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俳優雑談1 [映画の雑感日記]

★嫌いな俳優2人
 今回はちょっと趣向を変えて嫌いな俳優について語ることにしよう。ただ、嫌いな俳優といってもいろいろ種類がある。むしろ、ここでは許せない俳優といった方がいいかもしれない。
 たとえば、いつも寝ぼけたような顔をしているミッキー・ロークや顔と首の幅が一緒のシルベスター・スタローン、のっぺり二枚目でエイズで死んだロック・ハドソンやウイリアム・ホールデン、女優では爬虫類を連想させるジョディ・フォスターや馬鹿面のキム・ベイジンガー、無表情のメリル・ストリープなどは嫌いな俳優だが、許せない俳優ではない。なぜなら、大した映画には出ていないので、彼らの出ている映画を見なければいいからである(ミッキーとキムの出ている「ナインハーフ」なんて映画は、金を貰っても見たくもない。ただしキムが脱いだリメイク版の「ゲッタウエイ」は見てしまったけど……)。許せないのは、私が好きな映画に端役程度ならいざ知らず、でっかい顔で出演し、せっかくの名作を台なしにしてしまう困った奴らなのである。
 というと、けっこうな数になってしまうので、もう少し限定しよう。実は、何十年も映画を見てきて、こいつだけは許せないという俳優が2人いる。具体的に言ってしまおう。
 許せない俳優の1番手は、何といっても「名優」グレゴリー・ペックである。
 こいつはなぜか似合わない役ばかりをやりたがり、名作に数多く出演し、しかも演技力がないので多くの名作を台なしにしてしまうという、いわば映画史上のA級戦犯である。 たとえば、「大いなる西部」。
 いうまでもなくウイリアム・ワイラーの傑作西部劇である。ペックはプロデューサーにも名を連ねているので当然の如く主役である。元船乗りという設定で正義感を撒き散らし、しかも女にももてるという役どころを気持ち良く演じている。それだけでも厭な奴なのだが、まあここまでは許そう。とてもあの時代の船乗りが勤まるとは思えないが、これも目をつぶろう。しかし、あのペックが丸太のような腕をしたチャールトン・ヘストンと殴り合って互角(というか、私見では四分六でペックの判定勝ち)、ライフルマンことチャック・コナーズと殴り合ってKO勝ちというのはどう考えても納得がいかない。
 その上、荒馬は乗りこなすし、決闘では度胸満点。やってる本人はさぞかし気持ちよかっただろうが、とてもそうは見えないという点が見ている者を興ざめにするのである。つまり、完全なミスキャストなのである。それを、自分がプロデューサーなのをいいことに強引に主役を演じてしまったのである(と、私の目には映った)。というわけで「大いなる西部」は映画史上の大傑作になるチャンスを永遠に逃してしまい、単なる西部劇の傑作という地位に甘んじることになったのであった。まことに腹立たしいと言わねばならない。
 ペックの犯罪は他にも数え上げたらきりがない。たとえば、戦争アクションの傑作「ナバロンの要塞」。様々な分野のプロフェッショナル達が協力し合って難攻不落の要塞に挑むという、この手の映画のはしりであり未だに代表作である。この映画のペックの役どころは、ロッククライミングの天才というところなのだが、馬鹿も休み休み言ってもらいたい。どう贔屓めにみたってペックに運動神経があるとはとても見えないではないか。
 第一、あの間抜け面では高尾山でも無理だと私は断言する。しかも、女にもてるというルーティーンはちゃんとこなしているのだから開いた口がふさがらない。こらこら、生死を賭けた場面で女と乳繰り合っている場合か。この映画、途中でリーダーのアンソニー・クエイルが骨折してペックがリーダーになってしまうのだが、私にはどう考えてもクエイルの骨折はペックの陰謀としか思えないのである。
 世評の高い「ローマの休日」にしたところで私にはペックはただのスケベなおっさんにしか見えない。あの顔でジャーナリストはとうてい無理なのである。ヘップバーンもお姫様だけあって、男を見る目がないなあ。
 これだけで三本。それもみんな名作である。「白鯨」のエイハブ船長もひどい。これはもう腹立たしいとかという枠を遥かに越えて犯罪である。何度も見たい映画なだけに「何でお前が出てるんだ。馬鹿野郎!」と、私はその都度叫んでしまうのである。彼はせいぜいがところ「アラバマ物語」や「オーメン」に出ているだけでよかったのである。
 男優のA級戦犯がグレゴリー・ペックなら、女優のA級戦犯は、何と言ってもジーン・シモンズだろう。
 まあペックよりは多少演技力もあり、その点では許せるのだが、生理的に全くダメなのである。なぜかあの爬虫類的な顔と奥目が私は気にいらないのである。姥面でカサカサした感じで女性としての魅力が全くないのだ(いいかげんな理由だなあ。しかし、そういう生理的な側面があるからよけい許せないということも言えるのである。ただし、高校生の頃はむしろ魅力を感じていて社会人になった頃からこうなったのである。私の女性の好みというのもまた、いいかげんなのであった)。ということは、私にとって彼女は、「付き合いたい」とか「守ってあげたい」とか「寝てみたい」とかいう対象になり得ないのである。つまり、「こんな女どうでもいいや」というか「できれば近くにいてほしくない」存在ということになりその途端、映画の魅力は半減してしまうのである。
 まあ、それでも凡作に出ているのなら別に何も言わない。すでに書いたように、そんな映画は見に行かなければいいのだから。しかし、この嫌いな女優が前述の「大いなる西部」とキューブリックの映画史に残る傑作史劇「スパルタカス」に出ているとなると話は違ってくる。
 「大いなる西部」について言えば、コナーズとペックが何でこの女に好意を持っているのかが納得できないし、「お前がしっかりしていて両方に水を与えれば別に争いは起こらなくて済むんじゃないか」と、これは本当はキャスティングの問題なのだが、私の怒りは彼女に向いてしまうのである。ペックとシモンズのツーショットとなるともう悪夢以外のなにものでもない。繰り返しになるが、哀れ「大いなる西部」は、ペック、シモンズという二人に足を引っ張られてしまい大傑作になるチャンスを逃してしまい、西部劇の傑作という評価に甘んずる結果となってしまったのである。大根の代名詞のようなチャールトン・ヘストンが意外にも納得の演技をし(ペックとの決闘の前にジーンズをスバッ、ズバッと履くシーンだけでも座布団1枚あげたい)、キャロル・ベーカーが地そのままの馬鹿面演技をし、バール・アイブス、チャールズ・ビッグフォードなんていう脇役のおっさん達がいい味を出していただけに実に惜しい。
 「スパルタカス」に至っては彼女の罪はさらに重い。「大いなる西部」は、ペックとの共犯だがこちらは紛れもなく主犯だからである。カーク・ダグラスが彼女に惚れるのは奴隷と剣闘士の生活で全くといっていいほど女を見る目がなかったから、と納得するにしても、ローマの大将軍であるはずのローレンス・オリビエが彼女に惚れるという設定はどう考えても納得がいかない(ホモセクシャルを思わせるトニー・カーチスを取り戻すために戦争を仕掛けたと言った方がまだ納得できる。シモンズは、この頃オリビエの愛人だったという話があるので、撮影中一緒にいられるということから、オリビエが出演の条件に彼女との共演を出したのかもしれない。本当だとしたら、とんでもないことである)。
 素晴らしいシナリオを書いたダルトン・トランボもこれでは浮かばれないだろう。この映画もピーター・ユスチノフ、チャールス・ロートン、ウッディー・ストロードといった脇役達がいい味を出していただけに私はよけいに腹が立つのである。そんな時、こういう大根はせいぜい脱いで観客の目を楽しませてくれるくらいしか芸がないのだが、ダグラスとの出会いのシーンにしても水浴のシーンにしてもシモンズは出し惜しみで見えそうで見えない。私のイライラはさらに募るのであった(このへんになってくると、もうほとんどイチャモンである)。
 いうまでもなく、映画というものは基本的に撮り直すことができないし、ここに上げた名作をリメイクするにしてもとても前作を上回る傑作ができるとは思えない。その意味でも、グレゴリー・ペックとジーン・シモンズの二人だけは、絶対に許すことができないのである。


★動きの美しさ
 映画を見ていて、俳優の動きに「あ、美しいな」と思うことがある。この美しさというのはけっこう重要なファクターで、主人公の動きが美しいか否かで映画のランクが違ってしまうことも多い。フレッド・アステアやジョージ・チャキリスのようなショー・ビジネスの世界から映画に転進した踊れる連中やブルース・リーのような武道の経験のある連中の動きが美しいのは、まあ、当たり前なのだが(とはいっても物事には必ず例外があり、アステアと並ぶもう一人のミュージカル・スター=ジーン・ケリーの動きは体格からくるものなのか重く感じられて美しくはないし、ジャッキー・チェンの動きも凄いが美しくはない。何かピシッとくるものがないのだ)、天性なのか本人の努力なのか、そういった世界以外でも動きの美しい俳優がいる。
 最近では、「スピード」のキアヌ・リーブスがそうだった。犯人のデニス・ホッパーや相棒の警官の動きが鈍重に見えてしまうほど、その動きは美しいものだった。冒頭の屋上で拳銃を構える姿も決まっているが、バスからその横を走っている車に、まるで重力のない世界を歩くようにサッと跳び移る姿勢などオリンピックの体操競技なら10点満点をあげたいくらいの美しさ。マイケル・ジャクソンのム−ン・ウォ−クが意識してやっているのに対して、キアヌの動きは自然に見えるだけに凄い。要するに「スピード」の成功は、キアヌの動きの美しさに半分は負っているのである。前にも書いたが「スピード2」のつまらなさは、脚本がダメというのが一番の原因だが、シナリオを読んだキアヌが「つまらない」と、降りてしまったことも大きく影響しているのだと思う。彼こそ当第一の動きの美しいスターと言える。(最近の「マトリックス」は、アイデアが現実を突き崩すところまではいっておらず、その意味では「惜しいなあ」と思わせるSFアクション映画の佳作だが、キアヌ・リーブスの動きの美しさは際だっていた。とくに覚醒してからのラストの「エージエント」との闘いの美しさにはほれぼれするものがある。掛け値なしに素晴らしい。もともと太ってもいないキアヌがさらに減量したということだが、凄みのようなものまで感じさせるのである。この動きの美しさだけでも、十分に1800円の価値はある。文句は言わない。この映画は、ディカプリオやブラッド・ピットでは絶対に成立しなかったはずである。)
 それと並ぶ、あるいはそれ以上に動きの美しいスターというと、リー・リンチェか。こちらは彼の初期の代表作「少林寺」でわかるように武道からくる美しさである。こと動きのうつくしさと速さ、滑らかさという点では、ジャッキー・チェンはもちろん、ブルース・リーも彼にはかなわないと思う。人間業とは思えないものすごい動きを楽々とこなしてしまう点にかけては、まさしく天才である。その凄さは、「ともかく見てくれ」と言うしかない。特撮を使っている様子もなく、これはもう人間業ではない、と言い切ってしまってもいいくらいのものである。惜しむらくはいい映画に恵まれなくて、このまま消えていってしまうのかと思っていたら、その名もジェット・リーと変え「リーサル・ウェポン4」の悪役で見事に復活した。「マッドマックス」のメル・ギブソンも体を張って頑張ってはいるのだが、リーの前ではただただ鈍重にしか見えない。「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ」という駄作映画など、彼の動きの美しさだけでもってしまうのだから凄い。
 キアヌ・リーブスはまだ若いが(注・この原稿を書いた「スピード」のころはまだ青年だった)、動きの美しさは別に年齢には関係ないようで、若くてもブラッド・ピットやディカプリオの動きはあまりよろしくない。逆に「スター・ウォーズ」の時のアレック・ギネス(オビ・ワン)は、けっこうな年だったと思うのだが動きは悪くない。総じてアメリカの二枚目俳優は動きが悪いようで、少し前のロバート・レッドフォード、ケビン・コスナー(「ボディガード」でのあの重い動きじゃとてもじゃないが人は守れないぞ)、さらに遡るとグレゴリー・ペック(「ナバロンの要塞」でロッククライミングの世界的スペシャリストと言われても誰も信じないよ)、ロック・ハドソン、ケーリー・グラントと一種の伝統になっているような気さえする。所謂二枚目をやっていてそこそこ動きが美しかったのは、ゲーリー・クーパーくらいではないかと思う。
 「ダーティハリー」のクリント・イーストウッドは拳銃を構えて走る姿が決まっているだけでなく、陸橋の上に立っているだけで様になるほど動き・姿勢のいい俳優だが、彼を二枚目スターと呼ぶにはちょっと抵抗がある。一時サーカスにいたこともあるバート・ランカスターも「ヴェラクルス」の動きなど実にいいものがあったが二枚目とは程遠い。古いところでは「スパルタカス」「プロフェッショナル」の黒人ウッディ・ストロードも印象的な目とともに動きがきれいだった。
 「ターミネーター」のアーノルド・シュワルツェネガーも、いい動きをしていた。と書くと、あんな重そうな奴のどこが、と言われそうだが、鍛えられた筋肉で撃たれても撃たれてもむっくりと起き上がってくる動きは、やはり美しいと言っていいと思う。
 ちょっと古いところでは、ショーン・コネリーとスティーブ・マックイーンか。コネリーは、今では「貫禄」と「世界一かっこいい禿」で売っているが、「007シリーズ」初期の頃のコネリーの動きは実に美しかった。アタッシュケースを持ってジェームズ・ボンドのテーマとともにちょっと肩を振る感じで歩いているだけでほれぼれするくらい絵になるのである。その後のボンド役者=ロジャー・ムーアやピアーズ・ブロスナンに決定的に欠けていたのは、この動きの美しさではないかと思う。
 マックイーンの動きの俊敏さ・美しさが最も発揮されたのは「荒野の七人」での最初の戦いでの場面で、ピストルを撃ちながらパッと物陰に身を隠したり、馬を走らせながら乗って追跡するシーンでは、ユル・ブリンナー、チャールズ・ブロンソン、ジェームズ・コバーンといったアクションに自信のあるスターたちの動きが鈍重に見えたほどである。前半でのブリンナーと馬車で墓地へ行く場面でのショットガンの弾を振って確認する手の動きも悪くない。
 邦画で動きが美しいと思わせた代表は、「七人の侍」の宮口清二(「荒野の七人」ではジェームズ・コバーンのやった役)だろう。ともかく歩いたり走ったりする姿が七人の中で断然美しいのである。宮口は、どちらかというと小男の部類に属するのだが、背筋をきちんと伸ばした歩き方が美しいので大きく見える。その典型を一つだけ紹介しておこう。七人が百姓たちの村に着き、水車小屋で村の長老と話をしていると、野武士が来たことを知らせる拍子木が打ちならされる。侍たちは、さっと立ち上がって走り出すのだが、その先頭を走るのが宮口なのである。それも、ただ走るのではない。腰がびしっと決まって、上体が全くぶれず、走っていてもいつでも刀が抜けるという雰囲気がある。ほれぼれするほどの美しさである。
 植木等も動きはいい。彼の動きがピカ一なのは、「大冒険」のラストのメンバーの踊りを見ればいい。ともかく動きにリズムがあるのである。初期の「渡り鳥シリーズ」がおもしろいのも、小林旭の動きの美しさに負うところが大きい(同じ日活アクションといっても、鈍重な石原裕次郎の動きと見比べれば、その差は歴然である)。それにしても、旭にしろ裕次郎にしろ梅宮辰夫や山城新吾にしろ皆なんで中年になるとあんなに太ってしまうんだろう。山城新吾が「風小僧」だったなんてあの体型で空を飛べるとは誰も信じないと思う。梅宮辰夫だって若い頃は「遊星王子」で空を飛んでいたんだから。俳優は体が資本なのだからむやみに太っちゃいかんよ。動きの美しいデブはいないのだから。その点、年よりのくせに(という言い方も何だが)椅子から立ち上がったり、歩く姿が妙に決まっていたのは滝沢修で、興味のある人はレンタルビデオ屋で、この名前を探して見てみることをお勧めする。


★信頼できる役者
 映画はまず監督で選ぶというのは当たり前のことだが、それでも信頼できる役者というのはいる。これは名優とイコールではない。世の中には付き合いのいい名優やいて、ギャラでYESと言ってしまう名優もいるのである。が、中にはきちんとシナリオを読み、監督やプロデューサーと話し合った上でOKを出す役者もおり、そういった役者の出ている映画というのはだいたいにおいて駄作はないのである。
 私の経験からいくと、そういう信頼できる役者というのは、えてしてヒーロー役よりも、脇役、場合によっては悪役の多い役者に多い。ヒーロー役の役者は、この役の自分はかっこよく見えるだろうか、というようなことばかり考えているのに対して、それなりに大物の脇役・悪役俳優は、その役が自分という役者にとってどうなのかということを真剣に考えているためだと思う。
 たとえば、ジョージ・C・スコット。「ハスラー」にしろ「パットン大戦車軍団」にしろ、きちんと仕事を選んでいるのがわかる。「俳優を競い合わせるべきではない」とアカデミー賞を辞退したくらいだからその反骨ぶりには筋が通っている。同じようにアカデミー賞を辞退しても、いいかげんな生活で無残に太って大物ぶっているマーロン・ブランドあたりとはちょっと格が違うのである。
 ピーター・ユスチノフも「クォ・ヴァディス」「スパルタカス」「トプカピ」と駄作がない。アレック・ギネスもさすがというか「戦場にかける橋」「アラビアのロレンス」「ドクトル・ジバゴ」とデビッド・リーン作品のキーマンだが、「スター・ウォーズ」のような作品でも彼が出るとランクが確実に一つは上がる(「スター・ウォーズ」でアレック・ギネス演じるオビ・ワンがダース・ベイダーに倒される前にルークに向かって、「わしは、消えるが心配するな」という表情を見せ、ベイダーが確かめるとオビ・ワンの姿が消えている。こういう場合、映画の文法からすると必ずどこかで復活してくるはずなのだが、3部作の最後までオビ・ワンの復活はない。どうでもいいようなことだが、何か健康上の事情でもあったのか、それともルーカスと意見が合わなかったのか、何となく気にかかったまま今日まできている。追記・それにしてもアレック・ギネスのイメージが強すぎるせいか新三部作でのユアン・マクレガーは違和感があるなあ)。007ショーン・コネリーも一時の低迷ぶりから脱却して「インディー・ジョーンズ最後の聖戦」「レッド・オクトーバーを追え」「アンタッチャブル」と仕事を選んでいる世界最高の禿役者である。渋いところではエド・ハリスも「ライト・スタッフ」「アビス」「アポロ13」と駄作がほとんどない(最近の「スターリングラード」でもドイツのスナイパーを好演)。
 日本映画では、故・志村喬か。ともかくこのオランウータンに似たおっさんが出ているだけで映画の重みが違ってくるのである。黒澤映画以外でも「ゴジラ」や「地球防衛軍」などの学者でいい味を出していた。あまり話題になることはないが、「男はつらいよ」第1作でのヒロシの父親役も印象に残る。映画の出来不出来はあっても、彼の出ているシーンだけは間違いなくおもしろい、という役者なら原田芳雄か。「祭りの準備」や「闇の狩人」のような凡作でも彼の出ているシーンだけはおもしろかった。最近では「鬼火」。これ、役者が原田芳雄でなければゴミのような映画なのだが、原田の存在感だけで佳作になってしまった。
 そうした中で、信頼できる役者のナンバー・ワンを選ぶとしたら、やはりロバート・ショーではないだろうか。「007ロシアから愛をこめて」のあのスメルシュの殺し屋である。目にちょっと思い詰めたような狂気の輝きがあり、制作者もそうした目で彼を選び、また本人もそのことをよく知っていて役を選んでいたように思える。ともかく、「007ロシアから愛をこめて」でロバート・ショーを初めて見たときの印象は強烈だった。こういう人間が本当に自分の近くにいたら大迷惑なのだが、頭はよかったのだろう。厳つい顔に似合わずロバート・ショーは仕事を選ぶ人間だったようで(と過去形で書かねばならないのが残念だが)、その作品にはクズがない。
 その次に見たのが「バルジ大作戦」のドイツ軍戦車大隊の隊長。狂気の輝きがあるのだからナチの軍人というのは、まさにぴったり。彼が行動すれば何事も可能になるような錯覚さえ受け、ヘンリー・フォンダなど老体に鞭打って頑張ってはいるし、ロバート・ライアン、チャールズ・ブロンソンなんて役者も出ているのだが、所詮映画はロバート・ショーのワンマン・ショーで他の俳優は皆彼の引き立て役。ごくろうさんといったところである。
 もちろん「ジョーズ」の鮫漁師も忘れられない。「007」の時の殺し屋が今度は、鮫の殺し屋になったようなもので、敵にしたらこんな恐ろしい相手はいないが、味方にしたらこんなに頼りになる味方はいない。「ジョーズ」の後半は完全に鮫とショーの一騎討ちの様相で、署長と海洋学者もそれなりに頑張ってはいたものの、ほとんど存在感はない。海洋学者に至っては邪魔とばかりに途中から出番がなくなってしまったほどで、これまたロバート・ショーのワンマン・ショーが楽しめる映画になっていた。
 「ブラック・サンデー」は、テロリストとの攻防を描いた映画で、上映すると爆破するという脅しがあったとかいう馬鹿な理由でオクラ入りになった、ジョン・フランケンハイマーの作品。もちろん私もレーザー・ディスクでしか見ていないが、大画面で見たかったと強く思わせた傑作。フランケンハイマーの作品としても、「グランプリ」と並ぶ傑作だと思う。ともかく飛行船が離陸してからの二段構え三段構えの攻防の迫力たるや並みではない。ロバート・ショーは、テロリスト対策の方の役だがいわば攻める方と守る方との狂気と狂気のぶつかりあいとでも言いたくなるような緊張感で、こういう役にはやはりこの手の面構えでないと説得力がない。
 「スティング」は、ポール・ニューマンとロバート・レッドフォードのコンビによる映画だが、ロバート・ショーは、二人にまんまと金をだまし取られるやくざの親分の役をやっている。彼にしてはちょっとコミカルな演技も見せているのだが、こういう凄みのある男がだまされて初めて話として成立するわけで、この映画もやはりロバート・ショーを抜いては語れない。
 ということからもわかるようにロバート・ショーの出演映画にはクズがない。彼がそれだけきちんとシナリオを読み、スタッフと話し合った上で出演をOKしていたからだと思う。そういう意味でもロバート・ショーは、頼りになる役者であった。合掌。
 このロバート・ショーの跡を継げるのはルトガー・ハウアー(「ブレードランナー」のレプリカントの親玉。「ヒッチャー」でもなかなかの狂気ぶりだった)しかいないと思う。貴重な悪役兼個性派俳優として、彼には出る映画を選んでもらいたいと思う。



★悪役こそ真価発揮の場
 ロバート・ショーは、007の悪役で売り出した。
 ジョージ・C・スコットにしろ、エド・ハリスにしろ、ルトガー・ハウアーにしろ皆立派な悪党面である。二枚目ではないのだから彼らの生き残る道は存在感のある演技をするしかないのだ(逆に言えば、ちゃんとした悪役ができるということは、演技力があるということである)、と言ってしまえばそれまでだが、もうひとつ悪役をやらせてもらえるという「役得」もあるのだと思う。英語で言えばヒーローに対するアンチ・ヒーローなのだが、実はこれ本質からいうと逆転していると思う。つまり、ヒーローがあってアンチ・ヒーローがあるのではなく、アンチ・ヒーローがあって初めてヒーローというものが成り立つのだ。もっとはっきり言ってしまえば、アンチ・ヒーローがいない場所ではそもそもヒーローなるものは存在しえないのだ。悪の存在しない世界では、正義のヒーローなるものは存在のしようがないのだ。しかも、その働きは悪を滅ぼすということしかない。その点、アンチ・ヒーロー、つまり悪党は自分の意志で勝手に悪事を始めることができ、様々なバリエーションの悪事を働くことができるのである。正義のヒーローは「非生産的」なのに対し、悪役は「生産的」なのである。
 そんな意味も含めて悪役俳優のことをちょっと書いてみたい。ただし、「ダーティ・ハリー」のサソリのようないやらしい粘着質の悪役は嫌いである。悪役は、顔からして悪役顔であり、悪役に誇りをもち、かつ散り際は潔くなければならない。最後に追いつめられて、おろおろと逃げまどうというのは、(たとえそれが現実であろうとも)私の悪役像に反する。
 そんな条件を満たす悪役俳優というと真っ先に浮かんでくるのが、前に書いたロバート・ショーなのだが、こと純粋悪役?ということに限ればジャック・パランスも負けてはいない。「シェーン」に黒ずくめの殺し屋ウイルソンといて登場してきたときには、確かウォルター・ジャック・パランスと名乗っていた。南部の小男を殺すシーンにしても、さっと断然早く銃を抜き、「だから俺に逆らうなよ」と罵倒して許してやるのかと思った瞬間、ニヤリと笑ってバーンと撃ち殺すふてぶてしさ憎らしさ。このニヤリは、小林旭の「渡り鳥シリーズ」で宍戸錠がさかんに真似していたが、到底及ぶところではない。なにしろ(映画を見ている人だけにわかるように書くが)犬も逃げ出すほどの恐ろしさ・迫力なのである。それにしてもその動きのカッコイイこと、あまり運動神経がいいとも思えないアラン・ラッドに呆気なく負けるとはどうしても信じがたいものがあった。殺し屋という存在の是非はともかくとして、別に人質をとるわけでも闇討ちをしたり罠をかけたりするわけでもなく、堂々と正面から対決して敗れ去っていくのだから、清々しいという言い方も変だが、悪党の誇りを全うしたというか、文句のつけようがない。
 バート・ランカスターやリー・マービン、ウッディー・ストロード(名作「スパルタカス」でカーク・ダグラスと対決する剣闘士を好演した黒人)といった強者たちを相手に悪役を一手に引き受けた「プロフェッショナル」では、悪役俳優の貫禄と誇りすら感じさせたものである。あまり話題にはならなかったが70ミリ史劇「バラバ」でのアンソニー・クインとの闘技場での闘いも印象深い。ともかくあの爬虫類顔で「はははは」と笑いながら人を殺していくのだから、その恐ろしいこと不気味なこと。そうそう「バットマン」の悪役というと第1作のジャック・ニコルソンや第2作のペンギン役者ばかりが話題になるが、第1作の悪の親玉、我がジャック・パランスを忘れてはいけない。こんな人間、絶対に近くにいてもらいたくないと思うのだが、ともかく悪役というと真っ先に浮かぶのがこのジャック・パランスである。ともかく、彼が悪役のひとつの典型を作ったことは確かである。
 ジーン・ハックマンも悪役を代表するスターである。「ポセイドン・アドベンチャー」の神父のようなヒーロー役もあるが、だいたいあの映画はアーネスト・ボーグナインのような悪役俳優までもが準ヒーローだったような映画なので例外。「スーパーマン」を相手に悪の限りを尽くすルーサーとか、「許されざる者」の悪党保安官のような役こそが本来の持ち味である。超人やクリント・イーストウッドが相手なのだからバランスからいってもハックマンくらいの貫禄と迫力がなければドラマが成立しない。けっこう卑怯なこともやっているのだが、サソリと違っていやらしくはなく堂々と!卑怯をやっているところが素晴らしいのである。「クリムゾンタイド」の潜水艦艦長だって扱いは悪役そのものなのにラストでは純白のセーラー服をばっちりと決めて場面をさらっていってしまった。本来のヒーローであるデンゼル・ワシントンが完全に霞んでしまうわけで、ま、人生経験の差とでも言っておこうか。
 「スーパーマン」と言えば、ゾッド将軍をやったテレンス・スタンプも悪役としての素質はA級。だいたい自分が悪いことをやっておいて全く反省がなく、罪を課せられたら逆恨みしてスーパーマンに復讐するという性格がすごい。反省がないといえば、ワイラーの「コレクター」での女性を蒐集する変質狂も全く反省がなかった。蒐集してきた女が死んでも、気の強いあの女が悪いんだ、と死因を女のせいにしてしまい、何ら悪びれるところなく次の女を蒐集しようとするあたり、悪党として見事な心構えである。悪事を悪事として認識していない、つまり反省のない悪党という点では彼が一番かもしれない。
 「カサブランカ」のリックことハンフリー・ボガードは、この映画のせいで何となく渋い男の代表のように言われているが、彼も本来は悪役スターだと思う。だいたいあのゴリラ顔にヒーローは、似合わない。「三つ数えろ」の探偵にしたって正義の味方とは言い難いし、「必死の逃亡者」の最後には殺されていくような悪役の方が遥かに持ち味が生きているように私は思う。
 もう1人、リー・バン・クリーフも挙げておこう。これまたジャック・パランスが蛇だとしたら、蜥蜴を連想させるような爬虫類顔で、俳優になれたのが不思議なくらいの人物である。ジョン・スタージェスの「O.K.牧場の決闘」では名前も小さく、出て来たと思ったらすぐ殺されてしまうような役だったのにマカロニ・ウエスタンで大変身。「夕陽のガンマン」ではクリント・イーストウッドと対等に渡り合い、「続・夕陽のガンマン」では、そのクリント・イーストウッドを完全に喰ってしまった。単なる悪役ではなく、人生を引き摺っての悪役であるところがいい。
 もちろん普段はヒーローを演じる役者も悪役をやらないわけではない。「少林寺」のリー・リンチェが悪役として見事に復活したことについては別項で書くつもりだが、悪役をやったヒーロー役者は意外と多い。アラン・ドロンも「レッド・サン」では悪役だったし、グレゴリー・ペック(「ブラジルから来た少年」)やジョセフ・コットン(「疑惑の影」)、古いところではタイロン・パワー(「情婦」)も悪役をやっている。が、どうも「俺は本来はヒーローなんだ」というプライドが邪魔するのか、悪役としての迫力がなく、もうひとつピンとこない。
 そんな中でヒーロー役者のやった悪役の白眉といえば、「ベン・ハー」のチャールトン・ヘストンだろう。悪役とはリシュリュー宰相。映画はリチャード・レスターの「三銃士」。このときのヘストンは、よくよく見ると適度な悪党面であり、かつ貫禄も十分。これも悪役俳優には欠かせないドラキュラ役者のクリストファー・リーが部下なのだから、ヘストンくらいの貫禄がないとバランスがとれないのである。


★植木等は偉大である
 俳優雑談の最後に、私の青年期の精神に大きな影響を与えた人物のことを、いっちょうパーッと語ろうと思う。その人物とは、もちろんクレージー・キャッツのギタリスト兼ボーカリストであり、コミックソングで一世を風靡し、俳優としても大きな足跡を残している植木等のことである。
 ただ、こういうことを言うと、すぐ「クレージー・キャッツが一番おもしろかったのは、有名になる前のジャズ喫茶などの舞台で、そういう舞台を見ていない者に彼らを語る資格はない」などと言う人間が出てきてしまうのが、ちょっと困るところである。小林信彦や大滝詠一、根津甚八、清水義範あたりからも何か言われそうである。が、誰にも自分の人生に即して何かを語る資格はあるわけで、当然、私にも私にとっての植木等を語る資格はあるはずである。クレージー・キャッツに関しては「クレージー・キャッツのことは、俺が一番よく知っているんだ」という熱狂的フアンがそれだけ多いのだ、ということにしておこう。
 クレージー・キャッツを最初に見たのは、TVのお笑い番組で、面々は洗面器で殴り合うなんていう音楽ギャグをやっていた。で、その個性的な面々の中でも妙に目立っていたのが、二枚目とも三枚目ともつかない風貌の植木等だったのである。何か体が軽いというか、動きがかろやかというか、リズム感がいいというか、ともかく彼の動きに不思議な印象を受けたことを覚えている。
 次に見たときには、スーダラ節を歌っていたのか、「シャボン玉ホリデー」で「お呼びギャグ」をやっていたのかどうも判然としないが、ともかく街を歩けばスーダラ節という日々が続いた。
 その植木等主演で映画が作られた、となると見に行かないわけにはいかない。「ニッポン無責任時代」で、がははと笑って帰ってきた私は、第二作の「ニッポン無責任野郎」ができると再び映画館へ足を運び、「第一作よりちょっと落ちるかな」と思いながらも、それなりに満足して帰ってきたのであった。
 ヒーローの誕生である。
 というところで、それに前後する「シャボン玉ホリデー」で、強烈な体験を書く必要があるだろうと思う。これは、かなりの人があちこちで書いていることだが、やはり私も書かずにはいられない。
 それは、ある日のことであった。画面に下駄、腹巻き、ちょび髭という植木が出てきて突然歌い出したのだ。歌は、「無責任一代男」。例の「おーれーは、この世で一番……」という奴である。で、衝撃は、その最後にやってきた。「コツコツやる奴ぁ、ごくろうさん」と歌い終えた植木がとことこと向こうに歩いていくのだが、突然振り返って「はい、ごくろうさん」と言い、クククッと笑ったのだ。その瞬間、コツコツやることの虚しさ、馬鹿馬鹿しさを私は、一瞬にして悟ったのである。スイスイーッと人生を渡っていきたいと思ったし、その思いは今でもある。
 その具体的姿が「ニッポン無責任時代」で植木等演じる平均(たいらひとし)の中にあったのだ。これはもう、熱狂するしかなかった。冒頭、香典泥棒の話が出てきて解決されないまま終わってしまうというような変な部分がないではないが、主人公に「どうせ三流大学出でしかも中退なんだからせいぜい(会社を)利用させてもらうよ」という一種の悪漢ヒーロー的な部分があり、それが植木のキャラと相まって魅力だったのだと思う(後のシリーズがなんとなく「サラリーマン出世太閤記」的になってつまらなくなってしまったことを考えると、やはり第1作のヒーロー像は際だっていると思う)。
 私は植木の映画を追い続けたが粗製乱造で「ホラ吹き太閤記」や「香港クレージー作戦」「怪盗ジバコ」のような駄作もあり、第1作以外でそれなりに満足できたのは「日本一のホラ吹き男」と「「クレージー黄金作戦」くらいのものである。
 中でも「クレージー黄金作戦」は、2時間40分という長編ながら、植木、ハナ、谷の3人がアメリカ行きで集まってくる前半部、そして一度別れた3人が再び集まって宝探しの大冒険というストーリーに無理がなく、サラリーマン出世物というパターンにちょっと飽きがきていた私を十分に満足させてくれるものであった。すべてのストーリーを一旦中断し、ラスベガスの大通で7人が「とうとう来たぜ、ラスベガス…」と歌って踊る場面(今日、レーザーディスクで見直してみると、実際のロケは最後の部分だけで、前半は日本の駐車場に看板を作りその前で踊っているのがわかるが、映画館で見たときは、すべてがラスベガスロケだと思っていた)は、日本のミュージカル・シーンのエボックで、それを超えるものは未だにない。それに続く、クレージー・キャッツの音楽コントショーも、記録として貴重である。
 そんなクレージーの人気もいつしか下火になり、グループとしての活動もあまり見なくなり、植木の姿もいつしかTVから消えていた。そんな植木がリメイク版の「喜びも悲しみも幾年月」で老人の役をやり、ブルーリボン助演男優賞を受賞したというニュースは、私にとって実に複雑なものがあった。植木の復活はうれしいのだが、役はシリアスな老人の役である。年齢からいって老人の役というのは仕方がないが、シリアスというのが気に入らないのだ。だいたい日本の喜劇人は、自身が喜劇を一段低いものと見ているようで、フランキー堺にしても森繁久哉にしてもいつしかシリアスな役へと移行していく傾向がある。レッド・スケルトンやボブ・ホープのように生涯一喜劇人というスタンスがどうしてとれないのか、そういう不満が私には以前からあったからである。植木の笑いは、おそらく彼の出発点がジャズにあったことに起因しているのだろう、それまでの日本のウエットな笑いとは異質なドライな笑いであるところに価値があったのである。受賞を喜びつつも、我が青春のヒーロー植木等もまた……、と思うと残念と言うしかないのだった。
 が、何十年もフアンを続けていても、私はまだ植木を理解していなかったようである。その杞憂は、うれしいことに見事に吹き飛ばされたのだ。映画は、黒澤明の「乱」。この映画を私は映画館で見そびれ、レーザーディスクが出てから家で見た。映画自体はもう一つすっきりしないものだったが、驚くべきことに世界の、天下の黒澤映画において、植木は、あのスーパー無責任ヒーロー植木のままだったのだ。後半の合戦での場面、丘の上から勝ちどきを上げるシーンで植木は「無責任」時代の時と全く同じ口調でこう言うのだ。
「もういっちょ」
 その声を聞いた時、私は部屋の中で一人つぶやいたのだった。
「ははーっ、植木等様、あんたは偉い!」
 今では70を越えている植木等は、おそらく死ぬまで現役のコメディアンを演じてくれるはずである。偉大である。エノケンなども生涯コメディアンだったが、晩年のエノケンは、見ていても笑えなかった。植木は、笑えるのである。仕草、言葉に老年の痛々しさが全くなく、実に軽やかかつ清々しく笑えるのである。これは、日本にあっては(絶後とは言わないが)空前のことである。それだけでも植木等は、偉大である。
 なお、植木は、クレージー映画以外でも、山下清をモデルにした小林圭樹主演の「裸の大将」の記者役や、ミュージカル映画「努力しないで出世する方法」でとっくりから指が抜けないで最後まで歌に参加できない役など印象に残る役は少なくない。ちなみにさらに後のことだが、街のレコード・ショッブで「クレージー・キャッツ全シングル」という、それまでに発売されたクレージーの全シングル・レコードを集めた2枚組CDを見つけた私はすぐに買い、それは今でも私の家宝である。(どうでもいいことだが、植木は「死霊」の作者・埴谷雄高に、クレイジーの同僚・谷啓は映画監督の今村昌平に似ている。容貌が似ているだけでなく、話し方までもが、そっくりなのである。誰もそのことを指摘しないのは、不思議なことである)
(注・これは10年も前に書いた雑文で、まだ植木等は存命だった。青島の葬儀に鼻チューブで出席した姿をテレビのニュースで見たのが最後となった。合掌。)
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