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作品雑談 1 [映画の雑感日記]

★完全版とディレクターズ・カット版
 「2001年宇宙の旅」のレーザーディスクは、私が最も買いたかったものの1枚で、出るとすぐに買った。ノートリミング版が出ると、これもすぐに買った。ノートリミング版とトリミング版では、とくにオープニングとエンディングは別物の感があるし、これは今でも買ってよかったと思っている。その完全版が出ると聞けば「おっ」と思うのは当然だろう。が、よく調べてみると、オープニング前の序曲が入っていたりするだけなようなので、買うのをやめた。画質も多少よくなっているらしいが、名作だけにもう1枚買わせてしまおう、という商魂から出たものだろう。こういうのを不愉快という。
 キューブリックの作品では「スパルタカス」も完全版というのが出ている。何でもローレンス・オリビエとトニー・カーチスとのホモセクシャルを感じさせるシーン等が追加されているそうで、確かに以前のビデオにはなかったシーンがあるが、大勢に影響はない。すでに「スパルタカス」のレーザーディスクを買ってしまっている私は、友人にこの完全版を見せてもらってこのことを確認したのである。完全版という言葉につられてビデオを再び買ってしまった人は、まあ、ごくろうさんといったところだろうか。
 しかし、これなどまだ罪としては軽い方で、劇場公開版(これこそが完全版だと思うのだが、どうもそうでもないらしい。このことについては後で述べる)と比べて完全版の方が悪くなっている、ということもあるのである。
 私の知っている範囲で、完全版より劇場公開版の方が絶対によかった、と思うのは「エイリアン2」。私は完全版という名称につられて完全版の方のレーザーディスクを買ってしまったのだが、完全に失敗。完全版にはヒロインのリプリー(シガニー・ウィーバー)たちが行く前に、問題の惑星である家族がエイリアンに襲われるシーンが入っていたりする。その家族の生き残りがリブリ−たちが基地に行った時に出てくる例の女の子なのだが、リプリーたちが到着する前にあの惑星がどうなっているのか観客にはわかってしまっているのである。どうなっているのだろう、とリプリーと同じ気持ちになって着陸していくところにスリルとサスペンスがあるわけで、事前にわかっていたのでは興ざめもはなはだしい。完全版だけに出てくるというセンサーで発射される機関銃のような兵器もどうということはなく(ということは、あってもなくてもいい場面ということで)、出来としては劇場版の方が一枚も二枚も上である。
 つぎに「ブレードランナー」。この映画については言いたいことが山ほどある。原作者のP.K.ディックは、死というものに異常なほどこだわった作家だが、これも人間とそっくりだが作られて4年の寿命しかないというアンドロイド=レプリカントを題材にした傑作である。リドリー・スコットの「ブレードランナー」もまた、そのディックの雰囲気を実によく出した傑作である。まずこの点は押さえておきたい(ちなみに原題は「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」で、ディックは、「アンドロイドも(電気羊ではなく)羊の夢を見る」という解答を出しているのだと思う)。私は、アリメカ版のレーザーディスクを借りてダビングしたビデオを持っていたが、英語力が不足していてよくわからん。それでもなかなかの映画だと思っていたので、字幕スーパー版が日本で発売されると、すぐに購入した。問題は、その後に出た完全版とディレクターズ・カット版(最終版)である。よく出来た映画だけに私は「ほう」とか「へえ」と言いながら都合3枚ものレーザーディスクを買ってしまったのである。で、結論を先に言うと「損したあー」ということになる。まず完全版だが目にドリルが食い込むなど残酷シーンが1、2分ほど追加されているだけで、なくても別にどうってことはなく、そもそもそういったシーンの嫌いな私としては、ノートリミング・シネスコ版であるということだけが取り柄の買い物であった。
 さらに10年ほどして出たディレクターズ・カット版は、巻頭のハリソン・フォードの「私はブレードランナー…云々」というモノローグが全てカットされているが、英語のたいしてわからない私にとってはそんなことはどうでもいいことである。ラストのレイチェルとフォードが車で去っていくシーンは確かに余計なシーンで(プロデューサーの要請でキューブリックの「シャイニング」のフィルムを使ったという話を聞いたことがある)、その前のエレベーターの扉が閉まるシーンからすぐにエンディングに入るというのは大賛成だが、これも従来から持っていたレーザーディスクのシーンをジャンプしてしまえば済むことである。ユニコーンの追加シーンに至っては、それだけでフォードもまたレプリカントであることを暗示したなんてしたり顔で解説をする人間がいるが、そりゃ無理というものですぜ、R.スコット旦那。そんなわけで私は、「ブレードランナー」の安くもないレーザーディスク(とくに完全版は12800円もしたのだ)を意味もなく3枚も買ってしまったのである。金返せ!!
 「ターミネーター2」も、完全版では核戦争とのからみやヒロインのトラウマなどがよりきめ細かく描かれているが、だからといってもう1枚(ビデオならもう1本)わざわざ金を出して買うほどのものではない。要するに私のように「完全版」と聞くとつい気になって買ってしまう人間目当ての金儲け主義と批判されても仕方ないところだろう。「完全版」大好き人間の私も多少は「学習」をしていて、これはレンタルビデオで確認したら上記のような差異しか確認できなかったため買うのを止めた。
 と、完全版の悪口を書いてきたが、当たり前のことだが完全版の方がいいものももちろんある。
 たとえば「アラビアのロレンス」。これは、最初にでたビデオ(およびレーザーディスク)がひど過ぎた。まず、あの有名な序曲がない。あのティンパニーの連打で始まる序曲から始まらなければ「アラビアのロレンス」ではない、と言っても過言ではないと思うのは、私一人ではないはずである。しかも朝日が昇るシーンでは色ノイズが盛大に出るし、トリミング版なので有名な砂漠の救出シーンでは左右の人物が切れてしまい音楽の盛り上がりに反して、砂漠の地平線だけが映し出されている、という悲惨さ。さらに一部が裏焼き(ということは左右反転)されているという最悪のバージョンであった。私は、怒りのあまり発売元のパイオニアに電話をかけた。返ってきた答えが「確かに序曲はありませんが、序曲のようなものが途中に入っています」だって。馬鹿野郎。始まりに演奏されるから序曲なんだろうが。完全版でノートリミング版になり序曲が復活されたのは当然のことと言えよう(それにしてもこれほどの名作の序曲部分が破棄されていて新たに録音し直したとは信じられない話である)。
 このビデオ化される時に序曲(一般的に映像はない)がカットさた例には他に「ドクトル・ジバゴ」、インターミッションの間奏曲がカットされた例には「十戒」などがあり、いずれもノートリミングの「完全版」時に復元されている。
 ところで、劇場公開されたものが完全版かというと、実はそうでもない、というところに最近の映画事情の問題点があるのである。その最もいい例が、初めて音速を突破したチャック・イエーガーとマーキュリー計画に参加した七人のパイロットたちを対比的に描いた傑作「ライト・スタッフ」。
 話のスケールの大きさや現実感溢れる特撮もいいが、たとえばゴードン・クーパーが記者に「最高のパイロットは?」ときかれ、あれこれ説明した後「今までで最高だと思ったパイロットが一人だけいる」とチャック・イェーガーの名前を言おうとして自分の話が受けていないことを知り「目の前にいるよ」、と言ったところでイエーガーの映像に切り替わる展開もうまい。
 ただ、この映画、劇場で見ると「いい映画なんだが、所々つながりの悪いところがあって惜しい」という評価になる。私も、そう思っていた。が、30分ほど長い完全版では、そうした不満が完全に一掃されているのである。劇場公開版は佳作評価だが、完全版は掛け値なしの傑作評価へと一変するのである。F104の飛行シーンなどの迫力もなかなかのものでテレビの小さな画面で見ても劇場で見たときよりも感動するのだから、一度完全版を無劇場で見たいと思っているのだが、封切り後10年以上経つ今になっても完全版が劇場公開されるという噂はない。映画館での回転の問題でカットされてしまったのだそうだが、ビデオの方が完全版で、劇場公開の方は不完全版というのは絶対に納得がいかない。全く金を払って見に来る客をなんと考えているのか。カットするのなら唯一退屈するストリップシーンだけにしてほしかったと思う。
 劇場版でのカットの問題といえば「サウンド・オブ・ミュ−ジック」にもあった。修道院へ逃げ帰ったマリアに対し、院長が「すべての山に登れ」と歌うシーンで、マリアが「もう一度トラップ家へ戻ろう」と決心する場面なのだからかなり重要な部分である。このシーンが封切時には、バッサリとカットされていた。ところが、封切前から売られていたサントラ盤には、この歌はちゃんと入っていたのである。LPに入っている歌が映画に入っていないのだから、すぐにわかる。当然映画雑誌では大きな問題になった。マスコミ向けの試写会の段階では間違いなくあったというし(私が見た一般向けの試写会ではすでにカットされていた)、そんなすぐばれるカットなどするな、と言いたいのだがこれも映画館の回転の問題でカットされてしまったのだろうか。
 だいたいこの「サウンド・オブ・ミュ−ジック」の主要な歌は、「「サウンド・オブ・ミュ−ジック」にしろ「エーデルワイス」にしろ一人(あるいは小数)で唄われる歌が、二度目のときにはみんなで唄われるという「文法」にのっとって作られているのである。「すべての山に登れ」も例外ではなく、院長からマリアに向けて唄われたものが、ラストではコーラスによりトラップファミリー、いや映画を見ている観客すべてに対して唄われるのである。院長の歌がカットされてしまえば、マリアが簡単に翻意して戻って来たような印象を受けるだけでなく(少なくとも私は劇場でそう感じた)、「すべての山に登れ」を一人→多数の繰り返しの中で聞くのと、ラストで初めて聞くのとでは、感動の度合いが間違いなく違ってくると思う。ちなみに、私がこの問題のシーンを初めて見ることができたのは、封切り後20年近くして、レーザーディスクが出てからであった。困ったことである。
 最後に、「スター・ウォーズ」シリーズの「特別編」に触れておこう。これは公開20年に当たって当時の技術では不可能だった部分の特撮をしなおし、さらに何カットが新しい部分を加えたというものである。確かに「帝国の逆襲」の雪のシーンなど合成の境目のチラチラがなくなって、ずっと自然になっている。「ジェダイの復讐」のラスト、森の木陰でどんじゃらほいでは、宇宙規模で戦われた戦争なのにそのスケールがわからないじゃないか、という不満もなくなった。その点では意味ある改変と言えるが、すでにトリミング版とノートリミング叛のレーザーディスクを持っている者としては、買おうか買うまいか複雑な気持ちではある。やはり映画は映画館で上映されるものを「完全版」としてほしい。(「スター・ウォーズ」は最初の作品をIVとして、その前のI〜IIIが後日制作された。ダースベイダーになる俳優は当然違ってくるため、「ジェダイ」のラストでベイダー、ヨーダ、オビ・ワンが幻のように出てくるシーンでベイダーをクリステンセンに変更したという話を聞いた。さすがにもう付き合ってはいられない。)


★パート2は、難しい
 映画がヒットすると、柳の下のどじょうを狙って続編(あるいは、リメイク版)がつくられるのは、世の常である。が、これが意外に難しい。ヒットした映画には、それなりに観客を納得させる部分があり、パート2には、当然そのイメージの延長線上にさらなる何かを期待しているからである。そんなわけで、パート2は、ほとんど失敗作であると言っていい。それも、少数の例外を除いて、オリジナルに泥を塗ってしまうような出来のものがほとんどなのである。
 その典型的な失敗例というか馬鹿野郎ものの駄作が「ポセイドンアドベンチャー2」。「ポセイドンアドベンチャー」は、この手の映画としては出色の出来で、主演のジーン・ハックマンはじめ転覆した船から脱出しようとする人々の個性が見事に描かれており、人間ドラマとしても見ごたえがあった。ここが重要な点である。
 ところが、せっかく転覆したということで上下が逆のセットを作り、映画もヒットしたのだから、そのセットを利用してパート2を作ろうと考えた馬鹿がいたのだ。生存者わずか5名と思われていたポセイドン号にまだ生存者がおり、さらに船にはある物が積まれていて、そのある物をめぐってドンパチというのでは、開いた口がさらに開こうというものである。オリジナルは、人間ドラマとしてよくできていたからこそ見どころがあったという点は、ここでは完全に見逃されている。
 「エクソシスト2」も、ひどかった。私は、基本的にこの手の映画が好きではないが、それでも「エクソシスト」では、牧師のマックス・フォン・シドーが「悪魔払いに来ました」と建物を訪れるシーンなどは映像的にもそれなりの説得力をもつものであった。それが、「2」で、実はまだ悪魔が取り払われていなかった(このパターンは「ポルターガイスト」も同じ)というのでは、悪魔払いのために命を落とした牧師はなんだったのだろう、と唖然としてしまう。
 「2001年宇宙の旅」→「2010年」(「2010年」もぎりぎり合格点の出来だが、映画史に残る名作相手では歩が悪かった。ただし、この映画はパート2というより別の映画として考えた方がいい側面もある)、「ナバロンの要塞」→「ナバロンの嵐」、「キング・コング」→「コングの復讐」&リメイク版「キングコング」、「荒野の七人」→「続・荒野の七人」「新・荒野の七人」(続編が作られる度に役名は同じなのに俳優が代わってしまうというとんでもないシリーズ)、「荒野の用心棒」→「夕陽のガンマン」「続・夕陽のガンマン」(「クリント・イーストウッドの「荒野の用心棒」に対して「続・荒野の用心棒」という作品があるが、これはフランコ・ネロ主演の全くの別物。ただし、出来は悪くない)、「ロマンシング・ストーン」→「ナイルの宝石」、「三銃士」→「四銃士」(「三銃士」が笑いありアクションありの佳作だっただけに惜しい。どうしてこんなつまらない続編を作ってしまったのだろう?)、「ブロジェクトA」→「ブロジェクトA2」、「駅馬車」→リメイク版「駅馬車」、「嵐が丘」→リメイク版「嵐が丘」、「ローマの休日」→リメイク版「ローマの休日」…など、皆例外ではない。
 「駅馬車」などオリジナルがモニュメントバレーの荒涼とした景色の中を走ったのに対して森林地帯を走らせたのだが、所詮監督(ジョン・フォードに対してゴードン・スコット)の腕が違った。ごくろうさん、としか言いようがない。
 クルーゾー監督の「悪魔のような女」は、いったいどうなっているんだろうと思いながら見ていてラストで「あっ」となったのだが、シャロン・ストーンのリメイク版は見て大損。レンタルビデオで見て腹が立ったのだから、劇場で見ていたらどうなったことやら。ヒッチコックの「サイコ」も2が出ておいおいと思っていたら、「ハスラー」も2が出た。いずれもアンソニー・パーキンスとポール・ニューマンが1に続いてが付き合っているが、これもごくろうさんとしか言いようがない。「スピード」も2では、スピードが出なくて失速した。キアヌ・リーブスが出なかったのは正解で、ついつい付き合ってしまったあのお姉ちゃんは、これで消えていくんだろうなあ。「ダイハード」のジョン・マクティアナンがシュワちゃん主演で撮った「プレデター」を私は隠れた侵略物の傑作だと思っているが、舞台をアメリカに移した「プレデター2」は、怪物をわさわさ登場させたにもかかわらず、1の緊張感には遥かに及ばない駄作だった。このあと、さにら「エイリアンVSプレデター」なる珍品まで作られることになるのだが……。
 「インディー・ジョーンズ」「バック・トゥ・ザ・フューチャー」「ダイハード」「スター・ウォーズ」といった3部作物もすべて第1作が一番出来がいい。だいたいアクション物やホラー物は、シリーズ化されることが多いのだが5作も作られた「ダーティ・ハリー」が結局第1作を抜けなかったように、第2作が断然おもしろかった007という例外を除いては、すべて第1作が最もおもしろいと考えて間違いはない。要するに金儲けのためにシリーズ化されたわけで、第1作だけ見ればいいのである。「オーメン」「13日の金曜日」「エルム街の悪夢」といったB級ホラーは好みではなく、そもそも第1作からして見ていないので、ここでは問題にしない。ま、好きな人は勝手に見ればええがね、といったところである。
 また、正確には続編ではないが、「アルプスの少女ハイジ」の続編とでも言うべき「アルプスを越えて」という珍品もあった。軍隊に行っていた青年ペーター(チャーリー・シーン)がそれなりに大人になったハイジと共に、まるで「サウンド・オブ・ミュージック」のようにアルプスを越えて脱出して行くという、とてつもない話であった。「ハイジ」に感動した人は見ない方がいいことは言うまでもない。
 日本映画でも「ゴジラ](前回の完全版の話ではないが、おおよそビデオ化されたものは、劇場公開版より長くなっていることはあっても、短いこときないという暗黙の了解があると思う。が、「ゴジラ]のビデオは10分のカットされており、のちに「全長版」が出るという問題があった)→「ゴジラの逆襲」、「ニッボン無責任時代」→「ニッボン無責任野郎」などいずれも最初の方が出来がいいし、「寅さん」シリーズも第1作が一番出来がいい。「駅前旅館」のように第1作は井伏鱒治の原作があったまともな作品だったのが「駅前シリーズ」として独り歩きするようになった例もある。
 黒澤明の「椿三十郎」は、映画の出来としてはなかなかのものだが、それでも前作の「用心棒」には及ばない。ついでに言うと黒澤映画の海外リメイクとしてそれなりの出来にある「荒野の七人」「荒野の用心棒」も、「七人の侍」「用心棒」には、及ばない。「羅生門」→「暴行」に至っては、論外と言っていい。
 そんな中で、パート2を作るにはどこをどうすればいいのかというノウハウを知っている監督として「タイタニック」という駄作ではないが前半やや退屈な部分のある映画で名を上げたジャームズ・キャメロンがいる。彼の「エイリアン2」「ターミネーター2」は、前作を超えるとは言わないまでも、前作と同水準のおもしろとは十分に維持している数少ない例である。
 で、キャメロンの続編をよーく見てみると、パート2といいながら、実はキャメロンはタイトルと一部設定を借りただけで、別の映画を作っている、ということがわかる。
 「エイリアン」は、逃げ場のない宇宙船の中でのゴシックホラーだったが、「エイリアン2」は、惑星でのエイリアンという敵との戦争映画である(ちなみに別の監督が作った「エイリアン3」は、「前作のあれは何だったんだろう」というような映画なので見てはいけない。「エイリアン」は、2で終わったのである。と思っていたら一緒に仕事をしている藤原という男が、「エイリアン4」は感動の結末だった、と話してくれた。ホンマかいなという疑問もあるが、近々レンタルビデオで見てみようとは思う)。
 「ターミネーター2」は、前作での敵が今度は味方として活躍し、新たな敵と戦うという仕切り直しの映画である。だから実質的にはパート1と言ってもいい作りなのだが、もちろん前作と全く無関係でもない。従って、キャメロンのパート2は、前作を見ている人を納得させ、また前作を見ていない人でもそれなりに楽しんで見ることができるのである。要するに、1本の映画として自立しているわけである。なかなか頭のいい監督だと思う(ま、説教調になった分、厳密に言うとシュワちゃんが悪役を演じた「ターミネーター」の方がやや上かなという気がしないでもないが、これくらいのレベルにあれば、まあよしとしよう)。
 と、書いてきて、物事にはやはり例外があることに気が付いた。前記の007シリーズ第2作「ロシアから愛をこめて」(このシリーズについては、また稿を改めて書く)と同様、1より2の方が遥かによくできている映画が他にもあったのである。ただし、私の知る限りでは、わずかに2本。ひとつは「スーパーマン2」。これは、前作の「スーパーマン」が、観客はスーパーマンがどういういきさつで誕生したのかは、とっくに知っており、早くスーパーマンの活躍を見たいのに、スーパーマン誕生までを長々とやりすぎた駄作だったことによる。スーパーマン誕生の経緯は、2のタイトルバックで紹介されるくらいでちょうどいいのである(ただし、2と同じリチャード・レスターが監督した「スーパーマン3」は、目を覆いたくなるような駄作。4に至っては、私は遂に見ていない)。
 二つ目は、「ゴッドファーザーPART2」。話題になった「ゴッドファーザー」自体、私には退屈な映画だったが、しかし、この「PART2」は、続編というよりも前作の主人公の若き日の姿、イタリアから移民してきての苦渋の日々をロマンチックなタッチで描き、一つの青春映画として、それなりの出来になっていたのである。少なくともPART3まで作られた「ゴッドファーザー」の中で、私は「PART2」が最も好きである。


★傑作と言われる駄作
 世の中に名作・傑作として定評のある作品でも、どうしても肌合いが合わない、あるいは冷静に考えても、あれはそれほどでもないぞ、と思う作品がいくつかある。まあ「駄作」というのは言葉のアヤで、要するに「そんなに名作だともちあげるほどでもないよ」というくらいの意味である。罵倒のための罵倒にならないよう注意しながら私が傑作とは認められない映画の話をしよう。
 まず、誰もが知っている、そして名作の誉れも高く、これを駄作と言い切ってしまうと怒り出す人もいるのではないか、と思われる映画から。その映画とは、「風と共に去りぬ」である。
 アカデミー賞を10個もとった映画だが、私にはこの1939年という年の映画では、ジョン・フォードの「駅馬車」の方が遥かに出来がよく、「風と共に去りぬ」は、ただ長いだけの退屈な映画にしか映らない。あれは。南北戦争に従軍していた人々がまだ生き残っていた時代だからこそ受けた映画だと思う。ヒロインのビビアン・リーは確かに美しいが、誰がどう見てもかっこいいと思えるクラーク・ゲイブルは眼中になく、「アシュレー、アシュレー」と言っている馬鹿な女である。年頃の女性の観客は「確かにヒロインはきれいだけど、私はあれほど馬鹿じゃない」と溜飲を下げられるのだから、ある程度女性に受けるのも理解できる。しかし、万人がこぞって「風と共に去りぬ」を史上最高の映画のように言うのを聞くと、それこそ「馬鹿じゃないのか」と思ってしまうのである。
 たとえば子供が落馬して死ぬが、父親が落馬して死んだことを思い出して、キャーと叫んだら子供も同じ所で落馬して死んだ、なんて子供を死なせてゲイブルが出ていくきっかけをつくるためだけのご都合主義としか思えないし、第一、あの程度の落馬(乗っているのはポニー)で簡単に死ぬのか、と言いたい。それは、打ち所が悪ければ道で転んだって死ぬことは死ぬが、要は説得力の問題である。また、いくらビビアン・リーが馬鹿だと言っても、あんな最後の最後にアシュレ−が凡くらだと気付くというのは、いくらなんでも引っ張りすぎだ。あそこまで引っ張ってしまっては、ヒロインの魅力も半減してしまうはずだ。
 「風と共に去りぬ」で唯一「これは悪くない」と思えるのは、映画を見終わった後も耳に残る音楽である。有名な「タラのテーマ」は、音楽を聴くだけで、あのタラの巨木が夕陽に映えるシーンが浮かんでくるほどの名曲。ところが、アカデミー賞を10個もとったのに音楽賞はとっていないのである。この年の音楽賞は「駅馬車」に与えられたので、仕方ないかなとも思うが「風と共に去りぬ」で賞に値するのはマックス・スタイナー(「キング・コング」のスコアもこの人)の音楽だけだ、と私は思っている。
 近年のアカデミー賞駄作の代表は「フォレスト・ガンプ」だろう。
 こういう人間には誰かが、「おいおい、ただ走っているだけじゃ何も解決しないぞ」と言ってやらなければならない。走っているだけで金持ちになり、それなりの幸せがつかめるのなら、誰だって走るのである。身障者だってちゃんとできるんだぞ、という主張がともすると身障者はえらいという主張にすり変わってしまうので、この手の映画には注意が必要である。もちろん差別や変な同情は不要だが、だからといって出来ないこともあるわけで、その辺はやはり周囲が理解し協力してやる必要がある。だいたいベトナム戦争の話にしたって安易に出しすぎているのではないか。確かに負傷したり死んだりする人間が出ることは、当人にとってはもちろん、周囲にだって大きな影響をもつものだが、ちょっと待て、戦争には当然相手があり、そこでもまた負傷したり死んだりしている人間がいるはずである。ところが、「フォレスト・ガンプ」には、そういういわば「複眼の視点」とでもいうべきものが、まるでないのだ。制作者の視点はガンプとその周辺にしかなく、ということは、要するに「お子様映画」ということである(この映画の最初と最後に羽根がふわふわ舞っているシーンが出てくる。要するに、ガンブは天使だという暗示なのだが、「エンゼルハート」にしても「グリーンマイル」「ローズマリーの赤ちゃん」にしても、この天使、神、悪魔といった単純図式は何とかならないものだろうか?)。
 スピルバーグの「シンドラーのリスト」や「カラーパープル」などに典型的に見られるのだが、見方が一面的で浅いのだ。だから映画が薄っぺらくなってしまって感動がない(確かにシンドラーの行為はヒューマニズム溢れる行為だが、そうした個人の行為を押し流す巨大なものとして戦争がある、という点がスピルバーグには認識されていないように思える。)。ガンプが見守り続ける恋人にしてもそうした一面的な視点で描かれているため、馬鹿な女というイメージしかなく、「ま、勝手におやんなさいよ」という気持ちになってしまって同感できない。戦争で足を失ったおっさんにしてもそうである。
 この映画を含めてもう一つ気になるのは、アメリカ映画が何かメッセージを送ろうとすると、世界の警察を自認する国のせいか、リーダー的発想が常に出てくることである。それが、すべて悪いと言っているわけではない。「ポセイドン・アドベンチャー」のような形で作られれば、人間の生き方というところまで話が広がっているので、こちらも納得してしまうのである。しかし、先の「シンドラー」に代表されるような形は絶対に納得できない。ガンプにしても相手が足を失い、優位に立った時点の行為と考えると素直に受け取れないものがあるのである。このリーダー的発想の典型例はコッポラの「地獄の黙示録」で、争いは所詮アメリカン・リーダーの2人で、そこにはアジア人がアジアを納めるという発想はまるでない。未開の人間たちはアメリカが導いてやらねば、という点では対立する2人は同じ立場に立っているのである。何か宿命の対決のような描き方だが、所詮はコップの中の嵐じゃないか。納得できないなあ。同じ理由で「ディア・ハンター」なども全く買わない。どうもベトナム戦争がからんでくると生々し過ぎるせいか肯定するにせよ否定するにせよ、どうも主張ばかりが騒々しく、「芸術」として語れるレベルに達していないと思うのだがどうだろう。
 9部門でアカデミー賞を受賞した「ラスト・エンペラー」や、最多タイの11部門受賞の「タイタニック」にしても、それほどの傑作なのだろうかという気がする(同じ11部門受賞では「ベン・ハー」の方が遥かに上)。とくに「タイタニック」については船をざーっと移動撮影で見せるあたりの迫力や沈没していく時のキャメロン特有の力業は認めるものの、軸になる恋愛部分がいかにも弱く(何だ、あの女は!)、ディカプリオの死なせ方にしても、死んでもらわないとうまく話が完結しない、という力業的死なせ方で、もう一つ納得できない部分がる。沈んでいくシーンは「冒険者たち」の、まんまパクリだしね。船物としては、「ポセイドン・アドベンチャー」にも及ばないというのが私の感想である。
 もうひとつ駄作とは言わないまでも世評ほど傑作とは思えない映画に「スタンド・バイ・ミー」がある。少年時代特有の冒険がそれなりに印象に残る画面構成で描かれており、その甘酸っぱい記憶と、ほろ苦い大人の現実との対比も悪くない。この映画を心に残る名作と持ち上げる人を別に否定する気はないし、おっさんにはこの映画のよさはわからんよ、と言われれば「はい、そうですか」と言うしかないが、私には構成が単純過ぎて退屈な映画であった(映画というのは、確かに見る年齢、性別、環境によって感動の質がまるで違ってくるものである。人それぞれが独自の価値観をもって映画を見ればいいのであって、これはあくまで私の感想である。念のため)。子供時代の友情が時とともに変化していくのは当たり前で、昔は…的な映画は私の好むところではない。が、もちろん、この映画を見て、ジーンときた、と言える人の感性を否定するものではないこと、再度書いておく。人それぞれの価値観があっていい。
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