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遥かなる西部劇 [映画の雑感日記]

遥かなる西部劇

 最近は西部劇がほとんど作られなくなりました。作られても西部劇ではなく開拓史だったり、「ラストモヒカン」のようなものだったりします。インディアンをインディアンと言えなくなり先住民=ネイティブアメリカンと言い換えなくてはならない状況も影響していると思います。西部劇大好きだったおっさんの戯言だと思ってお読みください。

★西部劇はTVから始まった
 まずは、TVの話から。
 私がヒッチコックの名前を初めて知ったのは、TVの「ヒッチコック劇場」を通してのことであった。私の父はともかく新し物好きで、我が家にTVが来たのは小学生の時。町内で一番早かった。放送も民放はまだなく、NHK名古屋(JOCK-TV。何でCKなのかと思ったら、東京がAKで大阪がBK、名古屋はCK。要するに日本で三番目ということであった。名古屋はこの「日本で三番目」というのがやたら多いんだよね)の実験放送があるだけの時代である。昼間と夕方から夜の放送がちょこっとあるだけだったが、そのおかげで指人形劇の「があがあクラブ」とか「ガンツくん」「とびっちょ、はねっちょ」、マリオネットの「テレビてん助」などという友達が知らない番組を見ることができたのである。
 「ちろりん村とくるみの木」や「ひょっこりひょうたん島」を知っている人に「いやあ昔の『テレビてん助』や『があがあクラブ』は、おもしろかったなあ」と言ってもたいていの人は知らない。そこで私の自慢話が始まるのである。このあたりのことを私が話始めるとまず2時間は止まらないから、聞かされる方こそ、えらい迷惑なのだろうが。仕方がない。それが嫌なら、私に昔のTVの話をするきっかけを与えないことだ。
 ともかくTVに何かが映ってさえいれば満足な時代が続き、チャンネルを回すなどということはずっと後の時代で、NHKしか映らなかったが、「私の秘密」「ジェスチャー」「お笑い三人組」なんていう番組を私も一生懸命に見たのである。そんな中で時代はさらに後になるが民放が映るようになってから「ヒッチコック劇場」も私の御用達番組の一つとなった。だから、ヒッチコックというのは、「ヒッチコック劇場」の最初と最後に出てくる太ったおもしろいことを言うおじさん、というのが彼に対する私の最初の認識である。要するにコメディアンだと思っていたんですねー(^^;;。ただ、番組は、スリラー風でいてウイットに富んでいたりして、その出来の良さは似たもの番組の「スリラー」と比べてみるとよくわかる。ヒッチコックは、「映画も撮る」監督だと知ったのはさらにその後、「ヒッチコック・マガジン」などという雑誌があることを知ったのは高校生になってからであった(ミステリの雑誌なのになぜか洋画ベスト10なんて企画も載せていたのは、ヒッチコックの雑誌ならでは。中原弓彦=小林信彦が編集長だった)。
 当時はミステリもファンタジーもSFも同じ範疇に考えていたので、同じような似たもの番組として「ミステリー・ゾーン(トワイライト・ゾーン)」の方が「アウター・リミッツ」より上だという認識もあった。 
 だいたい民放が始まっても「月光仮面」や双葉十三郎原案の「日真名氏飛び出す」など少数の例外を除いて国産のものにはろくなものがなく、おもしろい番組は外国物と決まっていた。「サンセット77」では私立探偵というかっこいい職業があるのを知り(クーキーの櫛って、知ってます?)、ついでに巻頭「プレゼンテッド・バイ・ワーナー・ブラザース」と言うので「ワーナー・ブラザース」という映画会社がアメリカにあることを知った。「原子力潜水艦シービュー号」や「タイムトンネル」は、「20世紀フォックス」の制作(というか、のちに「ポセイドンアドベンチャー」「タワーリングインフェルノ」などのいわゆるデザスター映画をプロデュースしたアーウィン・アレンの制作)であった。私は、外国TV映画ならほとんど何でもという感じで見ていったのだが、ただ困るのは似たようなタイトル(あるいはイメージ)が多いことだった。「うちのママは世界一」と「パパはなんでも知っている」、「名犬リンチンチン」と「名犬ラッシー」「名犬ロンドン」、「奥様は魔女」と「かわいい魔女ジェニー」なんて今のような多チャンネル時代なら絶対にビデオのタイマー設定を間違えていると断言できる。
 で、今になって考えてみると当時は西部劇の時代だったんだなあ、という気がするんですねー。
 前出の「名犬リンチンチン」は、所謂騎兵隊物である。オハラ軍曹なんて覚えている人いるかなあ。その他、思い付くまま挙げていっても「シャイアン」(主演のクリント・ウォーカーと「ライフルマン」のチャック・コナーズでは、どちらがデカイかなんてどうでもいいようなことが我が家では話題になった。確かクリント・ウォーカー2m2cm、チャック・コナーズ1m98cmだったと思うのだが記憶に自信はない)、「ブロンコ」(主演のタイ・ハーディンは「バルジ大作戦」にもそこそこの役で出ていた)、「シュガーフット(アリゾナ・トム)」、「コルト45」、「連邦保安官」、「テキサス決死隊」(出来はたいしたことなかったが、主題歌は「ローハイド」と双璧と言っていい名曲)「胸に輝く銀の星」(大物俳優ヘンリー・フォンダの出番は少なかった)。それにしても、もう何十年も前に見た玉石混交のこれらの映画のすべての主題歌が今でも歌え、主題曲をハミングできることに私自身が驚いている。
 「ローハイド」のフランキー・レインの主題歌だけが記憶に残っている「ガンスリンガー」、「パージニアン」(これは確か90分ものだった)、「西部の対決」(ビリー・ザ・キッドと保安官パット・ギャレットの友情と対決の物語。ずっと見ていたのだが最後は見逃した ! )、「ライフルマン」(小坂一也の唄う和製主題歌「どこからやって来たのやら……」けっこう流行りました)、「走れ名馬チャンピオン」、「拳銃無宿」(言わずと知れたスティーブ・マックイーン主演の名作。岡三証券提供で、私は懸賞で当たったジミー時田が和製主題歌を唄うソノシート「A LONLY HUNTER」を今でも持っている。テレビ東京の「なんでも鑑定団」に出せば5000円くらいの値が付くのではないかと個人的には思っているのだが?)。これらのテレビ西部劇映画は全部見た。
 まだまだありますよ。
 主役のヒュー・オブライエンのベスト姿が決まっていた「ワイアット・アープ」、後に西部劇ではないが「バークにおまかせ」でもいい味を出したジーン・バリーの「バット・マスターソン」、「幌馬車隊」、「アニーよ銃をとれ」(同名のミュージカルとは別物で完全な西部劇。ぶさいくだがともかく銃のうまいお姉ちゃんでした)、「マーベリック」(主演のジェームス・ガーナーは、メル・ギブスン主演の同名の映画にも出演。最近の「スペース・カウボーイ」でも元気なところを見せていた)、「ララミー牧場」(人気沸騰のロバート・フラーは「続・荒野の七人」で前作スティーブ・マックイーンがやったヴィン役を演じた。全くの別人なのにクリスことユル・ブリナーが親しげに「ヴィン」なんて呼ぶので戸惑った。ま、映画は戸惑いを遥かに越えた駄作だったが。解説で、にぎにぎおじさんこと淀川長治=当時「映画の友」編集長TV初登場。それが今日の日曜洋画劇場の解説につながっている。ボニー・ジャックスの唄う主題歌「草は青く……」は、日本で無理やり歌詞を付けたもので意味がよくわからん)。
 「ローハイド」は、ローレン、ローレン、ローレンの主題歌が、ともかくいい。それもそのはず、作詞=ネッド・ワシントン、作曲=ディミトリイ・ティオムキン、歌=フランキー・レインという「O.K牧場の決闘」トリオのものなのだ。マカロニウエスタン「荒野の用心棒」で名をあげ、今や大監督になったロディ役のクリント・イーストウッドも若かった。この映画は家族で見ていて、後に撮影中の事故で死んだフェイバー隊長役=エリック・フレミングの「さあ、行くぞ。しゅっぱーつ」は、我が家でも流行したほどである。また、「ローハイド」のレコードは、私が小遣いを貯めて買った始めてのレコード=ドーナッツ盤としても記憶に残る(どうでもいいことだがB面はマーティ・ロビンスの唄う「エル・パソ」だった)
 いや、切りがない。
 私は、勉強もせずにこれらのTV映画を見、主題歌を必死になって覚えたのである。今でも部分的になら上に挙げた作品は全部歌えますね。自慢のように聞こえるかもしれないが自慢である。学生時代のコンパでは、これら西部劇と「少年ジェット」「まぼろし探偵」などいわゆる少年ヒーロー物のリクエストが必ずきたものである。中には「名犬リンチンチン」なんて主題歌のないリクエストもあったが、そういうときは奇兵隊のラッパの音とともに整列するシーンの物真似をして喝采を浴びたものである。あれっ、今にして思うと人生で喝采を浴びたのは、このときだけだったのかな?
 それはともかく、そうした経験を通して西部劇のルールや、映画の見方等を学んだのではないかと思う。また、TVに出ていて知っている俳優が映画に出ているから、と見に行ったものも何本かある。逆に、映画を見に行ってTVで知っている顔が出ていることにより、その映画に親近感を覚えるということも何回かあった。
 「荒野の七人」を見て「あっ、『拳銃無宿』のジョッシ・ランドルが出ている」と思い、「O.K牧場の決闘」の冒頭のクレジットを見て「あっ、『ローハイド』と同じトリオが作った歌だ」と思い、「荒野の決闘」を見て「あっ、『胸に輝く銀の星』のヘンリー・フォンダが出ている」と思い(いやあ、その時までフォンダを大俳優とは知りませんでした(^^;;)、「大いなる西部」を見て「あっ、『ライフルマン(チャック・コナーズ)』だ」と思ったのだから(逆だっちゅーの)。クリント・イーストウッドを「荒野の用心棒」で見たときはもう学生だったので、さすがに「あっローハイドのロディ・イエイツだ」とは思わなかったが、それでも親近感をもって見られたのは事実である。考えてみれば、いや別に考えてみなくても、テレビからは多くのものを学んだなあ……(しみじみ)。早々とTVを買ってくれた、今は亡き父親に感謝。

★ジョン・フォードと西部劇
 小林信彦の映画の本を読むと、ジョン・フォードの「荒野の決闘」に対する評価が異様に高い。本当にそんな凄い名作なのだろうか。私も別に駄作とは思わないし、ワイアット・アープを演じるヘンリー・フォンダにしろドク・ホリデイ役のビクター・マチュアにしろ、いい味を出している。見ている人にだけわかるように書くが、香水のシーンや教会のダンスシーンに見られるユーモアも悪くない。が、どうしてもそれほどの名作とは思えないのである。こちらの気が短いのか、あのゆったりとしたテンポに退屈を覚えてしまうのである。何十回と見たわけではないが、映画館で2度、レーザーディスクで3回見ているので、そう本質ははずしていないと思う。
 「荒野の決闘」は、ジョン・フォードの作品群としては、「捜索者」や「黄色いリボン」よりは上だが、これは西部劇ではないがせいぜい「静かなる男」と並ぶ程度で、最高傑作は段トツで「駅馬車」である、というのが私の意見である。だから決して駄作ではなく西部の空気というものを実によく出している傑作なのだが、その傑作度は同じ題材を扱ったジョン・スタージェス監督の「O.K牧場の決闘」より多少出来がいいかな(ただし、決闘シーンは、ジョン・スタージェスの方がうまいと思う)、という程度のものなのである。歌がヒットしたことだけが記憶に残る「騎兵隊」「バッファロー大隊」「リバティー・バランスを撃った男」や、ジョン・フォード最初にして最後の70ミリ映画「シャイアン」いずれも退屈したので、ここには取り上げない。「シャイアン」は、当時の70ミリ大作御用達のテアトル名古屋で見たのだが、途中のワイアット・アープ(ジェームズ・スチュアート)が登場する寸劇が妙に浮いている変な作品だった。
 といういささか強引な振りで「駅馬車」の話をしよう。しかしよく考えてみると、この映画、騎兵隊の護衛をつけて走る間にだんだん人が乗り込んでくる前半、騎兵隊と離れて単独で走る中盤とインディアンの襲撃、そしてラストの一通り話が終わってしまった後の決闘、と随分話の展開に無理があるのだが、その無理を疾走する駅馬車のスピード感とリズムで一気に見せてしまうところにジョン・フォードのうまさがあると思う。原作は昔「エラリー・クイーンズ・ミステリマガジン(EQMM)」がミステリ雑誌なのに「西部小説特集」なのものをやっていて、翻訳されたものを読んだことがあるが、どうってことない短編だった。展開に多少の無理があったにせよ、これは素直に脚本(ダドリー・ニコルズとベン・ヘクト)をほめていいと思う。
 まず、前半の少し走る度に様々な過去をもつ人々が徐々に乗り込んでくるのだが、実にこれがテンポがいい。黒澤が「七人の侍」の侍集めのシーンの参考にしたという話を読んだことがあるが、確かにテンポの良さは似ているような気がしないでもない。ともかく「寂しい草原に俺を埋めてくれるな」というウエスタンを軽快にアレンジした曲にのって走る駅馬車を見ているだけで、わくわくしてくるのは演出の力だろう。リンゴ・キッドを演じるジョン・ウエインの登場は、このテンポよく走る駅馬車をライフルで止めての登場なのだから、こんなにおいしい登場の仕方はない(それまで駅馬車を囲むように進んでいた騎兵隊が、このときだけはなぜか遅れて離れているというのはご愛嬌)。
 後半のインディアンの襲撃シーンでは、撃たれたインディアンが駅馬車の下を通った後にむっくりと起き上がってから倒れるという有名なスタントシーンがある。もうダメかと思われたその時、騎兵隊が現れ、騎兵隊が画面手前から向こうへとインディアンを追って行く、向こうから手前へ駅馬車が入って来る、という構図が何といっても憎らしいくらいにうまい(ゴードン・スコットがリメイクした時にはこのシーンはなく、乗組員自身の力でインディアンを撃退してしまっている。全く、何を考えていることやら)。
 それほどの名作なのにフィルムの保存状態が悪く(同じ1939年に制作された「風と共に去りぬ」が今でもほとんど傷がなく発色もいいのとはえらい違いである)、逃げようとしたリンゴがインディアンの狼煙を見て逃げるのを思いとどまるシーンは、ビデオやTV放映で見ると空が写っているだけで何も見えないので、初めての人は「何のこっちゃ」と思ってしまうだろう。残念なことではある。
 さて、ジョン・フォードの西部劇でわすれてならないものに音楽(ウエスタン・ミュージック)の使い方のうまさがある。「駅馬車」の音楽の素晴らしさについては、すでに書いたが、テーマ曲からフォスターの「金髪のジェニー」に転調するあたりもうまいものである。「荒野の決闘」の「いとしのクレメンタイン」(なぜか日本では「雪山賛歌」として知られる)や「黄色いリボン」も印象に残るし、ジョン・ウエインとウイリアム・ホールデンが組んだたいしておもしろくもない「騎兵隊」にしても「騎兵隊マーチ」や「ジョニーが凱旋するとき」など音楽だけは私の記憶に残っている。音楽そのものももちろんだが、挿入の仕方がうまいのである。すべての作品に言えることだが、「ここ!」というところで、ちゃんと音楽が聞こえるのである。
 あといくつか西部劇の傑作を挙げようと思っていたのだが、意外というか、予想外にないんだな、これが。誰にでも薦められるのは、せいぜい「シェ−ン」と「大いなる西部」あたりだろうか。
 「シェーン」は股旅西部劇だなんて非難された時期もあるが、ワイオミングの美しい景色を背景に最後の決闘までじっくりもっていったジョージ・スティーブンスの腕が冴えた名品。巻頭のシェーンが牧場へやってくるあたりのまさに絵に描いたような景色の美しさ。この美しさは、ちょっと他に例がない。また、あまりにも有名なラストで、撃たれたシェーンが十字架の建ち並ぶ向こう側へ消えていく場面などガンマンたちの時代の終わりを暗示しているようで思わず「うむ」と頷いてしまううまさである(今頃になって、「シェーンは、撃たれていた」なんて騒ぐ馬鹿がいるが、子供が「シェーン、血が」と、ちゃんと言っているし、今頃……という気がしないでもない。また、後で機会があれば触れるが、私は、シェーンのアラン・ラッドより敵役のジャック・パランスの方が絶対に速かったはずだと今でも信じている)。ビクター・ヤングの音楽も画面にぴったりの名曲であった。「ジャイアンツ」や「偉大な生涯の物語」なんて空虚な作品を作ったジョージ・スティーブンスにどうしてこんな傑作が撮れたんだろう? シェーンを演じたアラン・ラッド、全身黒づくめの殺し屋ウイルソンを演じたジャック・パランスにとっても、一世一代の名演といえよう。後にクリント・イーストウッドが「ペイルライダー」というこの映画へのオマージュのような作品を作った。「シェーン」を超えるほどのものではないが、傑作である。
 「大いなる西部」は、巨匠ウイリアム・ワイラーの作品で冒頭広大な荒野を走って来る馬車のシーンから、これほど西部の広さを実感させてくれる映画は他になく、西部劇の傑作としてお勧めできる。ペックとシモンズのミスキャストについては別のところで書いたのでここでは書かないが、それでも一言だけ。有名なペックとヘストンの延々と続く殴りあい、いくらなんでもペックのほうがやや優勢での引き分けというのは無理ありすぎ。決闘前にヘストンがズバッ、ズバッとズボンを履くかっこよさは当時私も真似をした ! ものだが、とてもああはうまくいかなかった。ラストのブランコキャニオンの渓谷でのカメラの切り返しのタイミングも見事。
 それと、ペックが去った後、丘の上にポツンと小さく見える点が次第に近づいて来るとチャック「ライフルマン」コナーズだったりするあたり、あの「アラビアのロレンス」の砂漠の地平線から蜃気楼のようにアリ(オマー・シャリフ)が近づいて来るシーンに影響を与えているのではないかと思うのだがどうだろう。西部の雄大さを彷彿とさせるジェローム・モロスの音楽は、フジテレビの競馬中継の中でも使われているので、耳にした人も多いと思う(追記。最近では「お茶」のCMに、ややスローにアレンジした曲が使われていた)。ただし、この映画も保存状態があまりよくないようで、ビデオはもちろんレーザーディスクで見ても巻頭のシーンなどセピア調のようで悲しいものがある。リバイバル上映だったが私がテアトル名古屋で見た印象では枯れ草のむせ返るような匂いが伝わってくるような色でもっと黄色が強く、空もスカット青く抜けていたはずである。「ウエストサイド物語」や「北北西に進路を取れ」のタイトルバックを担当したソウル・バスの素晴らしいタイトルデザインも一言記録しておきたい。
 上記3作品と比べると少し落ちるかもしれないが、ハワード・ホークス監督の「リオ・ブラボー」も西部劇を語るときには欠かせない傑作。相手が弱すぎるのが難だが、ともかく痛快というか、おもしろい西部劇で、見終わってニコニコできるという点ではこれが一番かもしれない。ジョン・ウエインにはピストルよりライフルが似合うと再認識するのもこの映画。ディーン・マーチンやリッキー・ネルソンなどもいい味を出している。「ライフルと愛馬」などの歌も楽しい。話の流れを止めてしまわないようにうまく挿入されており、これはせっかく歌が唄える俳優が出ているのだからというホークス監督のサービスだろう。こういうサービスは、大歓迎である。ちなみにディーン・マーチンが歌を唄い、リッキー・ネルソンがギターをひき、ウォルター・ブレナンが間の手を入れたりハーモニカを吹いたりしている間、ジョン・ウエインはやることがなく、ただにこにこと笑っているだけ。脚線美が自慢のヒロイン=アンジー・ディッキンソン(後年「殺しのドレス」でシャワーシーンを披露し、あっという間にエレベーターの中で殺される中年おばさん)も結局のところは、この映画だけだった。ラストのジョン・ウエインのディッキンソンに対するプロポーズの言葉「逮捕するぞ」は、かつて「クイズ・ダービー」の問題にもなったので覚えている人もいるかもしれない。同じくホークスの「赤い河」もTV映画「ローハイド」の原型のような映画で音楽も「ローハイド」と同じディミトリイ・ティオムキンと悪くはないが、ジョン・ウエインの相手役のモンゴメリー・クリフトがどうにもミスキャストで減点1。
 もう1本、比較的新しいところで「許されざる者」を挙げておこう。これはクリント・イーストウッドの西部劇に対するオマージュのような作品だが、西部の景色の美しさや、ラストのたった一人で乗り込んでの決闘の迫力たるや近年出色の出来である。仇役のジーン・ハックマンがいかにも憎々し気で、仇役が強く憎たらしいと映画がおもしろくなる見本である。見終わって爽快になる映画ではないが、今の時代が時代なのだから、この点はしょうがないだろう。全編に過ぎ去りし西部のノスタルジーが漂うが、それだけに終わらずちゃんと西部劇の決まり事を守ってくれているので、見た充実感がある(明らかに「シェーン」を連想させる「ペイルライダー」もなかなかの佳作だった)。
 この他には黒澤の西部劇版「荒野の七人」あたりがお勧め品。心に残る名画というわけではないが、まあレンタルビデオ代くらいの価値はあって腹は立たないはずである。あとラストに関してはすっきりと余韻を残した終わり方で、この部分だけはややだらだらした「七人の侍」よりうまいと思う。
 クーパーVSランカスターの対決で当時話題になったアルドリッチの「ヴェラクルス」は、それなりにおもしろい映画だが、もっとスピード感のあるストレートな話にしたら、かなりの傑作になったのにと惜しまれる。ラストの二人の対決シーンは話題になったが、「シェーン」のときと同様、私にはランカスターの方がクーパーより絶対に速いように見えて不満だった。ところが最近、ビデオで見直して見ると、決闘の後、クーパーがランカスターの銃を調べて「む……」という表情をしているのに気付いた。ランカスターは、多分、空砲を撃ったのだ。死に場所を求めていたのだ。ううむ……、アルドリッチ監督、そこまで考えていたか。「ソドムとゴモラ」や「飛べフェニックス」は駄作だったが、「ヴェラクルス」は十分に合格点。
 巨大なシネラマ画面に隙間風が吹き抜ける「西部開拓史」(ただし、序曲、メイン・タイトルを含むアルフレッド・ニューマンの音楽だけはいい。私はサントラ盤のLPを買ってしまった。ただし、LPには間奏曲と終曲は収録されておらず、レーザーディスクの発売まで20年以上待たねばならなかった(^^;;)、70ミリ画面を持て余しサンタ・アナ軍が突撃して来るまでの長い時間退屈であくびが出る「アラモ」(これもディミトリイ・ティオムキンの音楽だけは悪くはないが……)は、見るだけ時間の無駄か。オードリー・ヘップバーンの出た方の「許されざる者」や「黄金」「真昼の決闘」「白昼の決闘」「片目のジャック」などは、少なくとも西部劇としては全く買わない。その理由については、下の「西部劇の呼吸と『ワイルド・バンチ』」参照。

★西部劇の呼吸と「ワイルド・バンチ」
 クリント・イーストウッドの傑作「許されざる者」と同じタイトルだがオードリー・ヘップバーンの出た方の「許されざる者」や「黄金」「真昼の決闘」「白昼の決闘」「片目のジャック」などは、どれもけっこう有名な映画であるが、西部劇としては私は全く買っていない。
 と書くと、フレッド・ジンネマン監督の「真昼の決闘(ハイ・ヌーン)」は歌もヒットしてアカデミー賞もとったし、西部劇の名作じゃないか、という人がいると思う。確かに西部を舞台にしていて撃ち合いもあり、老いたりとはいえ主演はケーリー・クーパーで、テックス・リッターの素朴な歌も悪くはない(デミトリイ・ティオムキン作曲、ネッド・ワシカトン作詞というのは「OK牧場の決闘」やテレビの「ローハイド」と同じコンビ。なぜかレコードはフランキー・ローハイド・レーンのものがヒットし、私の持っているのもこれである)。その点では間違いなく西部劇なのだが、私の考える西部劇独特の「呼吸」というか「空気」とでもいうべきものが、この作品には全くないのである。
 要するに西部を舞台にしただけで「西部劇」ではないのである。これならまだマカロニ・ウエスタンの「荒野の用心棒」やその続編の「夕陽のガンマン」の方が西部劇になっているといっていい。
 「真昼の決闘」は、当時の狂ったようなマッカーシズム・非米活動委員会(赤狩り=いわゆるリベラルも赤と決めつけられ、チャップリンなどもアメリカを追われた)の行動に対して、過去の西部という舞台を借り、「アメリカ人は、独立心に富み、勇気がある」と言われているが本当にそうなのか。という疑問を誰一人助けてくれない中、完全と一人悪に立ち向かうクーパーの姿を借りて訴えた作品である。社会劇としてはそれなりの水準にある作品だと思うのだが、主張が強すぎて、こと西部劇としての評価となるとほとんど0点に近い。他の「黄金」などの作品も同様に西部劇としての評価は0点である。なぜ西部劇と認められないのか、もう少し具体的に話をしよう。
 たとえばウイリアム・ワイラーの傑作「大いなる西部」のラストちょい前。待ち伏せしているとわかっている峡谷へ頑固な大佐が向かう。反対しながらもチャールトン・ヘストンがその後を追い、黙って轡を並べる。これが西部劇の呼吸というものである。その後、行けば死ぬとわかっていながらスクリーンの左端にその後に続く牧童たちの一群が映る、というあたりは、もちろん監督ワイラーのうまさ。グレゴリー・ペックとヘストンが延々と殴り合った末に互いを認め合うというのも「西部劇の呼吸」の典型といえる。ヘストンが、ズバッ、ズバッと一気にズボンを履くときのかっこよさ。
 西部劇の登場人物は、正義であろうと悪であろうと、なによりもまずかっこよくなければダメなんだな。「シェーン」に出てくる殺し屋ジャック・パランスにしたって、悪の典型のような役どころだが、全身黒づくめで実にダンディーだった。
 ジョン・スタージェス監督の「O.K.牧場の決闘」でバート・ランカスター、カーク・ダグラスら4人が横一列に並んで決闘に向かうかっこよさ、「リオ・ブラボー」でジョン・ウエインがリッキー・ネルソンからライフルを受け取るや否やぶっぱなす豪快さ、またラストの撃ち合いで「(相手に)裏側へ回られたらまずいぞ」と言っているその時、裏側へ回ろうとした敵がババーンと撃たれ、爺さんがドンピシャリのタイミングで「ひっひっひ」と登場する名シーン、「ガンファイター」で弾を装填していない拳銃でガンファイトに臨むカーク・ダグラス。こういう西部劇の「呼吸=空気」とでもいうべきものがない作品を、私は西部劇とは呼ばないのである。要するに、日本映画でいうと時代劇(チャンバラ)と歴史劇の違いといっていいだろう。
 同じ題材をあつかっても「荒野の決闘」と「O.K.牧場の決闘」は西部劇だが、最近の「ワイアット・アープ」は歴史劇なのである。同様にアカデミー賞を受賞した「ダンス・ウイズ・ウルブス」は、西部開拓劇、あるいは歴史劇ではあっても西部劇ではない、ということになる(ちなみにこの映画、私はつい見逃してしまったのでレーザーディスクを買って見たのだが、思わせ振りな正義感が鼻に付くばかりで、どこがいいのかさっぱりわからない映画だった)。
 そんな意味でいうとサム・ペキンパーの「ワイルド・バンチ」は、西部開拓劇でも歴史劇でもなく、間違いなく西部劇である。
 ペキンパーの名前を初めて知ったのは、チャールトン・ヘストンが主演した「ダンディー少佐」という西部劇で、テアトル名古屋で見た。これは「金返せ」ものの駄作だったがいつの間にか腕を上げ、この「ワイルド・バンチ」は、紛れもなく西部劇の傑作であり、数あるペキンパー作品の中でも、私の一番のお気に入りである。この作品を例にどんなところが西部劇の「呼吸」なのか、具体的に話を進めたい。
 一般にワイルド・バンチと呼ばれた無法者集団が壊滅して西部劇の時代は終わったとされるのだが、まず出演者がウイリアム・ホールデン、アーネスト・ボーグナイン、ロバート・ライアンといった初老の大物達をずらりと並べたところに「西部劇の挽歌」を撮るぞ、というペキンパー監督の意図が明瞭に見える。だから撮り方もきちんと西部劇になっている。
 西部劇とは=ダンディズムといってもいいくらいのものなので、無法者集団ワイルド・バンチのボスであるホールデンが歳はいっていてもびしっとネクタイまでしてかっこよく決めているのがうれしい。髭も似合う。監獄に再び入るのを免除されるという条件と引き換えにワイルド・バンチを追うかつての仲間ロバート・ライアンもラフに着こなしたジャケットが決まっている。ロバート・ライアンは、「キング・オブ・キングス」の予言者ヨハネなんかより、こういう役の方がよっぽど似合うなあ。彼は「リバティー・バランスを撃った男」のような失敗西部劇にも出ているが、断然この映画の方が決まっている(あ、よく考えてみたらこの時、共演したジェフリー・ハンターが「キング・オブ・キングス」ではキリストか ! )。
 巻頭、いきなり襲撃シーンから始まる、というのがまずいい。その撃ち合いの中で、様々な過去を引きずる各人の個性を全部出してしまう手際のよさ。このスピーディーな展開にまず拍手する必要がある。
 面々がメキシコへ逃げていくときも、西部劇だから、ペキンパーは、決してしょぼしょぼと俯きかげんには撮らない。勇壮な音楽とともにずらりと並んで走って来るところを正面から撮るのである。そういうふうにかっこよく撮ってくれなくては西部劇にならないのである。列車から武器弾薬を強奪するシーンにしても、西部劇は「大列車強盗」から始まったといわれるくらいだから、西部劇の挽歌を撮るには絶対に必要なシーンといえる。ここでは、ワイルド・バンチを追うロバート・ライアンのグループが馬に乗ったまま列車の中からさーっと出てくるシーンのスピーディーな展開とかっこよさに西部劇の「呼吸」を感じてほしい。
 橋を爆破するあたりの迫力たるや死人の一人や二人出たんじゃないかと思わせる迫力で、人や馬を乗せたまま橋がドーンと落ちるところをノーカットかつお得意のスローモーションで撮っている。この映画、一対一でのガンファイトがないのだから、巻頭とラストの一大銃撃戦を含めて、やはりこれくらいのドン・パチがないと西部劇として成り立たないのである(余談だが、撃たれると服に穴が開いて血が飛び散るということを意識的にやったのはペキンパーが最初だが、これは多分、黒澤時代劇の影響だと思う。また、この橋の爆破シーンは、スローモーションの効果的使用で有名なペキンパー作品のなかでも白眉といえるものだが、このスローモーションも黒澤「七人の侍」あたりの影響があるのだと思う)。
 ちなみに、死を覚悟した面々が最後の決戦に向かう時もまるで「OK牧場の決闘」を再現するかのようにホールデン、ボーグナイン以下4名はライフル片手にずらりと横に並んで歩いてくるのをカメラは正面から捉えている。間違いなく死ぬというのに、4人とも逃げも隠れもせず胸を張って堂々と歩いてくるのだ。いいねえ。西部劇は、理屈抜きにこうでなくちゃいかんのだよ。
 そんな「ワイルド・バンチ」の中で最も西部劇の「呼吸」が色濃く出ているところはどこか、ということになると(これはもう私の好みになってしまうのだが)やはりラストシーンということになるか。ワイルド・バンチが全滅した後にやってきたロバート・ライアンが、死体を確認する仲間と別れて城壁の入口の所に呆然とした顔をして座っている。そこへ負傷していて銃撃戦の場にいなかったためたった一人生き残ったじいさんが仲間を連れてやって来て言う。「わしは、この連中と暴れ回ることにした。来ないか。昔通りというわけにはいかんが、一人よりはいいぞ」。すると、ロバート・ライアンは、ニヤリと笑うのだ。その渋さ、かっこよさ、昇華されたダンディズム、これこそが西部劇の「呼吸」の真髄だと言っても過言ではない。
 「ワイルド・バンチ」で私が唯一不満をもっている点は、音楽。「駅馬車」や「シェーン」といった名作は勿論、「バッファロー大隊」や「誇り高き男」、前出の「リバティー・バランスを撃った男」のような凡作でも西部劇の音楽というのは記憶に残るものなのだが、「ワイルド・バンチ」の音楽は全く記憶に残っていない。その点、邪道と言われたマカロニ・ウエスタンの方が「荒野の用心棒」や「夕陽のガンマン」のエンニオ・モリコーネを筆頭に、「南から来た用心棒」「皆殺し無頼」のようなB級まで、音楽だけはきちんとやっている。
 とまれ、そういったシーンの全くない「明日に向かって撃て ! 」は、同じワイルド・バンチが登場して銃撃戦があっても(青春映画として実によくできた映画で、ラストも実に鮮やかだとは思うのだが)、西部劇ではない、ということになる。
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