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史劇の二大名作「スパルタカス」と「ベン・ハー」 [映画の雑感日記]

史劇の二大名作
 私が大作史劇が大好きな人間であることは、すでにあちこちに書いている。今回はその「スパルタカス」と「ベン・ハー」という二大歴史劇の話をしよう。
 ひところ大作と言えば史劇という時代があった。それは同時に、その手の作品が大好きな私にとっても映画の黄金時代であった。私は、小遣いの許す限り西洋チャンバラ映画を求めて主として映画館に通い続けたのである(この時代に見た他の名作、駄作については、次回に書こうと思う)。そうした史劇鑑賞歴30年の上に立って、さて史劇の名作は、と考えるとすぐに浮かんでくるのが史劇の二大名作「スパルタカス」と「ベン・ハー」なのである。
 まず「スパルタカス」だが、この映画は、主役の二人カーク・ダグラスとジーン・シモンズに目をつむってさえいれば、実に語るところの多い名作である。私は、スタンリー・キューブリックの代表作として「2001年宇宙の旅」「博士の異常な愛情」と合わせてこの「スパルタカス」を挙げるのに躊躇しない。
 ところが、どこかでキューブリックが「あれは私が全権を取れなかった唯一の映画で、商業映画の監督に心ならずも撤して作った作品だ」というようなことを言ったのを鵜呑みにして、「あれはキューブリック唯一の駄作だ」みたいなことを訳知り顔に言う奴がいるから困ったことになるのである。いったい、お前本当に映画を見たのか、と言いたい。キューブリックの失敗作と言えば「ロリータ」と「シャイニング」に止めを刺し、「突撃」や「バリー・リンドン」「フルメタルジャケット」などがやや退屈な水準作。キューブリックが監督として思い通りにやれたのかどうかということと、出来あがった作品の価値とは全く関係ないことを一言言っておきたい。トルストイだって晩年は「戦争と平和」を否定する発言をしているが、たとえ作者がそう言ったところで「戦争と平和」は、大それたことに世界をまるごと写しとろうとし、しかもかなりの程度に成功した文学史上の大傑作なのである。
 スパルタカスは、紀元前70年頃に実在した人物。こう書くと高校時代ちゃんと授業を受けていた人の中には「そういえばスパルタカスの乱というのが世界史で出てきたなあ」と思い出す人もいると思う。原作ハワード・ファスト、脚本ダルトン・トランボ(赤狩りでハリウッドを追われた一人。ダグラスの「ガンファイター」のシナリオも書いており、その縁で起用されたのではないかと思う。後に「ジョニーは戦場へ行った」というすさまじい映画の監督もしている)。奴隷の反乱の物語なのだから「自由」ということが大きなテーマになるのは当たり前だと思うのだが、そのためにアメリカのいくつかの州では上映禁止になった、というような話を聞いたことがある。アカデミー賞を4部門受賞しているが、助演男優賞(ピーター・ユスチノフ)など地味なものばかりで、興行的にも大ヒットとはいかなかったようである。
 ただ、初めてこの映画を見た時(例の二番館のオーモン劇場)、「あれれー]と思った記憶はある。東映時代劇のような調子で「いい方」「悪い方」と単純に分類して見ていると、いい方はどんどん死んでいってしまい最後には全滅してしまうからである。「ウエストサイド物語」や「北北西に進路を取れ」などのタイトルデザインをしたソウル・バスが絡んでいると言われる合戦シーンにしても、堂々の布陣はじっくり見せるが戦いが始まるとあっと言う間に終わってしまい、「いい方」の大敗北である。
 ところが、何となく気になるものがあったのだろう、リバイバル上映をスカラ座の70ミリ大画面で見たときは感動の嵐。これは別に画面が大きかったからでもない。その数年の間にこちらが成長したからである。この後、東京に出てきてからも「スパルタカス」は映画館で2回見ているが、オールタイムでのベスト10に入るべき名作という評価は、ますます揺るぎのないものになった。
 スパルタカスの奴隷時代から剣闘士養成所の反乱まで、反乱軍の巨大化とローマ守備隊の壊滅まで、自由を目指しての反乱軍の進撃と壊滅、スパルタカスの死まで、という4章が交響曲のように織り成す見事な構成である。しかも、ただ奴隷軍とローマ軍という単純な図式ではなく、元老院の中でも勢力争い(チャールス・ロートンとローレンス・オリビエという二大名優の駆け引きは迫力満点)があり、そのことがラストでスパルタカスの妻と子が自由になる伏線となっているといううまさ。最後の決戦を前にしてのローマ軍総司令官クラサス(オリビエ)と奴隷軍のスパルタカス(ダグラス)の演説を交互に見せる手法も見事としか言いようがない。
 捕まった奴隷たちにクラサスの代理が「司令官の計らいで、お前たちは、許されることとなった」そう告げると死を覚悟していた奴隷たちの間にざわめきが起こる。が続けてこう告げられるのだ「ただし、条件がある。その条件とは、生きていればスパルタカスその者を、死んでいればその死体を指し示せ。そうすればお前たちは許される」というものである。皆を救うためにスパルタカスが名乗り出ようとする。と、それより一瞬早くトニー・カーチスが立ち上がって叫ぶ「アイム・スパルタカス」。スパルタカスであれば、殺されるのである。が、皆が口々に「アイム・スパルタカス」と言って立ち上がり、ほとんど全員が「アイム・スパルタカス」と叫ぶシーンもやや通俗的とはいえ、感動的なシーンである。
 嫌いな女優の口からとはいえジーン・シモンズの「この子は、自由です。あなたの名前と、あなたの夢をこの子に教えます」というラストの台詞には、今でも目頭が熱くなるのを禁じ得ない。何度見ても感動が味わえると断言できる映画というものは数少ないが、「スパルタカス」は、その数少ない映画の1本である。もう一点だけ付け加えておくと、この映画は芸術映画でもなく政治映画でもなく、まぎれもないスペクタクル娯楽映画であること。しかし、娯楽映画であるにもかかわらず、制作者の言いたいことは質を落とさず主張され、それがこちらの心にストレートに伝わってくるという名作である。このことは、「娯楽映画とは何か」ということを考える上で、忘れてはならない点である。このあたりが最近は「お子様ランチ」ばかりになってしまったが、よくできたアメリカ映画の凄いところだと思う。

 「ベン・ハー」は、ユダヤ人ジュダー・ベン・ハーとキリストの受難を重ね合わせたスペクタクル大作史劇で、最初見たときにはとてつもなく感動し、「世の中にこんな素晴らしい映画があったのか」とさえ思ったものだ。もちろん3時間40分の長編だが退屈するというようなことは全くない。
 「ベン・ハー」はよくできた映画で、映画初心者からプロまで満足させるという点でも代表的な歴史映画、いやそういった狭い範疇を超えた映画史上の金字塔と言える。アカデミー賞最多の11部門受賞という記録は「タイタニック」に並ばれてしまったが、1950年代末から60年代にかけての映画がまだ力をもっていた時代での大記録である。比べる方が失礼というものだろう。(念のために言っておくと、「タイタニック」は、一部の評論家の言うように駄作ではないが、大傑作でもない。1998年の洋画の代表作は「L.A.コンフィデンシャル」だと思う。「タイタニック」については、後でまた触れる予定である。)
 これは監督ウイリアム・ワイラーの手腕に帰するところが大きいと思う。さすがに「ローマの休日」「必死の逃亡者」「大いなる西部」などの監督である(「孔雀夫人」などそれ以前の作品にも名作が多いという話だが、私は見ていない)。たとえば、ベン・ハー(チャールトン・ヘストン。この映画でアカデミー主演男優賞を受賞した。納得)と許婚者エスターとのシーンには、バックに格子戸が繰り返し映し出されるが、こういう細かいところをきちんと撮れるかどうかが大画面映画にとってもやはり大切なのである。ちなみに、エスターがベン・ハーと会うときは外付けの階段を降りてくるパターンになっていて、これは天使のイメージを連想させるためではないかと思う(ラストでは、これが逆になり、ベン・ハーが上階で彼の母妹とエスターが階段を上がってくるパターンになる。つまり、ベン・ハーも迷いが吹っ切れたのであることがわかる)。
 ベン・ハーの母親役を演じるマーサ・スコットは、「十戒」でヘストンがモーゼを演じた時も実の母親役をやっている。ワイラーは、こういう映画通をニヤリとさせるところまできちんと考えて作っているのだと思う。ちなみに、妹役の地味なキャシー・オドンネルは確かワイラーの兄さんのお嫁さんだったはず。
 有名な戦車競走のシーンについては何人もの人が書いているので今さら詳しくは書かないが、あれは集合合図がかかり、仇役のメッサラ(スティーブン・ボイド)の戦車が刃物をそなえたギリシャ戦車であることをきちんと観客に知らせ、ミクロス・ローザの勇壮な音楽と共に戦車が場内を一周し、というセレモニニーで盛り上げておいて、スタートとなるので効果的なのである。メッサラの馬が黒で、ベン・ハーの馬が白というのもどちらの馬がどこにいるのか子供でも一目でわかってよい。何周したかを魚のマークで知らせたり、一旦遅れたベン・ハーが追いついたりということろもきちんと描かれている(ちなみに私が読んだ原作の記憶では、ベン・ハーがメッサラの戦車の車輪に自分の戦車の車軸を突っ込んで破壊したはずである。もちろん、映画のような展開の方が遥かに自然である)。
 戦車競走のどでかい競技場にしろ、ローマへの凱旋シーンにしろ、初めの方に出てくるエルサレムの町へのローマ総督の入場シーンにしろ迫力満点なのは言うまでもない。あまりのスケールの大きさに声もないとは、こういう場面のことを言うのである。こんなに金をかけて大丈夫なんだろうか、と心配になるほどだが、こういうシーンに金をかけないと「スター・ウォーズ」(第1作、つまりエピソード4のことです)のラストのようにせっかく宇宙規模で戦われた戦争に勝利したのに記念式典がスーパー・ダイエーの入社式のようになってしまい、映画そのものをだいなしにしてしまうのである。
 ただし、一言言っておきたいのは、ただ巨大セットを作って出すだけではダメだということ。戦車競走のシーンをもう一度例にとれば、まず戦車の集合場所は背後に壁があり、前方には太い柱がある、という閉鎖された空間である。それが競技場に出て行って初めて空間が広がり、巨人像が映し出されて度胆を抜かれ、さらに競技場全体の俯瞰(後方にエルサレムの丘と空が広がる)が示されて「うわーっ、すげえ」ということになるのである。こういう見せ方に関してもワイラーは、手抜かりがない。
 海戦にしても、その前にガレー船の櫓の漕ぎ方や司令官アリアスとの関係などをきちんと描き、船の形や色、各々の服飾などもちゃんと整理されているので迷うことはない。戦闘の前に奴隷は鎖に繋がれるのだが、ベン・ハーだけは鎖をはずされる。そして露を漕ぐシーンに移るのだが、満身の力で漕ぐので漕ぎ終えた姿勢は自然と上を向くことになる。すると甲板から見下ろしているアリアスの姿が見える。彼が鎖をはずしてくれたんだとそれでわかるわけで、その後、ベン・ハーがアリアスを助けることにも納得がいくのである。
 もう一つ書いておくと、この映画の縦糸の一つに「水」というものがある。砂漠でイエスから水をもらって生き延びたベン・ハーが、十字架に向かうイエスに水を差し出す感動的なシーンがあるが、あれも都合よく差し出すわけではない。イエスをもっと間近でと歩くベン・ハーが警備のローマ兵に、邪魔だとばかりに盾で強引に押し出し押し付けられる。そこに水場があり、そうだと水を汲んで差し出すという過程がきちんと描かれている。決してご都合主義のシナリオではないのだ。
 エンド・マーク前に夕陽の十字架を背景に羊の群れが移動していく、まるで絵画のように美しいシーンが映し出されるが、これも「神は迷える子羊を導きたまう」とでも言うべきメッセージで、3時間40分という大作を締めくくるのにピッタリのシーンである。ラストはハレルヤコーラスと共に幕となるのだが、全編を彩るミクロス・ローザの音楽の素晴らしさについてはすでに書いたので、そちらを参照されたい(私は2000円もするMGMレコードを買って楽曲をすべて暗記したのだ(^^;)。
 そんなわけで「ベン・ハー」は、映画史上最大の大作の一つであると同時に、いい意味で非常にわかりやすい映画になっているのである。小学生は小学生なりに、プロはプロなりに楽しめる映画なのである。従って、私は、「歴史映画を1本だけ見たいのですが、どんな映画を見ればいいのでしょう?」という問いには、容易に答えられる。
「『ベン・ハー』を見なさい」


「エル・シド」は駄作ではない
 今ではほとんど忘れられかかっている映画「エル・シド」について書こうと思う。異教徒からスペインを救った中世の英雄ロドリゴ・ディアス(強いだけではなく情けも知る武将であったことからエル・シドと称された)の物語である。
 主演は「ベン・ハー」のチャールトン・ヘストン、ヒロインにソフィア・ローレンという両アカデミー賞受賞俳優、監督に「ウインチェスター銃73」のアンソニー・マンという豪華70ミリ大作で30数年前の封切り時にはそれなりに話題になりヒットもしたのだが、最近では話題にのぼることもあまりない。3時間を超える長編なのでTV放映されることも今ではまずない。あっても大幅にカットされているのが常なので見る気はしない。かつてレーザーディスクが出ていたが、今はどうだろう? しかし、この映画、「昔の映画」という一言で消してしまうには、あまりに惜しい。
 ということで、手近な本をめくってみたら清水義範が「映画でボクが勉強したこと」という本の中で「エル・シド」に触れていた。が、合戦シーンなどスタンリー・キューブリックの「スパルタカス」がいかによくできていて、「エル・シド」がダメなのかという証拠として触れられているだけなのでちょっと異論がある。「スパルタカス」は、私が映画のベストテンを選べば必ず入ってくるほどの名作で、そういった映画史に残る名作と比べて駄作と決めつけられたのでは、かわいそうな気がするのである。その辺も含めて書いていきたい。
 制作は、当時スペインに本拠をかまえ、キリストの生涯を描いた「キング・オブ・キングス」、故・伊丹十三(当時、一三)も出ていた「北京の55日」、「ベンハー」の仇役メッサラのスティーブン・ボイド主演の「ローマ帝国の崩壊」といった70ミリ大作を続々と制作していたサミュエル・ブロンストン。スベクタクル好きの私は、「70ミリ映画は全部見てやるぞ」と心に決め「黄金の矢」「シエラザード」果ては大映の「釈迦」や「秦始皇帝」などという際物まで見ていたくらいだから、上記の作品はもちろん見ている。プロンストンの作品は、それぞれスケ−ルの大きさには目を見張るものがあるが、正直隙間風が吹き抜けるといったものが多く、唯一、スペインの英雄を主人公にしたこの「エル・シド」がロケーションの素晴らしさとあいまって最高の出来栄えとなったのである。
 監督は、前年一旦「スパルタカス」の監督に決まりながらもプロデューサー兼主演のカーク・ダグラスと衝突して監督の座を追われたアンソニー・マン。紀元前と中世の違いこそあれ、同じ70ミリ大作の歴史劇ということもあり、「この映画で見返してやるんだ」といった気迫が画面の随所に感じられる。原作はコルネイユの「ル・シッド」(この戯曲を読みたいだけのために私は筑摩書房の世界文学大系「古典劇集」という菊判の分厚い本を買ってしまったのだ)といえないこともないが、コルネイユの戯曲は「ロミオとジュリエット」に代表されるような家と家との対立という部分に力点が置かれており、別にスペクタクル史劇ではない。映画は別物と考えた方がいい。また後に岩波文庫から「エル・シードの歌」という叙事詩が出たが、これは読んでいない。
 主演のチャールトン・ヘストンは、まさに適役。風貌といい彼以外にエル・シド役は考えられないといってもいい。ヒロインもソフィア・ローレンのような大柄の女優でなくては騎士の妻は勤まらない。スペインを侵略するイスラム教徒の敵役ハーバート・ロムは「ピンク・パンサー」で間抜けな警部役を演じている俳優だが、ここでは憎らしいほどの鬼気迫る演技を見せている。従って敵が巨大で憎らしいほど、エル・シドの活躍もまた引き立つというわけである。
 エル・シドの主な戦いは4つ。
 最初は、後に彼の妻となるシメーヌの父親との闘い。これは、家と騎士の名誉を賭けた闘いで、相手が婚約者の父ということもあり、建物の中で行われ、エル・シドの闘いたくはないのだが闘わなければならない心情を表すように、画面全体が暗い。
 2番目がカラオーラという土地の所有をかけた王の最高騎士としての闘い。相手の挑戦を受ける建物の中(相手の投げた手袋を拾い上げる=挑戦を受けたという印、ヘストンが実にかっこいい。映画としては「ベン・ハー」の方が上かもしれないが、俳優ヘストンとしては、こちらの方が光っているというのが私の持論である)から屋外の城と闘技場までをパンで見せる切り替えが見事。スペインの古城が否が応でも雰囲気を盛り上げる。闘いの前の儀式の見せ方も騎士のプライドがよく伝わり、これに二人の女の意地までからんで、わくわくさせるものがあり、このような中世の一対一の闘いを描いた場面としては、最高のものではないかと思う。
 3番目は13人の騎士との闘い。これは、ストーリー的には大して重要な場面ではないが、静の場面が続いた後だけにリズムとスピードが際だち、合わせてエル・シドの強さを印象付ける名シーンである。
 そして、最後のスペインの存亡を賭けたバレンシアの戦いとなる。空間的にも登場人物の数からいっても、どんどんスケールが大きくなり最後にどーんと大決戦があるわけで、シナリオのうまさである。エル・シドを先頭に突進する騎兵の群れでスピード感を出しておき、敵の大群を挟んで、歩兵の大群を前方からと俯瞰の2ショットで見せる見せ方もうまい。激突してからのシーンは、もう少し短くてもいいのかな、という気がしないではないが、エル・シドの横に常に旗を配し、彼の位置を観客にわからせるというのも、なかなかの工夫である。
 エル・シドが「神と国王とスペインのために」と言う言葉が、ラストで国王の口から「神とエル・シドとスペインのために」と言い換えられるあたりも、うまい。「かくしてエル・シドは、歴史の門から伝説の中へと駆けて行ったのである」というナレーションにいたっては、正座して聞きたいというくらい格調が高い。ラスト、エル・シドを乗せた白馬が画面の右から左へと波打ち際を走っていくシーンなどまさに伝説の騎士が天に駆け昇っていくようで、思わず目頭が熱くなる。「笑点」流に言えば、座布団2枚やりたいくらいのものである。
 国王争いをする兄弟がどちらも髭をはやしていて見分けがつきにくいとか、死んだエル・シドが先陣をきるラストの戦いの布陣がわかりにくい(というか、相手方の布陣と城の造りが最後までわからない)、あるいはエル・シドから水をもらうラザルスという病人のもったいぶった言葉はいったいどうなったんだ、などという細かいことは忘れて、ここは一つ西洋講談の名調子に身をゆだねようではないか。

幻の「エル・シド」マーチ
 CATVの「ザ・シネマ」チャンネルで先日亡くなったチャールトン・ヘストン主演の「エル・シド」をやっていたので録画してみた。
「我が『楽聖』ミクロス・ローザ」(後出)でも触れているように、史劇大好き人間、70mm映画大好き人間、ローザの音楽大好き人間の私が、あの「ベン・ハー」ヘストンがスペインの英雄剣士を演じたこの映画を見逃すわけはない。公開前から早々とミクロス・ローザ作曲のサウンドトラック盤LPを買い、映画自体も劇場で三度も見ている。もちろんビデオも持っている。NHK-BS2で放送されたものも無論S-VHSで録画したものなのだが、ノーカットなのはいいとしても残念ながらインターミッションの間奏曲(勇壮なマーチ風の曲なので「エル・シドマーチ」とも言われる)がカットされメインタイトルの曲でごまかされていた。どうせ40年以上も前の古い映画だからわかりはしないだろう、ということなのだろうがこちらはサウンドトラック盤LPをハミングできるくらい何度も聞いているし、買ってはいないもののレーザーディスクでも「エル・シド」を見ている(さすがにレーザーディスクのものはちゃんと間奏曲が入っていた)。たちどころに「おいおい」ということになった。インターミッションの時間そのものも短くなっていたので、「皆様のNHK」としては時間短縮のためこういった「暴挙」にでたのだろう。
 民放で放送されるときは序曲までカットされるのがほとんど。それよりはマシというところなのだが、納得はいかない。インターミッションの前と後では十数年の月日が経っているという設定なので、やはりきちんとインターミッションを入れ、ヘストン演ずるところのエル・シドの戦いをイメージさせる「エル・シドマーチ」を聞きたいところである。
 幸い、「ザ・シネマ」チャンネルはノーカット放映なので、よしよしと思って録画したのである(なにせ朝6:00からの放送なのでタイマー録画)。このチャンネルはトリミング版で放送される映画が多いので危惧していたのだが、ノートリミング版で第一関門クリア。序曲もあって第二関門クリア。ところがである、インターミッションがまるまるなくて後半戦に突入してしまうのである。唖然呆然とはこういうことをいう。怒り狂って(^_^;録画データは消してしまったのだが、こうなると「エル・シド」マーチを聞くにはDVDを買うか、WOWOWで放送されるのを気長に待つしかないのかもしれない。


史劇のプロムナード
 前回、私が無類の西洋チャンバラ映画好きだということを書いたが、今回はそうした映画の中で記憶に残っている名作、駄作の散歩道を行く先を決めずにのんびりと歩いてみようと思う。
 まず「十戒」。史劇といえば、この大作を外すわけにはいきません。「聖書」の「出エジプト記」を題材としたセシル・B・デミル監督の西洋講談。紅海が割れるシーンが話題になったが、出エジプトのユダヤ人やそれを追撃するエジプト軍のモッブシーンがともかく凄い。民族と民族の戦いなのだから、これくらいの人数がいないと説得力がないのだが、こういうシ−ンを撮ることは人件費の問題もあって今では不可能だと思う。「ベン・ハー」がイタリアで、「エル・シド」や「スパルタカス」のモッブシーンがスペインで撮られたことを考えると、これはハリウッドで撮られた最後のモッブシーンなのかもしれない。サイレント版もビデオで見る機会があったが、一部が今の「十戒」の話で二部が現代の話という二部構成で、現代編は説教調で退屈極まりない。今のヴィスタ・ビジョン版だけ見れば十分だと思う。エルマー・バーンスタインの音楽も堂々たるもので印象に残る。それにしても「十戒」は、大スペクタクル史劇なのに、戦闘シーンが全くないという不思議な大作ではある。
 「サムソンとデリラ」もデミルの作品で、フォード西部劇でお馴染のビクター・マチュアが怪力サムソンを演じたが、ラストの宮殿がどどーんと崩れ落ちるスペクタクルを除いては退屈な映画だった。だったら見なければいいのに、と思うのは素人で、映画は見てみなければその価値はわからないのだ。
 「聖衣」は、キリストが処刑される時に着ていた「聖衣」をめぐる物語。活劇は意外と地味で記念すべきシネマスコープの第1作という以外に評価すべき点はなかった。「クォヴァディス」は、ノーベル文学賞を受賞したシェンキェヴィッチ原作の映画化。時代設定といい、音楽がミクロス・ローザであることといい、MGMが「ベン・ハー」の予行演習で作った映画である。原作では全裸で牛にしばりつけられているはずのヒロイン(デボラ・カー)が映画では着衣でしばりつけられているというその一点で私を大いに失望させた映画でもある。まだ若かった白痴美のデボラお姉さんは、原作に忠実に映画化するためにも、青春の記念のためにも断然ここで脱ぐべきだったと思う。ただし、皇帝ネロを演じたピーター・ユスチノフは絶品。「スパルタカス」の剣闘士養成所のおっさん役にしろ、この人はともかくこういうちょっとひねった人物を演じさせるとめちゃうまい。
 ノーベル文学賞作品の映画化としては「バラバ」も忘れられない。ラーゲルクヴィストの原作で、キリストの代わりに放免されたバラバのその後の物語である。私は岩波書店の岩波現代叢書でこの原作(同じノーベル文学賞受賞作といっても、通俗的な「クォヴァディス」よりはよほど文学的な傑作)を読んでいたので、映画化されるとさっそく見に行った。主演はアンソニー・クインで、これははまり役。イタリアで作られた70ミリ大作だが、ともかく暗い映画だった。「シェーン」で黒づくめの殺し屋ウイルソンを演じたジャック・パランスとの決闘も活劇というよりも暗い闘いだった。ただし、この手の映画につきものの奇跡のシーンを完全に廃した作りは好感がもて、地味ながらも私はそれなりに評価している。
 「ソロモンとシバの女王」は、ソロモン王=ブリンナー、シバの女王=ジーナ・ロロブリジータという配役の大作というか駄作。「十戒」でエジプト王の経験もあるブリンナーはともかく、ロロブリジータでは肉感的ではあっても女王としての品格に欠ける。名前は覚えていないがこの映画と「バラバ」の音楽は、曲調が似ているので多分同じ作曲家だと思う。「バラバ」は、ちょっとスローなボレロ調、「ソロモンとシバの女王」はコーラスを楽器のように使った曲調で、どちらも悪くはない(その後の調べで予想通り同じ作曲家であることがわかった。マリオ・ナシンベーネというイタリアの作曲家で、他に「激しい季節」「黄金の矢」「恐竜100万年」など)。
 「トロイのヘレン」は、ギリシャ神話を題材にイタリアの女優ロッサナ・ポデスタがヘレンを演じた退屈な作品だが、この頃の彼女は本当に美人だった。ロバート・アルドリッチ監督の「ソドムとゴモラ」は、そのロッサナ・ポデスタがトウがたって何だか変な顔になってしまってからの作品。前髪だけが白いという変な男優のスチュアート・グレンジャーが主役のロトを、ソドムの街の女王をアヌーク・エイメが演じていた。前にも書いたように私はミクロス・ローザがスコアを書いているというだけで見に行ったが、映画自体は旧約聖書に載っている話だとしても退屈で(ソドムを振り返った者が塩の柱になってしまうというシーンにしても、もう少し出し方というものがあると思う)、画面もくすんだ色でどうということのない出来だった。
 チャールトン・ヘストンが中世の騎士を演じるというので「エル・シド」の感動を期待して見に行った「大将軍」は、どこが「大」なのかさっぱりわからない大凡作。あ、大凡作の大だったのか。やっぱり映画は俳優よりも監督で見に行かなければならない、という当たり前のことを再確認した作品であった。
 70ミリ超大作「クレオパトラ」は、ご存じエリザベス・テーラー主演の虚大作。この作品がコケて「タイタニック」の20世紀フォックス社が沈没しかかったのである。はっきし言って、4時間近いこの映画を退屈せずに見られる人がいたら「全日本我慢大会」に出場させたいと思う。「ローマ帝国の滅亡」は、「ベン・ハー」の仇役メッサラのスティーブン・ボイドでは70ミリ映画は支えきれないことを証明した作品。これまた70ミリの「聖書」もジョン・ヒューストンにしては凡作なのだが、故・黛敏郎がなかなか立派なスコアを書いていた。黛の政治的言動を見ているとほとんど馬鹿と言って差し支えないが、音楽の才能はこの映画で見直した。こと音楽に関しては、才能のある人ではあった。
 「キング・オブ・キングス」は、キリストの生涯を正面から扱った70ミリ凡作。キリストを演じたジェフリー・ハンターのコンタクトを入れた青い目とローザの音楽だけが印象に残る作品。この映画でサロメを演じたブリジット・バズレンというアバズレ風女優はMGMが売り出しに力をいれていたが、「西部開拓史」にちょっと出ていたくらいで消えてしまった。シネラマの「偉大な生涯の物語」もキリストの生涯を描いた大作で「シェ−ン」のジョージ・スティーブンスが監督。私は「シネラマ=70ミリ以上の大作」というイメージだけで中日シネラマ劇場へ見に行った。マックス・フォン・シドー(ベルイマンの映画によく出てくるといってわからなければ、「エクソシスト」の神父といえばわかってもらえるだろうか)はなかなかの適役だったが、作品自体は隙間風がビュービューと吹き抜けるような凡作だった。キリスト物としては、白黒の低予算映画ながらパゾリーニの「奇跡の丘」の方が遥かに上である。 
 フランスの70ミリ史劇だというので、どんなもんだろうと見に行った「シェラザード」も予想通り退屈な作品だったが、フランス映画らしい?透明感のある色彩と、敵の兵士が風呂場に侵入する場面で女性のおっぱいが見え、ハッとした記憶だけが残っている(ウブな年ごろでした)。主役のアンナ・カリーナは、ゴダールの映画では適役だったが、やはりこの手の通俗大作での起用は無理があった。「ユリシーズ」は、ホメーロスの「オデュッセイア」に題材をとった作品で、カーク・ダグラス主演。ま、可もなし不可もなしといったところか(凡作「ニュー・シネマ・パラダイス」の中で一部上映されていたので覚えている人もいるかと思う)。同じくカーク・ダグラス主演の「バイキング」は、後半、海戦ではなく陸戦になってしまってやや話が分裂しているのが惜しいが、バイキングのテーマ音楽はなんとなく「スター・ウォーズ」のテーマ音楽と似ていると、私は密かに思っている。
 史劇の黄金時代を過ぎてから制作されたブアマンの「エクスカリバー」やメル・ギブソンの「ブレイブ・ハート」は、様式こそ歴史映画だが私の考える史劇とはちょっと肌合いが違うのでここでは無視する。
 それよりも、期待しないで見に行って、「ああ、おもしろかった」と帰ってきた作品に「ピラミッド」がある。「ピラミッド」という作品は他にも作られているが、ここでいうのはワーナー・ブラザースのハワード・ホークス作品のことである。話はどうってことない古代エジプトの物語なのだが、群衆シーンもそれなりにきちんとエキストラを動員して作ってあり、ジャック・ホーキンス演じるエジプト王の墓(要するにピラミッド)を守る仕組みがよく考えられていて、ううむ、と唸ること請け合い。ラストは迫力もあり、観客の溜飲も下がるという、うまい作りになっている(最近話題になった「ハムナ・プトラ」も、このラストシーンをパクっていると思う)。エジプト物としては「クレオパトラ」など問題にならない傑作。ホークスは「リオ・ブラボー」など西部劇だけの監督かと思っていたが、この映画を見て大いに点数を上げた記憶がある。ともかくホークスの作品は、結構深刻なストーリーを扱っても見終わった時には「満足」という気分が大きく、変に深刻にならずに映画館を出てこられるのがよい。
 こうした所謂(制作費が)A級の作品から、「片目の巨人」(所謂「鉄腕マティステ」物で、ともかくマティステ役のゴードン・ミッチェルだったかミッチェル・ゴードンだったかの人間離れした筋肉が凄い)、「妖姫クレオパトラ」(これは高校一年の時に猪飼、酒井という悪友たちと、日曜日にわざわざ名古屋の大須の方の映画館まで遠征して見た。全裸の女性が描かれている看板に嘘はなかったが、後ろ向きのヌードが最後に一瞬だけ出たと思ったら幕が降りてきた)。「放浪の剣豪」(これもパンダ・ヘアのスチュアート・グレンジャー主演)といったB級際物作品まで私は次々と見ていったのである。日本では大映の70ミリ大作「釈迦」や「秦始皇帝」なども見に行ったが、語りたくない。一生懸命見に行ったわりには、だいたい7〜8割りは金返せの馬鹿野郎ものだったのだが、史劇というか西洋チャンバラ物が全くといっていいほど作られなくなった今になってみると、これらの駄作も懐かしく思い出されるのである。
(2000年という20世紀最後の年になって、「グラディエーター」という史劇大作が実に久しぶりに公開された。「ベン・ハー」と「スパルタカス」を足して2で割ったような作品だが、どうも「ちょっと違う」という印象がつきまとって仕方がない。史劇というものは、監督はもちろんのこと、俳優の顔がそれらしくなくてはいけないし、時代考証、美術、音楽などもそれらしくなくてはいけない。日本でちゃんとした時代劇が作れなくなったように、ハリウッドも史劇を作れるスタッフがいなくなってしまったのかもしれない。CGを駆使してモッブシーンを作り上げているが、これも「ベン・ハー」のモッブシーンを見ている者の目には、どうしても説得力に欠ける。要するにローマ帝国はアメリカで、ちょいと間違いをすることもあるが、栄光は不滅ですという図式は、もう飽きた。長島引退宣言じゃないんだから。)


我が楽聖=ミクロス・ローザ
 私にとって映画音楽の大作曲家といえばミクロス・ローザである(ハンガリー出身の音楽家で、最近ではロージャと書かれることが多い。多分、こちらの方が原語の発音に近いのだろう。が、ここでは当時愛聴したサウンド・トラック盤の記述に従ってローザとする。でないと、調子がでない)。ほとんど「楽聖」と言っていい。
 ヒッチコックの「白い恐怖」や「二重生活」(この映画は見ていない)、「ベン・ハー」で3度もアカデミー賞をとったハリウッドの大作曲家である。このほかにイギリス時代に「鎧なき騎士」「バグダッドの盗賊」、ハリウッドに移ってからはワイルダーのアルコール映画「失われた週末」やヴィンセント・ミネリの「炎の人ゴッホ」などのスコアも書いているのだから幅も広い。
 二昔以上というか半世紀近くの昔、ハリウッドで大作史劇が続々と作られたことがある。その「クォ・ヴァディス」「キング・オブ・キングス」「エル・シド」「ソドムとゴモラ」といった当時の大作史劇の音楽を一手に引き受けていた作曲家なのだから、誰もがローザの曲を一度は聞いているはずである(聞いていないような人は、この雑文では相手にしない(^^;;)。さしずめ一昔前なら「アラビアのロレンス」「ドクトル・ジバゴ」のモーリス・ジャール、現在では「スター・ウォーズ」「インディー・ジョーンズ」「ジュラシック・パーク」などのジョン・ウイリアムズといったところだろうか。
 ちなみに同じ頃、大作史劇の音楽を担当した音楽家に「クレオパトラ」「スパルタカス」のアレックス・ノースがいるが(そして「スパルタカス」の音楽はなかなか出来がいいと思うのだが)、ことサントラ盤で聞くにはメロディー旋律が明解で覚えやすくバラエティーに富んでいるローザの方に断然軍配が上がる。ノースの音楽は、映画と共に聞いているとなかなかいいのだが、映像なしの音だけで聞いているとやや単調なのだ。私が、ローザのレコードは次々と買ったにもかかわらず、ノースのレコードは遂に一枚も買っていないのは、その辺りに起因しているのではないかと思う。
 今から30年以上も前の小遣いが月1000円しかないころのサントラ盤=2000円である。買う方だって、それ相応の覚悟がいる。買えるのはせいぜい半年に1枚である。従って、買ってくると、その1枚を繰り返し繰り返し、寝ても覚めてもレコードが擦り切れるほど聞くのである。
 「映画でボクが勉強したこと」という本の中で清水義範が「私は、ベン・ハーとエル・シドの音楽をハミングできた」と自慢しているが、「ハミングできた」と言っても、せいぜいが序曲のことなのだろう。まだまだ甘いねえ。私に言わせれば、そんなものは常識であって、自慢でも何でもない。
 というのも私は、「ベン・ハー」「エル・シド」はもちろんのこと「キング・オブ・キングス」や「ソドムとゴモラ」(この2作、とくに後者は「金返せ」的駄作なのだが、私はローザの音楽が付いているというだけで許し、サントラ盤も買ったのである。「キング・オブ・キングス」は映像が迫力のある音楽に負けてしまっているため、映画音楽としてはちょっとやかましい感じがしないではないが、サントラ盤として音楽だけ聞くには堂々として実に素晴らしいものである)といったローザ史劇の序曲、メインタイトル、テーマ曲などをご希望があればサントラ盤の順番通りに次々とハミングできたのである。たとえば「エル・シド」についていえば「序曲」「メイン・タイトル」に始まって「宮廷の音楽」「カラオーラの闘い」「エル・シドと13人の騎士」「間奏曲」(エル・シド・マーチといわれる行進曲風の勇壮な曲)から最後の「バレンシアの戦い」までスラスラと出てくるのだから、まさに、人間ジュークボックスと言っていい。
(そういうわけだから、NHK-BSが「エル・シド」を放映した際、「間奏曲」と称して「メイン・タイトル」の曲を流したりするとついつい怒りだしてしまうのである(^^;;。)
 ところで、こう言うと「いったいそれが、何の役に立つのかというのだ。何の役にも立たないじゃないか」という声がどこからか聞こえてきそうである。が、違うんだなあ。というのも、当時はビデオなんてものがこんなに早く家庭に入ってくるなんて全く予想もできず、映画というのは、映画館で上映されなくなると見る機会は永久に失われてしまったのである。我々の手元に残されるのは、パンフレットしかない。しかも、パンフレットを売っているのはロードショー館だけで、二番館ではそのパンフレットすら手に入らないのである。
 だから私のように二番館、三番館メインで映画を見る人間は、そこで感動する映画に出会ってもパンフレットを手に入れる術が無い。今のように二、三年待っていればテレビで放映されるような時代でもない。そこで、勢いサントラ盤を買うということになるのである。もちろん、音楽と共に印象深い場面を思い起こすためである。
 ただし、名曲と言われているものでも「シェーン」のように「遥かなる山の呼び声」1曲というのは、音楽からは冒頭とラストしか思い出せないのでサントラ盤としてはあまり適切ではない。ちなみに「シェーン」の音楽を担当したヴィクター・ヤングは「エデンの東」「八十日間世界一周」など実に親しみやすいヒット・スコアを書いているのだが、記憶に残るメロディーは、いつも一曲だけなんだなー。
 その点、ローザの音楽はバラエティーに富んでおり、メロディアスで覚えやすい。「ベン・ハー」を例にとれば、勇壮な序曲はもちろんのこと、キリストの誕生、エスターとの愛のシーン(ほらバックの格子が浮かんでくるでしょ)、捕らえられたベン・ハーが鎖につながれて砂漠を歩く熱砂のシーン、ガレー船(ただ櫓を漕ぐだけで今の監督にあの迫力が出せますか?)、海戦、凱旋マーチ等々、私はハミングと共に鮮やかにそのシーンを脳裏に浮かべることができるのである。映画音楽のアンソロジーに「ベン・ハー」が収録されるときは、だいたいが「序曲」か「愛のテーマ」なのだが、「ユダヤへ帰る」と題された曲も静かだが実にエキゾチックな味わいがあって、私は好きである(蛇足だが、どういう経緯なのか「ベン・ハー」のサントラ盤には、あの有名な「戦車の入場シーン」の音楽が入っていない。そのため3回目の観劇の時には、全神経を集中してそのシーンの音楽を記憶するように勉め、めでたくハミングできるようになったのである。
 またサントラ盤での「序曲」というのは正確には「メイン・タイトル」とでも言うべきもので、キリスト生誕のシーンが終わった後、所謂タイトルバックに流れる曲である。映画での「序曲」は映像が出る前に6〜7分程度あり、勇壮というよりは、どちらかというと緩やかな曲である。この序曲が静かに終わるとMGMのライオンが吠えていきなりキリスト生誕の場面、その後にレコードでいう「序曲」が始まるのである。私の勘違いかと思っていたが、レーザーディスクで確認できた。さらに言えば「キング・オブ・キングス」にしろ「エル・シド」にしろ指揮はミクロス・ローザ自身がとっているのに「ベン・ハー」のレコードだけはなぜかカルロ・サヴィーナという人物がローマ交響楽団の指揮をとっている。ところが「サントラ盤」の解説書には「ガレー船」のシーンの音楽指揮をするミクロス・ローザの写真が載っているのだ。確かに「ベン・ハー」はローマのチネチッタ・スタジオで撮影されたのだが、これはどういうことなのか? ジャケットにオリジナル・サウンドトラックと明記してある「ベン・ハー」のサントラ盤は、本当にサントラ盤なのかという疑惑が実はあるのだが、ここでは深入りしない)。
 追記。……と書いたもののやはり気になるので調べてみた。
http://homepage1.nifty.com/kotachi/ben_hur.htm
 に「ベン・ハー」の音楽という記述があり、LPレコードの「オリジナル・サウンドトラック」というのは全くの嘘であることがはっきりした。長年の疑問が解けてホッとしたとともに、当時2000円という大金をはたいて買ったものが偽物と知って少々落胆も。
 ところが、これほど売れっ子作曲家だったミクロス・ローザの名前が(私が見た順で言うと)「ソドムとゴモラ」を最後にパッタリと聞かれなくなってしまったのである。歴史劇が作られなくなった頃と合致するのだが、別にローザは歴史劇の音楽しか描けないわけではない。「白い恐怖」のようなサスペンスタッチの音楽も描ければ、D.リーンの「超音速ジェット機」のような音楽も描けるのである。
 その後、私は、別れた恋人を探すように、映画を見に行った時には必ずMUSIC BY ……を注意深く見た。そのかいあってか、2度だけローザの名を見つけることができた。
 1度は「シンドバッド黄金の航海」。R.ハリーハウゼンの特撮によるシンドバッド(アメリカでは、シンバッドとなる)ものの第2作で、タイトルミュージックと6本の腕を持つカーリ神との闘いの場面の音楽は記憶することができた。もう1度は「タイム・アフター・タイム」。SFの父H.G.ウエルズがタイムマシンで現代にやってきて、切り裂きジャックと闘うというタイムトラベルものの佳作で、この映画のヒロインが、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の第3作でドクと結ばれるおばさんである。映画は思わぬ拾い物といったところだが、音楽としてはとりたててどうこういう出来ではない。従ってハミングもできない。が、この映画がミクロス・ローザの名前を見た最後の映画になってしまった(後に、ビリー・ワイルダー晩年の佳作「悲愁(フェードラ)」もミクロス・ローザの音楽であることを、ビデオで知った。これもほとんど記憶には残らない音楽だったが、「タイム・アフター・タイム」とこの「悲愁」のどちらかがローザ最後の映画音楽になるのではないかと思う)。
 訂正。後に「スター・ウォーズ ジェダイの復讐」を監督するリチャード・マーカンドの「針の眼」というまあ可もなく不可もないスパイ映画の音楽をローザが作曲しているのを知った。ビデオで見ていたのだが、全く気がつかなかった。これが1981年なので(「タイム・アフター・タイム」は1979年)最後の作品の可能性が高い。
 さらなる訂正。
 ……と思っていたら私は見ていないが「スィーブ・マーティンの四つ数えろ(もちろんハメットの「マルタの鷹」を映画化したハードボイルドの傑作「三つ数えろ」のパロディ)」のスコアを書いていてこれが1982年。これが最後か?
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