるべし」から「べし」なるキャラクターを作り出したくらいだから考えてみれば別にびっくりすることはないのだが、先日亡くなったというニュースを聞いたばかりなので、今回の再放送に感謝。それにしても、最後に土屋嘉男がいきなり田植え歌を歌い出したのには驚いた。全く照れることなく、大声できちんと歌うんだから、役者ってすごいなあ(^^*。


☆黒澤明十周年と画質
 没後10年ということでNHK-BS2で9/6の命日には「七人の侍」が、9/20には「隠し砦の三悪人」が放送される。以前、「黒澤明の話をしよう」という雑文をこのブログにアップしたが、
http://tcn-catv.easymyweb.jp/member/tag1948/default.asp?c_id=893
 ようするに私が選ぶ黒澤映画の1位と2位が連続放映されるわけで、めでたいめでたい。すでにビデオは持っているが、この機会にDVDにも録画しておこう。ビデオはデジタルリマスター版で発売され、現在発売されているDVDも画質はかなりいいが(持っているわけではない。持っている人に見せてもらっただけである)、テレビ放映されるものもこれを使っているのだろうか。
 NHK-BS2で昔放送されたジョン・フォードの「駅馬車」など、アパッチののろしを見てリンゴ・キッド(ジョン・ウエイン)が逃げるのをとどまるのだが、NHK-BS2で放映された「駅馬車」ではこののろしが全く見えないので観ている人は、なんのこっちゃと思うだろう(私が映画館で観たのはリバイバル上映のときだが、それでものろしはちゃんと見えた)。
 先日「ザ・シネマ」チャンネルで放送された「黄色いリボン」もひどかった。黄色が退色しているフィルムから起こしたビデオなので木々の葉は青く、なによりかんじんのリボンが黄色く見えない。ハワード・ホークスの「リオ・ブラボー」も場面によっては赤と青の2色映画かと思うところがあった。「ウエストサイド物語」もくすんだ色合いで、これではせっかくのカラー70mmが台無しである。CATVの契約に含まれているチャンネルなので、こんなものなのかなという気もするのだが、このチャンネルはトリミング版も多く、同じくコースに含まれている「ムービープラス」「日本映画専門チャンネル」「チャンネルNECO」と比べてもまちがいなくワンランク落ちる。何とかしてもらいたい。
 その点、WOWOWは毎月2000円以上の契約料を払っているだけあって、色を含めた画質に関してはほぼ満足できる。「西部開拓史」のような駄作大作もちゃんとノートリミング版で序曲、間奏曲、終曲もすべて放送されている(NHK-BS2で放送されたときは序曲がカットされていたことはすでに書いた)。この作品は私は大昔に名古屋の毎日ホール大劇場で観たのだが、そのときより色が鮮やかな気がするくらいである。画質にうるさい人が多い(と思われる)「スター・ウォーズ」全6作や「ロード・オブ・ザ・リンク」全3作、最近の放映では「パイレーツ・オブ・カリビアン」全3作など、内容はともかくとして、こと画質に関しては全く問題を感じなかった(我が家のテレビ=ブラウン管ではという前提の感想である。大画面デジタルハイビジョンで観ている人がどうなのかは知らない)。NHK-BS2は画質でいうとWOWOWとザ・シネマの間といったところか。
 最後にNHKの黒澤特番について少しだけ。
 シナリオライター橋本忍が語る黒澤明は、もうすでに何度か聞いたことのある内容だが、90にしてあのかくしゃくさというのはたいしたもの。「シナリオは楽に下手に書け」なんて言葉は至言ですな。女優香川京子さんの語る黒澤明は初めて聞く内容が多くておもしろかった。それにしても香川さん、いくつになってものほほーんとしたお嬢様しゃべりで、「癒し系」の元祖のような方ですな。スクリプター野上照代さんの語る黒澤明も初めて聞く話が多いのだが(とくに「デルス・ウザーラ」)、仲代達矢らのゲストを生かしきれていないのが惜しい。ただ、皆さんまだまだ現役で、現役の人って歳をとってもなんだか溌剌としていますね。「見習わねば」と思いました。


☆藤田進の槍がキラリ
 最近でこそ洋画を見る割合が高いが、子供の頃は断然邦画を見ることの方が多く、今でもそこそこは邦画も見るのである。
 ところで、上のタイトルを見て、おっ黒澤の話をするつもりだな、とわかった人はかなりの映画通である。邦画と言えば、誰が何と言おうと、まず黒澤である。黒澤を批判することが一種のステイタスのような向きが一部にあるが、素直に「凄い」と認めるべきである。処女作の「姿三四郎」に始まり「野良犬」「生きる」「七人の侍」「用心棒」「椿三十郎」「天国と地獄」「赤ひげ」……と、黒澤明の傑作を挙げていけばきりがない。晩年の「影武者」や「夢」「八月の狂詩曲」にしたって立派なものである。「影武者」の時は「七人の侍」と比べて云々という評が多くあったが、あれって洋食だと思っていたら和食が出てきたってことで怒っているわけでしょ。違う映画なんだから、その映画はその映画で評価すべきなのにおかしいですねえ。黒澤という権威を批判すると自分が偉くなったように思えるのか、こと黒澤に関してはえてしてこうしたトンチンカンな批評が多い。たとえばほとんどの評論家に評判の悪い「夢」にしても、トンネルから出てくる日本兵の不気味さは、特筆ものである。ラストの清流のシーン、これは彼の好きなタルコフスキーの「惑星ソラリス」へのオマージュだと思うのだが、水の冷たさ、清々しさが実感されるような名シーンである。「八月……」にしても、あの入道雲の生きているような描写、ラストの皆がわーっとなる風雨のシーンなど黒澤以外の監督が撮れるとはとうてい思えない。失敗作の「乱」にしても後段の合戦シーンはどちらがどう攻めてという状況が実によくわかり、ちょっと他に類を見ない迫力である。つまり、誰が何と言おうと黒澤明というのは、それほど傑出した大監督なのである。
 ということで、今回は、その黒澤映画のうち私が特に好きなシーンをランダムに書いていこうと思う。そこでタイトルの「藤田進の槍がキラリ」。この名シーンがあるのは黒澤初のシネマスコープ映画「隠し砦の三悪人」の後半部である。
 この作品、他の名作と比べてあまり話題になることがなく、せいぜい「スター・ウォーズ」のロボットR2-D2とC3-POが砂漠をとぼとぼと行くシーンがこの映画の冒頭をイメージしている、と語られるくらいである。
 物語は、単純明解。
 城を追われた姫が友好関係にある隣国まで逃れる話である。それを助けるのが家臣の三船敏郎、これに強欲の千秋実と藤原鎌足、途中で女が一人加わる。当然、追手はかかっているわけで、一行は危機また危機の連続。実に展開がスピーディーなのは脚本の勝利であろう。が、ここで語りたいのは、そういうことではなく敵の豪傑・田所兵衛=藤田進のことである。藤田進と言えば、黒澤の処女作「姿三四郎」の主役だが、この映画で実に言い味を出しているのである。というより、俳優にとってこんなおいしい場面はそうそうあるものではなく、黒澤が処女作の主演をつとめた藤田のためにわざわざ用意したのではないかと思える名場面である。
 正体を敵に知られ、通報に行こうとする馬上の者を、これも馬上の三船が両手で刀を構えたまま追い抜きざま一刀両断に切り捨てる(このシーンは、「エル・シド」のカラオーラの闘いや、ジョン・ミリアスの「コナン」の決闘シーンに絶対に影響を与えているはずである)。そのまま、勢い余って突入してしまったのが、豪傑・藤田のいる陣地である。二人は、お互いの力量を認め合いながらも、先の合戦で出会えなかったことを残念がり、手出し無用と一対一の決闘に突入する。闘いは、ほとんど互角ながらも最後は三船が勝ち、これが「槍がキラリ」の伏線となるのである。
 ついに捕まった一同を藤田が見に来るのだが、その顔には無数の傷が。三船に遅れをとったことで、領主に責めを負ったのだ。そのことを知った姫の一言が藤田の心に強く残ったのは言うまでもない。
 そして翌朝、いよいよ一同はしばられたまま城へ送られていくことになる。その時だ。先頭からパンしてきたカメラが止まると、槍を抱くようにして藤田が座っている。その藤田が突然立ち上がり昨夜姫が謡った唄を謡いだす。「人の命は、……」と謡ったところで、「えいっ」と槍を突き出す。その槍が朝日にキラリと光るのだ。私は、このシーンを見て「ううむ」と感心のあまり思わず唸ってしまった。これは、もちろん計算ずくで光を当てているのだろう。しかし、それにしてもすごい演出ではないか。おおっ、これは何か起こるぞ、とよほど鈍感な人でない限りは思うはずである。
 この後「……火と燃やせ。よしっ、燃やすぞ」と続き、「裏切り御免」までは、映画史に残る名シーンと言っていい。数十人を相手に藤田進が、かつての豪傑はかくあったのか、と思わせる見事な働きを見せるのだが、様式美とリアリズムとが紙一重でくるりくるりと反転し、実に見ごたえがある、と同時に胸が熱くなる。名シーン数ある黒澤映画の中でも特筆すべき名シーンといえる。
 前半、逃走に移るまでがやや長いかな、という気がしないでもないが、黒澤の数ある傑作群の中にあっても屈指の傑作と言えよう。この映画はレーザーディスクでしか見ていないので、ぜひ映画館で見てみたいと思う。
 「生きる」や「七人の侍」「用心棒」「椿三十郎」「天国と地獄」などについては、いろいろな人がいろいろなところで書いており。それだけで何冊もの本ができるくらいなので、あまり話題にならないが印象に残っているシーンのみ簡単に書く。
 一つは、「七人の侍」の木村功が林のなかで、横たわるシーン.この時の周囲の野菊の美しさは尋常ではない。暗い森の中がその野菊のおかげで、ふっと明るくなるのである。それが木村の意識を反映したものであることは、言うまでもない。その木村功が、敵の鉄砲を奪い取って帰ってきた宮口清二に「あなたは、素晴らしい人です。私は前からそれを言いたかった」と告げて去るシーンも忘れられない。その瞬間、剣一筋に生きてきたニヒルな宮口が、ふっと照れたような顔を見せるのである。見ているこちらもつい口もとがゆるんでしまういいシーンである。余談だが、かつて「七人の侍」は、映画で死んだ者が生き残っている、と言われたことがある。映画で生き残った志村喬、加藤大介、木村功の3人が先に死んだからである。今、生きているのは千秋実只一人で、映画では7人のうち千秋が真っ先に死んでいる。偶然とはいえ、また伝説が一つふえそうである。
 「天国と地獄」では、何と言っても特急こだまの車内のシーンが圧巻。これまた画面全体を支配する緊張感といい映画史に残る場面といえる。スクリーンプロセスではなく、本当に特急こだま一両を借り切って撮影したのだそうだが、その効果は計り知れない。特に感心したのは、まどの所に置いてあるバヤリースオレンジの空き瓶(だったと思う)に外の景色が写り込み、それが動いているということ。30年以上前学校から見に行った時は、そんなことは全然気が付かなかったはずだが、気が付かなくてもそういう部分の積み重ねが独特の迫力を産んでいるのだと思う。
 「椿三十郎」はラストの三船と仲代とも決闘シーンばかりが話題になるようだが、椿の花が隣家の清流に沿って、わーっと流れてくる場面の美しさはちょっと他に例がない。また「椿三十郎」は、黒澤のコメディーセンスが最もよく発揮された映画で、加山以下の若侍の使い方もうまいが、小林圭樹演ずる押入れを出入りする侍の使い方など爆笑もののおもしろさである。単なるアクション時代劇でないことが、このことからもわかると思う。ただ、赤い椿と白い椿が一つのキーワードになっているだから、白黒の画面でそれを出してしまうという黒澤の凄さはわかるのだが、カラーで撮ってもらいたかった、とい思いは今でもある。
 黒澤の映画で文句があるとすれば「音」とくに「科白」だろう。「七人の侍」など志村喬や宮口精二、千秋実といった舞台経験のある役者の科白はともかく、三船の科白など何を言っているのかわからない部分が多々ある。ビデオになったとき、最新の技術で雑音を大幅に減らした云々という記述があって期待したが、やはり三船の科白はよくわからなかった。
 という欠点はあるにせよ、黒澤明はやはり大変な監督である。映画そのものを見ず、「七人の侍」を「自衛隊容認映画だ」などと言って硬直したイデオロギーでこの大傑作を否定した評論家は地獄へ落ちるしかない。


☆黒澤と外国
 この稿をかなり書き進めた1998年9月6日、突然TVが黒澤明の訃報を伝えてきた。享年88歳。そこで、予定を変更してTVの追悼番組ではないが、黒澤のことをもう一回書くことにする。前回は主に私のお気に入りの場面について書いたので、今回は趣向を変えて黒澤と外国(映画)との関わりについて少し書いてみたい。
 というと、やはり「七人の侍」と「荒野の七人」の関係から書くのが自然だろう。ユル・ブリンナーが「七人の侍」に感動して映画化権を買い「O.K牧場の決闘」「大脱走」のジョン・スタージェスが監督した。ヒットした音楽は、エルマー・バーンスタイン。ともかくシナリオが素晴らしいので翻案されたシナリオも悪くはなく、それなりによく出来た西部劇であったが、いかんせん「七人の侍」と比べるのは可愛そうな気がする。
 久蔵こと宮口清二が物見に来た野武士を切る前、余裕のヨッチャンで野菊をめいでているシーンがある。常に緊張しているようでは、一流の武士ではないのだから当然であり、花の美しさもわかるのである。かといってもちろん油断しているわけではなく、現れた野武士は一瞬にして切られるのである。で、「荒野の七人」ではどうかというと、同じ役をやったジェームズ・コバーンが、やはり花をちょんちょんと触っているのである。ガンマンにはおよそ不似合いな場面だが、「よくわからんが、あの黒澤が、そう演出したのだから同じように演出しなければ」というスタージェスの困惑ぶりが伝わってくる微笑ましい真似事であった。そういう厚みの違いが、「荒野の七人」はそれなりによく出来たアクション映画なのだが、「七人の侍」はアクションももちろん素晴らしいが何よりも人間のドラマとしての重みがある、という評価の違いになってしまうのである。
 「用心棒」の翻案といえばクリント・イーストウッド主演、セルジオ・レオーネ監督の「荒野の用心棒」で、マカロニ・ウエスタンの火付け役になったのは、ご承知の通り。無断で映画化されたということで黒澤は「未だに見ていない」とどこかのインタビューで語っていたが、出来は悪くない。これも、もともとのシナリオのおもしろさが影響していること、言うまでもない。最近、同じ「用心棒」を翻案した「ラストマン・スタンディング」(もともとこの設定、ダシール・ハメットの「血の収穫」の換骨奪胎だったわけで、アメリカ→日本→イタリアと来て、またアメリカに戻ったことになる)などより、素直に作っただけ遥かに納得の出来である。ラストのライフルの名手(「用心棒」で仲代達也がやった役)との対決シーンなど、なるほどの工夫が凝らしてあって、手裏剣を投げた三船の戦法も悪くはないが、ことラストの対決の「工夫」という点だけで比較すれば、イーストウッドの方に軍配が上がる。黒澤映画独特のくどさがなく、さらりと終わる終わり方もうまい。
 では、「荒野の用心棒」は、「用心棒」より出来がいいか、というと私のランク付けでは、やはり2ランクは落ちる、という結果になるからおもしろい。まず、位置関係が判ぜんとしない。「用心棒」では対立するやくざの家が宿場のどことどこにあり、三船が立ち寄った飲み屋がどこにあり、仲代の愛人の家がどこにあるかまできちんとわかるように撮られている。「羅生門」を撮った名手・宮川一夫のカメラは、黒澤の要求によく答えて宿場の荒涼とした雰囲気を実によく出している(余談だが宮川がカメラを担当した黒澤作品は「羅生門」「用心棒」「影武者」の一部のわずか3本だが、どれも節目の作品である。「羅生門」はベネチア・グランプリ、「用心棒」は黒澤プロの生き残りを賭けた作品、そして「影武者」は実に10年ぶりでの日本で撮る作品であった。おそらくカメラマンとして最も信頼していたのだと思う)。ところが、「荒野の用心棒」では、そういったところがほとんどわからないのだ。愛人の家は当然町の中にあると思っていたら、映画の途中、例の「さすらいの口笛」の音楽が流れる間、荒野を馬をとばしてやっと着いた、というシーンでは「おいおい」と質問の一つもしたくなってしまうのである。山田五十鈴や棺桶屋のおやじ、ちょいと足りない加藤大介、昼逃げの浪人など「用心棒」で印象に残った人物も出てこないか、出てきても印象が薄いので、映画の厚みが全く違ってきてしまうのだ。黒澤映画の翻案には「羅生門」を下地にした「暴行」などという駄作もあり、それに比べれば「荒野の七人」と「荒野の用心棒」は、原作を知らなくても、また知っている人はそこに黒澤作品の厚みを求めさえしなければ、それなりに楽しめる娯楽作品である。逆に、そこのところが翻案された映画ではどうしても真似できなかった、黒澤映画の真髄なのかもしれない。
 逆に、外国の文学を翻案して映像化したものに、「どん底」「蜘蛛巣城」「乱」「白痴」「天国と地獄」がある。「どん底」は、ゴーリキーの原作を江戸の長屋に移したもの。落語家の古今亭新生を呼んで「粗忽長屋」を一席聞かせてからリハーサルに入ったという有名な話があるが、そのせいかいつも終わり方がだらだらする傾向のある黒澤映画としては、落後のオチのようにストンと終わっている異色作である。
 「蜘蛛の巣城」と「乱」は、それぞれシェイクスピアの「マクベス」と「リア王」の翻案だと黒澤自身が語っており、その本人に反論する気はないが、「蜘蛛巣城」は山田五十鈴演じるマクベス夫人(シェイクスピアの時代は女役は子供が演じることが多く、達者な子供がいたので「マクベス」を書いたのではないか、と英文学者の中野好夫が書いていたことがある)はともかく、それほどマクベスという感じはしない。むしろ戦国絵巻と怪奇談を合体させた怖い話に仕立て上げているところにうまさが感じられる。「天国と地獄」もエド・マクベインの87分署が原案とされているが、似ているのは他人の子供を誘拐しても誘拐は成立するというところだけで、ほとんどオリジナルと言っていい。「乱」の「リア王」については、翻案であることに異論はない。
 それよりも、気になるのは「白痴」である。もちろん、ドストエーフスキイの原作からの翻案であるが、ともかく冒頭からの数十分が凄い。黒澤は、もともと自然を描写するのがうまい監督だが、この雪の街の描写はただものではない。かの文豪とがっぷり四つに組んで一歩も引かない、と言ったら誉めすぎかもしれないが、ともかくそれくらいすごい。その後、調子が乱れてちょっと収拾がつかなくなってしまったのは残念だが、4時間を超える作品を無理やり2時間40分に縮めた版しか見られないのだから、そのへんに原因があるのかもしれない。
 蛇足だが、「世界文学」の映画化はむずかしい。それが名作であればあるほど読んだ人間はそれぞれのイメージをもっているので、さらにむずかしくなる。それでもトルストイの「戦争と平和」などはスペクタクル大作として作ることが可能だし、スタンダールの「赤と黒」などは一種のヒーロー物として作るのが可能だし、ブロンテの「嵐が丘」など恋愛映画として作れるものもいくつかはある。そんな中でドストエーフスキイの原作は、初期の「貧しき人々」や「白夜」「死の家の記録」などを除き、特に映画化困難な原作と言える。というのも、(ここはドストエーフスキイ論を展開する場ではないので誤解を恐れずに簡単に言えば)ドストエーフスキイが描く現実は、我々が通常いうところの現実ではなく、現実以上の現実、現実以外の現実なので、単純にストーリーを追うだけでは、とても核心までは行き着けない、ということである。そんな困難な作品群の中では「白痴」は、比較的まとまりがよく、一種恋愛悲劇というかメロドラマの要素もあるため映画になりやすいとはいえる。が、ヒロインのナスターシャ一人取り上げても、「初めて人間を見ました」という言葉に象徴されるように、汚辱にまみれた人生を送ってきたからこそ純粋がわかる、というドストエーフスキイ独自の論理に裏打ちされているので、生半可な描写ではとてもこのヒロイン像は描けない。そんな困難な状況のなかで、やや黒澤ヒューマニズムにシフトしている不満はあるものの、黒澤の「白痴」は映画としてかなりのところまでドストエーフスキイの本質に迫っていると、私は思う。
 さて、黒澤には、舞台を日本に移し変えた翻案ではない、生涯で唯一外国で撮った映画、つまり外国映画がある。
 「デルス・ウザーラ」である。「影武者」や「乱」も外国資本が入っているが、「デルス・ウザーラ」は、正真正銘のソ連のモスフィルム作品である。どうして黒澤が日本で映画を撮ることができないのか、映画会社の堕落ぶりを見る思いがするが、そのおかげで我々は、日本ではとうてい撮影することのできないような雄大なシベリアの自然を背景に展開するドラマを見ることができたのである。
 吹雪の中で草を刈って小屋を作るシーンなど思わず息をするのも忘れて両手に力が入るし(このシーンは、本当に凄い。名シーン数ある黒澤映画の中でも間違いなく5本の指に入るこのシーンだけでも見ておいて損はない)、相手が雄大な自然なればこそ、デルスが自然と会話し、自然とともに生きている姿にも何の抵抗も無く共感できるのである。自然と人間、という図式ではなく人間も自然の一部である、という考え方は、「もののけ姫」などより遥かに深い。ともかく圧倒的に厚い絵作りであり、圧倒的な自然描写である。この映画がアカデミー外国映画賞を取ったのは当然と言えるが、それが日本映画ではなかったところに複雑な思いが残る。


☆黒澤作品の厚み
 追加でもう1回書く、といったところとてもおさまり切れず、前回は、日本の黒澤の外国の話だけで終わってしまった。さらにもう1回、しつこく黒澤映画の話を続けることにする。それだけの価値のある監督なのである。前回のおさらいをすると、要するに黒澤は何よりもアクションのうまい監督(世界一と言ってもいい)であり、しっかりしたシナリオを作る監督であった。外国でリメイクされた黒澤作品は黒澤アクションとそのシナリオに支えられて、それなりにおもしろいのだが、薄っぺらなのである。再発見がない、と言ってもいい。
 その証拠に、比較的出来のいい「荒野の七人」や「荒野の用心棒」にしても確かに初めて見たときはおもしろいのだが、二回目となるとそのおもしろさが、がくんと落ちる。しかし、本家の「七人の侍」や「用心棒」には、そういうことはない。見る度に発見があり、極論すればスト−リ−はわかっていても、二回目、三回目の方がおもしろいことさえあるのである。外国の翻案では、黒澤の映画が単なるアクションに留まっていない、そこのところはさすがに真似が出来なかった、ということだろう。
 要するに黒澤映画は、アクション映画として見るだけでもおもしろいが、それだけではない。人間描写がしっかりしているため人間ドラマとしてもおもしろい。自然描写に関しては「羅生門」の雨、「八月の狂詩曲」の雲と雨を見れば理屈はいらない。そうした様々な側面から見ても十分満足出きる映画であることを、私は、黒澤作品の厚み、という言葉で表現してきた。
 訃報が載った新聞には黒澤の全作品リストが掲載されていたが、全30作のうち私は実に28本(「続・姿三四郎」と「いちばん美しく」のみ未見→後にこの2作はNHKのBS2で放送され、遂に全作を見ることができた。「続・姿三四郎」は、多分「姿三四郎」がヒットしたので新進の監督としては会社から「作れ」と言われて断れなかったのだろう。黒澤にしては珍しくどうでもいいような凡作だった。「いちばん美しく」は戦時中の映画らしい映画で、珍しく女性の集団がメインで集団の撮り方などうまいものだが、どうこう言うようなものでもない)を見ていたであった。映画評論家でも研究者でもない私としては、この数字は実に驚くべき数字である。なぜ、そんなにも追っかけるようにして見ていたのか……、と考えた末の一つの答えがこの「厚み」であった。私は、たまにヘタな小説を書くことがあるのだが、ある場面のイメージが浮かび、そういったイメージがいくつか積み重なっていく中でストーリーを作っていくのだが、(達成度という点では天と地との差があるが)多分、黒澤もそうやって映画を作っているのではないかと想像されるところに親近感を抱くということもあるのだと思う。
 ストーリーも重層的なのが多いが、何よりも黒澤映画は絵そのものに厚みがあるのだ。もちろんそれは演出であり、フイクションなのだが、黒澤の手に掛かると、時として本物よりも本物らしく見えてしまうのだから不思議である。
 たとえば、「羅生門」の雨と木漏れ日。あんなものすごい雨が都合よく降るわけはない、と思いつつも本編が太陽ぎらぎらなので、その対比の妙に思わずうなってしまうのである。木漏れ日にしてもそうだ。昼寝をしている多情丸=三船敏郎の顔にかかる木の葉の陰にしても、高い木の葉っぱの陰があんなにくっきりと映るわけはないのである(多分、フレームの外で助監督が木の枝を持って揺らしていたのだと思う)。しかし、名カメラマン=宮川一夫を配した映像は、葉っぱを揺らす風すら観客に感じさせてしまうのである。要するに、そこにあるものは嘘なのだが、考えてみれば、平面のスクリーンに映し出される白黒の映像そのものが嘘なのである。現実以上にリアリティーをもつフィクションがそこにある、と言ったら言いすぎだろうか。
 処女作の「姿三四郎」の有名な蓮の花が咲く場面など、そう調子よく咲くわけがないじゃないか、と思いつつもその美しさに脱帽してしまうのである。クライマックスの薄の原での決闘シーンは、以後多くの模倣作を産み出したが、あの風に波打つ薄の感じをこの作品以上に出し得たものはない。「我が青春に悔いなし」の田植えをする原節子の姿には、ただ黙々と田植えをするだけなのに、何か切羽詰まったような緊張感と重みと厚みがあった。「生きる」のブランコは、あまりに有名になりすぎたが、主人公の志村喬が若い女性に「きみは、生き生きとしている……」云々と言っている背後で「ハッピー・バースデイ」の歌が歌われるシーンなど、できすぎていると思いながらも主人公の心境を考えると思わず目頭が熱くなるのである。「七人の侍」のはためく旗は、強風と共に、ざわざわした布の手触りが伝わってくるようである。
 前回書いた、「七人の侍」の野菊や「隠し砦……」の藤田進の槍にしてもそうである。そんなものは自然状態ではあるはずはない、と思いつつも映像的にはかくあらねばならないかったのだと思う。我々の現実がそうであるように、スクリーンの上に現実以上の現実を描き出した黒澤作品は様々な見方が可能であり、そうした映像の画面の厚みは処女作から遺作まで、すべての黒澤作品に共通するものであると言える。
 遺作となった「まあだだよ」は、どうということはない映画に思えたが、棺桶の中から出てきたあの所ジョージが「まあだだかい」と言い、松村達雄が「まあだだよ」と言い返す、たったそれだけのシーンが画面としてもってしまうのである。すると、私は、こう考えてしまうのである。
 「今は、どうということのない映画だと思っているが、それはもしかするとまだ黒澤の年に達していないからではないのか。10年後、20年後に見たら違う感想になるのかもしれない」
 要するに、黒澤明の映画は、MOVIEではなく、MOTION PICTUREなのである。
 黒澤の欠点を一つだけ挙げるとすれば、やはり女性の描写ということだろうか。それなりに女性が描かれていたのは「我が青春に悔いなし」「羅生門」程度で、いてもいなくてもいいが、いないのはちょっと不自然だから出しておくか、といった映画も多い。女性観が古く、観念的なのである。が、1人の監督にすべてを求めるのは愚というもので、日本には素晴らしい男性映画を撮る監督がいた、ということでいいのだと思う。あ、あと音の問題があった。黒澤は、音楽や効果音を入れるタイミングは、実に名人芸なのに、台詞が聞き取りにくいのにはほとんど無頓着という欠点がある。「七人の侍」の三船など、けっこう蘊蓄のある台詞をしゃべっているのに、ただがなり立てているだけのようにしか聞こえないのは残念。黒澤ビデオはSONY-PCLが制作管理をしているので、最新技術で画像だけでなく台詞もクリアにしてもらえないものだろうか。
 とまれ、スクリーンの中の人が、物が、現実以上の重みと厚みをもって観客に迫ってくる。そこに黒澤映画の最大の魅力がある。そんな黒澤が「赤ひげ」以降、満足に映画を撮ることが出来なかったのは本当に惜しい。
 最後に私の黒澤映画ベスト5を挙げて、とりあえず黒澤の項を終えることにしたい。
1. 七人の侍
2. 隠し砦の三悪人
3. 用心棒
4. 羅生門
5. 生きる
(次点・天国と地獄)


☆「天国と地獄」私論
 きちんと作られたサービス精神旺盛な日本映画の例は?
 と、考えたのだが、日本ではやはり黒澤映画ということになる。が、世に黒澤論は万とあるので、ここでは比較的論じられる事の少ない「天国と地獄」の話をしようと思う。なぜ、「天国と地獄」なのかというと、こういうことだ。だいたい黒澤というとまず語られるのはまず「七人の侍」で、続いて「用心棒」「椿三十郎」「隠し砦の三悪人」「蜘蛛の巣城」「羅生門」「影武者」「乱」と、時代劇がほとんどである。現代劇で傑作と思える「生きる」と「天国と地獄」は、そのテーマ性から「生きる」は時々話題にのぼるのだが、「天国と地獄」はほとんどなく、かねてから不満をもっていたことによる。私論というのは、まあ大袈裟で、映画のサービスというものを考える上での、感想または印象批評とでもいったところと了解してほしい。
 「七人の侍」に関して黒澤自身が「お客さにんたいへんなごちそうを食べさせてやろうと考えて作った云々」と語っているように、黒澤映画は晩年の作品も含めてサービス精神に満ち満ちているが、この「天国と地獄」も例外ではない。
 物語は、運転手の息子を誘拐された権藤(三船敏郎)と警察VS犯人という図式で進む。前半50分ほどは権藤邸の居間を舞台にまるで舞台劇。有名な特急こだまのシーンを挟んで警察VS犯人という図式が鮮明になり、権藤と犯人の対面で終わる。よーく考えてみると、最初、主役かと思った権藤が途中から消えてしまって警察の映画になってしまうあたり構成に乱れがないわけではないが、それは後から気付くことであり、見ている間は厚みのある黒澤映像をたっぷりと堪能できる傑作である。
 まず、権藤邸の居間での場面が緻密で人の出入りと会話だけで画面がもってしまう、その造形力に驚く。すでに書いたことだが、画面の奥行きが深く、厚いのである。その中で「(こんな悪質な誘拐をやって)たった15年云々」という台詞が有り、後段犯人が殺人を犯すのをまって「これで貴様は死刑だ」というあたり、実にリアルで恐ろしいものがある。そういう警察の描き方はおかしい、という意見もあったようだが、汚職も冤罪もデッチ上げもやる警察の内部は案外そんなものではないのか、という気がするのだから黒澤の演出力は、凄いものがある。仲代以下の刑事たちは正義感からそういう発言をし、そう振舞うわけで、そうすることによる罪の意識など全くないように見える。黒澤も、それをあからさまに非難しているわけではない。しかし、非難はしていないが無条件に持ち上げるのではなく、警察にはそういう恐ろしい部分もある(犯人逮捕のためとはいえ、新聞に嘘の情報を書かせたりもしているのである)、と思わせるところに黒澤の複眼的思考が読み取れるはずである。そのあたりが弟子を任じる幼児思考のスピルバーグとは違うところなのである。要するに、そういう映画は二度、三度と見ても新しい発見があっておもしろいのであり、これも広い意味でのサービスと言えないこともない。
 そんな静的なシーンの後に突然、特急こだまが、ぐわーんと走り出すのだからその効果たるや計り知れないものがある。空き瓶に映る景色のリアリティーに驚いたということもすでに書いたが、警部の仲代に加藤武が「子供は乗っていない」という紙切れを渡すシーンにしろ、犯人から電話があってからの狭い通路を使っての移動にしろ、列車の先頭と最後尾で犯人に見られないように8ミリを回す場面にしろ、その緊迫感は他に例を見ない。一発勝負の撮影だから、スタッフの張り詰めた精神状態まで伝わってくるような迫力がある。普通ならスクリーンプロセスでごまかしてしまいそうなところを、わざわざ列車を1編成走らせてのこの撮影こそ「天国と地獄」最大のサービスと言える。
 この映画は学校から見に行って、子供にとってはちょっと難しい部分もあったのだが、この場面だけは全員が全く無駄話をせず、画面に食い入るようにして見ていた記憶がある。特急こだまは窓が開かないのだが、トイレの窓だけは7cm開く(そのために身代金を厚さ7cm以下の鞄に入れろという犯人からの指示がある)というその7cmまで覚えていたのだから、よほど強烈な印象を受けたのだと思う。
 子供が無事戻った後、木村功らが犯人が使った電話ボックスを探して歩くが、パンダウンしたカメラが川と、川面に映る人物を写し、そのカメラが再び上がって川の横を歩いていく人物を写す。その人物こそ言わずと知れた犯人(山崎努)なのだが、このあたりの呼吸のうまさにも脱帽してしまう。およそ映画の半分くらいきたところで、そろそろ犯人を出しておかないと、後半のドラマが成立しない。そんな出すべきタイミングで犯人を絶妙に出してくるのである。犯人の考える「丘の上の権藤邸=天国、自分のいる丘の下=地獄」という図式が一画面にぎゅうっと凝縮されて映し出されるのも、このシ−ンである。
 その後の捜査会議も各刑事が各々の担当の報告をする形で事件の全貌、捜査の進み具合がわかるという、うまい構成である。こういう何人もの人間が入れ替わり立ち代わりという場面は、監督の力量が試されるところなのだが、黒澤は悠々とこなしている。警察の偉い人で黒澤映画の常連ともいえる志村喬、藤田進の顔が見られるのもサービス。俳優で言えば権藤の会社の仇役が「椿三十郎」の「乗った人より馬は丸顔」の家老=伊藤雄之助だったり、ピンクの煙が出る鞄を燃やした焼却炉のおっさんが藤原鎌足だったりするのも、黒澤映画ならではのサービスである。別にその俳優を宣伝のために出すのではなく、話の展開の中で普通にその役のために出している(この辺が特別出演という形で本筋とは関係ない役をわざわざ作って有名人を出し、話を止めてしまう凡百の映画と違うところ)ので違和感はなく、私も後に名画座やビデオで見て、
「あっ、この人が出ていたんだ」
 と初めて気付いたほどである。そういうことがわかれば、それはそれでまた楽しいわけで、こういうのもサービス精神と言っていいと思う。
 運転手が子供を乗せ、記憶を少しでも喚起させようと出かけ、それを刑事が追うという2台の車を使ってのシーンも、ヒッチコックの「めまい」におけるサンフランシスコの尾行シーンに勝るとも劣らない名シーンである。刑事が聞き込みをもとに、運転手が子供の記憶をもとに車を走らせるのだが、子供の描いた絵と同じ風景が現れたり、録音テープに音が入っていた江ノ島電鉄の電車が通ったりしながら2台の車がある1点に向かって進んで行くシナリオは、さすがのうまさである。
 と、こう考えてくると、映画の内容的なサービスというものは、実に当たり前のことを当たり前にきちんとやり、さらにその上で創意工夫を凝らしたものである、ということがわかる。別に特別なことでも何でもないのである。ただ、その当たり前のことが当たり前に行われていないところに問題があるのだが…。
 最後に、黒澤が初めてカラーを使った、と話題になったピンクの煙のシーンは、サービスというよりおまけのようなもので、特にどうこう言うほどのものでもない(というより、鞄に特殊な薬を入れ込んであるので燃やしたら赤い煙がでる、という設定なのでいくらなんでも白黒映画で「赤い煙が」というのは無理、というかいくら「椿三十郎」で赤い椿と白い椿を描き分けた黒澤であってもこれは不可能である)。

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作品雑談 1 [映画の雑感日記]

★完全版とディレクターズ・カット版
 「2001年宇宙の旅」のレーザーディスクは、私が最も買いたかったものの1枚で、出るとすぐに買った。ノートリミング版が出ると、これもすぐに買った。ノートリミング版とトリミング版では、とくにオープニングとエンディングは別物の感があるし、これは今でも買ってよかったと思っている。その完全版が出ると聞けば「おっ」と思うのは当然だろう。が、よく調べてみると、オープニング前の序曲が入っていたりするだけなようなので、買うのをやめた。画質も多少よくなっているらしいが、名作だけにもう1枚買わせてしまおう、という商魂から出たものだろう。こういうのを不愉快という。
 キューブリックの作品では「スパルタカス」も完全版というのが出ている。何でもローレンス・オリビエとトニー・カーチスとのホモセクシャルを感じさせるシーン等が追加されているそうで、確かに以前のビデオにはなかったシーンがあるが、大勢に影響はない。すでに「スパルタカス」のレーザーディスクを買ってしまっている私は、友人にこの完全版を見せてもらってこのことを確認したのである。完全版という言葉につられてビデオを再び買ってしまった人は、まあ、ごくろうさんといったところだろうか。
 しかし、これなどまだ罪としては軽い方で、劇場公開版(これこそが完全版だと思うのだが、どうもそうでもないらしい。このことについては後で述べる)と比べて完全版の方が悪くなっている、ということもあるのである。
 私の知っている範囲で、完全版より劇場公開版の方が絶対によかった、と思うのは「エイリアン2」。私は完全版という名称につられて完全版の方のレーザーディスクを買ってしまったのだが、完全に失敗。完全版にはヒロインのリプリー(シガニー・ウィーバー)たちが行く前に、問題の惑星である家族がエイリアンに襲われるシーンが入っていたりする。その家族の生き残りがリブリ−たちが基地に行った時に出てくる例の女の子なのだが、リプリーたちが到着する前にあの惑星がどうなっているのか観客にはわかってしまっているのである。どうなっているのだろう、とリプリーと同じ気持ちになって着陸していくところにスリルとサスペンスがあるわけで、事前にわかっていたのでは興ざめもはなはだしい。完全版だけに出てくるというセンサーで発射される機関銃のような兵器もどうということはなく(ということは、あってもなくてもいい場面ということで)、出来としては劇場版の方が一枚も二枚も上である。
 つぎに「ブレードランナー」。この映画については言いたいことが山ほどある。原作者のP.K.ディックは、死というものに異常なほどこだわった作家だが、これも人間とそっくりだが作られて4年の寿命しかないというアンドロイド=レプリカントを題材にした傑作である。リドリー・スコットの「ブレードランナー」もまた、そのディックの雰囲気を実によく出した傑作である。まずこの点は押さえておきたい(ちなみに原題は「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」で、ディックは、「アンドロイドも(電気羊ではなく)羊の夢を見る」という解答を出しているのだと思う)。私は、アリメカ版のレーザーディスクを借りてダビングしたビデオを持っていたが、英語力が不足していてよくわからん。それでもなかなかの映画だと思っていたので、字幕スーパー版が日本で発売されると、すぐに購入した。問題は、その後に出た完全版とディレクターズ・カット版(最終版)である。よく出来た映画だけに私は「ほう」とか「へえ」と言いながら都合3枚ものレーザーディスクを買ってしまったのである。で、結論を先に言うと「損したあー」ということになる。まず完全版だが目にドリルが食い込むなど残酷シーンが1、2分ほど追加されているだけで、なくても別にどうってことはなく、そもそもそういったシーンの嫌いな私としては、ノートリミング・シネスコ版であるということだけが取り柄の買い物であった。
 さらに10年ほどして出たディレクターズ・カット版は、巻頭のハリソン・フォードの「私はブレードランナー…云々」というモノローグが全てカットされているが、英語のたいしてわからない私にとってはそんなことはどうでもいいことである。ラストのレイチェルとフォードが車で去っていくシーンは確かに余計なシーンで(プロデューサーの要請でキューブリックの「シャイニング」のフィルムを使ったという話を聞いたことがある)、その前のエレベーターの扉が閉まるシーンからすぐにエンディングに入るというのは大賛成だが、これも従来から持っていたレーザーディスクのシーンをジャンプしてしまえば済むことである。ユニコーンの追加シーンに至っては、それだけでフォードもまたレプリカントであることを暗示したなんてしたり顔で解説をする人間がいるが、そりゃ無理というものですぜ、R.スコット旦那。そんなわけで私は、「ブレードランナー」の安くもないレーザーディスク(とくに完全版は12800円もしたのだ)を意味もなく3枚も買ってしまったのである。金返せ!!
 「ターミネーター2」も、完全版では核戦争とのからみやヒロインのトラウマなどがよりきめ細かく描かれているが、だからといってもう1枚(ビデオならもう1本)わざわざ金を出して買うほどのものではない。要するに私のように「完全版」と聞くとつい気になって買ってしまう人間目当ての金儲け主義と批判されても仕方ないところだろう。「完全版」大好き人間の私も多少は「学習」をしていて、これはレンタルビデオで確認したら上記のような差異しか確認できなかったため買うのを止めた。
 と、完全版の悪口を書いてきたが、当たり前のことだが完全版の方がいいものももちろんある。
 たとえば「アラビアのロレンス」。これは、最初にでたビデオ(およびレーザーディスク)がひど過ぎた。まず、あの有名な序曲がない。あのティンパニーの連打で始まる序曲から始まらなければ「アラビアのロレンス」ではない、と言っても過言ではないと思うのは、私一人ではないはずである。しかも朝日が昇るシーンでは色ノイズが盛大に出るし、トリミング版なので有名な砂漠の救出シーンでは左右の人物が切れてしまい音楽の盛り上がりに反して、砂漠の地平線だけが映し出されている、という悲惨さ。さらに一部が裏焼き(ということは左右反転)されているという最悪のバージョンであった。私は、怒りのあまり発売元のパイオニアに電話をかけた。返ってきた答えが「確かに序曲はありませんが、序曲のようなものが途中に入っています」だって。馬鹿野郎。始まりに演奏されるから序曲なんだろうが。完全版でノートリミング版になり序曲が復活されたのは当然のことと言えよう(それにしてもこれほどの名作の序曲部分が破棄されていて新たに録音し直したとは信じられない話である)。
 このビデオ化される時に序曲(一般的に映像はない)がカットさた例には他に「ドクトル・ジバゴ」、インターミッションの間奏曲がカットされた例には「十戒」などがあり、いずれもノートリミングの「完全版」時に復元されている。
 ところで、劇場公開されたものが完全版かというと、実はそうでもない、というところに最近の映画事情の問題点があるのである。その最もいい例が、初めて音速を突破したチャック・イエーガーとマーキュリー計画に参加した七人のパイロットたちを対比的に描いた傑作「ライト・スタッフ」。
 話のスケールの大きさや現実感溢れる特撮もいいが、たとえばゴードン・クーパーが記者に「最高のパイロットは?」ときかれ、あれこれ説明した後「今までで最高だと思ったパイロットが一人だけいる」とチャック・イェーガーの名前を言おうとして自分の話が受けていないことを知り「目の前にいるよ」、と言ったところでイエーガーの映像に切り替わる展開もうまい。
 ただ、この映画、劇場で見ると「いい映画なんだが、所々つながりの悪いところがあって惜しい」という評価になる。私も、そう思っていた。が、30分ほど長い完全版では、そうした不満が完全に一掃されているのである。劇場公開版は佳作評価だが、完全版は掛け値なしの傑作評価へと一変するのである。F104の飛行シーンなどの迫力もなかなかのものでテレビの小さな画面で見ても劇場で見たときよりも感動するのだから、一度完全版を無劇場で見たいと思っているのだが、封切り後10年以上経つ今になっても完全版が劇場公開されるという噂はない。映画館での回転の問題でカットされてしまったのだそうだが、ビデオの方が完全版で、劇場公開の方は不完全版というのは絶対に納得がいかない。全く金を払って見に来る客をなんと考えているのか。カットするのなら唯一退屈するストリップシーンだけにしてほしかったと思う。
 劇場版でのカットの問題といえば「サウンド・オブ・ミュ−ジック」にもあった。修道院へ逃げ帰ったマリアに対し、院長が「すべての山に登れ」と歌うシーンで、マリアが「もう一度トラップ家へ戻ろう」と決心する場面なのだからかなり重要な部分である。このシーンが封切時には、バッサリとカットされていた。ところが、封切前から売られていたサントラ盤には、この歌はちゃんと入っていたのである。LPに入っている歌が映画に入っていないのだから、すぐにわかる。当然映画雑誌では大きな問題になった。マスコミ向けの試写会の段階では間違いなくあったというし(私が見た一般向けの試写会ではすでにカットされていた)、そんなすぐばれるカットなどするな、と言いたいのだがこれも映画館の回転の問題でカットされてしまったのだろうか。
 だいたいこの「サウンド・オブ・ミュ−ジック」の主要な歌は、「「サウンド・オブ・ミュ−ジック」にしろ「エーデルワイス」にしろ一人(あるいは小数)で唄われる歌が、二度目のときにはみんなで唄われるという「文法」にのっとって作られているのである。「すべての山に登れ」も例外ではなく、院長からマリアに向けて唄われたものが、ラストではコーラスによりトラップファミリー、いや映画を見ている観客すべてに対して唄われるのである。院長の歌がカットされてしまえば、マリアが簡単に翻意して戻って来たような印象を受けるだけでなく(少なくとも私は劇場でそう感じた)、「すべての山に登れ」を一人→多数の繰り返しの中で聞くのと、ラストで初めて聞くのとでは、感動の度合いが間違いなく違ってくると思う。ちなみに、私がこの問題のシーンを初めて見ることができたのは、封切り後20年近くして、レーザーディスクが出てからであった。困ったことである。
 最後に、「スター・ウォーズ」シリーズの「特別編」に触れておこう。これは公開20年に当たって当時の技術では不可能だった部分の特撮をしなおし、さらに何カットが新しい部分を加えたというものである。確かに「帝国の逆襲」の雪のシーンなど合成の境目のチラチラがなくなって、ずっと自然になっている。「ジェダイの復讐」のラスト、森の木陰でどんじゃらほいでは、宇宙規模で戦われた戦争なのにそのスケールがわからないじゃないか、という不満もなくなった。その点では意味ある改変と言えるが、すでにトリミング版とノートリミング叛のレーザーディスクを持っている者としては、買おうか買うまいか複雑な気持ちではある。やはり映画は映画館で上映されるものを「完全版」としてほしい。(「スター・ウォーズ」は最初の作品をIVとして、その前のI〜IIIが後日制作された。ダースベイダーになる俳優は当然違ってくるため、「ジェダイ」のラストでベイダー、ヨーダ、オビ・ワンが幻のように出てくるシーンでベイダーをクリステンセンに変更したという話を聞いた。さすがにもう付き合ってはいられない。)


★パート2は、難しい
 映画がヒットすると、柳の下のどじょうを狙って続編(あるいは、リメイク版)がつくられるのは、世の常である。が、これが意外に難しい。ヒットした映画には、それなりに観客を納得させる部分があり、パート2には、当然そのイメージの延長線上にさらなる何かを期待しているからである。そんなわけで、パート2は、ほとんど失敗作であると言っていい。それも、少数の例外を除いて、オリジナルに泥を塗ってしまうような出来のものがほとんどなのである。
 その典型的な失敗例というか馬鹿野郎ものの駄作が「ポセイドンアドベンチャー2」。「ポセイドンアドベンチャー」は、この手の映画としては出色の出来で、主演のジーン・ハックマンはじめ転覆した船から脱出しようとする人々の個性が見事に描かれており、人間ドラマとしても見ごたえがあった。ここが重要な点である。
 ところが、せっかく転覆したということで上下が逆のセットを作り、映画もヒットしたのだから、そのセットを利用してパート2を作ろうと考えた馬鹿がいたのだ。生存者わずか5名と思われていたポセイドン号にまだ生存者がおり、さらに船にはある物が積まれていて、そのある物をめぐってドンパチというのでは、開いた口がさらに開こうというものである。オリジナルは、人間ドラマとしてよくできていたからこそ見どころがあったという点は、ここでは完全に見逃されている。
 「エクソシスト2」も、ひどかった。私は、基本的にこの手の映画が好きではないが、それでも「エクソシスト」では、牧師のマックス・フォン・シドーが「悪魔払いに来ました」と建物を訪れるシーンなどは映像的にもそれなりの説得力をもつものであった。それが、「2」で、実はまだ悪魔が取り払われていなかった(このパターンは「ポルターガイスト」も同じ)というのでは、悪魔払いのために命を落とした牧師はなんだったのだろう、と唖然としてしまう。
 「2001年宇宙の旅」→「2010年」(「2010年」もぎりぎり合格点の出来だが、映画史に残る名作相手では歩が悪かった。ただし、この映画はパート2というより別の映画として考えた方がいい側面もある)、「ナバロンの要塞」→「ナバロンの嵐」、「キング・コング」→「コングの復讐」&リメイク版「キングコング」、「荒野の七人」→「続・荒野の七人」「新・荒野の七人」(続編が作られる度に役名は同じなのに俳優が代わってしまうというとんでもないシリーズ)、「荒野の用心棒」→「夕陽のガンマン」「続・夕陽のガンマン」(「クリント・イーストウッドの「荒野の用心棒」に対して「続・荒野の用心棒」という作品があるが、これはフランコ・ネロ主演の全くの別物。ただし、出来は悪くない)、「ロマンシング・ストーン」→「ナイルの宝石」、「三銃士」→「四銃士」(「三銃士」が笑いありアクションありの佳作だっただけに惜しい。どうしてこんなつまらない続編を作ってしまったのだろう?)、「ブロジェクトA」→「ブロジェクトA2」、「駅馬車」→リメイク版「駅馬車」、「嵐が丘」→リメイク版「嵐が丘」、「ローマの休日」→リメイク版「ローマの休日」…など、皆例外ではない。
 「駅馬車」などオリジナルがモニュメントバレーの荒涼とした景色の中を走ったのに対して森林地帯を走らせたのだが、所詮監督(ジョン・フォードに対してゴードン・スコット)の腕が違った。ごくろうさん、としか言いようがない。
 クルーゾー監督の「悪魔のような女」は、いったいどうなっているんだろうと思いながら見ていてラストで「あっ」となったのだが、シャロン・ストーンのリメイク版は見て大損。レンタルビデオで見て腹が立ったのだから、劇場で見ていたらどうなったことやら。ヒッチコックの「サイコ」も2が出ておいおいと思っていたら、「ハスラー」も2が出た。いずれもアンソニー・パーキンスとポール・ニューマンが1に続いてが付き合っているが、これもごくろうさんとしか言いようがない。「スピード」も2では、スピードが出なくて失速した。キアヌ・リーブスが出なかったのは正解で、ついつい付き合ってしまったあのお姉ちゃんは、これで消えていくんだろうなあ。「ダイハード」のジョン・マクティアナンがシュワちゃん主演で撮った「プレデター」を私は隠れた侵略物の傑作だと思っているが、舞台をアメリカに移した「プレデター2」は、怪物をわさわさ登場させたにもかかわらず、1の緊張感には遥かに及ばない駄作だった。このあと、さにら「エイリアンVSプレデター」なる珍品まで作られることになるのだが……。
 「インディー・ジョーンズ」「バック・トゥ・ザ・フューチャー」「ダイハード」「スター・ウォーズ」といった3部作物もすべて第1作が一番出来がいい。だいたいアクション物やホラー物は、シリーズ化されることが多いのだが5作も作られた「ダーティ・ハリー」が結局第1作を抜けなかったように、第2作が断然おもしろかった007という例外を除いては、すべて第1作が最もおもしろいと考えて間違いはない。要するに金儲けのためにシリーズ化されたわけで、第1作だけ見ればいいのである。「オーメン」「13日の金曜日」「エルム街の悪夢」といったB級ホラーは好みではなく、そもそも第1作からして見ていないので、ここでは問題にしない。ま、好きな人は勝手に見ればええがね、といったところである。
 また、正確には続編ではないが、「アルプスの少女ハイジ」の続編とでも言うべき「アルプスを越えて」という珍品もあった。軍隊に行っていた青年ペーター(チャーリー・シーン)がそれなりに大人になったハイジと共に、まるで「サウンド・オブ・ミュージック」のようにアルプスを越えて脱出して行くという、とてつもない話であった。「ハイジ」に感動した人は見ない方がいいことは言うまでもない。
 日本映画でも「ゴジラ](前回の完全版の話ではないが、おおよそビデオ化されたものは、劇場公開版より長くなっていることはあっても、短いこときないという暗黙の了解があると思う。が、「ゴジラ]のビデオは10分のカットされており、のちに「全長版」が出るという問題があった)→「ゴジラの逆襲」、「ニッボン無責任時代」→「ニッボン無責任野郎」などいずれも最初の方が出来がいいし、「寅さん」シリーズも第1作が一番出来がいい。「駅前旅館」のように第1作は井伏鱒治の原作があったまともな作品だったのが「駅前シリーズ」として独り歩きするようになった例もある。
 黒澤明の「椿三十郎」は、映画の出来としてはなかなかのものだが、それでも前作の「用心棒」には及ばない。ついでに言うと黒澤映画の海外リメイクとしてそれなりの出来にある「荒野の七人」「荒野の用心棒」も、「七人の侍」「用心棒」には、及ばない。「羅生門」→「暴行」に至っては、論外と言っていい。
 そんな中で、パート2を作るにはどこをどうすればいいのかというノウハウを知っている監督として「タイタニック」という駄作ではないが前半やや退屈な部分のある映画で名を上げたジャームズ・キャメロンがいる。彼の「エイリアン2」「ターミネーター2」は、前作を超えるとは言わないまでも、前作と同水準のおもしろとは十分に維持している数少ない例である。
 で、キャメロンの続編をよーく見てみると、パート2といいながら、実はキャメロンはタイトルと一部設定を借りただけで、別の映画を作っている、ということがわかる。
 「エイリアン」は、逃げ場のない宇宙船の中でのゴシックホラーだったが、「エイリアン2」は、惑星でのエイリアンという敵との戦争映画である(ちなみに別の監督が作った「エイリアン3」は、「前作のあれは何だったんだろう」というような映画なので見てはいけない。「エイリアン」は、2で終わったのである。と思っていたら一緒に仕事をしている藤原という男が、「エイリアン4」は感動の結末だった、と話してくれた。ホンマかいなという疑問もあるが、近々レンタルビデオで見てみようとは思う)。
 「ターミネーター2」は、前作での敵が今度は味方として活躍し、新たな敵と戦うという仕切り直しの映画である。だから実質的にはパート1と言ってもいい作りなのだが、もちろん前作と全く無関係でもない。従って、キャメロンのパート2は、前作を見ている人を納得させ、また前作を見ていない人でもそれなりに楽しんで見ることができるのである。要するに、1本の映画として自立しているわけである。なかなか頭のいい監督だと思う(ま、説教調になった分、厳密に言うとシュワちゃんが悪役を演じた「ターミネーター」の方がやや上かなという気がしないでもないが、これくらいのレベルにあれば、まあよしとしよう)。
 と、書いてきて、物事にはやはり例外があることに気が付いた。前記の007シリーズ第2作「ロシアから愛をこめて」(このシリーズについては、また稿を改めて書く)と同様、1より2の方が遥かによくできている映画が他にもあったのである。ただし、私の知る限りでは、わずかに2本。ひとつは「スーパーマン2」。これは、前作の「スーパーマン」が、観客はスーパーマンがどういういきさつで誕生したのかは、とっくに知っており、早くスーパーマンの活躍を見たいのに、スーパーマン誕生までを長々とやりすぎた駄作だったことによる。スーパーマン誕生の経緯は、2のタイトルバックで紹介されるくらいでちょうどいいのである(ただし、2と同じリチャード・レスターが監督した「スーパーマン3」は、目を覆いたくなるような駄作。4に至っては、私は遂に見ていない)。
 二つ目は、「ゴッドファーザーPART2」。話題になった「ゴッドファーザー」自体、私には退屈な映画だったが、しかし、この「PART2」は、続編というよりも前作の主人公の若き日の姿、イタリアから移民してきての苦渋の日々をロマンチックなタッチで描き、一つの青春映画として、それなりの出来になっていたのである。少なくともPART3まで作られた「ゴッドファーザー」の中で、私は「PART2」が最も好きである。


★傑作と言われる駄作
 世の中に名作・傑作として定評のある作品でも、どうしても肌合いが合わない、あるいは冷静に考えても、あれはそれほどでもないぞ、と思う作品がいくつかある。まあ「駄作」というのは言葉のアヤで、要するに「そんなに名作だともちあげるほどでもないよ」というくらいの意味である。罵倒のための罵倒にならないよう注意しながら私が傑作とは認められない映画の話をしよう。
 まず、誰もが知っている、そして名作の誉れも高く、これを駄作と言い切ってしまうと怒り出す人もいるのではないか、と思われる映画から。その映画とは、「風と共に去りぬ」である。
 アカデミー賞を10個もとった映画だが、私にはこの1939年という年の映画では、ジョン・フォードの「駅馬車」の方が遥かに出来がよく、「風と共に去りぬ」は、ただ長いだけの退屈な映画にしか映らない。あれは。南北戦争に従軍していた人々がまだ生き残っていた時代だからこそ受けた映画だと思う。ヒロインのビビアン・リーは確かに美しいが、誰がどう見てもかっこいいと思えるクラーク・ゲイブルは眼中になく、「アシュレー、アシュレー」と言っている馬鹿な女である。年頃の女性の観客は「確かにヒロインはきれいだけど、私はあれほど馬鹿じゃない」と溜飲を下げられるのだから、ある程度女性に受けるのも理解できる。しかし、万人がこぞって「風と共に去りぬ」を史上最高の映画のように言うのを聞くと、それこそ「馬鹿じゃないのか」と思ってしまうのである。
 たとえば子供が落馬して死ぬが、父親が落馬して死んだことを思い出して、キャーと叫んだら子供も同じ所で落馬して死んだ、なんて子供を死なせてゲイブルが出ていくきっかけをつくるためだけのご都合主義としか思えないし、第一、あの程度の落馬(乗っているのはポニー)で簡単に死ぬのか、と言いたい。それは、打ち所が悪ければ道で転んだって死ぬことは死ぬが、要は説得力の問題である。また、いくらビビアン・リーが馬鹿だと言っても、あんな最後の最後にアシュレ−が凡くらだと気付くというのは、いくらなんでも引っ張りすぎだ。あそこまで引っ張ってしまっては、ヒロインの魅力も半減してしまうはずだ。
 「風と共に去りぬ」で唯一「これは悪くない」と思えるのは、映画を見終わった後も耳に残る音楽である。有名な「タラのテーマ」は、音楽を聴くだけで、あのタラの巨木が夕陽に映えるシーンが浮かんでくるほどの名曲。ところが、アカデミー賞を10個もとったのに音楽賞はとっていないのである。この年の音楽賞は「駅馬車」に与えられたので、仕方ないかなとも思うが「風と共に去りぬ」で賞に値するのはマックス・スタイナー(「キング・コング」のスコアもこの人)の音楽だけだ、と私は思っている。
 近年のアカデミー賞駄作の代表は「フォレスト・ガンプ」だろう。
 こういう人間には誰かが、「おいおい、ただ走っているだけじゃ何も解決しないぞ」と言ってやらなければならない。走っているだけで金持ちになり、それなりの幸せがつかめるのなら、誰だって走るのである。身障者だってちゃんとできるんだぞ、という主張がともすると身障者はえらいという主張にすり変わってしまうので、この手の映画には注意が必要である。もちろん差別や変な同情は不要だが、だからといって出来ないこともあるわけで、その辺はやはり周囲が理解し協力してやる必要がある。だいたいベトナム戦争の話にしたって安易に出しすぎているのではないか。確かに負傷したり死んだりする人間が出ることは、当人にとってはもちろん、周囲にだって大きな影響をもつものだが、ちょっと待て、戦争には当然相手があり、そこでもまた負傷したり死んだりしている人間がいるはずである。ところが、「フォレスト・ガンプ」には、そういういわば「複眼の視点」とでもいうべきものが、まるでないのだ。制作者の視点はガンプとその周辺にしかなく、ということは、要するに「お子様映画」ということである(この映画の最初と最後に羽根がふわふわ舞っているシーンが出てくる。要するに、ガンブは天使だという暗示なのだが、「エンゼルハート」にしても「グリーンマイル」「ローズマリーの赤ちゃん」にしても、この天使、神、悪魔といった単純図式は何とかならないものだろうか?)。
 スピルバーグの「シンドラーのリスト」や「カラーパープル」などに典型的に見られるのだが、見方が一面的で浅いのだ。だから映画が薄っぺらくなってしまって感動がない(確かにシンドラーの行為はヒューマニズム溢れる行為だが、そうした個人の行為を押し流す巨大なものとして戦争がある、という点がスピルバーグには認識されていないように思える。)。ガンプが見守り続ける恋人にしてもそうした一面的な視点で描かれているため、馬鹿な女というイメージしかなく、「ま、勝手におやんなさいよ」という気持ちになってしまって同感できない。戦争で足を失ったおっさんにしてもそうである。
 この映画を含めてもう一つ気になるのは、アメリカ映画が何かメッセージを送ろうとすると、世界の警察を自認する国のせいか、リーダー的発想が常に出てくることである。それが、すべて悪いと言っているわけではない。「ポセイドン・アドベンチャー」のような形で作られれば、人間の生き方というところまで話が広がっているので、こちらも納得してしまうのである。しかし、先の「シンドラー」に代表されるような形は絶対に納得できない。ガンプにしても相手が足を失い、優位に立った時点の行為と考えると素直に受け取れないものがあるのである。このリーダー的発想の典型例はコッポラの「地獄の黙示録」で、争いは所詮アメリカン・リーダーの2人で、そこにはアジア人がアジアを納めるという発想はまるでない。未開の人間たちはアメリカが導いてやらねば、という点では対立する2人は同じ立場に立っているのである。何か宿命の対決のような描き方だが、所詮はコップの中の嵐じゃないか。納得できないなあ。同じ理由で「ディア・ハンター」なども全く買わない。どうもベトナム戦争がからんでくると生々し過ぎるせいか肯定するにせよ否定するにせよ、どうも主張ばかりが騒々しく、「芸術」として語れるレベルに達していないと思うのだがどうだろう。
 9部門でアカデミー賞を受賞した「ラスト・エンペラー」や、最多タイの11部門受賞の「タイタニック」にしても、それほどの傑作なのだろうかという気がする(同じ11部門受賞では「ベン・ハー」の方が遥かに上)。とくに「タイタニック」については船をざーっと移動撮影で見せるあたりの迫力や沈没していく時のキャメロン特有の力業は認めるものの、軸になる恋愛部分がいかにも弱く(何だ、あの女は!)、ディカプリオの死なせ方にしても、死んでもらわないとうまく話が完結しない、という力業的死なせ方で、もう一つ納得できない部分がる。沈んでいくシーンは「冒険者たち」の、まんまパクリだしね。船物としては、「ポセイドン・アドベンチャー」にも及ばないというのが私の感想である。
 もうひとつ駄作とは言わないまでも世評ほど傑作とは思えない映画に「スタンド・バイ・ミー」がある。少年時代特有の冒険がそれなりに印象に残る画面構成で描かれており、その甘酸っぱい記憶と、ほろ苦い大人の現実との対比も悪くない。この映画を心に残る名作と持ち上げる人を別に否定する気はないし、おっさんにはこの映画のよさはわからんよ、と言われれば「はい、そうですか」と言うしかないが、私には構成が単純過ぎて退屈な映画であった(映画というのは、確かに見る年齢、性別、環境によって感動の質がまるで違ってくるものである。人それぞれが独自の価値観をもって映画を見ればいいのであって、これはあくまで私の感想である。念のため)。子供時代の友情が時とともに変化していくのは当たり前で、昔は…的な映画は私の好むところではない。が、もちろん、この映画を見て、ジーンときた、と言える人の感性を否定するものではないこと、再度書いておく。人それぞれの価値観があっていい。
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作品雑談2 [映画の雑感日記]

★アラン・ドロンの2大名作
 ここ30年くらいの映画界は、言ってみれば「アメリカ映画の一人勝ち」で、洋画といえばイコール=アメリカ映画のようなものだが、30年も昔の私の青春時代には、間違いなくヨーロッパ映画というジャンルがあった(後でスピルバーグの項で書くことになると思うが、ヨーロッパ映画の不振が映画のお子様化という事態を生んでいることは記憶しておいてよい)。一般的に言って、ヨーロッパ映画は、おしゃれで芸術的という印象があったが、それだけでなく興行的にもヒットしていたということが重要である。
 という話から、いきなり、アラン・ドロンである。私たちの年代にとっては、二枚目といえば、ディカプリオでもブラッドピットでもなく、もちろんロバート・レッドフォードでもタイロン・パワーでもエロール・フリンでもなく、文句なしにアラン・ドロンのことだった。美女の代表としてよく名前が挙げられたエリザベス・テイラーには異論があったが、美男子の代表としてのアラン・ドロンには、当時も今も全く異論はない。が、だからといって別にドロンの熱烈なフアンというわけではない。そんな私が、彼の映画を最初に取り上げるのは、最近引退を宣言したことに敬意を払って……、のことでもない。我が家に数百本あるビデオコレクションの整理番号のNO.1が「太陽がいっぱい」、NO.2が「冒険者たち」となっているので、それに倣っただけである。
 アラン・ドロンが出演した映画は、私とはどうしても生理が合わないルキノ・ヴィスコンティー監督の「若者のすべて」、ミケランジェロ・アントニオーニの「太陽はひとりぼっち」、三船やブロンソンも出た007テレンス・ヤング監督の西部劇の佳作「レッド・サン」、その他ギャバンと競演したアンリ・ベルヌイユ監督の「地下室のメロディー」(ミッシェル・ルグランの音楽に合わせてのタイトルの出し方はかっこいいのだが、話がすぐよれよれになってしまうのが残念)、二役を演じた「黒いチューリップ」や「アラン・ドロンのゾロ」「さらば友よ」等10本以上は確実に見ているが、おそらく映画史に残るのは上記2本だけだと思う。
 先に見たのは「太陽がいっぱい」なのだが、実は封切時(1960年に封切られた「ベン・ハー」と同じ頃だったと思う)に見逃していてリバイバルで見たのである。監督のルネ・クレマンは「禁じられた遊び」「海の牙」などで知られるフランス映画の巨匠。原作は、パトリシア・ハイスミス(ちなみに映画では主人公トム・リプレイは、逮捕されるだろう暗示で終わっているが、原作ではまんまと逃げおおせ後にトム・リプレイ物というシリーズを構成するほどになる。私は、角川文庫の「太陽がいっぱい」しか読んでいないが原作もけっこういける)。この映画は、語り出すと止まらなくなるので青い海と白いヨットが、などということはここには書かない。ニーノ・ロータの甘い主題曲についても書かない。ヒロイン=マリー・ラフォレの不感症的大根演技についても、この雑文を書き始めたばかりだから取り敢えず悪口を控え、特に印象に残るところを2箇所だけ挙げることにする(ストーリーについては書かない。この名画を見ていない人とは話をしたくないくらいのものである。絶対に見ておいて損のない映画の1本なので、まさかとは思うが未見の人は是非見て欲しい)。
 一つは、ドロン演じるトム・リプレイが魚市場をさまようように歩くシーン。現代音楽風の速いテンポの音楽と共に、魚の顔の短いカットをつないだモンタージュで、リプレイの不安を実にうまく出しているシーンである。エイの顔が代表的なんだけど、魚の顔って妙に不安気で悲しそうなんですねえ。
 もう一つはラストのちょい前、海岸の椅子に横たわるリプレイに対して女性が「どうかしたんですか?」ときく。リプレイは、「いや、太陽がいっぱいなんで、……最高だ」というようなことを言う。その時の、ドロンの実に満ち満ちた表情。かのフアウスト博士ならこの瞬間間違いなく「止まれ、お前は美しい」と言ったはずである。凡人の私としては、とてもそんな気のきいた台詞は言えないが、50を過ぎた今も、一生のうち一度でいいからあんな気分を味わってみたいものだ、と思うばかりである。
 「太陽がいっぱい」は「ホモセクシャル」の映画だと作家の吉行淳之助との対談で語ったのは、淀川長治である。最初は「そんな馬鹿な」と思ったのだが、そういう目で見るとそんな気がしないでもない。ドロンに対してもそういう噂は付きまとっており、淀川についてもそんな噂を聞いたことがあるのでちょっと誤解を受けやすい発言だが映画にはいろいろな見方があっていいので、その意味ではなかなか鋭い意見と言えないこともない。
 「冒険者たち」は、学生時代に友人の清水義範から「もしかすると『太陽がいっぱい』よりいいかもしれないぞ」と言われ、名駅前の毎日地下劇場で半信半疑で見た。というのも、それ以前にヴィスコンティーの「若者のすべて」という映画を清水に薦められて見に行ったのだが、彼が言うほどおもしろいとはとても思えなかったからである。結果は、映画が終わってからしばらく立ち上がれないほど感動した。「太陽がいっぱい」より上、とは簡単に断言できないが、これもまた素晴らしい映画であった。
 スピードカーに賭ける男(リノ・バンチェラ)がいて、凱旋門の下を飛行機で潜ろうという男(アラン・ドロン)がいて、新しい芸術に賭ける女(ジョアンナ・シムカス=シドニー「夜の大捜査線」ポアチエ夫人になっちゃったけど、結婚はまだ続いているのかしら?)がいて、夢破れてアフリカへ宝探しに行き、宝を見つけるがその宝を狙うギャングとの銃撃戦で女は死に、最後はドロンも死ぬ。どう考えてもめちゃくちゃなストーリーである。にもかかわらず、映像の詩人=ロベール・アンリコ監督は見事な叙情的映像でこのむちゃくちゃなストーリーを見事につないでしまい、見る者を感動させてしまうのである。映画には、ちゃんとしたシナリオが必要なのだが、しかし、いいシナリオがあればいい映画ができるというわけでもないことが、この映画を見るとわかる(「いいシナリオからいい映画ができるとは限らないが、悪いシナリオからいい映画は絶対にできない」というようなことを我が黒澤明は語っているが、「冒険者たち」は、そのほとんど唯一の例外である)。車と共に跳ぶ飛行機、沈む大きな夕陽、ラストの闘いが行われる廃墟のホテルのような島、どれをとっても強く印象に残る。大学に入ってもそこは考えていた世界とは違い、何かうまくいかないなあ……、という時だったので「そうなんだなあ。純粋に自分の夢に生きようとすると死ぬしかないのかもしれないんだなあ……」と納得し、よけい感動してしまったのかもしれない。
 その後、社会人になり、「冒険者たち」がビデオ化されるとすぐに買ったのだが、ラストのピアノソロの部分にアラン・ドロンの「レティシア……」という歌が被せられていたのには唖然呆然。どうしてこういう馬鹿なことをするのだろう。私は、「冒険者たち」のサントラ版(45回転のドーナッツ盤)を持っているが、アラン・ドロンの歌は、本来の劇場版にはなく、いわばレコードのおまけとしてB面に入っていたものなのである。おいおい、これではせっかくの余韻が台なしじゃないか。さすがに後に買ったノートリミング版のレーザーディスクではそんなことはなかったが、おかげで私は「冒険者たち」のレーザーディスクを2枚も買うはめになってしまったのである。
 当時、この映画は大して評判にならなかったが映画好き、あるいは映画関係者には大森一樹など熱狂的なフアンが多く、以後、男2人に女1人というロードムービー風映画が五万と出来た(「太陽がいっぱい」のアラン・ドロン、モーリス・ロネ、マリー・ラフォレという男2、女1という関係も一見似ているが、こちらはSEXも含めた関係で、「冒険者たち」のような恋愛感情を秘めながらも表には出さず、友達関係のように推移していくパターンとは、明らかに異なる)。
 というわけで、当然、どっちが上か、ということになるのである。ドロンの役者としての魅力という点では断然「太陽がいっぱい」だが、映画としては、と考えるとなかなか難しいものがある。どちらも極めつけの青春映画の傑作なのだが、内容的には、戦車と寿司とではどっちが偉いか、と自問しているようなもので、どだい比較するようなものではないのだ。で、最近ではこういう見方をしている。どちらも落ち込んでいる時に見るといい映画なのだが、落ち込み度が少ないときは「太陽がいっぱい」、大きいときは「冒険者たち」がいい。というのも、「太陽がいっぱい」を見ると、「くそっ、俺もいっちょうやったるぞ」という気になるからである。しかし、落ち込みが大きいと、そんな気にもなれない。そんな時には半ばドロップアウトしているような「冒険者たち」の方が結末は悲惨にもかかわらず妙に甘味なところがあって心が落ち着くのである。
 だから、その時にドロンの2大名作のうちのどっちの映画が見たいかで私の場合、自分の精神状態がたちどころにがわかるという、これはまるで精神のリトマス試験紙のような映画なのである。


★家族で見た2本の映画
 小学生の時はともかく、高校以降私が家族と一緒に映画館へ行って見た映画はわずかに2本である。父が亡くなり、母も映画館へ行くなどということはしなくなってしまった今となっては、この本数が増えることは絶対にないと断言できる。そんな意味でも私にとっては特に思い出深い貴重な2本の映画について書こうと思う。2本の映画とは、「アラビアのロレンス」と「サウンド・オブ・ミュージック」。どちらも映画史に残る名作である。前者は両親&弟と高校の時に、後者は母親&弟と大学の時に、いずれも70ミリ映画上映館の(今はなき)テアトル名古屋で見た。
 まず、「アラビアのロレンス」から。
 封切りの半年も前から発売されていたサウンドトラック盤のLPを買い、毎日のように聞いていたので、漏れてくる音を父も聞いていたのだろう。家族でどこかへ行くなどということはめったにしなかった父が珍しく「みんなで見に行こう」と言い出して実現したものである。
 私は高校生になっていたが、「全館指定席」というのが、まず「大作」というイメージをかきたてて上映前からワクワクしていた。実は、このロードショーではその後の2番館やリバイバル上映では見られないある素晴らしい仕掛けがあったのである。というのも、この映画は画面が出る前にあまりにも有名な序曲が5分ほどのあるのだが、序曲が始まると同時にスクリーンに「第一次世界大戦の頃……」という当時の中東情勢を解説する文章が青いカクテルライトと共にくっきりと浮かび上がったのである。トーマス・エドワード・ロレンスといっても日本では全くといっていいほど知られておらず、ほとんど何の前知識もなく、ただ大作で出来もいい、という評判だけで見に来た人間にとって、これは実にありがたいものだった。それにただ序曲を流しているだけよりも、第一雰囲気がある。こういうことをサービスと言うのである(ちなみに二番館のオーモン劇場では暗くなって序曲が流れ出すと当たり前のことだが映像が出ないので観客が騒ぎ出し、仕方なく明るいままで序曲を流し、序曲が終わるとともに場内が暗くなって映画がメイン・タイトルのシーンから始めた)。モーリス・ジャールの映画史に残る音楽の素晴らしさについては、すでに書いたので繰り返さない。
 砂漠の美しい景色から始まるのかと思ったら、いきなり主人公が死んでしまうのにも驚いた。が、よく考えてみると何度もオートバイの手入れをしていることでロレンスの神経質な側面を知らせ、オートバイのスピードを調子に乗ってぐんぐん上げ、事故で死んでしまうというのは、オレンスとして慕われ、砂漠の英雄と持ち上げられ、失意のうちに帰国するというロレンスのアラビアでの行動をあらかじめ提示していると言えないこともない。さらに葬式のシーンでロレンスに対する評価は様々で、そういう複雑な部分もある人間だったのだ、とわかる。うまいシナリオである。
 トルコ軍の飛行機による襲撃にあったファイサル王子(アレック・ギネス)が、がっくりとうなだれ、悄然として顔を上げると煙が晴れてそこにまるで救世主のようにロレンスがいる、というシーンなど画面展開がうまいので特に印象に残る。ロレンスが白い服を着て自己陶酔のように走っているところに突然アウダ・アブタイ(アンソニー・クイン)が現れる場面なども映画の教科書に載せたいほどうまい。
 とにかくこの「アラビアのロレンス」という映画は、構成の確かさ(とくに前半のテンポがよい)、映像の美しさ、音楽のよさ、俳優たちの名演(この時新人だった主役のピーター・オトゥールはじめ、アレック・ギネス、アンソニー・クインら実にそれらしい人間がそれらしい役をやっている)、ネフド砂漠越えの緊張感、アウダの陣地から出陣など、そのスケールの大きさからいっても、間違いなく映画史に残る映画である。
 誉めだしたら切りがないが、一つだけ挙げるとしたら、やはりアカバの町を攻撃するシーンだろうか。アカバの町へ侵入して行くロレンスたちからカメラがずーっと移動してくると海に向けられた大砲が写り(観客は、アカバの大砲が海に向けられており、砂漠にの方には向けられないことを、すでに知っている)その向こうに青い海が見える場面は、茶色い砂漠のシーンが続いた後だけに思わずはっと身を乗り出させるくらいに美しい。「ロレンス」のこのシーンや「ライアンの娘」のパラソル落下シーンや森でのメイクラブのシーンなどデビッド・リーンは本当に凄い。印象に残るシーンというとヒッチコックやキューブリックの映画がよく引き合いに出されるが、全然負けていない。脱帽するのみである。
 3時間を超える長編であるが、何度でも見たい名画である。そんな人はまさかいないと思うが、この映画を見ていないで映画フアンだという人がいたら、その人は間違いなく嘘つきである。そういう人とは付き合わないほうがいいし、付き合いたくない。。少なくとも私は、そんな人と映画の話はしたくない。ピーター・オトゥールは、この後リチャード・バートンと共演した「枢機卿」やオードリー・ヘプバーンと共演した「おしゃれ泥棒」「なにかいいことないか子猫ちゃん」「チップス先生さようなら」「将軍たちの夜」「ロード・ジム」、そして「ラスト・エンペラー」の先生役などに出たが、遂にロレンスのイメージを突き崩すことはできなかった。それほどのハマリ役だったと言える(実際のロレンスは、小男だったそうだが……)。だからといってダメな役者と決め付ける気はない。生涯でこれほどの名作に主演でき、それを立派にこなしたことをむしろ祝福したいと思う。
 「サウンド・オブ・ミュージック」は、高校時代に熱中した「ウエストサイド物語」のロバート・ワイズが監督したミュージカル映画だというので試写会の申し込みをしたら当たって、けっこう満足して帰ってきた映画である。試写に先立って「この映画は皇太子御一家(今の天皇一家)も見られた云々のあと映画は始まった。そのあと、少し日にちをおいて、今度は家族で有料で見に行った。立て続けに2回見たわけだが、「2001年宇宙の旅」もそうなのだが、ビデオなどない時代なのでこういうことが何度もあつたったので不思議でもなんでもない。
 ファミリー映画だからといって馬鹿にしてはいけない。音楽というものが、歌というものが人生にとってどれほど大切で、その人の生き方まで変えてしまう力があるものかをこれほどストレートに訴えている映画は他にないと言ってもいい。
 それは、歌う人の人数を考えればわかる。巻頭、マリア(ジュリー・アンドリュース)が一人で歌っていた「サウンド・オブ・ミュージック」は、後にトラップ家の子供たち全員の歌となる。トラップ大佐が子供たちと心を通じ合わせる場面で歌う「エーデルワイス」は、初め大佐一人で始まりやがて子供たちとの合唱になる、さらにコンサート会場ではオーストリア国民全体の歌になるのである(感動的な名場面)。修道院の院長がマリアに向かって歌う「すべての山に登れ」(マリアが大佐の家に戻る決意をする重要な場面で、サウンドトラック盤LPにも収録されているこの歌が、封切時カットされていたことには、稿を改めて触れる)は、ラストシーンでトラップ家全員、いや映画を見ているすべての人に向かって歌われるのである。オスカー・ハマースタインの詞がまた絶品で、「……すべての山に登り、流れを渡り、虹を追ってあなたの夢をつかみなさい」と歌われると見ているこちらも「本当にそうだよなあ」と思ってしまう。映画全体としては後半やや乱れがある(ナチスとのやりとりは合唱コンクールのシーンで実にうまく処理されているのだから、他の部分は半分でよい)のが残念だが、歌の力というか、映画の力は本当に恐ろしい。
 画面構成としては、マリアが子供たちと家を出て、「ドレミの歌」を歌うシーンが何といっても圧巻である。「ウエストサイド物語」の冒頭のシーンでもワイズのつなぎのうまさには感心させられるのだが、「サウンド・オブ・ミュージック」でも冒頭の空撮からマリアが歌い出すシーンへのつなぎなど見る者を思わず「ううむ」と唸らせるものがある。「ドレミの歌」は、そのワイズの能力が最高度に発揮されたシーンと言えよう。まるでオーストリアの観光案内のように美しい景色を背景にマリアと子供たちの歌を通して心がどんどん一つになっていく時間の経過が「ドレミの歌」という1曲の歌の初めから終わりまでの間にきちんと、それも実に魅力的に描かれているのである。
 ちなみに主役のジュリー・アンドリュースは、舞台の「マイ・フェア・レディ」のイライザを演じた女優で、映画「メリー・ポピンズ」でアカデミー主演女優賞を取り、「ハワイ」「スター」「ビクター・ビクトリア」(「ティファニーので朝食を」「ピンク・パンサー」などの監督で、夫のブレーク・エドワーズ監督。ちなみにこの監督の映画がおもしろかったためしがない)等の映画に出ているが、何といっても「サウンド・オブ・ミュージック」におけるマリアが最高の当たり役だろう。封切られた年の「映画の友」「スクリ−ン」両誌のフアン投票で1位になったのも何となくわかるような気がする。実際ミュージカルスターとしてのジュリー・アンドリュースの実力は歌はもちろん踊り、演技ともに大したもので、私は彼女が舞台で主演した「マイ・フェア・レディ」もオードリー・ヘプバーンではなくジュリー・アンドリュース主演で映画化してもらいたかったのだが(舞台版のLPレコードは買った。もしかして値が出ているかも?)、それは遂に幻に終わった。なお、ある映画評論家が、きれいになってからはオードリーに軍配が上がり、それ以前はジュリーに軍配が上がると書いていたが、至言である。ついでにもう一つ。「王様と私」のデボラ・カー、「ウエストサイド物語」のナタリー・ウッド、「マイ・フェア・レディ」のオードリー・ヘプバーンの歌の吹き替えをやっているマーニ・ニクソンが修道女役で出ているので、興味のある人はお見逃しなく。吹き替えばかりやっている人なので、さぞかし不細工だろうと思っていたら、歳こそそれなりにとっていたものの、けっこう美形な人でした。
 ところで、この映画、いわゆるファミリー映画ということもあるのか評論家の評価は意外に低いものがあった(確かキネマ旬報では10位)。なんとなくこういう映画を誉めるのは、抵抗があるのだろう。しかし、観客は正直である。ラストシーンでトラップ一家がアルプスの山を越え、その姿が消えていってENDマ−クが出ると、試写会のときも二度目に見たときも、期せずして場内から割れんばかりの拍手が起こったのである。ロードショーの劇場では、後にも先にも初めてにして最後の体験である。


★我が007
 007シリーズのことを書こう。007は、今は英語風にダブル・オー・セブンと言うことが多いが(事実映画の中ではそう呼ばれている)、高校時代に私が見た頃は、ゼロ・ゼロ・ナナと言っていた。原作者イアン・フレミングも早川書房の「EQMM(エラリー・クイーンズ・ミステリマガジン)」に都築道夫が紹介記事を書いた時は、アイアン・フレミングと言われていた時代である。
 私の007初体験は、第2作にしてシリーズ最高傑作の「007危機一発」(「一髪」の間違いではなく「一発」。のちに原題通りの「007ロシアから愛をこめて」と改題された)。そのあまりのおもしろさに第1作の「007は殺しの番号」(これも後に「007ドクター・ノオ」と改題)を見、以来見続けること30数年、007シリーズは全部見ているが、しかし、未だに「007ロシアから愛をこめて」を超える作品にはお目にかかっていない。
 というわけで、ともかく「007ロシアから愛をこめて」の話をしないと私の007は始まらない。高校時代、この映画がおもしろい、と私に言ったのは友人の神谷修一という男である。ともかくかっこいいというのだ。この男は、主演のショーン・コネリーを真似て吊りバンドをし、一緒にやっていた同人誌にも「004号ブリーン・ケインズの冒険」なる小説を書いたほどイレ込んでいたのだが、「十戒」を見ても海の割れるスペクタクルシーンよりもヘストン演じるモーゼが実の母親とも知らずに石に潰されそうになった老女を助けるシーンに感動するという、ちょっと変な少女趣味的鑑賞眼のある男なので、私は「ホントかいな」と半ば疑いながら映画館へ行ったのである。
 翌日、彼の顔を見るやいなや私は言った。
「めっちゃんこおもしろかったわ、あれ」
 この映画に関しては、映画が先で原作(後半は映画とはかなり違う)を読んだのは映画を見たほぼ1週間後である。つまり、私は、ほとんど何の予備知識もなしに「危機一発」を見たのである。巻頭いきなりボンドが殺されてしまい「あれれっ」と思っていると始まる意外性がまず得点1(このタイトル前にひとシーンというパターンは、以後のシリーズの定番になった)。ショーン・コネリーが「ボンド、ジェームズ・ボンド」とホテルのフロントで言うだけで、そのかっこよさにまた得点1。歴代ボンドで、アタッシュケースを持って歩いているだけで「うーむ」と唸らせたのは、このコネリーだけである。
 「危機一発」については多くの人が007の最高傑作と言い、今は無きオリエント急行内での闘いやヘリコプター撃墜シーン(ヒッチコックの「北北西に進路を取れ」のパクリだが単なるパクリではなく、一工夫ある)について書かれた文章は五万とあるので、ここでは書かない。もちろん列車が動き出してからの後半の息をもつがせぬ活劇シーンの連続は感涙ものだが、それも前半がうまく作られているからこそ、と言いたい。
 それでもちょっとだけ書くと、ボンドが乗っている列車が動き出してソ連のKGBが慌てて飛び乗り、さらに列車が動いていくと窓にスメルシュの殺し屋ロバート・ショーの顔が見える、というシーンなんかうまいなあ。この列車のまどをざーっと舐めていく手法はザグレブの駅の場面でも効果的に使われている。ヘリを撃墜するシーンにしても、ただライフルで撃ち落とすのではなく撃たれた男が手榴弾を落としてヘリが爆発する、というふうにきちんと手順をふんでいる。監督のテレンス・ヤングあくまで冷静で緻密である。座布団2枚といったところである。
 そこで前半部分の話だが、たとえば、ボンド暗殺計画を立てるチェスの名人。チェス選手権の最中に呼び出しがかかると、ただの一手で相手を投了させて本部へ出向くのだが、ただかっこいいだけでなく、見る者に、こいつの立てた計画をかいぐるのは大変だぞと思わせるのにこれほど効果的なシーンはない。スメルシュの親玉も、破れた闘魚を猫に与える仕草などに冷酷さがよく出ており、顔が見えないのも大物感があっていい。イスタンブールの地下水道もあらかじめ偵察の時にこうなっているんだということを提示しておき、レクター(暗号解読器)を奪取する時に突然出てくるわけではない(この地下道、現実にはソ連=現・ロシア大使館まで続いているわけではないことを、最近、イスタンブールへ行った清水義範から聞いたが、映画はあくまでフィクションなのだが別に秘密の地下道があるのだ、とでもしておこう)。忘れてはならないのが、この映画で初めて見たロバート・ショー。もし現実にスメルシュという組織があったらこんな男がいるのでは、と思わせるほど存在感があり、かつ怖かった(彼については、後でまた書く)。そんな相手だからボンドも大変だが、相手が強ければ強いほど活劇はおもしろくなるという見本のような映画であった。相手が地球制服を企むのではなく、会社乗っ取りを企む程度では007は成立しないのである。
 ボンド・ガール最高の美女は多分「サンダーボール作戦」(やや退屈な映画だが、クラッマックスの水中翼船のアクションには感心した)のクローディーヌ・オージェだと思うが(ちなみに彼女が「パリの哀愁」という東宝映画でジュリーこと沢田研二とベッド・シーンをするというので私はそのシーンを見るだけのために映画館へ行ったのが、映画は予想通り駄作でも、彼女のヌードだけはいやあけっこうな目の保養でしたねえ)、私はこの第2作のちょっとクールな感じのあるダニエラ・ビアンキがお気に入りである。ビアンキがボンドのベッドにさささっと入るシーンは映画では一瞬でよくわからないので、後にビデオのコマ送りで確認したところ、豊満な全裸の後ろ姿が見え、私は思わずふふふとほくそえんだのであった。馬鹿だねえ。
 この後、007は何作も作られ、現在もピアーブ・ブロスナンをボンド役に作り続けられており、第10作の「007私を愛したスパイ」(原作はほとんどポルノ小説で映画とは無縁。ボンド役はロジャー・ムーアでそれまでの作品のパロディーが随所に出てくる)やプロスナンの「007ゴールデン・アイ」などそれなりによく出来ている。が、依然としてこの第2作の「007ロシアから愛をこめて」を超えるものはない(ただし、主題歌に関してはマット・モンローが朗々と唄うこの映画の主題歌より、日本を舞台にした珍品「007は二度死ぬ」のナンシー・シナトラの主題歌が最高傑作だと私は思っている。この作品、都内の謎の場所が明らかにホテル・オークラだったり、謎の島が誰がどう見ても阿蘇山だったり、ショーン・コネリーがあのまんま日本人になったり?と、ともかく凄い)。
 その理由の一つに、当時まだソ連という国があり、一見荒唐無稽に思われストーリーにもかかわらず、米ソ冷戦の中ではもしかするとこれに近いこともあるのかもしれない、と思わせる現実音がバックに流れていたことも見逃せない。ソ連崩壊後、所謂スパイ映画が作りにくくなったのは事実で、最近の007はCIAの裏切者だったり、メディア王だったりと苦労が忍ばれる。つまりブロスナン=ボンドは別に英国のスパイである必要はなく、せっかくジェームズ・ボンドというキャラクターがあるのだから、このキャラクターを使って大作アクション映画を作ってみよう、というのが最近の007ののりだと思うのだがどうだろう。それはそれで成功しており、ブロスナン=ボンドが活躍する「ゴールデン・アイ」はアクション映画としてそれなりのレベルにあり、「トモロー・ネバー・ダイ」に至っては傑作といってもいい。ボンド・ガールのミッシェル・ヨーもただボンドと恋に落ちるというだけの存在ではなく、アクションも見事にこなして座布団一枚といった出来にある。2000年に封切られた「ワールド・イズ・ノット・イナッフ」もアクション映画として、悪くはない。
 その意味では、007が、殺人許可証を持つスパイとしての007だった時代は、ショーン・コネリーの降板と共に終わり、後は007という同名だが以前とは全く別の、スパイ映画の要素も含んだアクション映画がスケールをアップしながら今まで続いている、と考えるのはうがちすぎだろうか?
 蛇足だが、イオン・プロ以外の007映画として「カジノ・ロワイヤル」と「ネバー・セイ・ネバー・アゲイン」がある。映画史に残ろうかというほどの大駄作である「カジノ・ロワイヤル」は論外として、「ネバー・セイ・ネバー・アゲイン」はショーン・コネリーが久々にボンドを演じたというのにどうもピンとこない。MがいてQがいて、マネー・ペニーがいて、ジョン・バリ−の音楽があってボンドがいるという構造こそが007シリーズを支えているのだということが、この映画を見るとよくわかる。コネリーが演じていても彼一人だけでは007映画は成立しないのである。
(ブロスナンが降りてもう打ち切りかと思ったら、またまたロシアの某首相に似ている男優を起用して新しい007が始まった。それも、原作では第1作目の「カジノロワイヤル」である。もしかして、またこの第1作から順々にシリーズ化していくつもりなのだろうか。んな馬鹿な)
[たらーっ(汗)]
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