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SF映画、特撮映画について二言三言 [映画の雑感日記]

 最近ではVFXとかSFXなんて言われていますが、特撮なんて言われていたかなり昔に書いた雑文で、最近の映画にも触れようとしたのですが全面改稿しなければならないほど様変わりしているので断念。少しだけ変更しましたが基本的にはそのままアップします。

★やはり名作「2001年宇宙の旅」
 私はこの映画を学生時代、名古屋のSF同好会「ミュータンツ」の連中と一緒に今はなき中日シネラマ劇場で見たのだが、ポカーンとして帰ってきた記憶がある。キューブリックが秘密主義で公開前に内容を一切発表しなかったこともあり、私は、全く予備知識なしにこの映画を見たのである。
「それでは、皆様、宇宙の旅をお楽しみください」
 と言うような女性アナウンス(なんと的外れ!)が流れると共に、場内は暗くなった。そして、今ではあまりに有名になってしまったR.シュトラウスの「ツアラトゥストラかく語りき」の音楽と共に手前に月、その向こうに地球が見え、さらにその向こうから太陽が顔を出す。まさしくこれぞ宇宙SFそのものといった有名なオープニングが終わると、いきなり猿が出てくるのだから、あれれっ、というところである。それで、どういう映画なのかは各自で考えなさいとでも言うような、あの突き放したようなラスト。これではポカーンとしない方が不思議というものである。
 「ミュータンツ」のメンバーの感想もこの映画には否定的で、その頃読んだ「キネマ旬報」の福島正美(「SFマガジン」編集長)、星新一、小松左京の座談会でもこの映画に関しては3人とも駄作と決めつけていた(映画とアーサー・クラークの原作とは別物と考えなければならないのに、「原作ではこうだ」「そこが原作と比べて映画でははっきりしない」など的外れの発言が続き、当時公開された「猿の惑星」の方が遥かに評価が高かった。
 まあ「猿の惑星」もそれなりによく出来た映画だが、映画史に残る「2001年」とは比べ物にならない。3人のうち2人はすでに亡くなってしまったが、そんなこともあって私は以後彼らの映画評に関しては一切信用していない)。普通、こういう事態になると「あの映画はダメだ」ということになるのだが、何か気になるところがあったのだろう。二番館のオーモン劇場で公開されると、私は、また「2001年」を見に行った。評価が一変したしたのは、この時からである(この映画こそ大画面で見ないと真価がわからない。東京に出てきてからも、今はなきテアトル東京で見ている)。
 初回の時はいきなり原始人が出てきた戸惑いと、「宇宙の旅をお楽しみください」というアナウンスに幻惑されていたのだ。変な先入観なしで見れば、そんなにわかりにくい映画ではないのである。
 モノリス(突如出現した黒いプレート)に触れた猿が道具を使うことを覚え、その知恵が遂に人類を宇宙に進出させるまでになった、ということは猿が投げ上げた骨が宇宙船に切り替わる今ではあまりにも有名になったショットを見れば誰もが納得するところである。問題は、その後、宇宙船に乗っているフロイド博士は、食事をし、トイレの使い方を読む、というシーンがある。最初に見たときは宇宙旅行の1シーンとしてしか認識していなかったが、実は深い意味のあるシーンだったのだ。猿も食事をしていた。フロイド博士は、宇宙船の中だけではなく月でも車の中で食事をしている。木星へ向かうディスカバリー号の中でも食事のシーンがある。そして、見知らぬ惑星にたどり着いたボーマン船長は白い部屋でもまた食事をしている。そこに再びモノリスが出現するのである。
 なぜこんなに食うシーンにこだわるのか。それは、こういうことだと思う。原始時代、モノリスに触れた人類は飛躍的にテクノロジーを発展させ宇宙に進出するまでになった。しかし、食べて排出するという肉体的には原始時代の猿と何ら変わっていない。次に求められるのは、肉体の変化である。オープニングの「ツアラトゥストラかく語りき」、つまりニーチェの「超人」思想は、ちゃんと意味を持つ選曲だったのである。ディスカバリー号でコンピューターのHALがちょっと細工しただけで乗組員の大半はあっさりと死んでしまう。そんな脆い肉体では宇宙時代を担うことはできない、と映画は言っているのである、と私は勝手に結論している。
 ついでに書いておくと、HALの反乱も単なる反乱ではなく、人間かHALのどちらが最後のモノリスにたどり着くのか、という一種の生存競争で、闘いの結果、人間が勝つものの、未来を担うのは別に人間でなくてもいいではないか、という視点は明らかに原作者クラーク独特の視点である(その後の「2010年」ではプログラムの問題にすり替えられてしまっているが、そういう問題ではないと思う)。
 木星で木星の月とモノリスが十字架状にならぶ(原作者A.C.クラークの言葉を借りれば)スター・ゲイトを通過したボーマン船長が未知の世界へ導かれていく過程は、当時サイケデリック云々という的外れな批評が目に付いたが、別に奇をてらっていいかげんに作られているのではなく、よーく見るとこれもきちんと意味があるように作られているのである。ボーマン船長のポッドは、まずゲートをくぐり、いくつかの星の誕生や爆発を見、菱形の道標に従って、ある惑星の白い部屋に導かれるのである。嘘だと思う人は、映像と映像のスピード感に注意して、もう一度このシーンを見ていただきたい。
 特撮については、デジタル化された操縦室(とはいえ30年も前の映画なのでコンピューター技術も発達しておらず、デジタルと見えるのはアニメだそうである)を初め、この映画が画期になったところは、無数にある。それまで宇宙SFにつきものだった丸メーターがずらりと並んだ操縦室は一掃されてしまった。宇宙船の形も(考えてみれば当たり前のことだが)別に空気抵抗がないのだからどんな形でもいいではないか、ということになり流線型宇宙船は、私の知るところでは「猿の惑星」が最後となった。既製のクラシック音楽を使うことも、この映画の後一時流行したが、成功したものも失敗したものもある、とだけ書いておこう(それにしても東映「宇宙からのメッセージ」でショスタコーヴィチの交響曲第5番をアレンジして使ったのは、あまりに安易じゃないのかなあ)。
 いずれにしても、「2001年」なくして「スター・ウォーズ」以降の特撮映画は有り得ないのだが、そのどれもがファンタジーであってSFとは言い難い。要するに技術・見せ方だけを盗んで、そのSFマインドは盗めなかった、と言うより初めっからその気もなかったのだろう。特撮技術はさらに向上して、今見ると宇宙船のシーンなど「2001年」よりうまく処理されている映画はいくつかある。「スター・ウォーズ・特別編」はもちろん、「スター・シップ・トゥルーパーズ」のようなB級作品にしても、そのあたりは見事なものである。が、宇宙の広さ、その中での人類のひ弱さと孤独感を「2001年」より以上に描いてくれた映画は皆無である。その意味でも、「2001年宇宙の旅」は、画期的な映画であると同時に、孤高の映画である、と言うことができると思う。
 ところで、「2001年」の後は「2010年」「2061年」「3001年」と原作は続くのだが、広大な宇宙のを背景に人類の新しい歴史がここに始まるとでも言っているような「2001年」に比べて、「2010年」は舞台が木星、「2061年」は木星の衛星エウロパとどんどんスケールダウンしてしまっている。「3001年」は、サブ・タイトルに「ファイナル・オデッセイ」とあるようにシリーズの完結編だが、うまく締めくくられているとは到底言い難い。いかにクラークといえども、1000年後の予想はちと苦しい。要するにシリーズ化する必要は全くなく「2001年」だけでよかったのである。映画とは直接の関係はないが、小説の「2001年」は名作だが、その他は駄作と敢えて断言しておく(映画の「2010年」は、まあ佳作と言っていい出来だったが、ちょっと説明過多。それでも、当時封切られた東宝の「さよならジュピター」という駄作の木星が絵だったのに対し、「2001年」は木星の模様がCGでちゃんと動いていたという点は、率直に感心した。アメリカと協力して木星のディスカバリー号探査に参加するソ連という国がなくなってしまったことが原作者A.C.クラーク最大の誤算なのかもしれない)。

★今時のSF映画に一言
 今ではフィリップ・K・ディックのもの以外こそほとんど読まなくなってしまったが、かつて私はSFフアンであった。学生時代にはSF大会にも何度か出席したし(地元・名古屋での大会はもちろん、わざわざ東京や九州へも行った。こういう大会は東京のフアンが大きな顔をしていてけっこう嫌な思いで恥ずかしい思い出もあるが、そのあたりのことは「彼らのための三章」という作品に書いたので、ここには書かない)、「SFマガジン」の創刊号も持っているくらいの、かなり熱狂的なフアンだったといってもいい。
 私の青春の頃というと、ハヤカワSFシリーズ(といっても最初の頃はSFではなくHF、つまりハヤカワ・ファンタジーと言っていたと思う)こそあったものの、ハヤカワSF文庫はまだなく、創元SF文庫はまだ創元推理文庫の一ジャンルだったという時代である(第1作がフレドリック・ブラウンの「未来世界から来た男」というショート・ショート&短編集で、定価150円。高校時代に本屋で見つけてすぐに買った。こんなにおもしろい分野があったのか、とまさに刮目)。一般の人にはSFとSMの区別も付かず、区別が付く人でもSFは子供の読み物と考えていた時代である。そんな時代のSFフアンとして、当時は日陰者扱いだったSF映画も私は熱心に見た。今と違ってこの手の映画はどうしてもマイナーな評価しか受けない(あるいは完全に無視される)ことが多かったのだが、私の評価で「けっこうよく出来ている」と思ったものを、記録の意味もあって書いておこうと思うのである(「キング・コング」「2001年宇宙の旅」などのメジャーな作品については、別に書いたし、ハリー・ハウゼンや東宝の特撮物については別に書くつもりなので、ここでは触れない)。
 まず取り上げたいのは、今では全くといって話題にならないが、東宝の「ラドン」にも影響を与えた「放射能X(エックス)」。おなじみ名古屋のメトロ劇場で見た。監督は確かリメイク版「駅馬車」で株を落としたゴードン・ダグラスだったと思う。砂漠の原爆実験の影響で巨大化したアリとの戦いの映画で、ピロピロピロというアリの声が聞こえてくるだけでそれなりに怖かった記憶がある。巨大アリは前半なかなか姿を現さないのだが、この声だけでけっこう緊張したものである。バズーカ砲でやっつけたと思ったら女王アリが逃げ都会の地下に新たな巣を作っていたというのも心憎いサービス。やっぱりこの手の怪獣物は都会で暴れてくれないと話が完結しない。
 もう少し話題になったところでは、「宇宙戦争」と「禁断の惑星」。「放射能X」はモノクロだったが、この2作はカラーで、当時はカラー(総天然色)というだけで大作という感じがしたものである。
 「宇宙戦争」はジョージ・パルの作品で、第一次世界大戦はこうで、第二次世界大戦はこうだったというニュースフィルムに始まり、そして次の戦争は、というようなナレーションと共に始まるタイトルからしてわくわくさせるものがある。飛躍を極力廃してリアリティーで迫った侵略ものの白眉。宇宙人の円盤に向かって敵ではない証拠に白旗をかかげながら、白旗が通じるかなあ、と言っているうちにバババとやられてしまう男たちにも現実感がある。この映画は例によって場末のオーモン劇場で母に連れられて見たのだが、その話をすると「寒くて風邪ひいてまったがね」と母は今でも言うのである。主演の(よく考えてみると何の役にも立っていないのだが)科学者を演じたのは後のTV「バ−クにまかせろ」のジーン・バリー。
 「禁断の惑星」は、遠く離れた宇宙の惑星での物語で、はっきりと太陽系以外の星を舞台とした映画としては始めてとは言わないがそれに近いものだと思う。イドの怪物という設定自体が50年代の映画としては恐ろしく斬新である(メトロ劇場で見たと思うのだが、私は「井戸の中から怪獣が出てくるのだ」と思っていた)。また、この映画の要塞のイメージを東宝の「地球防衛軍」がミステリアンの要塞にパクっていることにも注目しておきたい。話題になったロボットのロビーが登場するが、SF=子供物という概念を否定した真面目な作り方が共鳴できる。何も見えないのにロビーが「何かが近づいて来ます」と言うあたりも迫力があった。後にTVの「ハニーにおまかせ」をやることになる若き日のアン・フランシスが超ミニスカートでサービスに勉めているが、当時はそんなことには気付かず、社会人になってビデオで見て再発見?した次第である(ミニスカートといえば「宇宙戦争」のジョージ・パルが作った凡作「タイムマシン」のイベット・ミミューもいい感じだったが、こちらは「おばさん化」が早かったなあ)。
 同じく太陽系外を舞台にした映画に、惑星間で戦争が繰り広げられているという、「スター・ウォーズ」の元祖のような「宇宙水爆戦」というすさまじいタイトルの映画があり、惑星の表面がボロボロに破壊されていシーンなど見ごたえがあった。が、やや構成が粗くたい誰にでもお勧めできるというほどのものではない(脳に目鼻が付いたような宇宙人が話題になったので、それだけ覚えている人もいるかもしれない)。
 SFというよりもホラーの色彩が強いが、ドン・シーゲルの「狙われた街」は、よくできた侵略物SFの佳作。ラストもうまい(原作はジャック・フィニイで記念すべきハヤカワSFシリーズの第一弾。フィリップ・カウフマンのリメイク版は駄作。カウフマンの映画は「ライト・スタッフ」以外おもしろかったためしがない)。もう1本挙げるとすると、ハワード・ホークス制作の「遊星からの物体X」(原作は「アナログ」誌の名編集長だったジョン・キャンベルの「影が行く」で、侵略物SFの古典。これもジョン・カーペンターのリメイク版は駄作。たく、カーペンターの映画は「ニューヨーク1997」などすべて駄作と考えてよい)。カウフマンとカーペンターの駄作は、どちらも終わったと見せかけて実は……、という最近流行のラストに作り替えているのだが、芸がないなあ。
 もう少し時代が下がるとSFというジャンルが一般にも認められ、さすがに多少の評価を得ることになる「ミクロの決死圏」と「猿の惑星」がある。「海底20000哩」のリチャード・フライシャー作品「ミクロの決死圏」は、ある機密を知っている科学者の脳を縮小された人間が体内に入って治す話だが、小さくなっていられるのは60分と限られた時間を設定したのが緊迫感を生んでいる。ただし、潜航艇を体内に残したまま放棄して脱出してくるのだが、あれって大きくならないのかしら。「パットン大戦車軍団」のフランクリン・J・シャフナー作品「猿の惑星」は、公開当時「2001年宇宙の旅」よりもヒットし、この後駄作が4つも作られ全5部作として完結したが、今ではあまり話題になることもない。が、この第1作だけは(もちろん「2001年宇宙の旅」には及ぶべくもないが)、一種のタイムトラベル物としても、それなりに評価されていい作品だと思う。原作は「戦場にかける橋」のピエール・ブール。TVの「ミステリー・ゾーン」のロッド・サーリングが書いたシナリオはいかにも「ミステリー・ゾーン」タッチのオチで原作とは全く違うが、これはこれでいいと思う。
 「2001年宇宙の旅」のスタンリー・キューブリックの「博士の異常な愛情」も当時の評価はあまり高くなかったが映画史に残る傑作と言っていい。この作品を私が「2001年」「スパルタカス」と並ぶキュ−ブリックの3大傑作と考えていることは、すでに書いた。「パットン大戦車軍団」のジョージ・C・スコットが演じる軍人は土壇場になっても「今、攻撃すれば勝てる」と言いきる男で、とんでもない設定にもかかわらず、異様なリアリティーがあった。戦略爆撃機B52の凄さを最もよく出した映画でもあり、水爆を抱いてロデオさながらに落下していくキング・コング少佐のおっさんも迫力と悲しさがあった。詳しいストーリーは書かないが、この二人を見るだけでもこの映画を見る価値があると思う。未見の人は騙されたと思ってぜひ見てもらいたい。ただし、キューブリックのSF3部作といわれる「時計じかけのオレンジ」は、買わない。監督がピーター・ハイアムズに替わった「2010年」も、傑作ではないが、まあ合格点だろう。
 SFの短編ベスト10をやると必ずベスト3には入るダニエル・キイスの傑作「アルジャーノンに花束を」を映画化した「まごころをきみに」も、こういうSFもあるのかと世間に示した功績を加味して佳作に入れていい。谷洋子が出たポーランド映画の「金星ロケット発進す」や、ロケットがカーブを描いた滑走路を助走してから飛んでいく「地球最後の日」、ロバート・ワイズの「地球が静止する日」「アンドロメダ病原体」などはたいしたことはなく、むしろアンドレイ・タルコフキスーの「惑星ソラリス」の方を評価したい。確か3時間くらいある映画で、退屈なところもあり、ラストのオチは誰でも予想できるものだが、独特の映像美がなぜか印象に残る(タルコフキスーは多分「映像の力」とでもいうものを信じていた作家で、妙に印象に残る映像を創り出す男なのだが、ストーリーはそっちのけで、それだけで映画を作ろうとすると「ストーカー」のような退屈なだけの映画ができてしまう)。戦前の「メトロポリス」というフィリッツ・ラングのサイレントもビデオで見たが、あんなに簡単に和解してしまうラストには甘過ぎてついていけなかった。

★SF映画にもう一言
 「スター・ウォーズ」以降、特撮アクション映画は儲かると映画会社が踏んだのだろう、今日では、所謂パニック物、怪獣物、ファンタジー物を含めれば「SF映画」は大流行である。が、私は、それらをSF映画とは呼ぶ気になれず、特撮映画と呼ぶ。
 というのも、SF映画という看板をかけていてもよくよく見ると単に特撮で驚かすだけの映画だったり、怪獣映画だったりアクション映画だったりすることが多いからである。確かに「スター・ウォーズ」(第1作)は、わりとよくできた映画なのだが、あれはSF映画ではなく、ファンタジー映画である。舞台が宇宙になっているだけで話自体は中世の騎士物語、たとえば「エル・シド」と大差ないと思う。また「エイリアン」はホラー映画であり、「エイリアン2」は戦争映画である。これならまだ「プレデター」の方がSF的要素が強い。
 最近級にブームになってきた「ディーブ・インパクト」や「アルマゲドン」もSF映画ではなく、デザスター映画である。というのも、別に隕石や彗星でなくて地震とか津波でもあの映画の本質的な部分は成立するわけで、要するに隕石であるのは、単に話のスケールを大きくしたいというだけのことなのである。つまり、本質的な部分はSFとは全く関係ないのである。では、科学的解説がついていればSF映画かというと、DNAから恐竜を蘇らせるというもっともらしい解説がついている「ジュラシック・パーク」は単なる怪獣映画である。力点が恐竜を蘇らせるというところではなく、恐竜が暴れる点に置かれているためなのだが、これならまだ昔の「キング・コング」の方が巨大怪獣が生息している謎の島という設定を考え出しただけでもSF的である。センス・オブ・ワンダーというか、SFマインドが感じられない映画はやはりSF映画とは区別して考える必要があると思う。
 ただ、そこには厳密な区別があるわけではもちろんなく、ケース・バイ・ケースで体験に照らし合わせて考えていくしかない。だからそうした私の考えでは、タイムトラベル物としては、大ヒットした「バック・トゥ・ザ・フューチャー」よりも「タイム・アフター・タイム」の方が(映画の出来を無視すれば)SF映画としては、より本質に迫っているということになる。何よりも、未来の新聞で恋人が殺されるのを知る、という部分にSFのタイム・トラベル物ならではのセンス・オブ・ワンダーを感じるからである。
 同じようにフィリップ・K・ディック原作のものとしては「ブレードランナー」は映画としてもSF映画としても傑作だが、「トータル・リコール」は、所詮アクション映画の範疇にとどまる。というのも「ブレードランナー」(原題「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」)では、アンドロイド(映画でいうところのレプリカント)も電気羊の夢ではなく羊の夢を見るのだ(つまり、人間と同じなのだ)という実にSF的構造が核にになっているのに対し、記憶というディックならではの設定を使ってはいても「トータル・リコール」は、それが小道具の域に留まっているからに他ならない。
 その点、公開は少し昔になるが、「佳作」とか「まあ合格点」だとかそれほど評価していない「2010年」は、まごうことなきSFである。SFという看板を掲げたファンタジーや内実ホラー、史劇、アクション映画が氾濫する中で、「2010年」は、ことSF映画ということ考えればもっと評価されてよい。
 アメリカSF界の大御所だったロバート・A・ハインラインの「宇宙の戦士」を映画化した1998年の大作「スター・シップ・トゥルーパーズ」も、残念ながら所詮はアクション映画であり戦争映画だった(故ハインラインは自他共に認めるタカ派で、それがいい方向に出ると「赤い惑星の少年」や「夏への扉」のような作品が生まれるが、ストレートに出てしまうと「宇宙の戦士」や「人形つかい」のような作品になってしまう。ここでは宇宙からの侵略者は明らかに共産主義者とオーバーラップされているのだが、そういうテーマ性はともかくとして、軍隊に入ると立派な男になれるという単純かつヒステリックなその論調にはちょっとついていけないものがあるのも確かである。この手の軍隊は男を一人前にするという論調はアメリカ人はことのほか好きなようで「愛と青春の旅立ち」や「トッブ・ガン」など繰り返し使われて映画を台なしにしている)。
 だいたい「虫」の大群と戦うというのになぜ歩兵だけで戦うのか。第二次大戦だって、戦車を先頭にその後に歩兵が続くというのが常識だったのに歩兵だけで敵地へ乗り込んでいくのは、どう考えても無謀というか馬鹿である。せめて地盤が悪くてそうした走行兵器が使えない惑星だというくらいの説明はほしい。それに、湾岸戦争などを見ていればわかるように、空爆をきっちりやればそれで済むのではないか。映画の中でも一度だけ空爆シーンが出てくるが小規模なもので、その後に続く歩兵隊が危機に陥るというのは、何とも間抜けである。別に気流が悪いわけでもないのだから大々的な空爆をやるというのが作戦的には常識なわけで、それが出来ないなら出来ないで、これも納得できる説明をしてくれなくてはSFと言えない。
 さらに、あんな岩と砂漠だけの惑星に万といる「虫」たちは、いったい何を食べているのだろう、という疑問もある。「虫」の放った小惑星爆弾でブエノスアイレスの両親が死んだということが、一度除隊しようとした主人公が再度戦うことになる重要なポイントになっているのだが、さーて、「虫」たちがどうやってそんな小惑星を地球に誘導することができたのかは最後までわからない。「虫」といってもカマキリみたいのから空を飛ぶもの、火を吐く巨大な奴、さらにはプラズマ砲を発射する奴と様々だが、これを哺乳類に置き換えてみれば人間とライオンとコウモリと鯨が同盟を結んで共通の敵と戦うようなものである。昆虫同盟とでもいうものが成立しているのだろうか。これまた説明は一切ない。謎が謎を呼び、謎のまま映画は終わってしまうのである。
(後に「スター・シップ・トゥルーパーズ2」という映画をWOWOWで見た。スケールも小さければ話もいいかげんなさらなる駄作だった。いわゆるビデオ用かテレビ用の映画だったのだろうか?)
 それにしてもだ、「エイリアン2」にしてもこの映画にしても、遠い未来の話なのに、どうして大きくて重い機関銃を持って戦うという、ベトナム戦争の海兵隊ののりになってしまうんだろう。ラストのトンネル内の戦いは「エイリアン2」のダクトの中での戦いのパクリだと思うが登場人物の一人(「エイリアン2」では二人)が爆死するところまで同じとは、バーホーベン監督さん、ちょっと芸がないじゃないですか。とまれ、SFXに金をかけた大作であることは認めるものの、オールドSFフアンとしては、もう少しSFマインド(センス・オブ・ワンダー)溢れる映画が見たいなあ、と思う今日この頃である。
 この後に封切られた作品では、「マトリックス」と「シックスセンス」が、まあ合格点かな。とくに「マトリックス」は、SF的設定がセントラルアイデアで、仮想と現実のせめぎ合いをもう少し掘り下げれば大傑作になったのに、アクションに流れてしまったのが惜しまれる。それでも近年屈指のおもしろさ、と言っておこう。「シックスセンス」は、いってみれば超能力物で、ラストのどんでん返しが話題になったが、少年がもっている能力を考えると、こうなるはずだ、とネタが割れてしまうのがちょっと残念。クリント・イーストウッドの「スペース・カウボーイ」は近未来SFとしてそこそこおもしろかった。CGに頼りすぎ埋め尽くされた近年の映画はどうもちょっと……と年寄りは思ってしまうのである。

★物に命を与える
 アニメが物に命を与える、という意味では素材は別にセル画である必要はない。チェコのイジイ・トルンカや日本の川本喜八郎は人形を使ったアニメを制作している。今回は、その人形アニメのことを書こうと思うのだが、要するにレイ・ハリーハウゼンのことを書きたいのである。
 ハリウッドにおける人形アニメは、かの「キング・コング」以来の伝統をもつのだが、ハリーハウゼンは、それを集大成した人物であり、今後はCG(コンピュータ・グラフィックス)に移行していくだろうことを考えると、おそらく最後の巨人である。
 ハリーハウゼンの名前を初めて知ったのは、小学生の時で映画の題名は「シンジバッド七回目の航海(冒険)」であった。ただし、まだ一人で自由に映画館へ行ける年齢ではなく、私はポスターに描かれた一つ目の巨人、双頭の鷲、ドラゴン、骸骨などの絵を見ながら「見たいなあ」と思いつつ見ることができなかったのである(後にレーザーディスクでやっと見ることができたが、期待にたがわぬ傑作であった。一つ目の巨人=サイクロップスの迫力や骸骨と人間との闘いなど東宝着ぐるみ特撮ではとうてい不可能な映像満載で、1958年という制作年を考えると驚異と言うしかない。)。
 ちなみに弟は「原始怪獣現る」というレイ・ブラッドベリの「霧笛」をベースにハリーハウゼンが特撮を担当した映画をオーモン劇場で見ているが、私はどういう理由からか連れて行ってもらえず、見ていない。これも後にビデオで見る機会があったが、「まあ、こんなもんかな」という程度の映画だった。
 ハリーハウゼンの映画を映画館で初めて見たのはずっと下がって「恐竜100万年」。だいたい古代人類の時代に恐竜が生息していたという設定からしてインチキで、ラクウェル・ウエルチのセミヌードだけが売りのような映画だったが、それでもハリーハウゼンの特撮はすばらしく、投げた槍が恐竜に突き刺さるシーンなど「おおっ」と歓声を上げたくなるほどの出来であった。
 ただ周囲でハリーハウゼンの名前を挙げる者はおらず寂しい思いをしていたのだが、遂に彼が脚光を浴びるその日が来たのだった。学生のとき、東京でのSF大会でハリーハウゼンの最高傑作と言われている「アルゴ探検隊の大冒険」が上映されることになったのだ。場所は、岩波ホール。まだビデオなどない時代である。一緒に上京して来た清水も神谷(と、彼が文通していた彼女が同席していた ! )も森も、そして私も題名だけは知っていて、特撮が凄いという話は聞いていたが、どんな映画なのかは全く知らない。知らないからこそいやが上にも期待は高まったのである。
 探検隊ということから何となくアルゴ星へ探検に行く、宇宙探検をイメージしていた私は、いきなりギリシア神話ということで、まず度肝を抜かれた(後でわかったのだが、ジェイソンのアルゴ船の探検というのは、有名なギリシア神話らしい)。やや退屈な出だしだったが、青銅の巨人が動き出すあたりから俄然おもしろくなった。後は崩れ落ちる岩とポセイドンの登場、ヒドラ(体が一つでいくつもの頭をもつ竜。日本のヤマタノオロチのようなもの)との闘い、そして、極めつけ複数の骸骨戦士との死闘という見事な特撮シーンのつるべうちである。「シンジバッド七回目の航海(冒険)」での骸骨戦士との闘いは1体であったが、ここではそれが軍団にパワーアップされており、何より薄暗い室内ではなく、特撮が難しいとされる明るいギリシアの遺跡を背景に闘われる点が大迫力を生んでいた。
 エンドマークとともに大拍手が起こったのも当然であった。ブルーバックだったかイエローバックで俳優を撮影し、骸骨はミニチュアでコマ撮りし、大きさを合わせて合成する、と言葉で言うのは簡単だが、複数動くものがあってのコマ撮りであり合成である。コンピュータのない時代にそれらをピタッと合わせるのは名人芸・神業以外のなにものでもない。セットや精巧な人形を作るのも大変だろうが、1日かかっても数秒しか撮影できないという話も聞いたことがある。あの岩波ホールでの拍手をハリー・ハウゼンに聞かせてやりたかったと思うのは私一人ではないと思う。
 以後、ビデオ時代になり「恐竜グワンジ」「空飛ぶ円盤地球を攻撃す」「シンドバッド黄金の航海」「シンドバッド虎の目大冒険」「タイタンの戦い」などハリーハウゼンがかかわった映画を次々と見ることができた。アメリカのTV番組を収録した「レイ・ハリーハウゼンの世界」というレーザーディスクまで見ることができたのである。けっこうマイナーな作品が多く、以前ならリバイバルなど望むべくもなく、もう一生見られないのか、と思っていた映画が小さな画面とはいえ、見られるようになったのである。ありがたい時代になったものである。 
 中では、やはり「アルゴ探検隊の大冒険」が出色の出来と言える。ともかく骸骨戦士との死闘は、何度見ても凄いの一言に尽きる。「シンドバッド七回目の航海(冒険)」の音楽も担当しているバーナード・ハーマン(ヒッチコックの「北北西に進路を取れ」などで知られる)の音楽も、これが一番出来がいい。他の作品はやはりちょっと退屈なところがあるので、そんなところは早送りで飛ばし、一つ目の巨人との闘い(「シンジバッド七回目の航海(冒険)」)やカーリ神との闘い(「シンドバッド黄金の航海」)、メドゥーサとの闘い(「タイタンの戦い」=多分これがハリーハウゼンの最後の映画だと思う。それまでのコロンビア映画ではなくMGMで撮っている)などを見て、やはりハリーハウゼンは凄い、と一人悦に入るのが私の一般的なパターンである。
 で、こうして次々とハリーハウゼンの作品を見てくると、ある一つの感想を持たざるを得ない。彼が関心があったのは、命をもたない物に命を与えることだけだったのではないか、と。そのためのストーリーであり、そのための映画なのである。だからハリーハウゼンの映画(監督ではないのだが、あえてこう言う)では、主役は常に人間ではなく、彼によって創造されたクリーチャーたちである。
 だから、「原始怪獣」「グワンジ」「恐竜100万年」などに出てくる恐竜にしろ、「七回目の航海」の竜にしろ、あるいは「タイタン」のサソリ、「黄金の航海」の頭が鷲で体がライオンの動物、「虎の目大冒険」の巨大トラなど命を持ち動いて不思議のないものの特撮は、どれも出来が悪いわけではなく、最初見た時は「ほう」と感心するのだが、今一つ印象に残らない。対照的に、骸骨戦士や青銅の巨人、カーリ神、あるいは「タイタン」のゼンマイフクロウなど本来的に命の無いものが動き出し、(そのほとんどが)遂には破れ去っていく姿はい、いつまでも記憶に残っているのである。
 もしかすると、ハリーハウゼンは、命のないものに命を与えることに命を賭けていたのかもしれない。そんな気がするのである。CG全盛の現代ではハリーハウゼンの技術はもうほとんど過去の遺物だが、「トランスレーター」「スピードレーサー」といった全くのむ内容でCGのみに頼った駄作映画を見ると、ハリーハウゼンのカタカタ髑髏の動きに驚嘆した時代が懐かしく思えるのは歳のせいなんだろうな、多分。

★日本映画の代表は、やっぱりゴジラ
 「ゴジラ」がアメリカで映画化された、というのでそれなりに期待して見たが、ありゃ「ゴジラ」とは別物ですね。「ゴジラ」としてではなく、巨大恐竜、巨大トカゲものとして見なければ辻褄の合わないところが山ほどある。放射能熱線を吐いて近代兵器と対決するところにゴジラの真骨頂があるというのに、ビルの間をささーっと逃げ隠れするなんざ、本家「ゴジラ」が見たら怒るぞ。エメリッヒという監督、ヘタですねえ。アメリカ版「ゴジラ」は、「ゴジラ」ということを度外視してもどうしようもない映画であった。「スター・ゲイト」にしろ「インデペンデンス・デイ」にしろ、彼の作品はやたらドンパチやるだけで、構成は粗雑だし全くダメ。こんなヘタクソに大作・話題作を撮らせるな、と声を大にして言いたい。
 ということで、口直しに本家「ゴジラ」と東宝特撮映画の話をしようと思う。
 「ゴジラ」を見たのは小学生の頃だが、島の丘の上からうわーっと顔を出すシーンなどいくつか覚えている、という話は最初に書いた。その後、ビデオの時代になり、私は何十年かぶりにモノクロ初代ゴジラと対面することになったのだが、これが自分でも意外と思えるほどおもしろかった。シナリオも真面目に書かれ、子供向きではなく大人の鑑賞にも耐えられる要きちんと作られているのである。後期の怪獣プロレスごっこに慣れてしまった目には、初代ゴジラは信じられないほど凶暴で、かつ核を廃絶出来ない人類に対して怒っているようにも見えた。それはまた、戦災から復興した東京の町も、このままでは再びこうなってしまうのだぞ、という怒れる神の暗示のようにも見えた。要するに、ゴジラは単なる怪獣ではなく、愚行を繰り返す人間に鉄槌を下す神の怒れる使者なのである。
 島でのゴジラ踊りとか、怪獣の登場のさせかたとか、走って来る電車が被害に合うとか、名作「キング・コング」との類似点がいくつかないわけではないが、十分に合格点をあげられる出来にあった。すでに書いたが、伊福部昭の音楽もいい。
 こうした視点が欠如し単なる巨大トカゲになってしまったところが、(後期の怪獣プロレスに登場するゴジラもそうなのだが)アメリカ産ゴジラを見たときに感じる最大の違和感であり失望感だろう。
 続く「ゴジラの逆襲」は、アンギラスという新手の怪獣を出現させ怪獣プロレスへの道をひらいた凡作。むしろ、この次に作られた総天然色映画「空の大怪獣・ラドン」の方が注目される。
 まず、メガヌロンという巨大なやごを出現させておいて、その巨大なやごをついばむ超巨大な怪鳥という設定がいい。最初にメガヌロンが人間を襲うシーンがあり、その大きさを実感しているため、その巨大なメガヌロンを餌にしているラドンの大きさもまた実感できるのである。前半の炭鉱の部分は丁寧に作られていて怖く、恐怖の限界を超えた弟が父と場外へ出て行った、という話は初回時に書いた。今見ても炭鉱の水の中を進んでいる男がわーっと引き摺り込まれていくシーンなど十分に怖い。炭鉱の中を進んで行くと奇妙な音だけが聞こえて相手が見えないシーンや、記憶喪失になった人間があるきっかけで思い出すところなど、アメリカの巨大蟻映画「放射能X」の影響が見られるが、これも許される範囲である。正体不明(といっても観客は、その正体を知っているのだが)の巨大な飛行機雲を自衛隊のF86Fジェット戦闘機が追跡して行くシーンや、ソニックブームにより福岡の町が壊滅していく屋根瓦がさーっと飛んで行くところなど、今でも見ているものをわくわくさせるものがある。
 こういう映画を今、ビデオで見ると、もちろん特撮が古臭い感じがすることは否めないが、この頃は今と違って、子供映画だからと手を抜かず(制作者には子供映画という意識はなかったかもしれない)、かといって一部のマニア向けに作るのでもなく、怪獣を出しておけばいいんだという作今の映画と違って、シナリオもきちんとしていたんだなあ、と何だか寂しい気持ちになってしまうのである。
 「地球防衛軍」にしても(侵略者ミステリアンの地下ドームが「禁断の惑星」のクレール人の地下世界のイメージをパクッているところはあるにしろ)そういう意味ではきちんと作られている。「ゴジラ」に続いて「地球防衛軍」にも黒澤の「七人の侍」のリーダー志村喬が科学者役で出ているが、やはりこういう役者が出ていると映画の重みが違ってくる。ただし、唯一の疑問としては空飛ぶ円盤(当時はUFOとは言わず、こう呼んでいた)が何機か逃げていくし月にあると想定されているミステリアンの基地はそのままなので、これで安心していいのだろうか、という点がある。おそらくその疑問に答えるために作られたのだろう続編にあたる「宇宙大戦争」はしかし、駄作であった。
 その他では怪獣を退治するのではなく神として謝ってしまうという視点が新鮮な「モスラ」と、近づいて来る質量の巨大な星(今でいう中性子星か)から地球が一時的に軌道をずらして逃げるという発想がおもしろかった「妖星ゴラス」(怪獣マグマのシーンをカットすればという条件付)あたりが合格点をつけられる。以降の怪獣プロレス作品よりはむしろ、地味だが「美女と液体人間」「電送人間」などの方が手抜きせずに作られていて好感がもてる。ヒットしたが一時東宝が作っていた小松左京SF物「日本沈没」や「エスパイ」は凡作。「エスパイ」は原作では由美かおる演じるマリアがレイプされるシーンがあり、私はそのシーンだけを期待して見に行ったのだがおっぱいがチラリと見えるだけで期待はずれに終わった(ほとんど馬鹿)。角川の「復活の日」は凡作でこれならまだ半村良原作の「戦国自衛隊」の方がましか。駄作の「ノストラ・ダムスの大予言」は、特撮物ではあってもSF映画ではない。
 近年のゴジラシリーズは特撮が進歩した分、見ごたえは増したが怪獣プロレスのパターンは依然として同じであり、多少なりとも納得できたのは、タイムトラベルと組み合わせた「ゴジラVSキングギドラ」くらいのものである。ただ、中川安奈さん残念ながら動きがどんくさいですなぁ。
 他社作品では「宇宙からのメッセージ」などという金返せ駄作を作った東映には見るべきものはない。むしろ、大映作品の「大魔神」が神話・民話的作りでもともとが人間型なので着ぐるみも無理がなく一定の評価ができる。「ガメラ」も昔のものはひどかったが、金子監督がリメイクしたもの(といっても話はまるで違い、ガメラというキャラクターを使っただけ)は、怪獣に対する人間の視点というポジションがきちんと守られていてそれなりの出来に仕上がっていた。特撮も悪くはない。近々「3」が封切られるようだが「2」も自衛隊の本物の戦車が出てきたりしてそれなりのリアリティーがあった。これで、スティーブン・沈黙シリーズ・セガールの娘がもう少しちゃんとした演技ができればエポックになったのに、と惜しまれる。(その「ガメラ3」だが、家族を殺された少女の怨念が○○と合体して……、というところがどうもすっきりしなかったが、特撮には見るべきものがあった。)
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