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映画監督雑談1 [映画の雑感日記]

★映画の二大巨匠=ウイリアム・ワイラーとデビッド・リーン
 昔、何かの機会に書いたことがあるが、名監督と言われる人の作品をちょっと強引に分類してみると、映像派名監督とストーリー派名監督に分けられると思う。
 文字通り「映像派」とは映像が強く印象に残る監督であり、「ストーリー派」とは話・構成のうまさが印象に残る監督のことである。と書いてもわかりにくいかもしれないので具体的な例をあげよう。
 まず、映像派名監督の代表はなんと言ってもアルフレッド・ヒッチコックである。「レベッカ」の光るコップ、「鳥」のカモメの群れが街を攻撃するようにさーっと降りて行く大俯瞰、「北北西に進路を取れ」の飛行機追っかけ、ラシュモア山でのアクションなど印象に残るシーンのオンパレードである。あまりに有名になった「サイコ」のシャワーシーンやあの建物、「裏窓」のキスシーン(観た人ならわかるはず)なども加えてよい。もちろんスタンリー・キューブリックもヒッチコックと並ぶ映像派の巨匠である(この人、私が高校生のころにはカブリックと呼ばれていた。その後、クブリックなんて読み方も混じってようやくキューブリックに落ち着く)。「2001年宇宙の旅」の冒頭シーン、骨からロケットへの大ジャンプ、何だかよくわからん映画だったと感じた人でもこういったシーンは絶対に覚えているはずである。あるいは「博士の異常な愛情」での水爆とともに落下していくシーンなどを思い出してもらえれば納得してもらえることと思う。この派の監督の欠点は、それほど強く印象に残るシーンがあるため映画館では納得して見ているものの、ビデオ時代になって後刻見直してみると構成・展開がけっこう緩い点である。
 「北北西に進路を取れ」なんて、スパイがどうのと大騒ぎしているわりには敵方の組織はもちろん味方の組織についてもいっこうによくわからず、数人で騒いでいるだけのような気がしないわけでもない。ようするに人物の背景・広がりが一向に見えて来ないのだ。ラシュモア山で手を伸ばして彼女を引き上げるシーンが寝台車のベッドに引き上げるシーンにつながり、そのままトンネルに入って行くという唖然とするような鮮やかなラストのため、映画館で観たときには全く気にならなかったが、ビデオで再見しているうちに気になってきた。ラストといえば、「鳥」のラストにしても結末がついていないので不気味さが増すなんて言う評論家がいるが、私にはこの映画ヒッチコックは鳥が人間を襲うシーンをあの手この手で撮りたかっただけで、ラストは投げ出しているとしか思えない。要するにその後人間たちがどうなるのかなんてことには端っから関心がないのである。キューブリックにしても、かのダルトン・トランボがシナリオを書いた「スパルタカス」はともかく、「2001年宇宙の旅」のディスカバリー号の内部構造や「博士の異常な愛情」のペンタゴン内部の位置関係など監督の関心のない部分については全くわからない。これまた、キューブリックが描きたかったのは今までの映画とは全く違う宇宙の静けさ、怖さであり、水爆が引き起こす人の狂気であって、そういう部分に関しては関心がないのだと思う。
 一方、ストーリー派名監督の代表はビリー・ワイルダーでこの人の作品は「アパートの鍵貸します」のシャンパン、「翼よあれが巴里の灯だ!」のコンパクトの使い方など典型だが、うまいなあとうならされることが多い。「あなただけ今晩は」などのちょっと緩い作品でもエレベーターの使い方など実にうまいものである。ちゃあんと観る者の印象に残るように前もってうまく登場させているので、いざそれが必要になったとき突然、実はエレベーターがあってという泥縄にならないのである。「情婦」のような作品でも最後にキーポイントになる女性をうまーく傍聴席のチャールス・ロートンのお抱え看護婦の横に印象に残るように配置している。最近の日本映画ではビリー・ワイルダーの影響を受けている(と思われる)三谷幸喜さんがこのストーリー派である。「有頂天ホテル」のスッチー(あ、最近はCA=キャビンアテンダントと言うんでしたね)の制服の使い方などななかのものだった。ストーリー派の弱点は、というとつまり映像派の裏返しになるわけだが、ううむと唸らせるような印象的な映像があまりないことである。
 と、考えてきて、いや待てよ「映像もストーリーも凄い」監督を2人思い出した。ウイリアム・ワイラーとデビッド・リーンの2人である。
 ウイリアム・ワイラーは「必死の逃亡者」や「探偵物語」「コレクター」「嵐が丘」から「ローマの休日」「大いなる西部」「ベン・ハー」とサスペンスから文芸作品、ロマンチック・コメディ、西部劇、スペクタクル史劇と様々なジャンルの映画を撮っているがともかく失敗作というものがほとんどないない(もちろん失敗作はあるのだろうが、私は見たことがない)。
 70mm大作の「ベン・ハー」はワイラー作品としてはやや緩いところがあるものの、「キング。オブ・キングス」「クレオパトラ」「クォヴァディス」「ローマ帝国の衰亡」など当時続々と作られた歴史劇大作のなかで残ったのは「ベン・ハー」と「スパルタカス」だけという状況を考えれば、格が二段も三段も違っていたことがわかると思う。決して戦車競争だけの映画ではない。で、波瀾万丈のスペクタクルだけと思っていると、タイトル終了後の冒頭、ローマンマーチの音楽が流れる中、子どもが梯子を昇るのに合わせた見事なクレーン撮影に始まり、インターミッションの前の絶妙の落ち葉の舞い方、ラストの神は迷える子羊たちを導きたまうという声が聞こえてきそうな名画といっていい素晴らしい珠玉の映像が散りばめられている。映像もストーリーも群を抜いた巨匠と言えると思う。
 「大いなる西部」の月明かりの下でのグレゴリー・ペックとチャールトン・ヘストンの殴り合いも以後多くの模倣をうむ名シーンだった。その直前のペックの前でヘストンがジーンズをシュボッ、シュボッと履くシーンなども充実している。ラストのブランコキャニオンでの闘いのカメラ割りは編集の教科書。ストーリーも各人の個性を際立たせながらも、古い西部が滅び新しい西部の時代がやってくることをきちんと描ききって立派。ううむ、得点高いなあ。
 もう一つ例をあげれば、「コレクター」はほとんどテレンス・スタンプとサマンタ・エッガー2人だけのサスペンス劇なのだが、緊迫したストーリー展開はもちろんのこと、この映画にも素晴らしいシーンがある。さらわれてきたサマンタ・エッガーが机の引き出しを開けるとそこにはずらりとチョウの標本が並んでいる。別の引き出しを開けてもまたそこにはチョウの標本が。自分がこのチョウたちと同じようにコレクションされたのだと悟る名シーンである。凡庸な監督ならヒロインの独白など入れて心理を説明してしまうところなのだが(名作と言われる内田吐夢監督「飢餓海峡」だが八重の不自然な独白シーンに私はすっかり興ざめてしまった)、ワイラーは映像だけでそれをわからせてしまうのだから、すごい。そして、さらにすごいのは呼ばれたサマンタ・エッガーが慌てて部屋を出るとき乱暴にドアを閉める。すると、その振動でピンで留められている標本のチョウが一瞬、ぶるっと震えるのである。逃げたくても逃げられない状況を表す見事なモンタージュではないか。もう40年も前の作品だが「コレクター」というと私は今でもこのシーンが鮮明に浮かぶほどである。
 映像だけでなく、構成の素晴らしさを示す例を一つだけあげておこう。誰もが見ているはずの「ローマの休日」のラストシーン。ヘップバーンが各通信社・新聞社の記者と挨拶を交わす場面がある。これって普通の監督がやると間延びしてしまうか、途中を端折ると思うのだが、ワイラーはじっくり構えて一人一人の挨拶を丁寧に撮っていく。それが全然間延びしない。というのも、観客は記者団の最後にグレゴリー・ペックがいることを知っているので、そこまできたときどうなるんだろうという緊張感をもって他の記者たちとのやりとりを観ているからである。だれないだけでなく、あ、この映画はこれで終わってしまうのか、終わってほしくないな、とさえ思わせる。この観客の気持ちに答えるように一人になったペックのシーンをENDの前にちょっとだけ挟み込む。まさに名人芸と言ってよい。
 もう一人の巨匠デビッド・リーンも「オリバー・ツイスト」「旅情」「戦場にかける橋」「アラビアのロレンス」「ライアンの娘」とこれまた文芸作品からロマンチック・コメディー、超大作と幅広く、しかも安定度抜群で失敗作がない(私はある雑文で「ドクトル・ジバゴ」を失敗作と書いたことがあるが、それはあくまでデビッド・リーンにしては、という前提条件の下でのものである。他の監督なら十分に佳作以上の作品である。葬儀のあとバラライカの調べとともに舞っていく白樺の枯れ葉やラストのダムにかかる虹など額縁に入れて飾りたいような「名画」である)。
 代表作の70mm大作「アラビアのロレンス」はきちんと考え抜かれたストーリーとともに「名画」が散りばめられた映画史に残る傑作で、砂漠の向こうに昇ってくる朝日にしろ、列車の屋根の上を歩く白衣のロレンスにしろ、印象に残るシーンをあげていったら、それだけで一冊の本になってしまう。あえて一つだけあげるとすれば、やはりアカバの町への侵入シーンだろう。砂漠の方から侵入していく行くロレンスたちからカメラがずーっと移動してくると海に向けられた大砲が写り(観客は、アカバの大砲が海に向けられており、砂漠にの方には向けられないことを、すでに知っている。このあたりがストーリー展開としてもうまいところである)その向こうに青い海が見える。このシーンは、まさに映画史に残る名場面と言えるもので、茶色い砂漠のシーンが続いた後だけに思わずはっと身を乗り出させるくらいに印象に残る。それでいてストーリーに手抜きはなく、ロレンスのやや夢想的な考え、現実的なイギリス政府の考え、アラブの考えなどをきちんと交通整理して(つまり観客にわかるように)描ききっている。こういうのを名画、傑作と言うのである。
 「ライアンの娘」は興行的には「ドクトル・ジバゴ」ほど話題にならなかったが、私に言わせれば「アラビアのロレンス」には及ばないものの(「ドクトル・ジバゴ」はもちろんのこと)「戦場にかける橋」を凌ぐ傑作である。冒頭、崖から落ちて行くパラソルのシーンは素晴らしい映像であるだけでなく、その後のヒロインの落ちて行くストーリーまで暗示していて見事。つまり、単なるはったりの映像ではなく、その映像がストーリーと密接に関係しているわけである。軍人と会う夜のシーンの画面右下に咲く匂うような百合の花、まるで夢物語のような森のメイクラブのシーンなど、これまた決して映像派の巨匠たちに負けていない。ヒロインが夢物語を追っていて地に足がついていないことをふまえて、リーンは森のシーンを思いっきりきれいに、美しく「夢のように」撮っていることは言うまでもない。撮影中に俳優の一人や二人死んだのではないかと思えるほど手に汗握る迫力に満ちた嵐の夜の海のシーンにしろ、ロバート・ミッチャムが海岸の砂浜で足跡を見つけるシーンにしろ、素晴らしいと言うしかない。息をのむほどに美しい砂浜に残された足跡とミツチャムの表情だけで彼が妻の不倫を知ってしまった、と観客にわからせてしまうわけで、リーンのような監督以外誰もできないように思う。これまた名人芸。
 ベルイマンやフェリーニ、ルネ・クレール、マルセル・カルネ(いつだったかのキネマ旬報オールタイム・ベスト10で「天井桟敷の人々」が1位だった)を忘れちゃ困るじゃないか。チャップリン、グリフィス、ジョン・フォードも忘れるな、なんて声が聞こえてきそうですが、決してそういった名監督を否定しているわけではありません。私としては、この2人はアウトスタンディングな監督だったんですねえ、と言いたいだけです。ということで。


★「たかが映画じゃないか」(ヒッチコック)
 「007ロシアから愛をこめて」のヘリコプターのシーンは「北北西に進路を取れ」のいただきだというようなことは、あちこちで書かれている。「北北西」の監督は言うまでもなくサスペンスの巨匠アルフレッド・ヒッチコックである。
 しかし、実は「007ロシアから愛をこめて」を見たときには私はまだ「北北西に進路を取れ」は見ておらず、「007」のクライマックスが「北北西」のイタダキ云々という記事を雑誌で読み、なんとか見たいものだと切望したのであった。こんなところにもビデオが普及していない時代の悲劇があるのだが、切望かなってようやく大学生になってから「北北西」を見ることができた。結果は肩透かし。「北北西」も駄作ではないが、「007」のスピーディーな展開になれた目には、「北北西」はいかにも展開がのろく、第一、ショーン・コネリーと初老のケーリー・グラントでは動きが違った。
 問題のシーンも「北北西」は、農薬を蒔くふりをしていた軽飛行機が襲ってくるが、ケーリー・グラントはただトウモロコシ畑の中を逃げ回るだけで、別にライフルをもっているわけでもない。軽飛行機が操縦を誤ってタンクローリーに激突して炎上するだけである。だいたい話の展開からいって「北北西」にどうしてもこのシーンが必要だとも思えず、こういうシーンっておもしろいんじゃないか、とヒッチが無理やり挿入したのではないか、と私は想像している。話の流れの中できちんと処理し、撃ち落とすところまで見せる007の方が本家より遥かに出来がいい。
 そもそもこの「北北西」という映画、巻き込まれパターンの典型的な映画で、まるで思い付きの行き当たりばったりといった作品なのである。では、否定されるべき作品なのか、というとそうも言いきれないのがヒッチ作品の困ったところである。
 だいたいヒッチコックは、サスペンスの巨匠とかスリラーの帝王などと言われているが、構成には緻密さがあまりなく、場面のおもしろさで見せていく監督だと思う。だから、ヒッチコックの作品は、どれも見ていない人に対して話しやすい。「タイトルの時、ささーっと上や横から線が出てきてそれが国連ビルになるんだ」(ソウル・バスのデザイン。この映画のタイトルデザインが「ウエストサイド物語」のタイトルデザインにつながっていったのだと思う)「飛行機が突然襲って来るんだよ」「ほら大統領の顔が刻まれた山があるだろ、ラストは、あそこで追っかけをするんだ」等々。
 どれも、聞いた人はその映画を見たくなるような話ばかりである。で、見に行くと期待したほどではないが、嘘ではないので、「どんな映画だった?」と聞かれると同じように答えるしかないのである。
 「飛行機が突然襲って来るんだよ」
 考えてみると、ヒッチほど印象に残る場面を撮った監督は外にいないと言っても過言ではない。「レペッカ」の光るコップ、「見知らぬ乗客」の眼鏡に映る殺人現場と暴走するメリーゴーランド、「白い恐怖」のシュールな幻想シーン、「海外特派員」の冒頭の行き交う傘を真上から撮ったシーン、「裏窓」のキスシーン、「鳥」のジャングルジムに群れるカラス、そして「サイコ」のシャワーシーン等々どれも強烈に印象に残るシーンばかりである。「第三の男」のジョセフ・コットンが悪役をやった「疑惑の影」もちょっとタルイところのある映画だが、すごいのは最後に汽車が…、あ、思わずラストをばらしてしまうところだった。こういう映画でラストを語るのは明らかに反則。いかん、いかん。というくらいにヒッチの映画には、必ず一箇所は印象に残る場面があるのである。だったら、そのどれもが名作か、というとそうでもない。
 「白い恐怖」は退屈なフロイド物だし、「サイコ」は前半と後半で話が分裂している。場面は強烈だが、作品全体として見ると、構成が甘くあまり高い点はつけられないのである。たとえば「鳥」の有名なラスト、今はまだおとなしい鳥の間を静静と車が行くところで終わるのだが、これを「結末がはっきりしないだけによけい不気味だ」と言う人もいるが、私にはヒッチ自身がうまく結末がつけられなくなって投げ出してしまったのだ、としか思えない(「レベッカ」の原作者でもあるダフネ・デュ・モーリアの原作も結末をつけていないが、映画としてあの結末はいただけない。なぜ鳥が人間を襲うようになったかを説明する必要はないが、何らかの結末はつけるべきだと思う)。
 ただ、そうした印象的なシーンが映画人にどんな影響を与えたかは、容易に想像できる。ともかく印象が強烈なので「俺も、あれ、やってみよう」ということになるのである。たとえば、「鳥」の板を打ちつけた扉を破ってカラスの嘴が出てくるというシーンは、後のゾンビが扉を破って手を出すシーンの原型になった。結末のつかないラストは多くのホラー映画で利用され今日に至っている。「見知らぬ乗客」の眼鏡に映る殺人現場という手法は、映し出す物をサングラスやすりガラスに変えて今も使われている。「サイコ」のシャワーシーンに至っては数えられないほどの模倣者を産んだ。バスルームで殺人が行われると必ず血が排水口へ流れていくシーンや出しっぱなしのシャワーなどが出てくるのである。「めまい」の展覧会場を徘徊する目もくらむようなシーンは、デ・パルマが「殺しのドレス」で臆面も無く使っていた(デ・パルマは恥ずかし気もなくパクルのが大好きな監督らしく、「アンタッチャブル」でもかのエイゼンシュテイン「戦艦ポチョムキン」の映画史上一二を争うほど有名なオデッサの階段を落ちていく乳母車のシーンをそっくりパクッている)。
 「レペッカ」の光るコップは中にライトを入れて撮影したのだそうだが、どうやって撮ったか、撮るのかということは映画人の問題で、観客には関係ない。ただ、今まで見たことのないようなシーンはやはり強く印象に残るのである。「裏窓」のグレース・ケリーがジェームス・スチュアートにキスするシーン(コマ落としのスローモーションを見ているような感じでキスをする)にしてもそうである。そう考えてくると、結局ヒッチコックという人は、人を驚かせて喜ぶ悪戯っ子のような人だったのではないかと思う。とりあえずの手段として映画があったので映画を撮っただけであり、他に手段があれば別に映画でなくてもよかったのだろう。日本の夏の伝統の「お化け屋敷」の演出など頼んだらギャラなしでやってくれたのではないかと思う。悪戯のためのシーンを撮れれぱそれでもう十分なのだが、それでは誰もお金を出してくれないため適当に1本の映画として完成させる。だから他のシーンは極論すればどうでもいいわけで、ヒッチの映画の構成のいいかげんさは、そんなところに起因しているのである。
 ヒッチがバーグマンに言った有名な言葉「たかが映画じゃないか」は、別にバーグマンをリラックスさせるためでも何でもなく、文字通り彼の本音だったのだと思う。
 しかし、作家の意思と作品は別物であることもまた事実である。「たかが映画」の中でも私は「めまい」だけはちょっと違うかな、という気持ちでいる。美女というにはキム・ノバクがデブじゃないか、という欠点はあるにしろ前出の徘徊のシーンにしろ、坂の多いサンフランシスコの尾行シーンにしろ、ストーリーともうまく溶け合ってクライマックスへ向かって突き進んでしまう男女の悲劇を盛り上げている。偶然か必然か、一度見ればもういいや、と思わせる映画が多いヒッチ作品の中にあって、この「めまい」だけは、わざわざ途中でネタを明かしてしまうことといい、ちょっと毛色が違う。従って「めまい」がヒッチの最高傑作と言う気はないが、私にとって最も気になるヒッチ作品であることは事実である。


★名監督=クリント・イーストウッド
 最近では俳優としてより監督としての評価の方が高いクリント・イーストウッドの「硫黄島」二部作が公開されたせいだろう、メールで映画についての雑談をしていたら「クリント・イーストウッドの監督ってどうなんでしょう?」というメールがきた。
 「ローハイド」のロディ・イェイツの名前が出たところで、監督=クリント・イーストウッドの話をしよう。まあ撮影現場で一番威張っているのはたいてい監督で、そんなことからか俳優や脚本家で監督になりたがる者は多い。アメリカ映画では威張っているのはプロデューサーだが大物監督はたいていプロデューサーも兼ねることが多いので、まあ監督が一番威張っていると言ってまず間違いではない。ビリー・ワイルダーやダルトン・トランボなどは脚本家→監督で成功した人たちだが、しかし、一流脚本家=一流監督かというとそうでもないことは「羅生門」「七人の侍」「砂の器」などの脚本で知られる橋本忍やジェームズ・三木の無残な失敗を見ればわかる。日本で成功しているのは三谷幸喜くらいのものだと思う。
 俳優となると独り善がりが目立ち失敗確立はさらに高くなりる。ジョン・ウエインの退屈な大作「アラモ」やサモ・ハン・キンポー(香港映画のデブゴン)、勝新太郎などが典型例。日本では、桑田啓佑、カールスモーキー石井、小田正和といったミュージシャン監督の映画も最近はけっこう多いが、論外なので、ここでは触れない。
 アカデミー賞を取り世評も高いケビン・コスナーの「ダンス・ウイズ・ウルブス」やロバート・レッドフォードの「普通の人々」には退屈したし、メル・ギブソンの「ブレイブ・ハート」にしても、ま無難にまとめたかな程度の普通の出来で、傑作というほどのものではないと思う。
 そんな総倒れの中で「こいつは、けっこううまい」と思わせるのは私の知るところ、ジャッキー・チェンとクリント・イーストウッドの2人のみである。さらに厳しく言うとジャッキーはまだ映画全体のバランスをきちんととるところまではいかず(「プロジェクトA」の自転車チェイス、「プロジェクト・イーグル」の風洞アクション、「レッド・ブロンクス」のホバークラフトなどどれもアクションシーンは創意工夫があっておもしろいのだが、異様に長かったり唐突だったりして1本の映画としてのバランスを崩してしまっている)、その意味では俳優監督として最もうまいと言えるのは、クリント・イーストウッドに止めを刺す。
 「許されざる者」(後述)でアカデミー賞を取って監督イーストウッドの評価は一気に高まったが、実はイーストウッドは、最初からうまい監督だったのである。にもかかわらず、それまで監督イーストウッドを評価する声はどこからも聞こえず、私は会う人ごとに「イーストウッドの作品は、意外といいぞ」と薦めては煙たがられていたのである。
 イーストウッド作品を最初に見たのは、「恐怖のメロディー」で、彼の監督第一作である。が、そうと知っていて見に行ったわけではない。何か別の映画を見に行ったら2本立てのもう1本が「恐怖のメロディー」だったのである。ところが、肝心のその時のお目当ての映画は何だったのか完全に忘れてしまっていて、「恐怖のメロディー」だけ覚えているのだから世の中わからない。
 「恐怖のメロディー」は、イーストウッド演じる売れっ子のDJ(だったと思う)が、フアンの女の子をつまみ食いして一夜を共にするのだが……、という今でいうストーカー物のはしりで、私の好きなジャンルの映画ではないのだが、その見せ方は監督第一作とは思えないほど堂に入ったものであった(不倫→ストーカー映画として話題になった「危険な情事」は笑えるが、「恐怖のメロディー」は、けっこう怖い)。出番のない時もぼーっとしておらず、「荒野の用心棒」のセルジオ・レオーネや「ダーティ・ハリー」のドン・シーゲルの演出をよく見ていたのだろう、処女作からすでに演出のコツは、完全につかんでいたと思える。
 一時、ソンドラ・ロックという女優とできてしまいヒロインはいつも彼女というパターンで飽きられたが、彼女を起用した第一作の「アウトロー」の出来は、悪くない。南北戦争で妻子を殺されたジェシー・ウエルズ(イーストウッド)の復讐の物語なのだが、映画の印象は決して暗くはなく、ラストの「もう戦争は終わったんだ」という幕切れが挽歌のイメージを奏でて鮮やかであった。ソンドラ・ロックもまだ少女の面影がありおっぱいまで見せてサービスにつとめている。うん、この頃の彼女は、馬鹿面だが悪くはない。
 「ペイル・ライダー」も、傑作といっていい作品であった。開拓者とそれを邪魔する悪人、そこへふらりとやって来た男は拳銃の名手……、と書けば誰もがあの「シェーン」を思い浮かべるだろう。シェーンの少年をこの映画の少女に置き換えて見れば、ラストの山に向かって消えていくシーンまでそっくりである。これは、つまりシェーンというよりも西部劇へのオマージュである。ただ、最初見た時は、ううむ何となくわからん部分があるぞ、と思ったのだが、実は彼はすでに死んでいる人間で幽霊だと思えば、すべてが納得いくのである。ウエスタンに「ライダース・イン・ザ・スカイ」という首のない幽霊が馬に乗って空を駆けていくという歌があるくらいだから幽霊といっても別に違和感はない。リアルな幽霊という解釈をとりたくなければ、主人公は、すでに過ぎ去りし時代の人間で幽霊のようなものだ、と考えればいい(「ペイルライダー」は同じくイーストウッドの「荒野のストレンジャー」のリメイクだという意見がある。しかし、両者の共通点は、すでに死んでいるはずの主人公ということだけで、素直に「シェーン」へのオマージュととるべきであろう)。
 そして「許されざる者」である。
 この映画は会社のKという男と銀座まで見に行った。イーストウッド演じるのは、かつて非情な賞金稼ぎとして名を売った初老のガンマン。これに若い賞金稼ぎ、かつての仲間、彼らを待ち受ける保安官を配して物語は展開する。まずジーン・ハックマン演じる保安官がいい。自分で家を作るといった家庭的な部分(独身の設定だがイメージはそうだ)と、憎たらしいほどの暴力性を併せ持ち、敵役がうまいと話がおもしろくなる典型である。切られた娼婦が、イーストウッドの亡くなった女房を連想させるあたりもうまい。撮影も、とくに西部の空気を実感させてくれるような画面に久しぶりにお目にかかった。友人で殺されてしまうモーガン・フリーマン(「ショーシャンクの空に」で最後に主人公に会いに来るあの黒人俳優です)も、いい味だしている。
 ラストの対決は、役者と監督としてのイーストウッドの能力が最高度に発揮された名場面で、それまで年のせいかちょっとパワーが落ちたかな、と思われたイーストウッドが一変、その迫力たるや他の俳優ではとても出せないと思う。見事な傑作で、西部劇はアカデミー賞を取れないというジンクスを打ち破って作品賞を取ったのは、当然である。何よりもうれしいのは、イーストウッドの西部劇には、前に書いた「西部劇の呼吸」というものがもきちんと描かれていることで、このラストのイーストウッドのカッコよさ、ダンディズム痺れましたですねえ。イーストウッドの西部劇に唯一欠けているものを探すとしたら、それは印象に残る主題曲がないことだろうか。これだけは、彼の宿題である。
 ところで、かつての「アウトロー」にも言えることだが、「ペイルライダー」にしろ、この「許されざる者」も、見終わったとき、なぜかノスタルジックなものを感じるのは、気のせいではないと思う。
 イーストウッドには、「ダーティハリー」シリーズのような現代のガンマンとでも言いたいような刑事物の当たり役もあるが、何といっても「ローハイド」のロディで世に出、「荒野の用心棒」で認められたという経緯がある。西部劇に対する思い入れは、人一倍のものがあるはずである。ところが、映画全体における西部劇の地位は、ここ20年下がっていく一方である。というよりも、きちんとした西部劇を撮れる監督は、今やクリント・イーストウッド唯一人なのだ(ケビン・コスナーの「ダンス・ウイズ・ウルブス」を私はあまり買っていないが、それを抜きにしてもあれは開拓劇で西部劇ではない)。それは、ここ10年での水準を超えた西部劇がイーストウッド作品以外にないことからも明らかである。イーストウッドは、おそらくこんなことを考えているのだろう。
「自分が死んだら、もう西部劇というものは作られなくなってしまうかもしれない」
 イーストウッド西部劇につきまとう消えていく者へのノスタルジーは、そんなところから来ているのではないか、と私は解釈している。
 2000年になってイーストウッドの「スペース・カウボーイ」という映画が封切りされた。例によって、制作・監督・主演である。私、上野セントラルで見ました。話としては、宇宙を舞台にしたSF映画なのだが、基調音はタイトルからもわかるように、まさに21世紀のウエスタンである。そして、かつての「ライト・スタッフ」へのオマージユでもある(冒頭がモノクロで、墜落の様子や、記者会見で並んでいると、チンパンが出てくるところなど、そっくり)。おそらく、「ライト・スタッフ」に感動し、「よし、俺は、宇宙飛行士に落ちこぼれた連中の映画、その連中が遂に宇宙に行ってしまう映画を作ろう」と考えたに違いない。イーストウッド、70歳。まだまだ若い者には負けんぞ、というその心意気やよし。ジェームズ・ガーナーなど他の面々も年齢を感じさせない元気さで楽しませてくれる。前半の仲間を集めるくだりは、「七人の侍」か。ユーモラスなシーンなども交えて観客を取り込み、後半の緊迫感あふれるクライマックスにもっていく手腕も見事。いいねえ。前半がちょいだれる気もしないではないが、ラストシーンの馬鹿馬鹿しさなども含め、最近「お子さまランチ」ばかりのアメリカ映画の中にあって、イーストウッドの作品は、やはりひと味違う。大傑作とまでは言わないが見て損のない映画である。
(以下、補足)
 さらにイーストウッドは「ミリオンダラー・ベイビー」という映画で2005年のアカデミー作品賞、監督賞を受賞した。ヒラリー・スワンクは女性ながら動きもよくアカデミー主演女優賞は当然の受賞。モーガン・フリーマンも今や人のいい老人の黒人と言えばこの人しかいないというくらいのもので、これまた当然の助演男優賞受賞。さすがにイーストウッドの主演男優賞はなかった。展開に無理がなく、ボクシングシーンは迫力があり、結末も一つの選択肢としての説得力をもっていた。いい映画だったが、当時、闘病中だった私には暗い結末がちょっと重いものがあった。最近の「硫黄島」2部作もなかなかのできだったが、「硫黄島からの手紙」はちょっと通俗に流れたところがあり、シニカルな「父親たちの星条旗」のほうが私にはおもしろかった。イーストウッドはもう70代後半のはずだが、元気ですなぁ。
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