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映画監督雑談2 [映画の雑感日記]

★ドキュメンタリー?作家=原一男
 「ゆきゆきて神軍」は、映画館ではなくレンタルビデオで何となく借りてきて、何となく見た。いやあ、ぶったまげましたねえ。まさしく、こんなのあり、という映画で、しかも、それだけでは終わっていない映画だった。
 まず主人公の奥崎は、昭和天皇の責任を追及するとしてパチンコ玉を撃った人物である。巻頭、天皇の政治責任を追及する看板で埋められた彼の車の異様さに、まず度胆を抜かれる。右翼の街宣車ではたまに見かけることはあるが、それでもここまで凄いものは見たことがない。当時の関係者の家に乗り込み、最初は穏やかに話しているのが、相手が責任を回避しようとした途端に殴りかかるのも凄い。それを止めることもなく、カメラが回っているのは、もっと凄い。結婚式の発言で奥崎がいきなり「新郎は刑務所に云々」と言い出し、それを周りが神妙に聞いているのに至っては、開いた口がさらに開いてしまうほどの凄さである。
 形式は、確かにドキュメンタリーである。が、果たして素直にドキュメンタリーとして認めてしまっていいのか。私は、原一男の映画は2本しか見ていないが、いつもそんな気がしてしかたがないのである。その手法は、師匠の今村昌平とも明らかに異なる。今村は、日本の土着的なもの、原風景とでも言うべきものに拘りをみせるが、それはあくまで監督・今村昌平のイメージの中での土着的なもの、原風景であり、彼はそれをスクリーンの上に現実化しようと悪戦苦闘しているように見える。それに対し、原一男のカメラは対象の前でただ謙虚に回っている(ように見える)。
 しかし、本当にそうなのだろうか。演出はないのだろうか。いや、演出はあるはずだ。師匠の今村にも「人間蒸発」という一見ドキュメンタリー風にもせておいて、最後に演出でした、とネタバレしている映画があるのだ。たとえ、原が奥崎にあれこれ指示出しをしていなかったとしても、カメラが回っていることを意識した奥崎が、殴りかかるという行為をするかもしれないという計算が絶対になかったと言いきれるのか。少なくとも、1%の期待はあったと思う。また、カメラは淡々と回したかもしれないが、編集の段階で奥崎の普通の行動はカットされてしまったかもしない。
 ともかく奥崎の行動は狂気の色を帯び、平凡な生活を送っている人間から見れば異常そのもののように見える。それを悪いと言っているわけではない。どのような見えない演出があったにせよ、その結果、奥崎に殴られる老人も奥崎も等しく戦争の犠牲者であり、違いは忘れようとするのか、言語と行動で忘れまいとするのか、ということだけだと観客にもわかるのである。「ゆきゆきて神軍」は、紛れも無い傑作となった。
 私の見たもう1本の原一男の映画は「全身小説家」。
 作家・井上光晴を追ったドキュメンタリーで、井上の死で終わる。癌と宣告された井上は、カメラの前で淡々と日常生活を送っている、そして彼の日常生活とは、とりもなおさず小説を書くということなのだが、奥崎の時と同じようにそれは本当の日常なのか、それともカメラを意識した上での日常なのかよくわからない部分がある。そんな日常の裏に、どれほどの病気でどんな大変な手術をしているのか知らしめるためなのだろうが、カメラは手術の様子も克明にとらえる。人間の体からはこんなにもたくさんの血が出るものなのか、と血を見るのが嫌いな私としては思わず目をそらせたくなる場面の連続である。
 いったい井上は、なぜ手術の様子まで撮影を許可したのだろう。不許可にして小人物と思われるのが嫌だったのだろうか。そうでは、あるまい。写されたものは、確かにドキュメントであるが、しかし、それは現実そのものではない。ドキュメンタリータッチのフィクションとでも呼ぶべきものなのである。日常も、日常そのものではなく、あくまでカメラを前にしての演技された日常と解釈すべてものであろう。それは、彼が、この映画で「自分」というものを主人公にした小説を書こうとしたためではないかと思う。
 確実に迫り来る死を見据えて、机に向かうのも、おそらく映画の上で小説を書こうとした決意の表れである、とでも解釈しなければ、この映画の日常性が理解できない。彼が話す自分の生い立ちが、あちこちでフィクションだとわかるのも、自分自身を小説にして演じてしまう、という部分を抜きにしては理解できない。その上での「全身小説家」のタイトルなのである。紙に向かって書くのか、カメラに向かって演技をするのかの違いこそあれ、井上光晴は、全身で「井上光晴」という小説を書いたのである。
 いや、もっと正確に言おう。小説家=井上光晴を起用して、原一男がそういう映画を作ったのである。容赦無くそんなところまで写してしまうのか、と思わせるのもまた演出である。ゴダールの映画のいくつかが、映画の約束事いいかげんにやめましょう、とでもいいたげにドキュメンタリータッチを感じさせるが、原の映画は、それをさらに徹底させたものと言えるかもしれない。しかも、これはほとんど奇跡と言ってもいいが、独り善がりではなく、1本の映画として十分に普遍性と娯楽性をも併せ持っている。
 二度にわたる大手術を受けた井上光晴は、「おやすみ」という象徴的な一言を残して部屋へ消えて行く。直後、観客は彼の死を知らされる。そして、葬儀のシーンに続くラスト。彼のかつての仕事場へ続く階段をカメラが上がっていく。すると、そこに、机に向かい原稿用紙に何かを書いている井上光晴がいる。「全身小説家」というタイトルにふさわしい、見事な締めくくりではないか。
 その結果、この映画を見終わった者は、否応なく自分の限り有る生と向かい合わなければならない。黒澤の「生きる」が演出の極致でそれを問いかけているのだとすれば、「全身小説家」は、演出を感じさせない生の肌触りで同じことを問いかけているのである。いずれにしても、この映画もまた傑作である。
 監督の名前を見ないと、今見た映画が誰の演出によるものなのかわからない作品が多い昨今、原一男の存在は貴重である。彼の映画を見てしまうと、世評の高いマイケル・ムーアの「ボウリング・フォー・コロンバイン」や「華氏911」なんぞ(それなりのレベルにある映画であることは認めるものの)「へ」のようなものである。
 追記・これはTVで見たのだが、浦山桐郎の生涯を描いたドキュメンタリーもなかなかのものであった。浦山の生前のインタビューなどは一切使わず、家族や兄弟、師匠の今村昌平、俳優ら関係者の証言だけで一人の映画監督の生涯を描き、その人間像を浮き彫りにする手法は見事と言うしかない。


★名人ビリー・ワイルダー
 ビリー・ワイルダーという名人がいるぞ、と教えてくれたのは、今は作家をやっている高校時代からの友人のSYである。彼はATG(アート・シアター・ギルドという会員制の映画組織が当時あり、いくつかの映画も制作していた)に入っているくらいの映画好きだったので、彼の言うことなら、と私も見に行ったのである。
 映画は「あなただけ今晩は」。
 シャーリー・マクレーン演ずる娼婦と元警官のジャック・レモンのコメディーで、高校生にとってはまず娼婦というのがピンとこなかった。なんで警官がわざわざ娼婦に惚れるのか理解できないのである。いろいろあってレモンが変装してマクレ−ンに会うことになるのだが、その変装した男をレモンが殺したのではないかということになって、さあどうなるんだろうと思っていると、何とレモンがいるのに、結婚式の教会にレモンが変装したはずの男が出てきてこうつぶやくのだ。「これはまた、別の話」ポカーンとしているうちにTHE ENDとなって、なななんだーっと思いつつ映画館を出てきた記憶がある。変装の場面で使われるエレベターの出し方にしろ、うまいなあと感心するようになったのは30過ぎてからのことである。
 同じコンビでもう一つ出来がいい「アパートの鍵貸します」にしてもマクレーンは上役の愛人で、潔癖な高校生の私としては、そんなふしだらな女になんでレモンが惚れるのか全く理解できないのである。ネタを割らないように書かないといけないので苦しいのだが、睡眠薬やシャンパンの使い方など「ううむ、うまい」と感心したのは、これも30過ぎてからのこと。そういう意味では高校生の分際でこういう映画をおもしろいと思ったSYは、善良・潔癖かつまっとうな青年であった私と比べて、相当マセていたか不良だったと言える。
 もちろん、高校時代に見たワイルダーの映画で感心したものもないわけではない。「翼よ! あれが巴里の灯だ」は、リンドバーグの大西洋無着陸横断飛行を扱った映画で、私が名古屋のミリオン座で見たのは、リバイバル上映だったが、高校生でも十分楽しめる映画であった。シネマスコープの画面をいっぱいに使った飛行の様子にはわくわくし、眠気との闘いにははらはらし、ラストでいきなりニュースフィルムのニューヨークでの大歓迎の様子が出てきたのにも驚いた。この映画でも、離陸前に貰ったコンパクトの使い方など実にうまいものだが、そのあたりの「なるほど」という部分は当時でも納得の伏線だった(ただし、コンパクトをくれる女性の出し方は説明不足で、ワイルダーにしてはやや唐突である)。空港での歓迎の後、ジェームス・スチュアートが暗い格納庫の中で一人、愛機スピリット・オブ・セントルイスに話しかけるような短いしんみりしたシーンを挟み、ニュースフィルムが出てきたところでストンと終わる終わり方もうまい。要するに娼婦だの愛人だのというものさえ出てこなければ、生理的反発なしに映画に溶け込め、一旦その世界に入ってしまえばワイルダーは、ストーリーテラーとして超一流(ワイルダーが、元はシナリオライターだったことを知ったのは、大学に入ってから)なので、高校生でも文句無く楽しめるのである。
 もう一つ、これはレーザーディスクで見たのだが、「情婦」(題名がよくないねえ、これは。直訳で「検察側の証人」とでもしておいた方が遥かによかった)。男女間の物語なのだが、こちらは法廷ドラマなので、一種のサスペンス劇として楽しめた。役者では、弁護士役のチャールス・ロートンが出色。「スパルタカス」の元老院もうまかったが、これも文句のつけようがないうまさ。看護婦役のおばさんもうまいなあ。二人のやりとりは実にウイットがきいていて楽しい。家庭用エスカレーターの使い方も笑える。これで、マレーネ・デートリッヒの過去の回想部分がもうちょっと短ければと思うのだが(この映画にしろ「翼よ! あれが巴里の灯だ」にしろ、いつも回想シーンがちょっとだけ長いのがワイルダー唯一の欠点だと私は思っている)、ただし、それも退屈するほどで長くはない。「情婦」というといつもラストのどんでん返しが云々されるのだが、それよりもどんでん返しの後の看護婦の「旅行は、取りやめる」云々の台詞の方が遥かに味わいがある。
 そんなわけで、私にビリー・ワイルダーの作品を3本選ばせれば「アパートの鍵貸します」「翼よ! あれが巴里の灯だ」「情婦」ということになるのだが、サラリーマン物、冒険物、法廷物と題材はばらばらだが、構成がきっちりしていて軸がぶれないことと、ラストの締めくくりがとんでもなくうまいという点では共通している。どの作品を見ても、馬鹿野郎物の失敗作が一つもないのである。どれも納得のいくようにきちんと構成されており、「情婦」のある女性の出し方にしろ看護婦の横にきちんとそれらしい感じであらかじめ印象的に出してあるので、ラストで「おいおい、そんな安易な」ということがない。たまには、そういう枠を突き破っていくようなエネルギッシュなものがあってもいいようにも思うのだが、それは無い物ねだりということで、これはこれで監督としての一つのスタイルなのだと思う。
 晩年のほとんど話題にもならなかった「悲愁」(フェードラ)は、私もTVでカットされた吹替ものしか見ていないが、ヘンリー・フォンダがヘンリー・フォンダとして登場してくるシーンなど、ぞくぞくするくらいにうまい。ヘンリー・フォンダが「ヘンリー・フォンダです」と言うのは当たり前なのだが、その当たり前にぞくぞくするあたりが演出のうまさというものなのだろう。繰り返しの蛇足だが、この「悲愁」、我が楽聖=ミクロス・ローザが曲を書いていることでも記憶に残る。
 ビリー・ワイルダーでもう一つ特筆すべきは、ラストのうまさ。とにかく最後の決め台詞のうまさはワイルダー映画に共通するもので、観客の意表を突くものであると同時に納得ものであるという見事さである。この決め台詞を聞くだけでもワイルダーの作品は一見の価値がある、と言っても過言ではない。
 高校時代には唖然とした「あなただけ今晩は」の「これはまた、別の話」というのも今見ると実に気がきいている。男優が女装したりするのはあまり好きではないのだが、「お熱いのがお好き」のラストで女装していたトニー・カーチスが実は男なんだと告白した時の相手の台詞も意表をついていて思わず納得してしまう(これは「クイズ・ダービー」の問題にも使われ、確かはらたいらが正解していた)。
 「昼下がりの情事」にしても甘いといえぱ甘いラストだが、はらはらさせて最後によかったとほっとさせる結末などこの手の映画の典型を確立したと言っていい(ヘップバーンも、この頃まではかわいかった)。
 「フロント・ページ」は、もうワイルダーがあまり話題にされなくなってからの作品で、構成もちょっとドタバタしすぎるきらいがあり、傑作とは言えないが、ジャック・レモンにお別れの記念にと時計を渡したウオルター・マッソーの最後の電話「時計を盗まれた云々」には誰もが苦笑と拍手をしてしまうと思う。なぜ苦笑と拍手なのかは、映画を見れば誰にでもわかるはずなので、ここには書かない。レンタル・ビデオででも見ていただきたい。「サンセット大通り」のラスト、グロリア・スワンソンの鬼気迫る演技のうちに終わるラストのうまさ・凄さ・怖さについては、すでに書いた。
 何を撮らせても構成がきちんとしていて軸がぶれないという点では、ウイリアム・ワイラーやデビッド・リーンも立派なものだが、今のご時世あんな大作が撮れるはずはなく、キューブリックでは癖がありすぎる。映画の勉強をしようという人は、ワイルダーの映画を何度もしっかり見るのが現実的だと思う。その度に、ああこのカットがあの伏線になっていたのかとか、あそこでああいう台詞を言わせたのはこのためだったのか、といった新たな発見が必ずあるはずである。


★チャップリンは、やはり偉大
 ビリー・ワイルダーのエンディングがうまい、と書くと「私を忘れてはいませんか」という声が聞こえてきそうである。もちろん、忘れてはいませんよ。ワイルダーと双璧とでも言うべき終わり方チャンピオンは、チャールズ・チャップリンである。どちらもコメディーを得意とする監督というのは興味深い。コメディーは、深刻な映画と違い見ている者の心を開放するという拡散傾向があるので、いいかげんなラストでは、散漫な印象のまま終わってしまう。そのため喜劇の制作者は一般の制作者と比べより一層締めくくりに気を使うのかもしれない。
 チャップリンは一般的には喜劇の王様ということになっている。ここでいう喜劇というのは文豪バルバックが自己の作品を「人間喜劇」と名付けたのと同じような意味での「喜劇」であり、とりあえず人生模様の泣き笑い程度に解釈してよい。が、チャップリンにおける笑いは、どちらかというと藤山寛美がいたころの松竹新喜劇と同じウエットな笑いで、実は私はあまり好きではない。「街の灯」におけるボクシングのシーンは、けっこう笑えるが、それでもその裏には目の見えない女性の手術代を稼がなければならない、という重圧があるので、心の底から笑うというわけにはいかない。
 ウエットの代表的な作品は「ライム・ライト」だと思うが、あそこに出てくる老喜劇役者は、誰がどう見てもチャップリンそのものである。そして、観客の同情を一身に集めるように作られている。そのナルシストぶりに私はついていけないのである。が、当時、赤=共産党狩りのマッカーシズムが吹き荒れており、非米活動委員会によりチャップリンは国外追放になるのだが、その空気を察知して自分に同情が集まるよう、この映画を作ったのかもしれないとも思う。もしそうだとするとなかなかの策士と言える。
 だいたい、あんな風采の上がらない小男に惚れる女性がそんなにいるとは思えないのだが、「モダン・タイムス」にしろ「独裁者」にしろ、チャップリンは映画の中でけっこうもてている。さらに、共演した女優が気に入ると次々と結婚してしまった男なのだから、それくらいのことは考えて「ライム・ライト」を作った、ということは十分に有り得ることである。そして、「もう踊れない」という女性を励ますためにチャップリンが言う台詞は、多分、自分自身を励ますためのものだと思う。
 が、たとえ私的損得関係で映画を作ったにしても、それでもやはりチャップリンは、うまい映画監督だと思う。学生時代は、ちょっとウエットなシーンを作ってそこに逃げ込み、予定調和的な結論に安住する作りに反発したものだが(そして、今でもその部分は嫌いだが)、やはりチャップリンがそれなりの評価を受けるべき映画人であることに異論はない。それは、バスター・キートンの映画と比べてみればわかる。キートンの映画は、「蒸気船」にしろええーっというとんでもないシーンがあって大いに笑わせてくれるのだが、見終わるとどうも印象が薄いのである。構成が弱いので、何だか短編を何本か寄せ集めたた感じで、まとまってどうこうということにならないのである。ローレル&ハーディーやマルクス兄弟の映画にも同じ感想がつきまとう。
 その点、チャップリンの映画は、私が彼の2大名作と勝手に決めている「モダン・タイスム」にしろ「街の灯」にしろ、かなり乱暴な構成でワイルダーとは比べるべくもないが、それなりのまとまりをもった1本の長編映画として見ることができる。
 かつては映画というものは10分とか15分のものだった。が、機材の性能が上がり、映画は長編の時代になった。サイレント時代かなりの数の喜劇人がいた中で、トーキー時代になってもサイレントにこだわっていたにもかかわらず、チャップリン只一人が生き残ったのは、そのためだと思う。
 そして、チャップリンが長編をうまくまとめることが出来たのは一にも二にもラストのうまさ、中でも(ワイルダーと同じように)決め台詞のうまさにあったのだと思う。
 「モダン・タイムス」のラストのチャップリンがポーレット・ゴダードと並んでとことこと向こうへ歩いていく有名なシーン、歩いていったところで何かいいことがあるという保証は全くないのだが、「何もいいことはない。死んでしまいたい」と言う彼女に対して、チャップリンが言う「笑って。さあ、笑って」という台詞がきいているので、観客も何となくいいことがあるに違いないという気になってしまうのである。「街の灯」のラストもうまい.目が見えるようになった彼女が汚い浮浪者のチャップリンが、かつてそれが自分を助けてくれた紳士と気付かず、手に触れて初めて「あなたなの?」ときくシーンは、ぞくぞくするくらいの上手さで多くの模倣作も産んだ。あのギャグまんがの王様を自称する赤塚不二夫ですら「おそ松くん」の中でイヤミをチャップリンにこのシーンを使っていたほどである。チャップリンの困ったような、うれしいような顔のアップで、パッと終わる終わり方も見事(とはいえ、どう考えてみても、「モダン・タイムス」にしろ「街の灯」にしろ、このあと主人公たちを待っているのは、悲惨な人生である。それをなんとなく「よかった、よかった」風にうまくまとめているわけで、まあ、このあたりが若いときに反発する要因だったのだと思う)。
 「独裁者」はちょっとまとまりのない作品だが(とはいっても冒頭の15分は大笑いできることを保証する)、ラストの大演説の後、「アンナ、聞こえるかい…」と呼びかけるうまさ。その途端、大所高所からされていた演説が、突如として観客一人一人に語りかけられるものになり、演説自体は悪い内容ではないので見ている者の心に直接届くのである。「殺人狂時代」(この作品のためにレッド・パージをくらい、アメリカを追われたといわれる)は、キネマ旬報第1位になった失敗作だが、しかし、「1人殺せば殺人犯、100万殺せば英雄」という彼の有名な台詞は実に説得力がある。この台詞だけで作品の価値が1ランクは確実に上がってしまうのだから。
 そんな決め台詞のおかげで、観客は、チャップリンの映画を見終わると初めから終わりまで充実した1本の長編(それは、とりもなおさずもう一つの人生ということになる)を体験したような錯覚に陥り、何らかの力を得たような気分になれるのである。極論すればあらゆる芸術作品が錯覚の上に成り立っていることを考えるならば、チャールズ・チャップリンは、やはり偉大だったと言わねばならない。
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