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NHK-BS2黒澤明特集「七人の侍」など雑感 [映画の雑感日記]

★黒澤明「赤ひげ」とリメイク「椿三十郎」
 11/1、NHKのBS-2で黒澤明の「赤ひげ」を放送していた。この映画が公開されたとき、こちらは生意気盛りのな若者だったので、なんだかありきたりのヒューマニズムが鼻についてちょっとしらけるところもあり、あまり感動しなかった。見たのは、名古屋の名宝劇場(名古屋での東宝映画の封切館。今はない)。なんとなくおっとり奥様のようなイメージのあった香川京子が演じた凶女や野良猫のように目が光る二木てるみの扱いなどもよくわからず(高校生にああいう女性を理解しろということ自体が到底無理)、「なんだかなあ」といった感じでその後、テレビでの放送やビデオ、DVDの発売などあったものの見直すこともなかった(なにせ3時間ですから)。ただし、「なんだかなあ」というのは決して駄作ということではなく、風鈴のシーンや井戸のシーンなど印象に残るシーンは少なくなく、「自分の集大成」という黒澤の言葉には納得できなくても、それなりの作品であることを感じてはいた。
 で、あらためて見て驚き。確かにステレオタイプのヒューマニズムは感じられるものの、それは表面上のことで、これは加山雄三の成長物語としてとてもよくできた映画だった。加山は「椿三十郎」に続いての起用で、当時、「あ、これで東宝も三船の後継者ができた」と思ったことを思い出した(私の早とちりで、その後の加山の歩みを見れば完全に読み違えていた。同じく「椿三十郎」に出ていた「青大将」こと田中邦衛のほうがよほど俳優としてきちんと歩んだことが今になってわかる)。それに加えて、この映画は実によく人が死ぬ。つまり、「赤ひげ」は「生きる」を踏まえた上で黒澤の考えをさらに発展させた「生と死の物語」であることも再認識できた。黒澤は「この映画を見終わったとき、(ベートーヴェンの)第九が聞こえてこなくては」というようなことを言って撮影現場ではずーっと第九をかけていたということだが、ラストの赤ひげのテーマはもうほとんど第九そのも。静かな感動にひたれるいい映画だった。
 続いて11/2には日本映画専門チャンネルで黒澤「椿三十郎」の森田+織田でのリメイクが放送された。オリジナルの「椿三十郎」は、赤い椿と白い椿が一つのキーポイントになっているにもかかわらず白黒で、何でカラーで撮らないんだろうと思ったもので、「椿三十郎」がカラーでリメイクされたというだけで、私などは、「これは見なければ」と思う訳である。
 というわけで見てみたわけだが、森田監督それなりにがんばったのでは、と思う。黒澤の傑作と比較するから「ううむ……」と思ってしまうわけで、単独の作品として見れば、それなりにおもしろい作品に仕上がっていた。赤い椿と白い椿の対比もカラー作品ならではだし、「乗った人より馬は丸顔」の伊藤雄之助の役が藤田まことというのも適役(顔が長いだけでなく「必殺シリーズ」や「剣客商売」などもやっている人なので台詞回しも不自然さがない)。ラストの決闘ももともとのシナリオには「二人の決闘はとても筆では書けない」というようなことが書いてあるので(もう何十年も前にキネマ旬報に載ったシナリオを読んだことがある)それなりの工夫があった。悪くない。
 ただ、残念なことは、今や時代劇をやれる俳優が本当にいなくなってしまったということだ。織田裕二は殺陣もなかなかにうまいし、面構えもいいと思うのだが、もともと三船敏郎を想定して書かれたシナリオなので、同じ台詞ではやはり違和感がある。松山ケンイチ以下の9人の若侍も黒澤作品ほどうまく描き分けられていない。誰もがそれらしく台詞をしゃべれないのだ。敵役のトヨエツも「懐刀」にしてはしゃべり方を含めて切れがない。小林桂樹演じた「押し入れ侍」をやったのが佐々木蔵之助とは全く気がつかなかった。演技力の差か、演出力の差か。いかん。黒澤のものと比べてしまうと、どうしても……。
 どうでもいいこと。前作のシナリオ通りといいながら、三船が田中邦衛に、「てめえ、めくらか」という台詞は「てめえ、どこに目つけてんだ」と変更されていました。ま、仕方ないか。
 もひとつどうでもいいこと。三十郎が奥方の踏み台になる有名なシーンがあるのだが、黒澤作品では城代家老夫人を入江たか子、娘を団令子が演じていて、太った入江たか子が乗ったとき三船が「うぅっ」とうめく。爆笑のシーンだが今回は中村玉緒と鈴木杏。鈴木杏どういうわけか激太りで明らかに中村玉緒より重そうなのだが、織田裕二はやはり中村玉緒が乗ったときに「うぅっ」とうめく。黒澤シナリオ通りにやるのなら、いくらなんでもここは撮影前に鈴木杏に減量を命ずるべきではなかったのか。

☆NHK-BS2の黒澤明特集
 黒澤没後十周年ということで9/6にNHK-BS2で「七人の侍」が放送された。「七人の侍」は劇場で三度、テレビ画面では何度観たかわからずしかもビデオも持っているのにまた観てしまった。暇人としか言いようがない。心配していた画質は時々かすかなノイズが入るものの満足できるもので(DVDのものよりは若干コントラストが低いような気がした)、後で書くアーカイブスに挿入されるものよりはかなり黒がきちんと出ていた。まあ合格点と言ってよい。最近ではいわゆる「完全版」が主流になったようで、少なくともこの点は評価できる。たとえば以前の短縮版では(勝四郎と志乃のシーンがカットされていたため)勘兵衛が「お前も昨日からもう大人だ」という意味がよくわからなかったりした。
 この映画に関してはすでにあちこちに書き散らしてきたし、知人・友人にも話をしたのでここには書かない。と言いつつ少しだけ書く。
 侍が六人集まって明日出発するという話をしているところへ酔っぱらった菊千代(三船)がやってくる。で、置いた刀をとろうとするのだが、その少し前、右側に自分の刀を立てていた久蔵(宮口)がすっとその刀を左側に持ち替え、菊千代がとろうとする寸前、さっとその刀をとって勝四郎(木村)に渡す。もちろん、そういった演出がなされているわけなのだが、そのときの久蔵の自然かつ目にもとまらぬ動きにはほれぼれする。実際、この映画の久蔵役は「隠し砦の三悪人」における田所兵衛と並ぶ儲け役なのだが、それを立派にこなすのも役者の力量。拍子木の音を聞いて走る姿も腰が決まっているし、勝四郎に「あなたは、すばらしい人です」と言われたとき、何を馬鹿なことをといった顔をしたあと、口元に何ともいえない笑みを浮かべて眠りに入るところなど、その名人芸にこちらの口元も思わずにやりとしてしまう。観るたびに何か発見があるわけで、いやあ名作とはこういうものを言うんですなぁ。
 ただ、これは別のところにも書いたのだが、この名作にも小さな疑問が二つばかりある。一つは、仲間が次々と殺されていくのになぜ野武士たちは執拗にこの村を襲うのかということ。普通ならもっと襲いやすい村に向かうと思われるので、何か理由づけが欲しかった。もう一つは、久蔵がせっかく種子島をとってきたのに(そして菊千代もとってきたのだから種子島は2丁あるはず)なぜ使わないのかということ。雨でも家の中からなら撃てるわけで、事実、野武士の種子島で久蔵と菊千代は命を落としている。納得できない。
(侍探しのところの侍に仲代達矢が出ているのは今では有名な話なのだが、どこかのサイトで見たのか、うちの奥様が「宇津井健もでているらしいよ」と言っていた。それは気がつかなかった。今度観るときには気をつけてさがしてみよう。)
 9/6命日での「七人の侍」に続いて9/7は、NHKアーカイブスの黒澤特集。「七人の侍」はこうつくられたというメイキングと、「我こそは“七人の侍”」という10年前の番組を再放送。いようっ、NHKもたまにはいいことやるじゃないか。メイキングのほうはすでに以前観たことがあり、ビデオに録画もしてあるのでまあ流して観たのだが(なんと2本で3時間以上あるので息抜きが必要なのだ)、もうけものは「我こそは“七人の侍”」。司会が小堺と小林千絵だというので全く期待しないで観たのだが、司会はへぼでもゲストが豪華で知らない話も多く儲け物だった。まず制作側が土屋、津島の俳優(すでに侍は七人すべてが亡くなっていた。合掌)に当時の助監督、美術、カメラ、そしてスクリプターの野上照代。フアン代表がまた豪華で、作詞家のなかにし礼、仮面ライダー・藤岡弘、ピーター・バラカン、そしておおっとびっくりしたのは先日亡くなった赤塚不二夫がでていたこと。考えてみれば愛猫に菊千代(三船敏郎の役)という名前をつけ、村の長老の決めぜりふ「やるべし」から「べし」なるキャラクターを作り出したくらいだから考えてみれば別にびっくりすることはないのだが、先日亡くなったというニュースを聞いたばかりなので、今回の再放送に感謝。それにしても、最後に土屋嘉男がいきなり田植え歌を歌い出したのには驚いた。全く照れることなく、大声できちんと歌うんだから、役者ってすごいなあ(^^*。


☆黒澤明十周年と画質
 没後10年ということでNHK-BS2で9/6の命日には「七人の侍」が、9/20には「隠し砦の三悪人」が放送される。以前、「黒澤明の話をしよう」という雑文をこのブログにアップしたが、
http://tcn-catv.easymyweb.jp/member/tag1948/default.asp?c_id=893
 ようするに私が選ぶ黒澤映画の1位と2位が連続放映されるわけで、めでたいめでたい。すでにビデオは持っているが、この機会にDVDにも録画しておこう。ビデオはデジタルリマスター版で発売され、現在発売されているDVDも画質はかなりいいが(持っているわけではない。持っている人に見せてもらっただけである)、テレビ放映されるものもこれを使っているのだろうか。
 NHK-BS2で昔放送されたジョン・フォードの「駅馬車」など、アパッチののろしを見てリンゴ・キッド(ジョン・ウエイン)が逃げるのをとどまるのだが、NHK-BS2で放映された「駅馬車」ではこののろしが全く見えないので観ている人は、なんのこっちゃと思うだろう(私が映画館で観たのはリバイバル上映のときだが、それでものろしはちゃんと見えた)。
 先日「ザ・シネマ」チャンネルで放送された「黄色いリボン」もひどかった。黄色が退色しているフィルムから起こしたビデオなので木々の葉は青く、なによりかんじんのリボンが黄色く見えない。ハワード・ホークスの「リオ・ブラボー」も場面によっては赤と青の2色映画かと思うところがあった。「ウエストサイド物語」もくすんだ色合いで、これではせっかくのカラー70mmが台無しである。CATVの契約に含まれているチャンネルなので、こんなものなのかなという気もするのだが、このチャンネルはトリミング版も多く、同じくコースに含まれている「ムービープラス」「日本映画専門チャンネル」「チャンネルNECO」と比べてもまちがいなくワンランク落ちる。何とかしてもらいたい。
 その点、WOWOWは毎月2000円以上の契約料を払っているだけあって、色を含めた画質に関してはほぼ満足できる。「西部開拓史」のような駄作大作もちゃんとノートリミング版で序曲、間奏曲、終曲もすべて放送されている(NHK-BS2で放送されたときは序曲がカットされていたことはすでに書いた)。この作品は私は大昔に名古屋の毎日ホール大劇場で観たのだが、そのときより色が鮮やかな気がするくらいである。画質にうるさい人が多い(と思われる)「スター・ウォーズ」全6作や「ロード・オブ・ザ・リンク」全3作、最近の放映では「パイレーツ・オブ・カリビアン」全3作など、内容はともかくとして、こと画質に関しては全く問題を感じなかった(我が家のテレビ=ブラウン管ではという前提の感想である。大画面デジタルハイビジョンで観ている人がどうなのかは知らない)。NHK-BS2は画質でいうとWOWOWとザ・シネマの間といったところか。
 最後にNHKの黒澤特番について少しだけ。
 シナリオライター橋本忍が語る黒澤明は、もうすでに何度か聞いたことのある内容だが、90にしてあのかくしゃくさというのはたいしたもの。「シナリオは楽に下手に書け」なんて言葉は至言ですな。女優香川京子さんの語る黒澤明は初めて聞く内容が多くておもしろかった。それにしても香川さん、いくつになってものほほーんとしたお嬢様しゃべりで、「癒し系」の元祖のような方ですな。スクリプター野上照代さんの語る黒澤明も初めて聞く話が多いのだが(とくに「デルス・ウザーラ」)、仲代達矢らのゲストを生かしきれていないのが惜しい。ただ、皆さんまだまだ現役で、現役の人って歳をとってもなんだか溌剌としていますね。「見習わねば」と思いました。


☆藤田進の槍がキラリ
 最近でこそ洋画を見る割合が高いが、子供の頃は断然邦画を見ることの方が多く、今でもそこそこは邦画も見るのである。
 ところで、上のタイトルを見て、おっ黒澤の話をするつもりだな、とわかった人はかなりの映画通である。邦画と言えば、誰が何と言おうと、まず黒澤である。黒澤を批判することが一種のステイタスのような向きが一部にあるが、素直に「凄い」と認めるべきである。処女作の「姿三四郎」に始まり「野良犬」「生きる」「七人の侍」「用心棒」「椿三十郎」「天国と地獄」「赤ひげ」……と、黒澤明の傑作を挙げていけばきりがない。晩年の「影武者」や「夢」「八月の狂詩曲」にしたって立派なものである。「影武者」の時は「七人の侍」と比べて云々という評が多くあったが、あれって洋食だと思っていたら和食が出てきたってことで怒っているわけでしょ。違う映画なんだから、その映画はその映画で評価すべきなのにおかしいですねえ。黒澤という権威を批判すると自分が偉くなったように思えるのか、こと黒澤に関してはえてしてこうしたトンチンカンな批評が多い。たとえばほとんどの評論家に評判の悪い「夢」にしても、トンネルから出てくる日本兵の不気味さは、特筆ものである。ラストの清流のシーン、これは彼の好きなタルコフスキーの「惑星ソラリス」へのオマージュだと思うのだが、水の冷たさ、清々しさが実感されるような名シーンである。「八月……」にしても、あの入道雲の生きているような描写、ラストの皆がわーっとなる風雨のシーンなど黒澤以外の監督が撮れるとはとうてい思えない。失敗作の「乱」にしても後段の合戦シーンはどちらがどう攻めてという状況が実によくわかり、ちょっと他に類を見ない迫力である。つまり、誰が何と言おうと黒澤明というのは、それほど傑出した大監督なのである。
 ということで、今回は、その黒澤映画のうち私が特に好きなシーンをランダムに書いていこうと思う。そこでタイトルの「藤田進の槍がキラリ」。この名シーンがあるのは黒澤初のシネマスコープ映画「隠し砦の三悪人」の後半部である。
 この作品、他の名作と比べてあまり話題になることがなく、せいぜい「スター・ウォーズ」のロボットR2-D2とC3-POが砂漠をとぼとぼと行くシーンがこの映画の冒頭をイメージしている、と語られるくらいである。
 物語は、単純明解。
 城を追われた姫が友好関係にある隣国まで逃れる話である。それを助けるのが家臣の三船敏郎、これに強欲の千秋実と藤原鎌足、途中で女が一人加わる。当然、追手はかかっているわけで、一行は危機また危機の連続。実に展開がスピーディーなのは脚本の勝利であろう。が、ここで語りたいのは、そういうことではなく敵の豪傑・田所兵衛=藤田進のことである。藤田進と言えば、黒澤の処女作「姿三四郎」の主役だが、この映画で実に言い味を出しているのである。というより、俳優にとってこんなおいしい場面はそうそうあるものではなく、黒澤が処女作の主演をつとめた藤田のためにわざわざ用意したのではないかと思える名場面である。
 正体を敵に知られ、通報に行こうとする馬上の者を、これも馬上の三船が両手で刀を構えたまま追い抜きざま一刀両断に切り捨てる(このシーンは、「エル・シド」のカラオーラの闘いや、ジョン・ミリアスの「コナン」の決闘シーンに絶対に影響を与えているはずである)。そのまま、勢い余って突入してしまったのが、豪傑・藤田のいる陣地である。二人は、お互いの力量を認め合いながらも、先の合戦で出会えなかったことを残念がり、手出し無用と一対一の決闘に突入する。闘いは、ほとんど互角ながらも最後は三船が勝ち、これが「槍がキラリ」の伏線となるのである。
 ついに捕まった一同を藤田が見に来るのだが、その顔には無数の傷が。三船に遅れをとったことで、領主に責めを負ったのだ。そのことを知った姫の一言が藤田の心に強く残ったのは言うまでもない。
 そして翌朝、いよいよ一同はしばられたまま城へ送られていくことになる。その時だ。先頭からパンしてきたカメラが止まると、槍を抱くようにして藤田が座っている。その藤田が突然立ち上がり昨夜姫が謡った唄を謡いだす。「人の命は、……」と謡ったところで、「えいっ」と槍を突き出す。その槍が朝日にキラリと光るのだ。私は、このシーンを見て「ううむ」と感心のあまり思わず唸ってしまった。これは、もちろん計算ずくで光を当てているのだろう。しかし、それにしてもすごい演出ではないか。おおっ、これは何か起こるぞ、とよほど鈍感な人でない限りは思うはずである。
 この後「……火と燃やせ。よしっ、燃やすぞ」と続き、「裏切り御免」までは、映画史に残る名シーンと言っていい。数十人を相手に藤田進が、かつての豪傑はかくあったのか、と思わせる見事な働きを見せるのだが、様式美とリアリズムとが紙一重でくるりくるりと反転し、実に見ごたえがある、と同時に胸が熱くなる。名シーン数ある黒澤映画の中でも特筆すべき名シーンといえる。
 前半、逃走に移るまでがやや長いかな、という気がしないでもないが、黒澤の数ある傑作群の中にあっても屈指の傑作と言えよう。この映画はレーザーディスクでしか見ていないので、ぜひ映画館で見てみたいと思う。
 「生きる」や「七人の侍」「用心棒」「椿三十郎」「天国と地獄」などについては、いろいろな人がいろいろなところで書いており。それだけで何冊もの本ができるくらいなので、あまり話題にならないが印象に残っているシーンのみ簡単に書く。
 一つは、「七人の侍」の木村功が林のなかで、横たわるシーン.この時の周囲の野菊の美しさは尋常ではない。暗い森の中がその野菊のおかげで、ふっと明るくなるのである。それが木村の意識を反映したものであることは、言うまでもない。その木村功が、敵の鉄砲を奪い取って帰ってきた宮口清二に「あなたは、素晴らしい人です。私は前からそれを言いたかった」と告げて去るシーンも忘れられない。その瞬間、剣一筋に生きてきたニヒルな宮口が、ふっと照れたような顔を見せるのである。見ているこちらもつい口もとがゆるんでしまういいシーンである。余談だが、かつて「七人の侍」は、映画で死んだ者が生き残っている、と言われたことがある。映画で生き残った志村喬、加藤大介、木村功の3人が先に死んだからである。今、生きているのは千秋実只一人で、映画では7人のうち千秋が真っ先に死んでいる。偶然とはいえ、また伝説が一つふえそうである。
 「天国と地獄」では、何と言っても特急こだまの車内のシーンが圧巻。これまた画面全体を支配する緊張感といい映画史に残る場面といえる。スクリーンプロセスではなく、本当に特急こだま一両を借り切って撮影したのだそうだが、その効果は計り知れない。特に感心したのは、まどの所に置いてあるバヤリースオレンジの空き瓶(だったと思う)に外の景色が写り込み、それが動いているということ。30年以上前学校から見に行った時は、そんなことは全然気が付かなかったはずだが、気が付かなくてもそういう部分の積み重ねが独特の迫力を産んでいるのだと思う。
 「椿三十郎」はラストの三船と仲代とも決闘シーンばかりが話題になるようだが、椿の花が隣家の清流に沿って、わーっと流れてくる場面の美しさはちょっと他に例がない。また「椿三十郎」は、黒澤のコメディーセンスが最もよく発揮された映画で、加山以下の若侍の使い方もうまいが、小林圭樹演ずる押入れを出入りする侍の使い方など爆笑もののおもしろさである。単なるアクション時代劇でないことが、このことからもわかると思う。ただ、赤い椿と白い椿が一つのキーワードになっているだから、白黒の画面でそれを出してしまうという黒澤の凄さはわかるのだが、カラーで撮ってもらいたかった、とい思いは今でもある。
 黒澤の映画で文句があるとすれば「音」とくに「科白」だろう。「七人の侍」など志村喬や宮口精二、千秋実といった舞台経験のある役者の科白はともかく、三船の科白など何を言っているのかわからない部分が多々ある。ビデオになったとき、最新の技術で雑音を大幅に減らした云々という記述があって期待したが、やはり三船の科白はよくわからなかった。
 という欠点はあるにせよ、黒澤明はやはり大変な監督である。映画そのものを見ず、「七人の侍」を「自衛隊容認映画だ」などと言って硬直したイデオロギーでこの大傑作を否定した評論家は地獄へ落ちるしかない。


☆黒澤と外国
 この稿をかなり書き進めた1998年9月6日、突然TVが黒澤明の訃報を伝えてきた。享年88歳。そこで、予定を変更してTVの追悼番組ではないが、黒澤のことをもう一回書くことにする。前回は主に私のお気に入りの場面について書いたので、今回は趣向を変えて黒澤と外国(映画)との関わりについて少し書いてみたい。
 というと、やはり「七人の侍」と「荒野の七人」の関係から書くのが自然だろう。ユル・ブリンナーが「七人の侍」に感動して映画化権を買い「O.K牧場の決闘」「大脱走」のジョン・スタージェスが監督した。ヒットした音楽は、エルマー・バーンスタイン。ともかくシナリオが素晴らしいので翻案されたシナリオも悪くはなく、それなりによく出来た西部劇であったが、いかんせん「七人の侍」と比べるのは可愛そうな気がする。
 久蔵こと宮口清二が物見に来た野武士を切る前、余裕のヨッチャンで野菊をめいでているシーンがある。常に緊張しているようでは、一流の武士ではないのだから当然であり、花の美しさもわかるのである。かといってもちろん油断しているわけではなく、現れた野武士は一瞬にして切られるのである。で、「荒野の七人」ではどうかというと、同じ役をやったジェームズ・コバーンが、やはり花をちょんちょんと触っているのである。ガンマンにはおよそ不似合いな場面だが、「よくわからんが、あの黒澤が、そう演出したのだから同じように演出しなければ」というスタージェスの困惑ぶりが伝わってくる微笑ましい真似事であった。そういう厚みの違いが、「荒野の七人」はそれなりによく出来たアクション映画なのだが、「七人の侍」はアクションももちろん素晴らしいが何よりも人間のドラマとしての重みがある、という評価の違いになってしまうのである。
 「用心棒」の翻案といえばクリント・イーストウッド主演、セルジオ・レオーネ監督の「荒野の用心棒」で、マカロニ・ウエスタンの火付け役になったのは、ご承知の通り。無断で映画化されたということで黒澤は「未だに見ていない」とどこかのインタビューで語っていたが、出来は悪くない。これも、もともとのシナリオのおもしろさが影響していること、言うまでもない。最近、同じ「用心棒」を翻案した「ラストマン・スタンディング」(もともとこの設定、ダシール・ハメットの「血の収穫」の換骨奪胎だったわけで、アメリカ→日本→イタリアと来て、またアメリカに戻ったことになる)などより、素直に作っただけ遥かに納得の出来である。ラストのライフルの名手(「用心棒」で仲代達也がやった役)との対決シーンなど、なるほどの工夫が凝らしてあって、手裏剣を投げた三船の戦法も悪くはないが、ことラストの対決の「工夫」という点だけで比較すれば、イーストウッドの方に軍配が上がる。黒澤映画独特のくどさがなく、さらりと終わる終わり方もうまい。
 では、「荒野の用心棒」は、「用心棒」より出来がいいか、というと私のランク付けでは、やはり2ランクは落ちる、という結果になるからおもしろい。まず、位置関係が判ぜんとしない。「用心棒」では対立するやくざの家が宿場のどことどこにあり、三船が立ち寄った飲み屋がどこにあり、仲代の愛人の家がどこにあるかまできちんとわかるように撮られている。「羅生門」を撮った名手・宮川一夫のカメラは、黒澤の要求によく答えて宿場の荒涼とした雰囲気を実によく出している(余談だが宮川がカメラを担当した黒澤作品は「羅生門」「用心棒」「影武者」の一部のわずか3本だが、どれも節目の作品である。「羅生門」はベネチア・グランプリ、「用心棒」は黒澤プロの生き残りを賭けた作品、そして「影武者」は実に10年ぶりでの日本で撮る作品であった。おそらくカメラマンとして最も信頼していたのだと思う)。ところが、「荒野の用心棒」では、そういったところがほとんどわからないのだ。愛人の家は当然町の中にあると思っていたら、映画の途中、例の「さすらいの口笛」の音楽が流れる間、荒野を馬をとばしてやっと着いた、というシーンでは「おいおい」と質問の一つもしたくなってしまうのである。山田五十鈴や棺桶屋のおやじ、ちょいと足りない加藤大介、昼逃げの浪人など「用心棒」で印象に残った人物も出てこないか、出てきても印象が薄いので、映画の厚みが全く違ってきてしまうのだ。黒澤映画の翻案には「羅生門」を下地にした「暴行」などという駄作もあり、それに比べれば「荒野の七人」と「荒野の用心棒」は、原作を知らなくても、また知っている人はそこに黒澤作品の厚みを求めさえしなければ、それなりに楽しめる娯楽作品である。逆に、そこのところが翻案された映画ではどうしても真似できなかった、黒澤映画の真髄なのかもしれない。
 逆に、外国の文学を翻案して映像化したものに、「どん底」「蜘蛛巣城」「乱」「白痴」「天国と地獄」がある。「どん底」は、ゴーリキーの原作を江戸の長屋に移したもの。落語家の古今亭新生を呼んで「粗忽長屋」を一席聞かせてからリハーサルに入ったという有名な話があるが、そのせいかいつも終わり方がだらだらする傾向のある黒澤映画としては、落後のオチのようにストンと終わっている異色作である。
 「蜘蛛の巣城」と「乱」は、それぞれシェイクスピアの「マクベス」と「リア王」の翻案だと黒澤自身が語っており、その本人に反論する気はないが、「蜘蛛巣城」は山田五十鈴演じるマクベス夫人(シェイクスピアの時代は女役は子供が演じることが多く、達者な子供がいたので「マクベス」を書いたのではないか、と英文学者の中野好夫が書いていたことがある)はともかく、それほどマクベスという感じはしない。むしろ戦国絵巻と怪奇談を合体させた怖い話に仕立て上げているところにうまさが感じられる。「天国と地獄」もエド・マクベインの87分署が原案とされているが、似ているのは他人の子供を誘拐しても誘拐は成立するというところだけで、ほとんどオリジナルと言っていい。「乱」の「リア王」については、翻案であることに異論はない。
 それよりも、気になるのは「白痴」である。もちろん、ドストエーフスキイの原作からの翻案であるが、ともかく冒頭からの数十分が凄い。黒澤は、もともと自然を描写するのがうまい監督だが、この雪の街の描写はただものではない。かの文豪とがっぷり四つに組んで一歩も引かない、と言ったら誉めすぎかもしれないが、ともかくそれくらいすごい。その後、調子が乱れてちょっと収拾がつかなくなってしまったのは残念だが、4時間を超える作品を無理やり2時間40分に縮めた版しか見られないのだから、そのへんに原因があるのかもしれない。
 蛇足だが、「世界文学」の映画化はむずかしい。それが名作であればあるほど読んだ人間はそれぞれのイメージをもっているので、さらにむずかしくなる。それでもトルストイの「戦争と平和」などはスペクタクル大作として作ることが可能だし、スタンダールの「赤と黒」などは一種のヒーロー物として作るのが可能だし、ブロンテの「嵐が丘」など恋愛映画として作れるものもいくつかはある。そんな中でドストエーフスキイの原作は、初期の「貧しき人々」や「白夜」「死の家の記録」などを除き、特に映画化困難な原作と言える。というのも、(ここはドストエーフスキイ論を展開する場ではないので誤解を恐れずに簡単に言えば)ドストエーフスキイが描く現実は、我々が通常いうところの現実ではなく、現実以上の現実、現実以外の現実なので、単純にストーリーを追うだけでは、とても核心までは行き着けない、ということである。そんな困難な作品群の中では「白痴」は、比較的まとまりがよく、一種恋愛悲劇というかメロドラマの要素もあるため映画になりやすいとはいえる。が、ヒロインのナスターシャ一人取り上げても、「初めて人間を見ました」という言葉に象徴されるように、汚辱にまみれた人生を送ってきたからこそ純粋がわかる、というドストエーフスキイ独自の論理に裏打ちされているので、生半可な描写ではとてもこのヒロイン像は描けない。そんな困難な状況のなかで、やや黒澤ヒューマニズムにシフトしている不満はあるものの、黒澤の「白痴」は映画としてかなりのところまでドストエーフスキイの本質に迫っていると、私は思う。
 さて、黒澤には、舞台を日本に移し変えた翻案ではない、生涯で唯一外国で撮った映画、つまり外国映画がある。
 「デルス・ウザーラ」である。「影武者」や「乱」も外国資本が入っているが、「デルス・ウザーラ」は、正真正銘のソ連のモスフィルム作品である。どうして黒澤が日本で映画を撮ることができないのか、映画会社の堕落ぶりを見る思いがするが、そのおかげで我々は、日本ではとうてい撮影することのできないような雄大なシベリアの自然を背景に展開するドラマを見ることができたのである。
 吹雪の中で草を刈って小屋を作るシーンなど思わず息をするのも忘れて両手に力が入るし(このシーンは、本当に凄い。名シーン数ある黒澤映画の中でも間違いなく5本の指に入るこのシーンだけでも見ておいて損はない)、相手が雄大な自然なればこそ、デルスが自然と会話し、自然とともに生きている姿にも何の抵抗も無く共感できるのである。自然と人間、という図式ではなく人間も自然の一部である、という考え方は、「もののけ姫」などより遥かに深い。ともかく圧倒的に厚い絵作りであり、圧倒的な自然描写である。この映画がアカデミー外国映画賞を取ったのは当然と言えるが、それが日本映画ではなかったところに複雑な思いが残る。


☆黒澤作品の厚み
 追加でもう1回書く、といったところとてもおさまり切れず、前回は、日本の黒澤の外国の話だけで終わってしまった。さらにもう1回、しつこく黒澤映画の話を続けることにする。それだけの価値のある監督なのである。前回のおさらいをすると、要するに黒澤は何よりもアクションのうまい監督(世界一と言ってもいい)であり、しっかりしたシナリオを作る監督であった。外国でリメイクされた黒澤作品は黒澤アクションとそのシナリオに支えられて、それなりにおもしろいのだが、薄っぺらなのである。再発見がない、と言ってもいい。
 その証拠に、比較的出来のいい「荒野の七人」や「荒野の用心棒」にしても確かに初めて見たときはおもしろいのだが、二回目となるとそのおもしろさが、がくんと落ちる。しかし、本家の「七人の侍」や「用心棒」には、そういうことはない。見る度に発見があり、極論すればスト−リ−はわかっていても、二回目、三回目の方がおもしろいことさえあるのである。外国の翻案では、黒澤の映画が単なるアクションに留まっていない、そこのところはさすがに真似が出来なかった、ということだろう。
 要するに黒澤映画は、アクション映画として見るだけでもおもしろいが、それだけではない。人間描写がしっかりしているため人間ドラマとしてもおもしろい。自然描写に関しては「羅生門」の雨、「八月の狂詩曲」の雲と雨を見れば理屈はいらない。そうした様々な側面から見ても十分満足出きる映画であることを、私は、黒澤作品の厚み、という言葉で表現してきた。
 訃報が載った新聞には黒澤の全作品リストが掲載されていたが、全30作のうち私は実に28本(「続・姿三四郎」と「いちばん美しく」のみ未見→後にこの2作はNHKのBS2で放送され、遂に全作を見ることができた。「続・姿三四郎」は、多分「姿三四郎」がヒットしたので新進の監督としては会社から「作れ」と言われて断れなかったのだろう。黒澤にしては珍しくどうでもいいような凡作だった。「いちばん美しく」は戦時中の映画らしい映画で、珍しく女性の集団がメインで集団の撮り方などうまいものだが、どうこう言うようなものでもない)を見ていたであった。映画評論家でも研究者でもない私としては、この数字は実に驚くべき数字である。なぜ、そんなにも追っかけるようにして見ていたのか……、と考えた末の一つの答えがこの「厚み」であった。私は、たまにヘタな小説を書くことがあるのだが、ある場面のイメージが浮かび、そういったイメージがいくつか積み重なっていく中でストーリーを作っていくのだが、(達成度という点では天と地との差があるが)多分、黒澤もそうやって映画を作っているのではないかと想像されるところに親近感を抱くということもあるのだと思う。
 ストーリーも重層的なのが多いが、何よりも黒澤映画は絵そのものに厚みがあるのだ。もちろんそれは演出であり、フイクションなのだが、黒澤の手に掛かると、時として本物よりも本物らしく見えてしまうのだから不思議である。
 たとえば、「羅生門」の雨と木漏れ日。あんなものすごい雨が都合よく降るわけはない、と思いつつも本編が太陽ぎらぎらなので、その対比の妙に思わずうなってしまうのである。木漏れ日にしてもそうだ。昼寝をしている多情丸=三船敏郎の顔にかかる木の葉の陰にしても、高い木の葉っぱの陰があんなにくっきりと映るわけはないのである(多分、フレームの外で助監督が木の枝を持って揺らしていたのだと思う)。しかし、名カメラマン=宮川一夫を配した映像は、葉っぱを揺らす風すら観客に感じさせてしまうのである。要するに、そこにあるものは嘘なのだが、考えてみれば、平面のスクリーンに映し出される白黒の映像そのものが嘘なのである。現実以上にリアリティーをもつフィクションがそこにある、と言ったら言いすぎだろうか。
 処女作の「姿三四郎」の有名な蓮の花が咲く場面など、そう調子よく咲くわけがないじゃないか、と思いつつもその美しさに脱帽してしまうのである。クライマックスの薄の原での決闘シーンは、以後多くの模倣作を産み出したが、あの風に波打つ薄の感じをこの作品以上に出し得たものはない。「我が青春に悔いなし」の田植えをする原節子の姿には、ただ黙々と田植えをするだけなのに、何か切羽詰まったような緊張感と重みと厚みがあった。「生きる」のブランコは、あまりに有名になりすぎたが、主人公の志村喬が若い女性に「きみは、生き生きとしている……」云々と言っている背後で「ハッピー・バースデイ」の歌が歌われるシーンなど、できすぎていると思いながらも主人公の心境を考えると思わず目頭が熱くなるのである。「七人の侍」のはためく旗は、強風と共に、ざわざわした布の手触りが伝わってくるようである。
 前回書いた、「七人の侍」の野菊や「隠し砦……」の藤田進の槍にしてもそうである。そんなものは自然状態ではあるはずはない、と思いつつも映像的にはかくあらねばならないかったのだと思う。我々の現実がそうであるように、スクリーンの上に現実以上の現実を描き出した黒澤作品は様々な見方が可能であり、そうした映像の画面の厚みは処女作から遺作まで、すべての黒澤作品に共通するものであると言える。
 遺作となった「まあだだよ」は、どうということはない映画に思えたが、棺桶の中から出てきたあの所ジョージが「まあだだかい」と言い、松村達雄が「まあだだよ」と言い返す、たったそれだけのシーンが画面としてもってしまうのである。すると、私は、こう考えてしまうのである。
 「今は、どうということのない映画だと思っているが、それはもしかするとまだ黒澤の年に達していないからではないのか。10年後、20年後に見たら違う感想になるのかもしれない」
 要するに、黒澤明の映画は、MOVIEではなく、MOTION PICTUREなのである。
 黒澤の欠点を一つだけ挙げるとすれば、やはり女性の描写ということだろうか。それなりに女性が描かれていたのは「我が青春に悔いなし」「羅生門」程度で、いてもいなくてもいいが、いないのはちょっと不自然だから出しておくか、といった映画も多い。女性観が古く、観念的なのである。が、1人の監督にすべてを求めるのは愚というもので、日本には素晴らしい男性映画を撮る監督がいた、ということでいいのだと思う。あ、あと音の問題があった。黒澤は、音楽や効果音を入れるタイミングは、実に名人芸なのに、台詞が聞き取りにくいのにはほとんど無頓着という欠点がある。「七人の侍」の三船など、けっこう蘊蓄のある台詞をしゃべっているのに、ただがなり立てているだけのようにしか聞こえないのは残念。黒澤ビデオはSONY-PCLが制作管理をしているので、最新技術で画像だけでなく台詞もクリアにしてもらえないものだろうか。
 とまれ、スクリーンの中の人が、物が、現実以上の重みと厚みをもって観客に迫ってくる。そこに黒澤映画の最大の魅力がある。そんな黒澤が「赤ひげ」以降、満足に映画を撮ることが出来なかったのは本当に惜しい。
 最後に私の黒澤映画ベスト5を挙げて、とりあえず黒澤の項を終えることにしたい。
1. 七人の侍
2. 隠し砦の三悪人
3. 用心棒
4. 羅生門
5. 生きる
(次点・天国と地獄)


☆「天国と地獄」私論
 きちんと作られたサービス精神旺盛な日本映画の例は?
 と、考えたのだが、日本ではやはり黒澤映画ということになる。が、世に黒澤論は万とあるので、ここでは比較的論じられる事の少ない「天国と地獄」の話をしようと思う。なぜ、「天国と地獄」なのかというと、こういうことだ。だいたい黒澤というとまず語られるのはまず「七人の侍」で、続いて「用心棒」「椿三十郎」「隠し砦の三悪人」「蜘蛛の巣城」「羅生門」「影武者」「乱」と、時代劇がほとんどである。現代劇で傑作と思える「生きる」と「天国と地獄」は、そのテーマ性から「生きる」は時々話題にのぼるのだが、「天国と地獄」はほとんどなく、かねてから不満をもっていたことによる。私論というのは、まあ大袈裟で、映画のサービスというものを考える上での、感想または印象批評とでもいったところと了解してほしい。
 「七人の侍」に関して黒澤自身が「お客さにんたいへんなごちそうを食べさせてやろうと考えて作った云々」と語っているように、黒澤映画は晩年の作品も含めてサービス精神に満ち満ちているが、この「天国と地獄」も例外ではない。
 物語は、運転手の息子を誘拐された権藤(三船敏郎)と警察VS犯人という図式で進む。前半50分ほどは権藤邸の居間を舞台にまるで舞台劇。有名な特急こだまのシーンを挟んで警察VS犯人という図式が鮮明になり、権藤と犯人の対面で終わる。よーく考えてみると、最初、主役かと思った権藤が途中から消えてしまって警察の映画になってしまうあたり構成に乱れがないわけではないが、それは後から気付くことであり、見ている間は厚みのある黒澤映像をたっぷりと堪能できる傑作である。
 まず、権藤邸の居間での場面が緻密で人の出入りと会話だけで画面がもってしまう、その造形力に驚く。すでに書いたことだが、画面の奥行きが深く、厚いのである。その中で「(こんな悪質な誘拐をやって)たった15年云々」という台詞が有り、後段犯人が殺人を犯すのをまって「これで貴様は死刑だ」というあたり、実にリアルで恐ろしいものがある。そういう警察の描き方はおかしい、という意見もあったようだが、汚職も冤罪もデッチ上げもやる警察の内部は案外そんなものではないのか、という気がするのだから黒澤の演出力は、凄いものがある。仲代以下の刑事たちは正義感からそういう発言をし、そう振舞うわけで、そうすることによる罪の意識など全くないように見える。黒澤も、それをあからさまに非難しているわけではない。しかし、非難はしていないが無条件に持ち上げるのではなく、警察にはそういう恐ろしい部分もある(犯人逮捕のためとはいえ、新聞に嘘の情報を書かせたりもしているのである)、と思わせるところに黒澤の複眼的思考が読み取れるはずである。そのあたりが弟子を任じる幼児思考のスピルバーグとは違うところなのである。要するに、そういう映画は二度、三度と見ても新しい発見があっておもしろいのであり、これも広い意味でのサービスと言えないこともない。
 そんな静的なシーンの後に突然、特急こだまが、ぐわーんと走り出すのだからその効果たるや計り知れないものがある。空き瓶に映る景色のリアリティーに驚いたということもすでに書いたが、警部の仲代に加藤武が「子供は乗っていない」という紙切れを渡すシーンにしろ、犯人から電話があってからの狭い通路を使っての移動にしろ、列車の先頭と最後尾で犯人に見られないように8ミリを回す場面にしろ、その緊迫感は他に例を見ない。一発勝負の撮影だから、スタッフの張り詰めた精神状態まで伝わってくるような迫力がある。普通ならスクリーンプロセスでごまかしてしまいそうなところを、わざわざ列車を1編成走らせてのこの撮影こそ「天国と地獄」最大のサービスと言える。
 この映画は学校から見に行って、子供にとってはちょっと難しい部分もあったのだが、この場面だけは全員が全く無駄話をせず、画面に食い入るようにして見ていた記憶がある。特急こだまは窓が開かないのだが、トイレの窓だけは7cm開く(そのために身代金を厚さ7cm以下の鞄に入れろという犯人からの指示がある)というその7cmまで覚えていたのだから、よほど強烈な印象を受けたのだと思う。
 子供が無事戻った後、木村功らが犯人が使った電話ボックスを探して歩くが、パンダウンしたカメラが川と、川面に映る人物を写し、そのカメラが再び上がって川の横を歩いていく人物を写す。その人物こそ言わずと知れた犯人(山崎努)なのだが、このあたりの呼吸のうまさにも脱帽してしまう。およそ映画の半分くらいきたところで、そろそろ犯人を出しておかないと、後半のドラマが成立しない。そんな出すべきタイミングで犯人を絶妙に出してくるのである。犯人の考える「丘の上の権藤邸=天国、自分のいる丘の下=地獄」という図式が一画面にぎゅうっと凝縮されて映し出されるのも、このシ−ンである。
 その後の捜査会議も各刑事が各々の担当の報告をする形で事件の全貌、捜査の進み具合がわかるという、うまい構成である。こういう何人もの人間が入れ替わり立ち代わりという場面は、監督の力量が試されるところなのだが、黒澤は悠々とこなしている。警察の偉い人で黒澤映画の常連ともいえる志村喬、藤田進の顔が見られるのもサービス。俳優で言えば権藤の会社の仇役が「椿三十郎」の「乗った人より馬は丸顔」の家老=伊藤雄之助だったり、ピンクの煙が出る鞄を燃やした焼却炉のおっさんが藤原鎌足だったりするのも、黒澤映画ならではのサービスである。別にその俳優を宣伝のために出すのではなく、話の展開の中で普通にその役のために出している(この辺が特別出演という形で本筋とは関係ない役をわざわざ作って有名人を出し、話を止めてしまう凡百の映画と違うところ)ので違和感はなく、私も後に名画座やビデオで見て、
「あっ、この人が出ていたんだ」
 と初めて気付いたほどである。そういうことがわかれば、それはそれでまた楽しいわけで、こういうのもサービス精神と言っていいと思う。
 運転手が子供を乗せ、記憶を少しでも喚起させようと出かけ、それを刑事が追うという2台の車を使ってのシーンも、ヒッチコックの「めまい」におけるサンフランシスコの尾行シーンに勝るとも劣らない名シーンである。刑事が聞き込みをもとに、運転手が子供の記憶をもとに車を走らせるのだが、子供の描いた絵と同じ風景が現れたり、録音テープに音が入っていた江ノ島電鉄の電車が通ったりしながら2台の車がある1点に向かって進んで行くシナリオは、さすがのうまさである。
 と、こう考えてくると、映画の内容的なサービスというものは、実に当たり前のことを当たり前にきちんとやり、さらにその上で創意工夫を凝らしたものである、ということがわかる。別に特別なことでも何でもないのである。ただ、その当たり前のことが当たり前に行われていないところに問題があるのだが…。
 最後に、黒澤が初めてカラーを使った、と話題になったピンクの煙のシーンは、サービスというよりおまけのようなもので、特にどうこう言うほどのものでもない(というより、鞄に特殊な薬を入れ込んであるので燃やしたら赤い煙がでる、という設定なのでいくらなんでも白黒映画で「赤い煙が」というのは無理、というかいくら「椿三十郎」で赤い椿と白い椿を描き分けた黒澤であってもこれは不可能である)。

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