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作品雑談3 [映画の雑感日記]

★映倫カット
 映画を見ると必ず「映倫」のマークがある。映倫のカットについて書かこうと思う。最近はビデ倫というのもあり、主としてAVビデオの表現が適切かどうか審査しているという。映倫もビデ倫も不要と考える私にとっては、いったい適切かどうかなんて何を基準にしているのだろうとついつい疑問を持ってしまうのだが、その根拠はどうやらアンダーヘアにあるらしい。ただし、ずーっとそれが基準だったわけではなくかつては乳首すらダメだった時代があり(昔の成人映画体験による)、その意味では多少の変遷はある。アンダーヘアも最近ではチラリと見えるくらいのことは大目に見るような風潮になったようだが、性器は未だにダメなようである。
 それでも、ミケランジェロ・アントニオーニの作品が映画祭に限ってOKされたことなど、かつてアントニオーニ作品の登場人物が絵の変わるボールペン(だったと思う)をかちかちやると出てくる女性のヘアが見えるということでボカシを入れさせられたことを思うと、多少はマシになったようである。が、一般的にヘアが解禁されたわけではなく、ものによってはボカシを入れる必要があり、依然として絡みは不許可となっている。前回、洋物はあまり見ていないと書いたが、生理的に合わないことと、もう一つ、向こうはヘアも絡みもOKなので場面によってはスクリーンのほぼ前面にボカシが入っていらいらする、ということもあるのである。
 高校生の時に見た新藤兼人の「鬼婆」では、吉村実子が葦の原を裸で駆けるシーンでボカシが入っておらず、黒いものがチラチラすると話題になったが、そして私も映画館でそのシーンは注意して見たのだが、夜のシーンでもあり「よーわからん」という結論しか得られなかった。後にビデオでコマ送りで確認しようとしたが、やはり「よーわからん」かった。映倫には老人が多いと聞くが、ボールペンのヌードの件にしろ映倫にはよほど目のいい人がいるのだと感心してしまう。
 では、なぜそんな自主規制をするのかというと、「権力の介入を許さないため」というのが一般的な答えのようである。おいおい、自主規制している段階ですでに権力の介入を許してるじゃないか、と言うと、「いや芸術作品ならまだしもエロのためのエロはやはり社会にはびこらせてはいけない」という答えが返ってくる。いったい芸術かエロかの判断はどういう基準でするんだ、と思ってしまう。芸術作品かどうかとか、必然性があるかないかとかというようなことは関係ない。別に裸のための裸、下品で下品でどうしようもないくらい下品なエロのためのエロがあったっていいじゃないか、と私は思うのである。裸はどう撮っても裸であり、問題はもっと別のところにある。規制の問題をそんな次元で論じたくない。
 まず、青少年に悪影響を与える、というのなら映画はTVと違って入場料を払って入るわけだから、それこそ18歳未満お断りの「成人映画」にすればいいのである。R指定だとか成人指定ということについては、私も理解しないわけではない。こういうものは段階が必要なわけで、小学生にいきなり本番を見せていいとは私も思わない。しかし、大人にも見せないということになると、ちょっと待てと言いたくなるのである。
 すると、訳知り顔をしたおっさんが、必ずこんなことを言うのである。「いゃあ、あんたねえ、見えるか見えないかといったところにエロティシズムがあるのであって、全部見せてしまったら台なしになってしまうんじゃよ」と。
 こういう馬鹿が多いから全く困ってしまう。
 全部見せてもいいじゃないか、ということは別にチラリズムを否定しているわけではないのだ。すっぽんぽんの映画があってもいいし、チラリズムの映画があってもいいし、裸が出てくる哲学的な映画があってもいいのである。それが「表現の自由」というもので、要は、制作者は基本的にフリーの手で作りたいものを作り、何を見るのかは観客が選べばいいのである。訳知りの言うように、すっぽんぽんよりチラリズムがいいとなれば市場原理からそういう映画が支配的になり、客が来ない儲からないとなればヘア・絡み・本番映画は淘汰されてしまうはずである。ただし、結果としてそうなることと、自主規制によって初めから選択肢が制限されていることとは、全く違うことをここでははっきりとさせておきたい。
 もう一つ、映倫の規制というのは恐ろしいもので、ボカシやカットが話題になる前に、実は制作者や監督が初めからそういうシーンを諦めてしまうという大きなデメリットを含んでいる、ということを知る必要がある。こういう表面化しない部分の問題が私にとっては一番怖い。セックスのシーンで手前に大きく椅子が映し出されていて肝腎な部分を隠していたり、場合によってはブラをつけたままレイプされたり、いざ本番というときにカメラが壁の絵を映し出してナニの声だけが聞こえたりするような画面がいかに不自然で不細工なものか考えてほしい。
 そんなわけで、私は、映倫などというものは全く不要だと思う。
 これは、極論でも何でもない。消費税の内税と外税ではないが、その方が、いかに自分たちが権力によって規制されているかがわかっていいと思う。権力というものは常にすべてを自分たちの手中に収めたがるものだが、映倫というクッションを間に唯々諾々と従っているようでは文化は発達しない。映画館のような限られた空間で限られた年齢層に対して行われる映画は、法律としての公序良俗にも猥褻にも違反しない。売れる・売れない・儲かる・儲からないという経済的なところで根本的に規制されてしまっているのだから、せめて表現するというその一点ではフリーでありたいものだと思う。
 芸術というものももちろん歴史の制約を受けてはいるが、歴史貫通的な部分もあり(本当はそれも歴史の制約の範囲なのだが、人の一生を越える何百年、場合によっては人間という存在がある限り通用するような、深い本質に根差した部分は、とりあえず歴史貫通的と言ってしまって問題ない)、それを現実の目先の価値観の中で判断しようとするとたちまち窮屈になって自由な発想が制限されてしまうのである。従って、同じ理由からエロだけでなく、右翼が南京大虐殺をテーマにした映画の上映に反対したり、左翼が戦争を美化するような映画に反対したりすることにも、私は断然反対である。映画には、作る自由と、上映する自由が必要なのである。
(ただし、今回問題にした制限の撤廃というものは、あくまで映画館という限られた空間で見ることを前提とした議論であって、TVのように基本的に家庭内で誰もが見られるメディアに関しては、また別問題である。ビデオに関しては年齢制限などによる貸出規制、放送に関しては一定の基準が必要だという意見には賛成だが、ビデ倫は「この映画は○○歳以下には貸し出してはいけない」というようなことを決めればいいのであって、ボカシを入れるかどうかをチェックするところではないはずである。また最近の衛星デジタル放送などでもアダルト関係のものが放送されるだろうが。これ関しては一種のパスワード入力を必要とさせるなど、何らかの制限が必要だと思う。)


★B級はB級でしかない
 かつてのどこかの党首ではないが、いいものはいい、だめなものはだめ、と言うのがどの世界でも普通だと思うのだが、どうも文化人というものは、人種が違うのか、当たり前のことを当たり前と言えないらしい。照れというより当たり前のことを言っていたのでは、自分のレゾン・デートルが失われていまう、と考えているようなのである。
 たとえば、私にとって大きな意味をもつ漫画といえば水木しげるの「河童の三平」と白土三平の「忍者武芸帖」で、この2作を名作と呼ぶのには誰も異論はないと思っているのだが、たとえば朝日新聞がそういう企画をやると、わずかに清水義範が「忍者武芸帖」を挙げたのみで、「河童の三平」は遂に推す人がいなかった。替わって難解といわれるつげ義春の「ねじ式」などが浮上してくる(夢=深層意識の漫画化とでもいうべきもので、意義のある作品だが「この一本」で推すべき作品ではないだろう)。要するに誰もが挙げそうな極めつけの名作や、わかりやすい作品は、文化人のプライドの前に排除されてしまうのである。黒澤映画のベスト3などという企画でも「七人の侍」は仕方がないので推すが、後は「白痴」だったり「どん底」だったり「野良犬」だったりする。処女作の「姿三四郎」が一番いい、という者もいる。「七人の侍」に続いて「隠し砦の三悪人」や「生きる」「用心棒」「天国と地獄」など私が名作と思う黒澤の娯楽作品を推す人が少ないのはプライドが許さないのであろう。
 このところ妙にB級映画がもてはやされるのも、それと似た現象なのではないかと思う。要するに、人のあまり見ていない映画、あまり話題に登らない映画を必要以上に高く評価して、俺は独自の鑑識眼をもっているんだぞ、と溜飲を下げるという馬鹿馬鹿しい現象である。
 たとえば「デスペラート」。こんなおもしろいアクション映画初めて見た、と言う奴がいる。馬鹿言うな。アホ抜かせ。寝言は、寝てから言え。私としては、あの映画、たとえばタランティーノどうして出てきたんだ、と言いたい。友情出演にしてもそれなりの出し方があるだろうが、馬鹿め。女とのなれ合いもご都合主義。ラストになって突然主人公の友人と称する2人がやってきて身を隠しもせずに闘って死んで行くのも大疑問。にもかかわらず、主人公は悲しい顔ひとつせずに女と共に去って行くのである。おいおい。私に言わせれば、ちゃんとした脚本があったとは到底思えないいいかげんの作りで、B級映画ともいえない駄作である。
 香港ノワールというか、チョウ・ユンファの暗黒ものもけっこう高く評価する人がいるが、あれなら岡本喜八の「暗黒街の顔役」や東映の「昭和残侠伝」シリーズの方がまだましである。話題になった「男たちの挽歌」にしても、構成がかったるく途中で眠くなってしまう。ハンフリー・ボガードの「三つ数えろ」などとは比べるべくもなく、私が全然だめだと決めつけているフランスのノワール物「ル・ジタン」や「さらば友よ」などと比べても下である。ともかく構成がめちゃくちゃなのである。昔ならここで私が対比に挙げているような「三つ数えろ」や「マルタの鷹」などの古い映画はどこの映画館でもやっておらず、そんなもん知らんもんね、という言い訳も通用したが、今はビデオで何でも見られる時代である。映画の評価というものは、もっとオールタイムでなされるべきものだと思う。
 謎が謎を呼び、映画を見終わっても謎が解けないという話を知り合いに聞いて見に行った「ユージアル・サスペクツ」も評判ほどには評価できない。要するに画面に展開される映像は、ある男の話す内容が映像化されているのだから、何でも有りなのである。そこさえ押さえておけば、本当であろうが嘘であろうが男が話す内容の映像なのだから、何でも有りなのだ。謎が謎を呼ぶなんてことは全くない。ある意味では、単純明解なストーリーで、そのストーリーはたいしておもしろくない、という結論になる。第一、本当に存在するのかどうかさえ謎とされていた男の似顔絵はファックスで送られてきて、もう謎でもなんでもなくなっているのである。謎の男としては、逃げおおせてしてやったり、などと言っている場合ではないのである。ワイルダーの「情婦」などと比べれば所詮B級と言うしかない。
 一時映画マニアの間で評判になった「ニュー・シネマ・パラダイス」。これほど素晴らしい泣ける映画を初めて見た、という人には、逆に、今までにいったい何本映画見たの、とききたい。単館ロードショーで、たいして多くの人が見ているといった映画ではなかったために、こういう評価になったのではないかと思う。一般的に言って、映画で映画を扱うのは反則だと思うのだが(さらに子供を主人公にするという姑息な手段まで「ニュー・シネマ……」は使っている)、同じ映画を扱った映画としてそういう部分を抜いてもドラマとして自立しているタビアーニ兄弟の「グッド・モーニング・バビロン」あたりと比較してものを言ってもらいたい。ノスタルジーだけが妙に濃くて、今がない、こんなに緊張感のない映画を見て泣く人がいたとしたら、よほど涙腺の弱い人である。
 これは日本だけの現象ではなようだ。イギリスの映画監督たちがデビッド・リーンの作品の話をしているビデオを見たが、後期のカラー・ワイド作品は人気がなく「オリバー・ツイスト」「逢い引き」「旅情」などに人気が集まっていた。これらの作品も決して駄作ではなく、それなりに味わいのあるものだが、私の考えるリーンのベスト3「アラビアのロレンス」「ライアンの娘」「戦場にかける橋」と比べると、その間には圧倒的な差があり、比較することすらナンセンスではないかと思えるほどである。
 言うまでもなく、私のリーンのベスト3は、正面から映画史に新たな1ページを加えるべく、堂々と正面から挑んだ作品である。へんに余裕を見せて重箱の隅をつついたような作品とは質が違うのである。そういう変化球の作品では所詮、正攻法で押し切った作品には結局のところ勝てないのだが、誰もが名作と認める作品をプロの監督として同じように認めるのは、彼らのプライドが許さなかったのだろう。この場合は、自分たちがあれほどの予算を使って大スケールの映画を撮ることができないといううらやましさと妬みも混在していたのかもしれない。
 以前、ホラーというかビデオマニアの間で「アタック・オブ・キラートマト」という作品が話題になった。トマトが人を襲うという話なのだが、展開はめちゃくちゃ、特撮は特撮と言えるようなシロモノではなく、いったいどこがいいのかわからなかった。その道の通に言わせると、そのめちゃくちゃさ特撮のちゃちさがいいんだと。その底流には、今ではほとんどの映画がビデオで見られるため、「こういう映画を見てるんだぞ」と自慢することがなかなかできない。そこで、こういう際物を見て「どうだ」と自慢したい心理があるのだと思う。この馬鹿映画、アメリカでも受けたとみえ「リターン・オブ・ザ・キラートマト」なる続編までできてしまった。
「馬鹿野郎、こんなビデオでレンタル料金取るな !
 もちろん、B級ということを低予算ということだけに限定して使うのなら名シナリオ・ライター=ダルトン・トランボ(「スパルタカス」など)唯一の監督作品「ジョニーは戦場へ行った」のような傑作もあり、それまでも否定するつもりはさらさらない(逆にこういう映画は、B級とは言わない)。逆に金をかけた、いわゆるA級作品、超大作にもかかわらず内容的にはB級の映画は、「007カジノ・ロワイヤル」「1941」「スター・トレック」「ディア・ハンター」「西部開拓史」「戦艦バウンティ」「クレオパトラ」、近年の「インディペンスデイ」など枚挙にいとまがない。要は、妙な見えとプライドで内容までB級の映画を不当に高く評価するな、ということである。
 B級映画は、B級映画でしかない。


★映画は、映画で評価しよう
 唐突だが私はタバコを吸う。まあヘビー・スモーカーといってもいい。そんな私が最近最も頭にきたのは、1998年、つまり今年の12月からのタバコの値上げである。私の吸うマイルドセブン・ライトは230円が250円になった。その理由は旧国鉄の債務の返済のためである。馬鹿も休み休み言え、とはこういうことをいう。嫌煙権(この権利の主張には魔女狩り的な側面があって納得できない部分があるが、ここには書かない)などの広がりがあり、全日本煙草党などというものもないから、タバコを値上げしても大して文句はでないだろう、という策略が見え見えである。そして、旧国鉄の債務とタバコの間には何の関係もないのである。博打に負けて生活に困った男が、生活が苦しいからお前払っておいてくれ、と近くの銀行に文句を言いに行くようなものである。いや、それよりも旧国鉄の債務とタバコの関連は薄い。要するにAの借金を全然関係ないBに押しつけているのである。どう考えてもおかしな話なのだが、しかし、映画の世界では似たようなことが起こっているのである。
 つまり、映画が映画それ自体では評価されず、別の要素で評価されてしまうのである。たとえば、名作を当たり前に評価できない文化人のプライドについては、すでに書いたが、その延長線上にファミリー映画、に対する不当とも言える低い評価がある。要するに、言葉は悪いが女子供が喜ぶような映画や「進歩的文化」に反する映画を評価できるか、ということである。
 しかし、ちょっと待て。大人向けに作られたものを子供が理解するのは厳しいが、子供向け・フアミリー向けにきっちりと作られたものは大人が見ても十分楽しめるのではないか。漫画の「火の鳥」や「忍者武芸帖」、小説でいえば「ナルニア国物語」や「指輪物語」などを持ち出すまでもなく、この仮説は映画においても十分通用すると思われる。大人になるということは、子供物を捨てて大人物を読む(見る)ようになることではなく、子供物も大人物も理解できるようになることだと思うのだが(移行ではなく世界が広がると理解して欲しい)、どうも現実は、そうではないらしい。
 ここ何十年かのキネマ旬報をひもといてみても、宮崎アニメが時々顔を出すのと(「ルパン三世カリオストロの城」の時はほとんど評価されていない。「風の谷のナウシカ」がそれまでの「ヤマト」や「ガンダム」と違う形で評判になり「俺はアニメにも目配りしているんだぞ」と投票されて入ったのが最初)、洋画でもフアミリー向け映画は「メリー・ポピンズ」「サウンド・オブ・ミュージック」など数えるほどしかない。私が大きな影響を受けた「ニッポン無責任時代」に至っては、そんな映画あったっけ、とでも言いたいのか、ベスト10にも入っていない。
 「第三の男」や「2001年宇宙の旅」「スパルタカス」「七人の侍」などの名作も1位になっていないような頼りにならないベスト10なので仕方ないと言えば言えるのかもしれないが、これはちょっと異常である。要するに前回書いたB級映画を持ち上げるのと一緒で、小難しい映画が高い評価を受けるのと対照的にわかりやすい映画はあまりいい評価を受けないのである。
 これは、言ってみれば映画という総合芸術の中の一つの部分でしかないテーマ性だけでその映画の評価が決まってしまうということであり、絶対におかしい。映画制作には金がかかるのであり、商業映画は興行的に成り立たなければ意味がない。従って、中学生が見てもそれなりにおもしろく、映画のマニアが見てもおもしろい。要するによほどの変人でない限り誰が見てもおもしろい、というのが映画の王道であり高く評価されてしかるべだと思うのだが、現状はそうはなっていないのである(だからといって「ジュラシック・パ−ク」のような興行的には当たっても空虚な映画を評価しろと言っているわけではない。誤解しないでほしい。)。
 黒澤の映画で言えば「生きる」とか「赤ひげ」のような「進歩的文化人」たちの好きそうなメッセージ色のある物はいいが(いずれも1位)、「七人の侍」や「隠し砦の三悪人」「用心棒」「天国と地獄」のような娯楽色の強い物はダメなのである。「七人の侍」では自衛隊との関係で、前回書いたように「天国と地獄」では警察の扱いでイチャモンがついた。「用心棒」は残酷だということで敬遠され、「隠し砦の三悪人」は娯楽色が強すぎて評価を落とした。そんな評価がまかり通っっているのだから、クレージー・キャッツの出演した映画などそれだけでもう絶望的である。「ニッポン無責任時代」や「クレージー黄金作戦」などは文句なしに笑える映画というだけでも十分評価に値すると思うのだが、そのうえ時代の空気とでもいうもの的確に捕らえたすぐれた映画だと思う。が、初めっから論外とされてしまうのである。同様な理由で「007ロシアから愛をこめて」や「クリムゾン・タイド」も評価は低い。
 逆に、社会派とでもいうべきなのかもしれないが、貧しくとも頑張って生きている、あるいは貧しさでこんなになってしまった式の映画になると、ええーっというくらい評価が高い。不思議である。竹下景子が脱いだということで見に行った「祭りの準備」など、田舎でいろいろあって貧しくて八方塞がりで、主人公が東京へ出て行くところで終わってしまって、「おい、本当にこんなんでいいのかよ」と思わせる映画なのだが、評価は意外というほど高かった。「サード」など総じて低予算のATG系映画の評価が高く、同列には論じられないものの、ベルイマンやフェリーニなどの芸術派の映画も(「野いちご」や「道」などの傑作は別にして)、ちょっと評価が高すぎると思う。
 映画を評価するおかしな基準としては、社会派の延長線上に政治色という評価があり、「二十四の瞳」や「ひめゆりの塔」「大いなる幻想」「アルジェの戦い」(これは例外的傑作)のような反戦・反権力的な映画の評価が高い。ところが、スペクタクル的なもの、ケーム的なものは、これはこれで画本来のおもしろさだと思うのだが、見せ物的ということで落とされてしまう。だから好戦的?+スペクタクルの「七人の侍」「ナバロンの要塞」などの評価は、あまりよくない。ワイラーの大作「ベン・ハー」や、まだ評価が高くなかった時代のキューブリックの「スパルタカス」などは、スペクタクルというだけで評価を下げられてしまったような気がしてならない。黒澤映画の評価が典型的だが、日本の映画評論・批評は、どうも似非左翼的評論家がまかり通っていて、映画の本質以外の部分で評価が決まってしまうような気がするのである。
 もちろん映画というものが、ナチスドイツの例を持ち出すまでもなく、プロパガンタの機能をもっていること否定しない。しかし、いろいろな意見はあるにせよヒットラーの権威を世界に知らしめたベルリンオリンピックの記録映画「民族の祭典」が映画としてのおもしろさを持っていたことは否定できないし、また、そういう部分のないプロパガンタ映画は所詮消えていくものと断言していい。残った映画には、プロパガンタを超えた何かがあるのである。
 くどいようだが、もちろんテーマ性での映画の評価はあっていい。しかし、それは映画の一部であることを認識する必要があると思う。映画は、映画そのもので評価したい。ファミリ−映画としては屈指の出来と思われる「サウンド・オブ・ミュージック」は、同じジュリー・アンドリュース主演の「メリー・ポピンズ」と比べても遥かに出来はいいと思う。ところが、そんないいかげんなパッピーエンドあり?と言いたくなるような「メリー・ポピンズ」の方が、アニメと実写の融合とかなどという理由もあってキネ旬での評価はずっと上だった。ナチス相手に闘うのではなく、アルプスを越えて「逃げて行く」部分が政治的評価を受けて映画そのもののマイナス材料になっていなければ幸いである。
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作品雑談4 [映画の雑感日記]

★私だけの名作
 傑作と言われる駄作の話をしたのだから、今度はバランス上、タイトルのような話をしよう。たとえば、「ブレードランナー」は、今でこそカルト的な名作などと言われているが、封切時の映画館はがらがらで、私は「これは、隠れた名作だ」と一人悦に入っていたものである。世間的にもあまり評判にならず、こちらも大して期待せずに見に行ったところが名作だった、という時ほど映画フアンにとってうれしいことはない。また、封切時にはそこそこヒットしても、大監督の作品でないものはいつの間にか忘れられてしまうことが多い。そこで、今はあまり話題にされないが、私が密かに「これは傑作だ」と思っている作品をいくつか紹介しておこう。まあ、映画史に残るほどの名作ではないにしろ、こんなおもしろい映画もあるんだよ、程度に読んでいただきたい。
 まず「ビッグ・ウエンズデー」。
 桑田啓佑が「稲村ジェーン」などという駄作を作ったが、あれはこの映画のパクリである。監督のジョン・ミリアスは「コナン」にしろ「レッド・ドーン」にしろ何を撮ってもヘタだが、自分の半生とオーバーラップさせて作ったこの映画だけは奇跡的な名作となった。といっても、どういう映画なんだ、ときかれると答えるのが難しい。サーフィンが縦糸になっていることは事実なのだが、だからといってサーフィン映画と言ってしまうとちょっと違うような気がする。オールディーズの曲がかかるが、ルーカスの「アメリカン・グラフティー」のような映画とも違う。途中ベトナム戦争の問題が出てくるが、一時流行った反戦映画でもない。
 要するにサーフィンを縦糸にした青春と友情の物語なのだが、これではどういう映画なのかさっはりわからないと思う。二流の監督なので、構成も随分破綻している。それでも、この映画には熱い心が感じられる。その何かに立ち向かっていく熱い心情がこの映画のすべてと言ってもいい。今では破産して浮浪者になっている元サーファーショップの親父と主演のジャン・マイケル・ビンセントとの夜の暗いシーンから一転、時を超えての仲間との再会、ショップの親父が作ってくれたサーフボードを使っての大波への挑戦と続くラスト20分は、つい目頭が熱くなるほどの素晴らしい出来である。今でこそ、「あの映画はよかった」と言う評論家もいるが、公開当時はほとんど話題にもならず、映画館はがらがらだった。
 「素晴らしきヒコーキ野郎」と「バルジ大作戦」。どちらも監督はケン・アナキン。「素晴らしきヒコーキ野郎」は、高校時代に友人たちと名駅近くのグランド劇場で見た。20世紀初頭のドーバー海峡を飛行機で越えるレースを描いた70ミリ大作で、ゲルト「ゴールド・フィンガー」フレーベが出色のおもしろさ。彼が海の上を走るシーンは、大笑いできることを保証する。気球に乗っての決闘シーンも笑える。最初と最後に出てくるレッド・スケルトンも笑える。この映画に関しては、私は珍しくパンフレットを購入したが、何と広げると立体的になるという凝った作りのパンフレットであった。それはともかく、同じ頃に封切られた「グレート・レース」と比べると、「素晴らしき」がいかによく出来たコメディー映画かわかるはずである。
 「バルジ大作戦」は、第二次大戦末期にドイツ軍最後のといってもいい総反撃に出たアルデンヌの戦いを描いたシネラマ大作。私は、この映画を予備校の映画鑑賞会(いつも勉強ばかりしていて息がつまるだろう、たまには息抜きも必要だよ、という暖かい配慮である。弁当もついていた)で、中日シネラマ劇場へ見に行った。ともかく戦車大隊の迫力に圧倒されるはずである。後年のこれも作品としての出来は悪くないアカデミー賞受賞作品「パットン大戦車軍団」と比べてみても、戦車の迫力は質量共に断然こちらの方が上である。また、戦車大隊長のロバート・ショーが完璧なはまり役で、実にいい。ショーと言えば「007ロシアより愛をこめて」のスメルシュの殺し屋や、「ジョーズ」のサメ殺し漁師クイントが有名だが、彼のキャラクターが最も決まった役と言えばやはり「バルジ」の戦車大隊長ヘスラー役だろう。クライマックスにもう一工夫ほしかったかな、という気がしないでもないが、ラストでロバート・ショーの身の世話をしていた老人が鉄砲を捨てて帰路につくあたり、戦争の虚しさも訴えてなかなかうまい締めくくりである。
 戦争映画では「ナバロンの要塞」と「眼下の敵」も要チェック。前者はこの映画の後ブレイクしたアリステア・マクリーンの原作で、難攻不落の要塞へプロフェッショナルたちが侵入していくという、所謂プロフェッショナル・クルー物のはしりではないかと思う。これでグレゴリー・ペックがいなくて、もう少し各人の個性が描き出されていれば大傑作になったものに、と惜しまれるが十分満足のいく映画には仕上がっている。蛇足だが、難攻不落の要塞は崖の中腹にあるので空から爆弾を落としても効果がなく、海からは要塞の大砲があるので近づけない。飛行機に爆弾を積んで突っ込む以外に破壊できない、ということから決死隊が組織されるというのが導入なので、「神風」の伝統?のある日本ではとても発想できないストーリーである。ところで、私は当時「ナバロンの要塞」のサントラ盤LPレコードを買ったのだが、別のところに書いたようにミッチ・ミラー合唱団の唄うマーチ風主題歌が映画には入っていなかった。多分、レコードだけでのサービスなのだろうが、ちょっとがっかりしたことを覚えている。「眼下の敵」は駆逐艦VS潜水艦の息詰まる戦いを一種ゲーム感覚で描いた傑作で、駆逐艦艦長のロバート・ミッチャムも悪くないが、何と言っても潜水艦(Uボート)艦長のクルト・ユルゲンスの演技が光る。どちらかといえばミッチャムの方に視点が置かれているが、ユルゲンスにも十分配慮がされており、このあたりが物事を一方向からしか見られないスピルバーグ的お子様映画と違う点である。
 見終わって何か清々しい気分で映画館を出て来たという点では、これもあまり話題にならなかったが、トリュフォーの「華氏451」が一番。日本では一般公開されず、アート・シアター・ギルド(ATG)系列の小さな映画館でひっそりと公開され、私は名宝文化で見た。原作はSFの詩人レイ・ブラッドベリで、「火星年代記」や「刺青の男」などと比べるとあまり出来はよくない(少なくとも私は退屈した。ブラッドベリは本質的に短編作家で、どうも長編はいかんね)。トリュフォーの作品としても代表作とは言えないし、けっこう構成も荒いが(たとえば、本を焼く仕事の主人公オスカー・ウエルナーの妻と不思議な少女の二役をジュリー・クリスティーがやっているが意味があるのだろうか。何となくわかるような気もしないではないが、どうもはっきりしない。それに、あんなに簡単に森に逃げ込めていいものなのだろうか?)、初めと終わりは、実に素晴らしい。
 書物が禁止されている時代の物語なので、タイトルや配役は文字ではなく、ナレーションで紹介されるのである(字幕スーパーが入ってしまうのが、悲しいが、仕方がない)。と同時に、バックにはTVのアンテナが立ち並び、人々は家の中でTVを現実として生活していることを暗示するというすぐれたオープニングである(ただし、衛星放送はまだなく、TVアンテナは、パラボラではなくいわゆる八木アンテナである。こういうところが未来を舞台にした映画は難しい)。
 また、雪のチラつく中を様々な人々が様々な本を暗唱する声が流れるラストは、映画史上で最も美しいラストシーンの一つである、と言っても過言ではない。老人から本の暗記を習っている少年がうまくいかず、場面が変わって初雪になり、少年がうまく暗唱できている横で老人が死んでいるシーンなんか、詩情が溢れて、涙が出るくらいうまいなあ。時間のない人は途中を早送りして、このラストシーンを見るだけでも損はないと思う(TV放映もされたが、このラストは吹替にしてしまうとなぜかつまんないんだよね)。
 アラブのテロが云々という馬鹿な理由で公開が取り辞めになった「ブラック・サンデー」もビデオ、レ−ザ−ディスクは発売になっているので見ておいて損のない映画の一つ。というよりも、こんなおもしろい映画を見逃す手はない。今ではあまり話題になることもないが、ともかくテロリストたちの生き様がすさまじく、前半ちょっとたれる部分がないではないが、ラストのグッドイヤーの飛行船を使っての攻防は手に汗握る迫力で、大画面で見たかったなあ、と思わせるがTVでもその迫力は十分伝わるはず(もちろん私もレーザーディスクで見ただけで劇場では見ていない。後に「羊たちの沈黙」を書くトマス・ウルフの原作だが、薄っぺらな描写で映画の半分のおもしろさもない。読むのは時間の無駄である)。「大列車作戦」「5月の7日間」などのジョン・フランケンハイマーの作品だが、これは「グランブリ」と並ぶ彼の代表作だろう。
 と、ランダムにいくつか紹介してきたが、こういう作品はおそらくその映画を見たときの私の精神状態、年齢などがピッタリ合ったということで、万人に無条件で薦められるわけではない。そのいい例が前々回に書いた「スタンド・バイ・ミー」で、私より10か20若い連中と映画の話をすると必ずと言っていいほど、この映画が持ち出されてくるが、駄作とは決めつけないまでも、そんなに大した作品とは思えない。同様にアカデミー賞をとった「フォレスト・ガンプ」も感動した人が多いようだが、戦争などに対する見方が平板なので、私は買う気になれない。走っていれば何とかなるほど世の中甘くはないんだよ、と思うのだが「感動しました」と言われれば「そうですか、よかったですねえ」と言うしかない。結局、隠れた名作というものは、各人が各人の価値判断で根気よく探すしかないのだと思う。


★戦争映画の名作
 戦争映画というのは、はっきり映画の一つのジャンルである。古いところではトロイ戦争に題材をとった「トロイのヘレン」やカーク・ダグラスの「ユリシーズ」(原作は言うまでもなくホメロスの「オデュッセイア」。巨人が出てくるシーンは、駄作の「ニュー・シネマ・パラダイス」の中でも使われていた)から中世の「エル・シド」「バイキング」などをはさんで、「スター・ウォーズ」「スタートレック」「スター・シップ・トゥルーパーズ」のような未来戦まで、その幅は広い。しかも、シリアスなものからゲームもの、「M★A★S★H」のようなブラックコメディーものまで多士済々である。
 ただし、普通「戦争物」と言った場合は20世紀の戦争、具体的には第一次世界大戦、第二次世界大戦(この二つの戦争は、将来的には「30年戦争」とでも呼ばれることになるのだと思う)で、アメリカの場合は朝鮮戦争、ベトナム戦争がこれに加わる。
 私は、基本的にはこの手の戦争映画が嫌いである。
 反戦映画という名の戦争映画を含めて、嫌いである。おそらく人が理不尽に死んで行くのを見るのが嫌いなのだろうとは思うが、生理的な部分が大きいのでうまく説明できにい。話題になったスピルバーグの「プライベート・ライアン」についてはダメな理由をすでに書いたので、ここでは繰り返さない。戦争映画の傑作として別項で「ナバロンの要塞」と「眼下の敵」の2作を挙げているが、これはいずれも戦争というシチュエーションを借りたゲーム映画で厳密な意味での戦争映画ではない。ケン・アナキンの「パルジ大作戦」もおもしろい映画だが、これもゲーム・アクション映画とでも言うべきものでやはり純粋な戦争映画というものではない。ビリー・ワイルダーの「第17捕虜収容所」と「大脱走」は、似た設定のそれなりにおもしろい映画だが、戦争映画(確かに戦争が舞台にはなっているのだが)というには抵抗がある。同じような理由で「勝利への脱出]も、ここでいう戦争映画ではない。
 所謂、ベトナム戦争を描いた映画には「キリング・フィールド」や「カジュアリティーズ」「地獄の黙示録」を初め、ベトナム戦争賛美の「グリーン・ベレー」まで数限りないが、どれもアメリカのマスター・ベイションあるいは言い訳のような気がして、好きになれない。おそらく体験者がまだ生きており、人々の記憶が生々しいうちは、反戦にしろ好戦にしろどうしてもメッセージ臭が強くなり、その分、映画としての力が落ちるのだと思う。アカデミー賞を受賞した「ディアハンター」にしても鹿撃ちと人撃ちをダブラせる幼稚な比喩に加えて、ロシアンルーレットをやっている奴が何年も生きているというのが嘘っぽくてついていけない。ジョン・ミリアスの共産主義撲滅キャンペーン映画「レッド・ド−ン」に至っては、そのあまりの幼児性にとてもついていけない。まず「アメリカは世界の警察である」という左右両派に共通する思い上がりを捨てなければ近代の戦争を扱ったアメリカ映画は、それこそ全滅だと思う。
 その点、古代の戦争は一つの「歴史」なので逆に自由な解釈も可能になり、キューブリックの「スパルタカス」のように結果として遥かに力強く人の命の尊さを訴えることができるのである。
 日本の戦争映画ではちょっと古いが岡本喜八監督の「独立愚連隊」「独立愚連隊西へ」がお気に入りである。佐藤允はもちろんいいが、「独立愚連隊西へ」で中国軍の隊長をやったフランキー堺、貫禄があって人情もわかって、空に向かって鉄砲を撃たせるシーンなんていいねえ。とはいえ、これもどちらかというとゲーム映画である。ただ、それでも戦争の虚しさやそこでの人の命の軽さは、きちんと伝わっており、こういう映画でないと私は生理的に受け付けないのである。日本軍の撤退作戦を描いた「キスカ」も合格点の出来だが、これもゲーム的要素が強い。「人間の条件」「戦争と人間」の両戦争大作は、見ていない。大島渚の「戦場のメリー・クリスマス」については、いろいろ問題があるので、機会があれば別項で触れたい。
 そんな私が唯一名作と認める戦争映画の例外中の例外がある。
 ルイス・マイルストン監督の「西部戦線異常なし」である。アカデミー賞をとったのは当然で、これは、戦争映画という枠組みを超えた「映画」として掛け値なしの名作である。未見の人は、レンタルビデオでもいいから、ぜひ見て欲しい。教師が演説している教室の場面をずっと引いていくと外では出征兵士を送り出すパレードが行われているとか、靴の主が銃弾に倒れて次々と変わっていくカット、ラスト、蝶を採ろうとした主人公が銃弾に倒れ十字架が並ぶ画面にオーバーラップしながらまだ生に未練があるように振り向きながら去って行くシーンなどは、おそらく映画史に残る名シーンだと思う。
 が、私が「西部戦線異常なし」は名作だ、と言うのはそういう(所謂反戦的)場面があるからというだけではない。実は、これほど迫力のある戦争シーンを他の映画で見たことがないのである。初めて見たのは名古屋のスカラ座という映画館でのリバイバル上映だったが、塹壕で待機していていよいよ敵が攻めてくる場面の迫力たるや思わず体に震えが来たほどである。それほど迫力があり、それほど(第一次世界大戦の映画なのに)現実感があるということなのだろう。二回にわたって行われる戦争シーンを見るだけでも映画の力というものを感じさせる、文句無しの名画である。逆に、生々しい戦争というものを映画が扱う場合、この「西部戦線異常なし」くらいの名作の域に達していないと現実の重みに負けて、映画が自立出来ないのだろうと思う。
 もう一つだけ挙げるとしたら「アルジェの戦い」か。
 この手の民族独立戦争ものはメッセージ臭が強すぎたり、妙に力んだり、悲愴感漂ったりで本来好きにはなれないのだが(そして「アルジェの戦い」にもそういった色が全くないわけではないのだが)、これだけサスペンスと迫力に富んでいれば、まいいか、という気になってしまう。それほど迫力のある、一気に見させてしまう映画だった。ビデオは出ているので、未見の人はぜひ見ていただきたい。損はしないはずである。カンヌだったかの映画祭で、敵役になっているフランスの映画化関係者は上映中に続々と退席していったが唯1人フランソワ・トリュフォーだけは最後まで見ていたというエピソードがある。さすがトリュフォー。映画は政治的色眼鏡で価値を判断するものではない。
 最後に、アニメの神様とも言われる宮崎駿について少し。彼のアニメ大作「もののけ姫」が日本での映画の興業記録を塗り替えたことは、記憶に新しい。長年1位だった「E.T」の記録を破ったのである(その後「タイタニック」に破られたが、日本映画としては、依然として第1位である→その後、同じ宮崎の退屈アニメ「千と千尋」に1位をゆずった)。「もののけ姫」は、人間と自然との調和を考える映画だそうである。厳しい中でなおかつ生きていく意味を問いかける映画だそうである。確かにキャッチコピーは、「生きろ!」となっている。が、本当にそうか。私には、どうしてもそうは思えないのである。宮崎は、合戦スペクタクルアニメが作りたくて、「もののけ姫」を作ったのではないのか。どうもそんな気がするのである。アシタカは、森の生き物たちと人間との友愛を夢見るが、おおいちょっと待て、しし神の森へ行く途中、アシタカの弓で腕を落とされた人間と、首をはねられた人間のことはどうなっちゃったんだ、おい。全体にばかり目がいってしまうと、個が見えなくなる典型で、戦争というものは常にそうなのである。勝ち戦であったところで、その戦いで死んだ人間にとってはすべてを失うことになるのだが、その保障は誰にも出来ない。そこを見落としているこのアニメは、とても高く評価する気にはなれないのだが、「もののけ姫」は、紛れもなく戦争映画であり、その部分ではある程度成功していると思う。
(2001年に、第二次大戦のスターリングラード攻防戦を舞台にした「スターリングラード」というハリウッド映画が封切られた。といってもそれは導入部だけで、西部劇を思わせるスナイパー同士の一騎打ちがメイン。マスコミの作り上げる英雄、戦時下の恋愛三角関係などテーマが絞り斬れていないうらみはあるが、「プライベートライアン」や「パールハーバー」のような妙なメッセージ性や悲劇性がないぶん「娯楽」として見られる佳作であった。「お子様映画」全盛の今にあっては、よしとしなければならないところだろう。ところでエド・ハリスのやったドイツのスナイパーは、昔だったらロバート・ショーの役だろうね。)


★怖い、怖い、映画
 原一男の「全身小説家」はそれなりによくできた映画だったが、ともかく手術シーンで血が流れるのが嫌だった。私は、自分でも不思議なほど血が嫌いである。大学受験の時、当時は医学部だけが跳び抜けて難しいということはなく、基礎医学に興味がなかったわけではないが、解剖実習があると聞いて即断念したほどである(入学後、自分の得点を指導教官にきいたところ、医学部の合格最低点をクリアしていた。なぜこんなことを書くかというと、自慢である)。
 だから、所謂、血の飛び散るスプラッタ・ムービーは、タダでも見たくない。もちろん映画館へは行かないし、ビデオも借りない。ビデオを手に取るのも嫌なくらいである。昔、名古屋のスカラ座で「クワ・ヘリ」という映画の予告編が上映され、人の頭を石か何かで切って手術するシーンがあったため、本編を見ないで帰ってきてしまったくらいだから、筋金入りである。そんなわけで、ホラーと言われる一群の映画は、そこまでしなくてもと思えるほど血が飛び散るので、ほとんど見ようという気が起こらない。が、話題になったりするとつい見てみようかという気持ちになってその都度痛い目に合っているのである。
 比較的スプラッタシーンが少なく何とか最後まで見られたのはロメロの「ゾンビ」くらいだろうか。「悪魔のいけにえ」という映画を知り合いに薦められてビデオで見たが、やはり最後まで見ることはできなかった。そんなわけで「13日の金曜日」も「エルム街の悪夢」も見ておらず、「怖い映画」と言いつつスプラッタ物は最初からパスしていることを、まず断っておきたい。わずかに見た中では、まあ「スクリーム」が、そこそこの出来ではなかったかと思う。「スクリーム」は、2、3がすでにビデオレンタル屋に並んでいるが、これは見ていない。「エンゼルハート」に代表される「実は、○○の正体は悪魔だった」というたぐいの映画は、悪魔というものを信じていないので、悪趣味としか思えないし、怖くも何ともない。腹が立つだけである(「エクソシスト」「ローズ・マリーの赤ちゃん」など、ホラー映画には、この「実は悪魔」パターンが意異常といえるほど多い。なんとかならんのかね)。
 そんなわけで怖い映画は本能的に避けているにもかかわらず、「あれは、怖かった」と思う映画があることはある。スプラッタではないからと見に行った中でも、怖い映画はあるのである。数は多くないが、そんな記憶に残っている怖い映画の話をしよう。
 たとえばキューブリックの「シャイニング」。あれは失敗作だという意見があり、私もスティーブン・キングの原作に遥かに及ばない駄作だと思うのだが、しかし怖い映画ではあった。廊下で子供が三輪車に乗って遊んでいるだけで怖いのである。カメラが何か得たいの知れないものの視線になって音も無く子供の動きに合わせてずーっと追っていく、その不気味さが私には耐えられないほど恐ろしいのである。この原稿を書くためにビデオで見直してみたが、風呂場でのシーンとか、ビデオのパッケージにもなっているジャック・ニコルスンがドアを突き破ってくるシーンなどは、すでに映画がだれているので全然怖くない。が、まるで神経戦のようにじわーっとやってくる廊下のシーンは、やはりタバコを吸ったりして気を紛らわせたくなるほど怖かった。
 血飛沫や音響効果などでごまかさずにホラーを作るのは意外に難しいらしく、キングの作品の映画化では成功したと言われる「キャリー」にしても世評ほどには感心しない。唐突に死んだということになって墓場のシーンになるのだが、こういう展開でこのまま終わる訳はないと思っているので、あの後のシーンはたいして怖くはなかった(見ていない人のためにネタを割らないように書いているので、あいまいな書き方になってしまって申し訳ない)。
 ヒッチコック作品で怖いのは、やはり「鳥」か。学校のジャングルジムにとまっているカラスの大群からそーっと逃げるシーンなど、今見てもはらはらする。襲ってきてからはどうってことはないが、映画の文法からいって襲ってこないわけはなく、いつ襲ってくるのだろうと思いながら見るのはけっこう怖いものがある。ドアを開けた途端小鳥の大群が襲ってくるシーンは、最初に見た時は驚いたが、こういうシーンは2回目はたいしたことはない。「サイコ」の有名なシャワーシーンにしても、所謂ショッカーというやつで、2回目は意外と平気なものである(もっとも、映画というものは封切り後1年経ったらもう見られないというのがかつては普通だったから、別にヒッチを非難するつもりはない。クルーゾーの「悪魔のような女」も1回目は怖かった)。むしろ、「レベッカ」のぼーっと光るコップを持って階段を上がっていくシーンなどの方がよほど怖い。
 「羊たちの沈黙」に代表される所謂サイコ・サスペンスは、けっこう怖いと思うのだが、この手の映画はいつも結末があいまいで不満が残る。「ジョーズ」に代表される動物パニック物は、私は一番怖いのは人間だと思っているので、「羊たちの沈黙」には及ばない。クリント・イーストウッドの処女作「恐怖のメロディー」は、怖いストーカーの女性が出てきて、けっこう怖かったことはすでに書いた。
 怖いという意味では「サンセット大通り」も怖かった。と言うと、確かにあれはビリー・ワイルダーとしてはシリアスな作品だが、はて、そんな怖いシーンがあっただろうか、と言う人がいるのでは、と思う。私が怖かったのは、あのラストシーンである。グロリア・スワンソンは往年の大女優で殺人犯なのだが、精神的にすでにおかしくなっており、踏み込んで逮捕しようとすれば自殺の恐れがある。そこで、ライトやカメラ、監督まで用意し、「出番です」と声を掛ける。すると、いよいよ私の出番がきた、とスワンソンが部屋を出て、演技をしながら階段を下りてくるのだが、いやその怖いこと、怖いこと。顔も怖ければ演技も怖い、鬼気迫る演技とはこのことを言うのだ、と言っても過言ではないほど怖いのである。で、よく考えてみると、グロリア・スワンソンの当時のハリウッドでの立場というのが、かつての大女優で今は忘れられているという映画での立場と全く同じなのである。そういう女優に出演を依頼する方も残酷だが、それを承知で出演してしまう役者というものも実に怖い存在と言わねばならない。そんな意味で「サンセット大通り」は、私にとって二重に怖い映画であった。
 ウイリアム・ワイラーの「コレクター」は、内気な蝶のコレクター(テレンス・スタンプ)が女性のコレクトも始めてしまうストーカー物の傑作だが、囚われた女性(サマンタ・エッガー)が引き出しを開けると、どの引き出しも蝶の標本で埋まっている。だいたいどんな小さなもの、どんなきれいなものでも数がめちゃくちゃ多いと怖いもので、開けても開けても蝶の標本が出てくる、このシーンはとても不気味である。が、それだけではない。部屋のドアがバタンと閉められた時、その振動で標本の蝶がパタパタと一瞬だが羽根を動かすのである。逃げたいがピンで止められていて逃げられない、という女性の状況を暗示するカットだが、その演出は凄いと同時に物凄く怖い。
 巨匠といえば、デビッド・リーンとしては失敗作の「ドクトル・ジバゴ」も怖いシーンがある。と言うとこれも「何を馬鹿な」と言われそうだが、冒頭のジバゴの母親の葬儀のシーンは本当に怖かった。死は誰にとっても怖いものがだ、少年の目の前でダーンと棺の蓋が閉まり、その棺にかけられる土の乾いた音が異様にリアルで、死というものを否応なしに実感させてしまう実に恐ろしいシーンである。私は今でもその場面を見ると鼓動が早くなる。ワイルダーにしろワイラーにしろリーンにしろ、本物の巨匠が怖いシーンを撮ると本当に怖いのである。しかも、所謂ショッカーではないだけに、何回見てもそのシーンは怖いのである。巨匠がこういうシーンを撮るのは反則といっていい。
 定番のドラキュラ物は、ベラ・ルゴシのものとクリストファー・リーのものがそれなりに怖くて合格点(強いて順位をつければ、ドイツ表現主義の流れをくむベラ・ルゴシの作品の方がちょっと上か)だったが、ブラム・ストーカーの原作は、映画が問題にならないくらい怖い。私の読んだ恐怖小説のベスト3に間違いなく入る。恐怖体験をしたい人は、まずこの原作(「吸血鬼ドラキュラ」創元推理文庫の完訳版)を読むべし。船長の日記のところなど思わず背筋がぞぞっとするはずである。
 日本でも最近は、「パラサイト・イヴ」「リング」「らせん」といったホラー映画が数多く作られており、話題にもなっているが、これ、といったものにはまだお目にかかっていない。まあ「リング」などは映像的な工夫も多少はあり、レンタルビデオで借りて見てちょうどいい程度の出来(要するに350円の価値はある)なのだが、これが「らせん」になると、「リング」のアレはいったい何だったんだ、と呆れるほどの前作を否定してしまうという極めつけの駄作である(これは、そもそも原作が悪い)。ちなみに、「リング2」という映画もあって、これは原作・鈴木光司とあるが、「リング」の本来の続編である「らせん」を知らんもんね、と否定し、独自に作ってしまった続編である。出来はたいしたことはなく、あまり怖くもないが、それでも「らせん」よりはマシな続編になっていた。「らせん」のあとの「ループ」に至ってはさらに原作の出来はひどく、遂に映画は作られなかった。当然である。いずれにしても、出来を云々するような映画ではない。
 「学校の怪談」と「トイレの花子さん」は、見ていない。続編ができているほどだからそこそこ当たったのだろうが、見る気になれない。そこそこ話題になった「アナザ・ヘブン」とか「黒い家」「死国」なども見ていない。古い映画だが新東宝の「東海道四谷怪談」は、昔見たときはえらく怖かったが、もう何十年も前のことなので、今見ても怖いかどうかは保証できない。
 敢えてもう1本怖い映画を挙げるとすれば、前半1/3に限ってのことだがやはり「ラドン」であろう。
 暗闇というのは、もともとそこに何がいるのかわからないという怖さがあるが、暗闇でさらに洞窟(あるいはトンネル)となると、逃げ場がないのでさらに怖い。東宝の「ラドン」の前半部分で水が出た炭鉱の中へ入って行くシーンで、弟が怖さのあまり場外へ出て行ったという話はすでに書いたが、今回ビデオで見直して見てもやっぱり怖い。腰まで水のある真っ暗な坑道を命綱を結んだ3人が進んで行くというそれだけですでに怖いのだが、先頭を歩く男が水の中の何かに足を引っ張られたように「わーっ」と叫んだきり水の中に消えて行くシーンは、大人が見ても十分に怖い。命からがら逃れた男が坑内電話の所にたどり着き「もしもし」と話して振り向き「わーっ」と叫ぶあたり、弟が逃げたのがよく理解できる怖さである。
 要するに、正体がわかってしまえば対処のしようがあるわけで、正体が見えないというのが一番怖いのである。「ラドン」の原形となった「放射能X」も高いさわさわという音だけが聞こえて警官がピストルを撃つ音が聞こえるシーンや、巨大アリの巣へ入っていくシーンなどそれなりに怖いものがあるのだが、こと怖さということに関しては、パクッた方の「ラドン」に軍配があがる。
 こうしてみると、私が怖いと思うのは、1.相手の正体が不明 2.相手が見えない 3.いつ襲われるかわからない、という未知のものへの恐怖である、ということがわかる。起こってしまえば、人間意外と度胸が据わるもので、そんなには怖くはないのである。その意味では、「エイリアン」はSF映画としては失格だが、ホラー映画としてはなかなかのものであった、といえる。これは、上の3つの怖さに加えてさらに、4.逃げ場がない、という怖さが加算されていたのだから。
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作品雑談5 [映画の雑感日記]

★わからん !
 黒澤の「羅生門」を試写室で見た大映の永田ラッパは、只一言「わからん ! 」と言ったそうである。
 私にも、わからん ! 映画はたくさんある。ただ、ここで注意しなければならないのは、「わからん ! 」映画には、映画表現の未知の分野に果敢にチャレンジし、見る方の戸惑いも含めて「わからん ! 」場合と、表現が稚拙・めちゃくちゃで「わからん ! 」場合との二通りあるということである。要するに「ピンかキリか」ということで、その見極めは慎重にする必要がある(黒澤の映画は、失敗作はあっても「わからん ! 」というものは1本もなく、「羅生門」も別に難しい映画ではない。永田社長は何がわからなかったのか、今となっては私にも「わからん ! 」)。
 映画表現の未知の分野に果敢にチャレンジした「わからん ! 」映画の代表は、おそらくアラン・レネの「去年マリエンバートで」だろう。これほど「わからん ! 」映画を私ははいまだかつて見たことがない。この映画を見た人なら絶対に印象に残っていると思う、幾何学模様の庭を歩く人間のシーンにしても普通ではない。まるで亡霊のようである。ただ、男は繰り返し「去年マリエンバートでお会いしましたね」と言い、女は否定するのだが次第に会ったことがあるような気になってくる…、という「わからん ! 」映画である。まあ、アンチ・ロマンの旗手アラン・ロブグリエの原作も読んでみたのだが映画と同じくらい、いやそれ以上に「わからん ! 」もので、そういうものを映画にしようとしただけでも偉いと言える。見たのは若い頃だったからと、ビデオで再見してみたが、やはり依然として「わからん ! 」映画であった。難解と言ってもい。もちろん誰にでも薦められる映画ではないが、印象的な映像といい、映画というメディアの可能性をさぐる意味でもこういう映画が1本はあっていい。
 この謂わば観念と現実の境をとっぱらったような不思議な映像をもうちょっと大衆的にすると、多分、死と生の世界をさまよい歩くような鈴木清順の「ツィゴイネル・ワイゼン」のような映画になるのだと思う。アラン・レネの作品では「二十四時間の情事」という岡田英次の主演した映画も見たが、これもけっこう「わからん ! 」映画であった。
 「わからん ! 」という意味では、初めて見た時の「2001年宇宙の旅」も「去年マリエンバートで」と同じくらい、いやそれ以上に「わからん ! 」映画であったことは、すでに書いた。これは、難解というよりも、予備知識なしで見たため「宇宙の旅」というイメージといきなりの原猿とのギャップによる戸惑いもあったのではないかと思う(すでに書いてが、今はなき中日シネラマ劇場では上映前に「それでは、これから皆様を宇宙の旅に御案内します云々」というアナウンスがあった。そのために素直な青年であった私は、よけい混乱してしまったのである)。その証拠に何回も見るうちに私なりに理解できるようになってきた。めでたし、めでたし。こういう映画は、映画の見方を教えてくれるので、最初「わからん ! 」からといって馬鹿にしてはいけない。
 主として興行的理由からカットされたために「わからん ! 」ようになった映画も多い。「ライト・スタッフ」が、いい映画だが所々「わからん ! 」ところがあるぞ、と思っていたら劇場公開にあたって勝手に30分もカットされていた、という別のエッセイに書いた。
 黒澤の「白痴」がとくに後半わかりにくいのも、前後篇4時間の映画を無理やり2時間40分にカットさせられた点が大きいと思う。冒頭など素晴らしい映画だけに惜しい。4時間バージョンがあれば、びせ見てみたいのだが、ないだろうなぁ。内容を考えずに映画館での回転などの問題で「わからん ! 」ようになってしまうのは、もちろん論外。
 問題なのは、監督自身が何を撮るのかよくわからないまま作ってしまった映画、意欲はあっても技術がないためうまく表現できていない映画である。映画制作というものは、良かれ悪しかれ独裁者というものが必要で、何人もの監督がよってたかって作った映画というのは多分に無責任体制になってしまうことが多い。典型が「007カジノロワイヤル」で、アクション=ボンドとか優雅=ボンドといった何人ものジェームズ・ボンドを設定したのは、まあいいとして話の収拾がつかなくなり最後には爆弾が破裂して一件落着という何をいいたかったのか全く「わからん ! 」映画になってしまていた。
 そんなわけで、私の場合、タビアーニ兄弟(「グッド・モーニング ! バビロン」)などの例外を除いて複数監督の映画は避ける。そうなると監督の力量というのはある程度見当がついているので、監督の名前を見て見に行くことになる。ひと昔前ならウイリアム・ワイラーやデビット・リーン、ビリー・ワイルダーといった監督の作品には失敗作がほとんどなかったし、失敗作といえども「あの監督にしては」というレベルのもので、それなりに納得できた。最近なら(個人的にはあまり好きではないが)ウッディ・アレンや邦画では周防監督の作品にそれが言える。
 逆に、たとえば、エメリッヒという監督は「スター・ゲイト」「インデペンデンスデイ」「ゴジラ」と見てくれば、空虚な大作を作る監督というレッテルを貼ってまず間違いはなく、貴重な時間を無駄にせずに済むのである。
 困るのは個性が強すぎて傑作と「わからん ! 」失敗作が混合する監督の場合で、リドリー・スコットなどは「ブレード・ランナー」「エイリアン」という傑作を作る一方「レジェンド」「ブラック・レイン」「ブラックホーク・ダウン」といった駄作も多産している。光の効果だけでは映画は成り立たないことを、この人には早く知ってもらう必要がある(その点は、いい意味でも悪い意味でも名作はないが弟のトニー・スコットの方がバランスがとれている)。それでもまだ、「わからん ! 」作品ではないので被害は少ない。
 この手の「わからん ! 」監督の代表は、何といってもジョン・ブアマンで、この人だけは名人なのか馬鹿なのか、どうもよく「わからん ! 」。もしかしてあの世を信じているのかと思えるくらい、生と死、現実と幻想の狭間を描かせると実にうまいし、印象に残る画面を作るという点ではヒッチコックに勝るとも劣らない才能があるのだが、時としてその趣味が暴走してとんでもなく「わからん ! 」映画を作ってしまうのである。
 うまくいった例としては「エクスカリバー」があり、これはアーサー王の時代のまだ魔術が信じられていた時代の雰囲気とでもいったものを実にうまく出していた傑作であった。少なくとも私は、そう思っている。が、それでも登場する魔術師など人がそう思うので魔力があるように感じられるのか、本当に魔力があるのかさっぱり「わからん ! 」かった。これはアーサー王伝説と聖盃伝説のからみが私にわかっていないせいもあるのだと思うが、まあ、この程度ならなんとかついていける範囲である。ところが、この人、暴走が始まると止まるということを知らないのか、「エクソシスト2」ではバッタの大群が押し寄せる映像に執着するあまり(それはそれで迫力ある場面であったことは認めるが)、いったいそれが何であったのか全然「わからん ! 」という映画も作ってしまうのである。これはもしかすると私の知識不足なのかもしれないが、バッタの大群と悪魔って向こうの観念では関係があるのだろうか?知っている人がいたら教えてほしい。「エメラルド・フォレスト」という映画も薬を飲んでの浮遊感シーンのみ「おおっ」と思わせるだけの失敗作だったし、ショーン・コネリーが主演した「未来惑星ザルドス」にしても巨大な顔が空を飛ぶシーンは飛び抜けて素晴らしいのだが、後は投げてしまったのかめちゃくちゃになってしまっている。比較的バランスのとれているリー・マービンと三船のほとんど二人だけの映画「太平洋の地獄」にしてもラストで登場人物があららっと死んでしまう。戦争の虚しさと戦いの中で芽生えた奇妙な男の友情は十分伝わっており、なぜそういうラストにしたのかは、全く「わからん ! 」。ジョン・ブアマンだけは、ともかく映画を見てみないことには判断がつかない監督である。
 最近の日本映画は「どうして、こんな映画を作ったのか、わからん」というものがほとんどなので、古いマイナーな「わからん ! 」映画を一つ。大映の「宇宙人東京に現れる」という映画である。ヒトデ型というか星型の巨大宇宙人が東京に現れ大騒ぎになるのだが、その話は途中でどこかへ行ってしまい、いつの間にか新天体が地球に迫っているという話になってしまって、子供心に呆然とした記憶がある。永田は、こういう映画にこそ「わからん ! 」と言うべきであったと思う。


★それで、いいの?
 ちょっと冷静になって考えてみると、「おいおい、それでいいのかよ?」と、つい言いたくなってしまう映画がある。最近では「ゲゲゲの鬼太郎」がうまく着地できずに意味もなくにぎやかなパーティー場面でラストをごまかしていた。なんだかにぎやかにすれば盛り上がるという錯覚が映画人にはあるらしい。
 こうしたごまかしの典型は、女性に大受けした「ゴースト ニューヨークの幻」。どうってことはない出来の映画で、なぜヒットしたのかよくわからないような映画なのだが、最後は悪人も死神に連れていかれ、まずはめでたしめでたしとなる。が、ちょっと待て。よく考えてみると、いや別によく考えてみなくても、デミ・ムーアの旦那は死んでそのままなわけだ。今までは側にいて彼女を守っていたのだが、それも天国へ行ってしまうのだから、これからはなし。彼女は、夫の亡霊とも離れて、これからは一人で生きていかなければならないのだ。それで、めでたしめでたしはないだろう、本当に「それで、いいの?」とつい思ってしまうのだが、映画はそんな私の考えは無視して、とりあえずめでたしめでたしで終わってしまう。そのため、すっきりした気分で映画館を出て来れないのである。
 こういうのは、多分、シナリオの勘違いと、監督の勘違いによるものなのだろうが、そのおかげで、佳作が駄作になってしまったのである。一人になってもこれからは亡き夫のイメージを胸に自立した女として生きていくような暗示でもあれば、見ている方は救われるのに、もったいないというしかない。
 少し古いところでは、サイモンとガーファンクルの歌がヒットした「卒業」も、ちょっと変だ。よく考えてみると、いや別によく考えてみなくてもダスティン・ホフマンが母親と娘とやってしまうという所謂「親子丼」の話なのだがなんとなく純愛路線風によかったよかった、めでたしめでたしというラストになっていて、「おいおい、それでいいの?」と一言言いたくなる。少なくとも私は、身勝手なホフマンの卒業を祝ってやる気にはならないね。前にも書いた「007カジノロワイヤル(旧作)」のように最初からちゃんと作ることを放棄したような映画なら、まあ今さらという感じなのだが、出来不出来はともかく一応ちゃんと作ろうとしている映画で、それはないと思うのである。
 「燃えよドラゴン」は、ブルース・リーの人気がブレイクした映画で、確かに決闘シーンには見どころがあった。が、こういうシーンがある。リーが閉じ込められてしまい、次のシーンで縛られている。いったい、あんな強い奴をどうやって縛ったんだという疑問が当然わくわけだが、その後の展開は「それで、いいの?」を通り越してさらに凄い。何と敵の親玉は簡単にリーの縄を解き、その結果全滅してしまうのである。まさに、んな馬鹿な、といったところである。たとえば、閉じ込められた部屋に催眠ガスがシューッと出てくるシーンがちょっとあれば、ははあ眠らせておいてその間に縛ったんだな、と納得がいくのである。相対する敵も武術の達人で、縄をほどいて対戦させてほしい、と言えばなるほど達人はそういうものだろうなあ、と思うのである。本当に惜しい。
 「ブレードランナー」もレプリカント=人造人間の寿命が限られているというところが話のキーポイントなのに、ラストで(レプリカントの)レイチェルは特別製だった、とナレーションが入ると「おいおい、それでいいのか?」と思わずにはいられない。これでは、それまでのレプリカントたちの怒りと悲しみが台なしではないか。ディレクターズカット版で、この部分がカットされたのは当然である。
 ちょっと話題になった「ユージアル・サスペクツ」という映画で、謎の人物の面がFAXで割れている(それまで存在すら疑われていた人物が実在することがわかってしまったばかりか顔すらバレてしまった)にもかかわらず、当人はしてやったりという顔をして去って行き、警察はしまったやられたという感じでの終わり方も「それで、いいの?」という結末である。
 有名な「それで、いいの?」としては、スピルバーグの「レイダース」なんかも、ハリソン・フォードが敵の潜水艦の甲板で向こうに見える船の連中に、わーっと手を振っているシーンなんかを見ると、「おいおい、潜水艦は潜水するんだぞ。そんな甲板で手を振っていて、いいのか?」と思ってしまうのである。勘違いならともかく、あまり観客を甘く見ちゃいかんよ。
 あと、洋画でよくある「それで、いいの?」パターンは、機械文明の高度に発達した社会を否定し自然に還える、というもの。「2300年未来への旅」(原題は「ローガンズ・ラン(ローガンの逃亡)」というもので、「2001年宇宙の旅」とは全く関係ない)が典型。おいおい、今までの文明をすべて否定し自然に還えっていい気でいるけど、電気もガスも水道もないんだぞ。お前、本当に生きていけるのか?
 邦画になると、この傾向はさらに凄いことになる。その代表例は角川映画の「野生の証明」だろう。追い詰められた高倉健さんが薬師丸に秘密の抜け道があるようなことを言う。ま、薬師丸をそこから逃がしておいて健さんが黒幕のところへ乗り込んで行くのだろう、と思っていたらこれが違った。それまで「お父さん」と決して言わなかった薬師丸がなぜか逃げずに「お父さん」と言いながら走ってきてバババっと撃たれて死んでしまうのである。その後が凄い。何と健さんは、単身、戦車に立ち向かって行くのである。おいおい、東映やくざ映画でもそんな無茶なシーンはなかったぞ。いくら健さんがやくざ映画のプロだといっても、あなた、単身、戦車に立ち向かって勝てますか。ピストルが通用しますか。日本刀で切りかかっても、日本刀が折れてしまうのが関の山でしょうが。悲愴感あふれるラストにしようと考えたのだろうが、馬鹿としか言いようがない。ったく、「それで、いいの?少しは考えろよ」と言いたくなるのは、こういう映画を見た時である。
 健さんといえば、「昭和残侠伝」でもあんなにめった切りにされたのに傷が大したことないとラストで語られて浅草・浅草寺の境内で鳩が飛ぶシーンで終わりの文字が出、「おいおい」と思ったことがあるが、いくらなんでもまあこのあたりが限界だろう。
 「男はつらいよ」は決まり事のように、毎回失恋した寅さんがラストで旅に出る。そうするとたいていは話の途中で知り合った人間と偶然に再会し、「やあ……」てなことでなんとなく心温まるような雰囲気で終わるのだが、これもつい「それで、いいの?」と言いたくなる。何一つ本質的な解決にはなっていないからである。それが寅さんのいいところなんだから、と言う向きには50回近くも同じことを繰り返して反省のない者は馬鹿だ、と一言言っておきたい(私が10本ほど見た限りでは、このシリーズは第1作を越えるものはない。つまり何十作も作る必要はなかったのである)。少なくとも、こういう反省のない人間は、私の近くにはいてほしくない。
 竹下景子が脱いだことで当時評判になった「祭りの準備」も(ま、私はそれが目当てで見に行ったのだが)、原田芳雄がホームで万歳を叫ぶ中、江藤潤が東京へ出て行くというシーンで終わっているが、田舎が閉塞状況だからと言って東京へ出て行けばいいってもんじゃないだろ。そんな甘いものじゃないぞ、とこれも一言言いたくなる。その後「純」という映画があり、江藤潤が痴漢をする役だったので、監督なども全く違う映画にもかかわらず、ほら東京へ出て来ても所詮痴漢をするくらいしかないだろ、と私は変なところで納得してしまったのである。結末が悲劇だろうがハッピー・エンドだろうが何でもいいが、とりあえずそれなりに納得できる結末をつけてほしいと思うのである。
 最後にテーマと少し離れるが「戦場のメリークリスマス」について一言。後に「馬鹿野郎おじさん」として名をはせた大島渚の作品で、ビートたけし主演ということもあって封切り当時はけっこう話題になった映画である。で、たいていの人は「たけしのラストの笑顔がいい」と言うのだ。タケシの笑顔で何となく救われたような気になってしまうのだ。が、おいおい、ちょっと待て、それでいいのかよ。そういう「いい人間」が戦場へ行くとけっこう平気で人を殺したり、捕虜を虐待したり、新兵をいじめたりするんだよ。戦争というか人殺しを最大最高の目的としている軍隊というのは、組織上そういうもので、そこにこそ逆の意味では大きな問題点があるのである。たけしの笑顔で一件落着みたいな終わり方だが、それでいいの?という疑問を抱かない人は、郵便屋の日常と軍隊での変わり方を見事に描いたルイス・マイルストンの傑作「西部戦線異常なし」をぜひ見てもらいたい。


★映画の終わり方
 モンテーニュの「エセー」を持ち出すまでもなく、人生も映画もその「終わり」が肝心である。いくらその過程が立派でも、終わりがダメでは、その価値も半減してしまうというものである。
 ワイルダー、チャップリンと少々映画の終わり方にこだわったが、1本の映画をどういうカットで終わるのかは、その映画にとってきわめて重要である。最後の1カットで2時間の映画の評価が決まってしまうと言っても過言ではない。少なくとも傑作が佳作に、佳作が普通作に、普通作が駄作になってしまうことは間違いない。
 ところが、どうも日本映画は、この終わり方がヘタである。たとえば世評の高い山田洋二の「幸福の黄色いハンカチ」のラスト。出所した高倉健がひょんなことから知り合った武田鉄也・桃井かおりと共に、妻の待つ家へ帰ってくる。妻が待っていてくれるのなら黄色いハンカチが……、ということで観客もドキドキしながら高倉健さんと同じ気持ちで画面を追っていくという、なかなかうまい場面設定である。で、(まあ見ている人が多いと思うので、ネタを割ってしまうが)黄色いハンカチはあるのだが、それが1枚ではなく、観客の意表をついて何枚も何枚もずらりと並んでいるのである。「わっ、よかった」と思うそこでどうして終わりにしなかったのだろう。その後つまらないシーンをだらだらと続けたために、この映画はせっかくの名画になるチャンスを失ってしまったのである。
 最後の着地というかキメがヘタという点では、残念ながら黒澤あたりの巨匠も例外ではない。「用心棒」のラスト、三船に斬られてもうとっくに死んでいると思った仲代達也がまだ生きていて「お前は、優しいなあ」とか延々とぐじゃぐじゃ言うのには参った。続編の「椿三十郎」は、三船と仲代のラストの一瞬の勝負が話題になったが、あれはああでもしないと終わりにならないという無理やりのラストで私はあまり買っていない。「影武者」のラストの死体累々、仲代うろうろも長すぎる。名作「七人の侍」だって戦いが終わってからの百姓の田植えのシーンは、あの半分の長さででいいと思う。映画の格としては2ランクも3ランクも落ちる西部劇版「荒野の七人」だが、ことラストに関しては西部劇版の方が余韻を残して遥かに上である。
 近年の邦画では「Shall we ダンス?」や「誘拐」などは、よく出来ている方だが、いずれもラストがもたもたと長い。「Shall we ダンス?」など草刈民代に「Shall we ダンス?」ときかれた役所が頷き彼女の手をとったところですぐエンディングに入るべきで、有象無象が一緒になって延々と踊るシーンなど絶対に必要ない。どうしても出したいのなら、クレジットタイトルのバックにでも出せばいい。「誘拐」もせっかくそこまでは緊張感のあるいい映画なのに(ネタを割らないように書かなければならないので苦しいが、それまで断片的に登場してきた人たちがある実は一本の糸で結ばれるとわかるあたり「おっ」と思うほどうまい)、渡哲也の告白が長すぎて欠伸が出てしまう。
 その点、洋画は名作でなくてもそれなりにうまいものが多く、だらだらと続けることはしない。ビリー・ワイルダーやチャップリンは一流の監督だからと言うのなら、「カプリコン1」のピーター・ハイアムズのような普通の監督の平均的作品でもラストは、うまいと言っておこう。偽火星着陸を演出しその乗組員はすべて殺害したと思っている政府高官が墓前で「彼らの意志を継ぎ……」とやっているところへ、たった1人生き残った乗組員が記者と共に走ってくる、そのストップモーションで終わっているのだ。政府高官を映していたTVカメラがすべて走ってくる2人の方へ向きを変えるというそのワンショットで、それがどういう結果をもたらすのかは観客は十分にわかるのだから、その後をぐじゃぐじゃやるのは愚の骨頂というものである。キューブリックの「2001年宇宙の旅」とくらべて今ではほとんど話題にもならないハイアムズの続編「2010年」にしたって大した映画ではないが、ラストはうまくしめくくっている。
 「眼下の敵」のラスト、でアメリカの駆逐艦の艦長ロバート・ミッチャムがロープを投げたために、助かったUボートの艦長クルト・ユルゲンスがこんなことを言う。「今まで死ぬべきところで死ねなかった。しかし、今回は君のせいだぞ」。ミッチャム「今度は、ロープを投げないでおこう」と、すました顔をして答える。するとユルゲンスは言うのだ。「いや、また投げるよ」。そこでカメラは引きになり、大洋をバックにエンドマークが入るのだが、敵味方を越えた海の男の心意気を示して気のきいた実に余韻に溢れた終わり方できないか。
 ジョン・ヒューストンの「勝利への脱出」は途中かなりダレルところがある、傑作になり損ねた作品だが、サッカー場で観客が雪崩をうってグランドへ入り込み(このシーンは、かなり迫力有り)、その観客の群れとともにゲートを壊して場外へ逃れた、そのシーンでパッとエンディングへもっていく手法はうまいものだと思う。
 さらに一言。駄作も駄作。映画館では必死になって眠気をこらえる必要があったジョン・ウェインの「アラモ」ですら、ラストは感動的にピタリと決めていた。
 クレマンの「太陽がいっぱい」やアンリコの「冒険者たち」といったアラン・ドロンの2大名作も納得のラストである。「スパルタカス」や「ベン・ハー」「アラビアのロレンス」のような3時間を超える大作でもラストは、スパッと決めている。「エル・シド」に至ってはすでに書いたように「歴史の門から、伝説の中へと駆けて行ったのである」のラストシーンのおかげで完全に評価が1ランク、いや2ランク上がった。だから見終わって余韻が残るのであり、そこをだらだらやられたのではせっかくの名画もだいなしである。そうしたラストシーンだけで考えた時の極めつけの1本がトリュフォーの「華氏451」であることと、その美しさについては、すでに書いた。
 ところで、以前は映画の終わりには邦画なら「終」の文字(白黒映画ではだいたい黒画面に白文字、所謂「総天然色映画」になってからは、赤色文字のことが多かった)、洋画なら「THE END」の文字が出るものと決まっていた(フランス映画は「FIN」か)。が、最近の映画では出る方が珍しいくらいのものである。いったい、いつから出なくなったのだろう。気が付いたら出なくなっていた、というものなので確証があるわけではないが、「スター・ウォーズ」あたりからではないかと思う。
 ご存じのように「スター・ウォーズ」では、20th.FOXのシネマスコープ用ファンフアーレに続きルーカス・フィルムの文字が出た後「昔々銀河系の彼方で……」という今ではあまりにも有名になった一文が出ていきなりタイトルが出て物語が始まる。冒頭のクレジットは一切なしで、それは巻末に黒字に白抜き文字で延々と続くのである。
 もちろん、それまでに冒頭にクレジットが出なかった例がなかったわけではない。たとえば「ウエストサイド物語」では、ソウル・バスのモザイクタイトルに合わせて序曲のように音楽が続き、画面を引いてくると下にWEST SIDE STORYの文字が出る。同時にモザイクタイトルはマンハッタンの画面に切り替わって映画が始まるのである。そのかわり、クレジットは最後に物語の舞台となったウエストサイドの駐車場などを写しながら出る。壁や道路、看板などに落書きのように書かれている出演者やスタッフの名前と共に次々に流れてくるメロディーに余韻を楽しみながら観客は映画を見終わるのである。当然、最後にはTHE ENDの文字が出た。確か菱形の看板に書かれていたと思う。
 このクレジットを最後に出すという手法は、当時としては斬新でそれなりに意味があったと思う。名作「2001年宇宙の旅」もリヒアルト・シュトラウスの「ツアラトゥストラかく語りき」の音楽とともにいきなり本編が始まり、クレジットは最後に出た(ついでに書いておくと、最近ではジョン・マクティアナン監督、シュワルツェネッガー主演の「ラスト・アクション・ヒーロー」は冒頭にタイトルが出ないが、あれはタイトルを出すと少年が見ている映画のタイトルになってしまうわけで、こういう理由がはっきりしているものはクレジットが後になっても理解できる。)。
 主演が誰、音楽が誰、監督が誰…と、映画が始まる前に延々と見せるよりいきなり本編に入ってしまう方がいいだろう、という意見があることは知っているし、それも一つの見識だと思うので反対はしない。しかし、だからといってTHE ENDを出さないでいいということにはならない。「ウエストサイド物語」でも「2001年宇宙の旅」でもエンド・マークは出た。
 やはり、エンド・マークを出さなくなった元凶は、「スター・ウォーズ」であろう。当初から監督のルーカスには続編の計画があったのだろうから、もし「THE END」と出したくなかったのだとしたら、せめて「TO BE CONTINUED(続く)」とか出すべきではなかったのか。「THE END?」でもいい。終わる時には、きちんと「終わり」と言って終わるべきではないのか、と古い人間の私は思うのである。
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日本映画専門チャンネルのゴジラ・シリーズ [映画の雑感日記]

日本映画専門チャンネルのゴジラ・シリーズ 1

 2008.11.08「メカゴジラの逆襲」でとりあえず昭和ゴジラシリーズ全15作の放送が終了した。久々の監督・本多猪四郎+音楽・伊福部昭というコンビであり、第1作でオキシジェン・デストロイヤーを発明した芹沢博士こと平田昭彦がマッド・サイエンティストとして登場。しかも昭和ゴジラシリーズ最終作ということなので前作「ゴジラ対メカゴジラ」に続いて見てしまった。懐かしやサイボーグ(に見えないが)役は藍とも子。そういえば一時、ちょっと人気がありました。が、作品そのものはあいかわらずの地球壊滅を企む宇宙人に怪獣が加わり、それを「正義の」ゴジラ(初期のものと比べると、ドングリ眼でかわいくなっている)が倒すという代わり映えしないストーリー。結局、昭和ゴジラシリーズは第1作の「ゴジラ」だけが突出していて、「三大怪獣 地球最大の決戦」までがまあ見られる限界(ただし、中途半端な「ゴジラの逆襲」は論外)ということを再認識するにとどまった。正義のゴジラが毎回、怪獣プロレスを展開する陳腐なストーリーにはさすがに観客動員数も落ち目だったのだろう、この作品で一旦終了となったのもわかるような気がする。

 日本映画専門チャンネルで10.25からゴジラ・シリーズの完全放映(昭和、平成、ミレニアム全28作)が始まった。私は昭和ゴジラ・シリーズは第1作から第5作(「三大怪獣 地球最大の決戦」キングギドラ初登場のやつです(^^*)と1作とんで「ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘」は劇場で見た。以後はパス。平成ゴジラ・シリーズになって第1作の「ゴジラ」は劇場で見たものの第2作「ゴジラvsビオランテ」から第5作「ゴジラ対メカゴジラ」まではビデオ。以降はミレニアムシリーズを含めて全く見ていない(あ、ゴジラならぬオオトカゲが街中を走り回るハリウッド製「GODZILLA」は見たが、これは論外)。
 昭和ゴジラ・シリーズについて言えば、1作おいて見た「ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘」が、まあなんともしまりのないお子さま向けだったので以後ゴジラを見なくなってしまったわけである。
 10/25は当然、元祖「ゴジラ」。二番館、いや三番館の名古屋・中村映劇で見たが稜線の向こうからゴジラが顔を出すシーンや中継アナウンサーが鉄塔とともに……といったシーンは今でもくっきりと覚えていた。電車のシーンなどに「キングコング」のパクリが見えるが時代を反映して「反戦」のメッセージもきっちり打ち出されており、決して子ども向けに作られたものではない。
 10/26は「ゴジラの逆襲」。私は昭和ゴジラ・シリーズの前半はすべて本多猪四郎監督だと思っていたのだが小田基義という人が監督であることを初めて知った(調べてみたら柳家金語楼主演の「おトラさん」など監督してるのね )。まあ劇場で見たときはまだ子どもだったから監督が誰なのかなんて全く気にもとめなかったからなあ。音楽も「用心棒」などの佐藤勝(伊福部昭ではないので、あの「ゴジラのテーマ曲」はでてこない)。調子にのって……のパイロット小林が千秋実だったことも今回初めて知った。ゴジラが雪崩に埋まってチャンチャンというのは、まあ続編を作るつもりがあったにせよあまりに弱く、小田監督は本多監督と比べて本撮と特撮との繋ぎが悪く、しかもゴジラのテーマ曲がないというのいかがなものか。新怪獣アンギラスとゴジラが闘うというので期待して行ったのだが、空降り三振。考えてみれば「空の大怪獣ラドン」「地球防衛軍」そして「モスラ」といった東宝特撮名作もすべて本多猪四郎監督である。
 その本多監督に戻って「キングコング対ゴジラ」。期待して劇場に見に行ったのだが早くもコメディタッチバトルになっていたこととラストの曖昧さにやや失望。巻頭「東宝30周年記念作品」という文字がでる。この作品からカラー、シネマスコープになり本作はゴジラ映画最大のヒット作ということだが、中途半端さき否めない。
 次の「モスラ対ゴジラ」は地元・名古屋が舞台だというので見に行ってまたまた小失望。いくら怪獣だからってモスラが糸を吐くのは蛹になるときで(「モスラ」ではそうなっている)生まれてすぐに糸を吐くという設定は苦しい。卵から双子が生まれるというのもいかがなものか。それに、先生と生徒が逃げ遅れてなんていったい何やってたんだ。先生失格じゃないかと思ったりもした。
 もうゴジラも終わりだなと思ったのだが、最強の新怪獣キングギドラ登場という宣伝にのせられしょうこりもなく見に行ったのが「三大怪獣 地球最大の決戦」。これが意外におもしろかった。「007は二度死ぬ」に出ていた若林映子が出てまっせー。
 その次の「怪獣大戦争」はなぜか未見なのだが、次作「ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘」は劇場に行った。水野久美さんの太股が印象に残るだけの退屈な作品で、私のゴジラ劇場鑑賞は終止符を打たれたのである。
 10.30に放送されたのは「怪獣大戦争」。
 前作「地球最大の決戦」で初登場したキングギドラの評判がよかったのだろう、ゴジラ、ラドン、キングギドラの三怪獣が登場する。ただし、ものすごい科学力をもち一撃で地球のロケットを破壊してしまうような破壊力抜群の円盤をもつX星人なら怪獣など使わなくても簡単に地球制服できるのに、なぜわざわざゴジラ、ラドン、キングギドラをあやつって地球制服をたくらむのか。理解に苦しむところである。しかも、三大怪獣はX星人に電波で操られているという設定で中途半端。ともかく三大怪獣を出したかっただけなんですな。これらの怪獣を出しておけばストーリーなどめちゃくちゃでも客は来るだろうという志の低さが誰の目にも見てとれる。はっきり言って駄作。金を出して劇場へ行っていたらきっと怒ってただろうな。


日本映画専門チャンネルのゴジラ・シリーズ 2

 さて、昭和ゴジラ・シリーズの後は小休止をはさんで、2008.12.05(あ、日付が変わって午前1時からだから正確には12.06か)から、平成ゴジラ・シリーズ(全7作)とミレニアム・ゴジラ・シリーズ(全6作)さらにはハリウッド版の駄作「GODZILLA」まで一気に放送(ちなみに私はハリウッド版「GODZILLA」を以前テレビで見たが、ひどいとか凡作・駄作という以前のシロモノだった。そのために「ミレニアム」シリーズが予定より前倒しに制作されたという話を聞いたことがあるが、納得できる)。もちろん全作を通して見るだけの体力はないし、仕事が年末進行なので時間もない。とりあえず「節目」と思われるものを録画して見た。ちなみにこの二つのシリーズですでに私が見ているのは平成ゴジラ・シリーズの第1作「ゴジラ(1984年)」から「ゴジラVSビオランテ」(これは凡作)、「ゴジラVSキングギドラ」の3作と一つ飛んで「ゴジラVSメカゴジラ」の4作のみ。ミレニアム・ゴジラ・シリーズは全く見ていないので、その意味でもある種の期待感はあった。
 で、「ゴジラVSメカゴジラ」を見て思ったのだが、この作品あたりからまたお子ちゃま向けというか子どもを強く意識した作りになってるんだなぁ。少なくとも平成ゴジラ・シリーズの「ゴジラ(1984年)」から「ゴジラVSキングギドラ」まではあまりそういった傾向はなかった。ゴジラには熱狂的なフリークが多数いるので、1作1作の論評はやめにして全体(といっても半分くらいしか見ていないが)で気になった点だけいくつか挙げておく。ただし、ゴジラならぬ巨大とトカゲで、卵のシーンなど「エイリアン」からもパクってしかも駄作のハリウッド版は論外(「ゴジラ」と認めない)なので省く。
・ゴジラの体型
 ゴジラ好きの人にとっては当たり前なのかもしれないが、ゴジラの体型が1作ごとにあまりに違うので驚いた。映画に登場するゴジラは大きく分けて人類の味方になるとき(昭和の後半、平成の後半など)と敵になるとき(第1作が典型)があるのだが、敵になる場合は頭と目が小さい。逆に味方になる場合はどんぐり目。また、あのロバート・デニーロ顔負けに作品によって太ったり痩せたりすること、また背中の突起も初期のものに比べて後期になるほどどんどん巨大化・複雑化・鋭角化してきていもことも今回通して見て発見した。
・赤いゴジラ
 平成シリーズの最後「ゴジラVSデストロイア」に登場するゴジラは所々が赤い斑のゴジラだった。昔、ポスターを見たときは何かゴジラの細胞から新ゴジラが生まれたのか、ゴジラが突然変異したのかと思ったのだが、これがゴジラの体内の「原子炉!」に異変が起こり、メルトダウンが近づいているというのだから笑えるというか苦しい説明である。「ゴジラ死す」というコピーで話題を作り、とりあえず平成シリーズを終わらせるための苦肉の策だったのだろう。怪物デストロイアが記念すべき第1作で芹沢博士が発明しゴジラを抹殺した科学兵器オキシジェンデストロイヤーの影響で生まれた新生物というのも苦しい。それにしても赤と黒の斑のゴジラはかなりグロテスクだった。しかもデブ。私はどちらかというと悪役ゴジラの方が好きだが、悪役は悪役としてカッコいいゴジラを期待したい。善玉でデブでグロという、これは史上最低のゴジラだったのかもしれない(シリーズ全作を見たわけではないので断言はしない)。
・ゴジラの発光
 第1作では放射能を吐くなんて言われていたが、放射能は目に見えないし、放射能を浴びた車が溶けていくなんてこともない。ゴジラの出す光線は、単純に「破壊光線(熱線)」と考えるべきである。で、この破壊光線を出すときゴジラの背中の突起が不気味に光ること、第1作からのお約束であった。この光(輝き)が青い閃光であることは昭和ゴジラ初のカラー作品「キングコング対ゴジラ」で初めて知った。ところが平成・ミレニアムになると全身が光ったり光線も赤だったりすることが多い。どの作品でということは書かないが、別のゴジラがいたのだろうか、それとも数多くの闘いで体質が変わってしまったのだろうか?
・意外な出演女優
 「ゴジラ(1984年)」に沢口靖子が出ていたことは知っていたが(あまりにダサイ格好と下手な演技に笑える)、田中好子(「ゴジラVSビオランテ」)、中川安奈(「ゴジラVSキングギドラ」)新山千春(「ゴジラ モスラ キングギドラ 大怪獣総攻撃」)、釈由美子(「ゴジラ×メカゴジラ」)、吉岡美穂・長澤まさみ(「ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS」)、菊川怜(「ゴジラ FINAL WARS」)なんてところが出ていた。新山以下はミレニアム・シリーズなので1本も見ていない私は出ていることすら全く知らなかった。ちなみに「刺身のつま」ではなく文字通り体を張ってゴジラと闘ったのは(まさに「体当たり演技」。ただし脱いではいないので誤解なきよう)中川安奈と釈由美子だが、中川は台詞回しは悪くないのだが動きが鈍重、釈は動きはいいのだが声質に問題あり、ということで両者ともやや残念。さて、ゴジラ女優といえば忘れてならないのが平成ゴジラ・シリーズの小高恵美。第2作「ゴジラVSビオランテ」に超能力をもつ不思議な少女・三枝未希として登場して以来、最終作「ゴジラVSデストロイア」すべてに出演していた(最初はまだ十代で「少女」のイメージにぴったりだったが、最後の方はさすがに苦しかった)。最近は全く見ない。どうしているんだろう、もう結婚して引退したのかな?
・最終作はあまりにめちゃくちゃ
 個々の作品については触れないと書いたが、今のところゴジラ・シリーズの最終作「ゴジラ FINAL WARS」については書かないわけにはいかない。「こんな終わらせ方をしちゃあいかん」。マンネリで打つ手がなくなったのか、モスラ、ラドン、アンギラス、キングギドラ……要するに今までのゴジラ・シリーズに出たことのある怪獣総出演と最終作ということで話題を作ろうとした安易さが丸見えの作品である。怪獣の数こそ多いが多すぎてどれも印象に残らない(不評だったハリウッド版ゴジラも登場するが一瞬にして本家ゴジラにやられる)。これに「海底軍艦」の轟天号(ほとんどこれが主役)やミュータントなどもからんできて収集がつかなくなった。プロデューサーも監督もいったいどういう映画を作りたかったのだろう。悲壮感を出すために(日本映画には本当に多いのだが)特攻隊を出すのも、私としては生理的に好きになれない。パクられた「スターウォーズ」では破壊して脱出するのだが、この映画ではなぜか意味もなく突っ込んで行く。思わず「アホか」と言いたくなる。「メカゴジラの逆襲」(昭和)、「ゴジラVSデストロイア」(平成)と、いずれもシリーズ最終作は悲惨な出来映えなのだが、これほどひどい映画は作ろうとしてもなかなか作れるものではない。こんな大駄作で終わりにされたのでは、ゴジラも成仏できまい。
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最近テレビで見た映画2008.12 [映画の雑感日記]

リドリー・スコットと「ブレードランナー」 ☆☆☆☆★
 CATVの「ムービー・プラス」で「ブレードランナー」をやっていた。この映画は劇場でも見ているしLDも外国版が出たときレンタルで借り見ている。さらに日本語字幕版のLDは出るとすぐに買い、続いて「完全版」「ディレクターズ・カット版」と散在してきたことはすでに別のところで書いた。
 改めて見てもこれは傑作である。仕事が残っているので、ちょっとのつもりが、つい最後まで見てしまった。リドリー・スコットは「ブラックレイン」のような珍品から「ブラックホーク・ダウン」「グラディエーター」のような駄作まで作っている節操のない映画監督だが、やはりこれが最高傑作だろう(そのほかでは「エイリアン」が合格点)。映画評ではやたら「近未来をハードボイルドに描いた」という文章が目につき、まあそれも間違いではないのだが、「死」というものを相対化しようと苦闘した(と私は考えている)フィリップ・K・ディックのイメージをたぶんに偶然とはいえスクリーンに描き出したという点にこの映画の価値があるのだと思う。人は必ず死ぬが、いつ死ぬのかは本人も含めて誰にもわからない。がんなどの病気で余命宣告というか告知があるが、それとてもあと3か月などというアバウトなものであり、半年と言われたのが5年経ってもまだ生きているなどという話もある。しかし、だからこそ人は生きて行けるわけで、死ぬときが生まれたときから正確にわかっていたとしたら……。その意味でこの映画は娯楽作ではあるが、見た者に何かを考えさせる力をもっている。ルトガー・ハウワーが亡くなるシーンなど映像的にも素晴らしいものがある。
 で、すでにほかで書いたことをもう一度書いておく。「ブレードランナーBlade Runner」の原作であるディックの小説の原題は「Do Androids Dream of Electric Sheep?(アンドロイドは電気羊の夢を見るか?)」。その答えは、「アンドロイドは羊の夢を見る」(ディックはそう考えていたはずだと私は思っている)。そこに人間と人造人間(アンドロイド)との違いは本当にあるのかというディックの問いかけ、生命観があるのは明らかである。主役のハリソン・フォードはもちろん、ショーン・ヤング、ルトガー・ハウワー、ダリル・ハンナらは傑作・駄作取り混ぜていろいろな映画でお目にかかるが、この傑作映画に出られたことを感謝しなければならない。
(ちなみに放送されたのは、ご都合主義の結末になった劇場公開版。違和感満点のユニコーン・シーンがあり冒頭のナレーションがカットされたために初めて見る人は何が何だかわからなくなること必死のディレクターズ・カット版ではエレベーターの扉が閉まるシーンで終わっており、終わり方としてはこれが正解。)


「ジュラシック・パーク」三部作
1 ☆☆☆★★
2 ☆☆☆★
3 ☆☆☆★
 いまさらながらのようにCATVの「ムービー・プラス」で放送された「ジョラシック・パーク」三部作を見てしまった(もっとも放送されたのは1と2で、3は以前WOWOWで放送されたものの録画)。まあ恐竜が暴れればいいという安易な作りで、琥珀の中にいる恐竜の血を吸った蚊からDNAを抽出してという下手なアニメも説得力はまるでない。2では1とちょっと雰囲気を変えたかったのだろう、ティラノサウルスをアメリカで暴れさせたのだが、船で運んだりというところも含めて、かのキング・コングまんまですな。で、3は手詰まり感から親子の物語になったが小粒になってしまったことは否めない(ちなみに、この3のみ監督がスピルバーグではなくジョー・ジョンストンに変わっている。確か「ミクロキッズ」の監督)。
 結局、3作見て感じたのは、このシリーズは筋がどうこうということを問題にしてはいけない。ただ特撮の凄さをへえ〜と感心して見ればいいということである。実際、CGとは思えないほど質感があり、迫力がある。私は恐竜特撮の最高傑作は我がレイ・ハリーハウゼン師匠がモデルアニメーションに心血を注いだ「恐竜100万年」だと思っていたが、「ジョラシック・パーク」の恐竜たちの群れをなしての動きには脱帽した。もっとも、暗いシーンが多いのはやはり暗いシーンのほうが合成がやりやすいのだろう。
 気になったところを少しだけ。1の最後に出てくるティラノサウルス、建物が壊された形跡はなく、人間用の出入り口しかないんだけどあの建物の中にどうやって入ったんだろう。2では軍隊なみの武器を携帯していったのにほとんど使用せずに殺されていくのはなぜ。麻酔銃がきいたティラノサウルスに軽機関銃を撃つシーンがあり、かなりのダメージを与えたはずなのだが、まさか武器を持って行ったのはいいが使い方を知らなかったなんてことはないよね。いかん、そういう角度で見る映画じゃないと書いたばかりでした。要するに、見せ物としてCG恐竜の動きの素晴らしさを見ればいいということで。

「インベージョン」は「長さ」のみ合格点  ☆☆☆★
 ハヤカワSFシリーズ(当時は、ハヤカワ・ファンタジィ)の記念すべき第1作目はジャック・フィニイの「盗まれた街」である。とてもわかりやすいストレートな話(ネタバレしないように書いている)で、たとえば後期のディックに見られるようなわかりにくさはどこにもない。まだSFの土壌が確立していない日本でなぜこの作品が第1作目に選ばれたのかがよくわかる。また、わかりやすくて大掛かりな特撮も不要ということもあってか、これが4度目の映画化とか。私はそのうちの映画化第1作目のドン・シーゲル版(「ダーティ・ハリー」の監督)「ボディ・スナッチャー/恐怖の街」とフィリップ・カウフマン版(「ライトスタッフ」の監督)「SF/ボディ・スナッチャー」を見ている(3作目の「ボディ・スナッチャーズ」は未見)。
 WOWOWで4作目の「インベージョン」をやるというので、例によってぼけーっと見てみた。監督が「ヒトラー〜最期の12日間〜」のオリバー・ヒルシュビゲールで、ヒロインがニコール・キッドマン、相手役が最新ジェームズ・ボンドのダニエル・クレイグなので、B級際物ではないはずとの予想を立て、ある意味期待して見た。ニコール・キッドマンは意外と芸術欲が強く、キューブリックの「アイズ・ワイド・シャット」で全裸を披露したり、「ドッグヴィル」という実験的な映画にも出ている。おそらく「ヒトラー〜最期の12日間〜」の監督ということで出演をOKしたのだろうが、結果は完全な空降り三振。私が見た3作の中ではドン・シーゲル版が1位で、残念ながら本作はフィリップ・カウフマン版と最下位争いをするという残念な結果に終わった。ラストもちょっとひねった暗示があるのだが、凡庸というしかない。ただ、唯一評価できる点があるとすれば、最近の映画としては珍しく100分を切る長さ。テーマからいってもこれくらいの長さがちょうどいい。


「荒野の用心棒」はシナリオの勝利 ☆☆☆★★★
 CATAの「ザ・シネマ」で「荒野の用心棒」をやっていた。何度も書いているが、この「ザ・シネマ」は画質が悪く、トリミング版での放映が多いのであまり見たい映画はないのだが、今回の「荒野の用心棒」は珍しくノートリミング版なので、ソファに横になったままのんびりと見てみた(画質はあまりよくない。ラストシーンになって突然色調が変わってびっくり。それでも、続編の「夕陽のガンマン」はトリミング版なのでそれよりはマシか)。
 で、これも別のところに書いたことがあるが、結局のところこの映画のおもしろさはシナリオのおもしろさに尽きると思う。黒澤組は、実におもしろいシナリオを書いたものである。監督のセルジオ・レオーネは、このパクリを「あくまでインスパイアされた結果」なんて図々しいことを言っていて、それを受けた二階堂某なる映画評論家は「これを弁明ととるか、いいのがれととるか、その判断はきわめて難しい」なんて大馬鹿なことを言っているが、これがパクリでなかったら世の中にパクリなどというものはなくなってしまう。飯を食わせる家があり、その隣が棺桶屋であり、二つの組織が対立しておりその一方に凄腕の男がおり……といった設定はマンマである。イーストウッドがいきなり一方の男を撃ち殺す(「用心棒」では三船が斬り殺す)といった出だしから、囚われている女を助けるシーンや棺桶の蓋の間から惨殺の様子を見るシーン、「床下」を使って脱出するシーンなども全く同じ。レオーネの言い草は、問題になったことへの「いいのがれ」以外の何ものでもない。
 というわけで、この映画がおもしろいのはひとえにシナリオの功績である。その証拠に続編の「夕陽のガンマン」さらにその続編の「続・夕陽のガンマン」さらには「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」といった大作ので、どれも緊張感を欠いたはったりだけの退屈な作品ばかりである。
 「いいシナリオからしか傑作は生まれない」
 という黒澤の言葉は、けだし名言だったと思う次第である。それにしても、ちゃんと契約を結んで製作されたジョン・スタージェスの「荒野の七人」はともかく、これだけ鉄面皮な盗作をやっておきながら、レオーネが黒澤に謝罪したという話はついに聞けなかった。まったく、盗人猛々しいとはこういうことを言うのだろう。


石井隆監督の三作
「天使のはらわた」 ☆☆☆
「夜がまた来る」 ☆☆☆★
「ヌードの夜」 ☆☆☆★
 CATVの「V(Vシネマ)パラダイス」で石井隆の三作を深夜に連続放映していた。「天使のはらわた」「夜がまた来る」「ヌードの夜」の三作で。それぞれ川上麻衣子、夏川結衣、余喜美子が脱いでいることで話題になった。私も、題名くらいは知っていた。で、ざっと見てみたのだが、これって私が青春時代(ということは、かなり昔)によく見たいわゆる「ピンク映画」のリニューアル版ですな。出てくる女(奈美)は男に尽くすタイプで、そのためにどんどん堕ちていく。男はたいていやくざの下っ端。その男の親分は悪い奴で(ま、やくざのいい親分というのもいないと思うが)、下っ端の女に目を付け、女は犯され、男は殺されるか殺されないにしてもぼこぼこにされる。で、女は親分に復讐し、たいていが自分も殺されてジ・エンド。見事なまでにピンク映画のメインストリートを行く構成である。たとえば、「夜がまた来る」の(以下、ネタバレあり)夫を殺された夏川を助けてくれる刑事が夫を殺した犯人だったなんてもうあまりに陳腐なストーリーや、最後に主要人物がみんな死んでしまうラストシーンなども、往年のピンク映画にのっとったものである。
 石井隆作品は、一部でカルト的人気があるという。確かに私が足げく通って(^^*見ていた時代のピンク映画と比べれば、場面構成にしろ場面展開にしろずっと洗練されていて「おいおい」と言いたくなるシーンは少ない。それほど持ち上げるほどのものなのか、という気がしないでもない。それとも、最近の若い人には、そのピンク映画的ムードが逆に新鮮に映るのだろうか?
 かつてのピンク映画との最大の違いは、脱ぐ女優が大物ではないにしても、川上麻衣子、夏川結衣、余喜美子と、それなりに知名度のある女優であること。共演陣が根津甚八、寺田農、椎名桔平、竹中直人といった有名俳優であること。 これだけの俳優がOKを出すのだから、作品よりも石井隆という人物がカリスマなのかもしれない。


「レミーのおいしいレストラン」は長すぎた
☆☆☆★
 アニメもフラットなものから最近はCGを使った立体アニメが主流になりつつある。「モンスターズ・インク」にしろ「ライアンを探せ」にしろ、この「レミーのおいしいレストラン」にしろ、皆そうだ。一方で、実写といいながら「スピードレーサー」のような映画もあって、アニメと実写の境目はますます曖昧になってきている。
 という話はおいておいて、WOWOWで放送された「レミーのおいしいレストラン」を見た。色がとてもきれいなCGアニメだった。不潔でとくに食品関係の場では最も嫌われるネズミが「天才シェフ」だという発想がまずおもしろい。いくらきれいに撮ったところで実写では不潔感がまず先にきて説得力がないから(幽霊も含めて)、アニメならではのストーリーだと思う。ただ、ワンアイデアだけのこの映画で2時間は、ひっぱりすぎ。かつての「ダンボ」のように1時間ちょいのアニメに仕立ててくれていたら★ひとつ進呈していたのに、残念。


「シッコ」はなかなかの出来
☆☆☆★★★
 WOWOWでマイケル・ムーア(ハリセンボンの近藤春菜ではない(^^*)の「シッコ」が放送された。アメリカの医療制度・保険制度の問題点をついた映画なので保険会社(とくに最近はがん保険)のCMがやたら流される民放での放送はまず不可能。私はWOWOWも含めてテレビ放送はまずないだろうと予想していた。WOWOWは以前、ロシア人が監督しイッセー尾形が天皇を演じた「太陽」も放送しており、こうした姿勢は評価されていいと思う。
 アメリカの医療難民がいくつか紹介された後でカナダ、イギリス、フランス、キューバなどの医療制度も紹介されるが、ちょっと表面的な感じがしないでもない。が、ムーアにとつては、アメリカの医療制度のひどさを際だたせるためのものなので承知の上というところだろうか。少なくともアメリカの金持ちには最高の医療を、貧乏人は切り捨てという現実はかなりの程度に浮き彫りにされていた。
 ムーアの真骨頂はあの9.11で救命作業をしたボランティアの何人かが健康を害しているにもかかわらず適切な医療を受けられないといったあたりから。実はアメリカには唯一無料で治療が受けられる場所がある。れて行く。キューバ南に位置するグアンタナモ海軍米基地で、そこにはテロリストをはじめ重要犯罪人が収容されているのだ。ムーア一行は船を仕立てて基地に近づき「9.11で人命救助にあたって英雄たちにに収監された容疑者たちと同じ治療を受けさせてくれ!」と叫ぶが当然のように無視。仕方なくキューバに上陸して治療を受ける。ま、いい宣伝になるということもあるのだろうがキューバの関係者は皆明るく親切で、ここでもアメリカ医療の問題点が浮き彫りになる。できれば日本の状況も取材していってもらいたかったのだが(近藤春菜といっしょに回ったら笑えるぞ)、言葉の問題などもあったんだろうな。
 ムーアの映画は「ボーリング・フォー・コロンバイン」「華氏911」についでこれが3本目。「ボーリング・フォー・コロンバイン」は目の付け所はいいのだが、途中ちょっと脇道にそれたりしてやや冗長(それにしてもチャールトン・ヘストンの後ろ姿はひどく窶れて見えたなあ)。「華氏911」は議員に「あなたのお子さんはイラク戦争に行っていますか」ときくくだりはおもしろいものの、メッセージ臭が強すぎ映画としては散漫。そういう意味ではこの「シッコ」がまとまりという意味では一番なのではないかと思う。船を仕立てて出航するムーア「軍団」の姿には、ヘリコプターによる空撮なども入り、一種爽快感すら感じられた。


グラインドハウス「プラネット・テラー」
☆☆☆★
 日曜深夜にWOWOWで「プラネット・テラー in グラインドハウス」という映画をやっていた。フィルムの状態が悪くあちこちに傷が入っていたり同期が不安定で時々画面が止まりそうになったりずれそうになったりするのは、画質のいいWOWOWには珍しい。なんじゃこりゃあと見だしたら、いきなり「マチェーテ」 なんて映画の予告編が始まってびっくり。その後、本編が始まるのだが一言で言ってベタなゾンビ映画。見所はラスト15分くらいにわたってマシンガンをぶっ放すヒロイン。ローズ・マッゴーワンという女優はこの手の映画で見たことがあるような顔だが思い出せない。ゾンビに襲われ片足になってしまうのだが、義足にマシンガンを使い、そのマシンガンをぶっ放すわけである。ゾンビに襲われた人間はゾンビになってしまうのだが、なぜかこのヒロインだけはゾンビにはならない。というようなことは、ストリー展開など無視してただただドンパチやっていた「デスペラート」のロドリゲス監督に求めてはいけない。
 途中、お定まりのベッドシーンがでてくるのだがいいところで画面が不安定になり乱れてストップ。「申し訳ありません。一巻紛失」とテロップがでていきなり話が飛ぶ。んなこたぁ普通はあり得ないわけで、ここに至って今までのフィルム傷などは70年代のB級ホラー(「バタリアン」とか「死霊の盆踊り」とかいろいろあった)の再現であることに気づく(^^*。レイプ大好き兵士でぐじゃぐじゃになって殺される役をタランティーノがやっているが、タランティーノは「デスペラート」でも何だかんだとおしゃべりしてあっさり殺される役をやっている。出たがりなんだが演技力はないから、ま、仕方ないか。見終わってからWOWOWの番組案内を見ると、なんとあの「ダイハード」ブルース・ウイリスも出ていたようなのだが、気がつかなかったなあ。
 どうやら「グラインドハウス」というのは70年代アメリカのB級ホラー上映のチェーン館のようで(日本のオデオン座のようなものか?)二番館なので当然のように二本立て。この「グラインドハウスデス」もロドリゲスの「プラネット・テラー in グラインドハウス」とタランティーノの「デス・プルーフ in グラインドハウス」二本立てで上映されたようだ。というわけで、10/10午後10:30-0:30にWOWOWで再放送された「デス・プルーフ in グラインドハウス」を見始めたのだが、11.30からは「探偵!ナイトスクープ」を見なければならないので?前半1時間しか見られなかった。少なくとも前半はかったるくて退屈だった。ちょうど一つの事件が終わって次のシーンになり突然カラーからモノクロにったとこまで。パートカラーというとピンク映画を思い出してしまうのだが(ナニのシーンになるとカラーになりました)そういったことでもなかったようですな(見ていないので想像(^^*)。


「北京の55日」はやっぱり退屈
☆☆☆
 CATVの「ザ・シネマ」で懐かしや「北京の55日」が放送された。トリミング版が多いこのチャンネルにしては珍しくノートリミング版での放送である。色彩も多少の退色はあるものの興ざめするほどではない。本編前の序曲、本編後の終曲もちゃんと放送され、その点では頑張っていると言える。1900年・義和団の乱なんてのがすんなりと覚えられて入試に役立った?のも、(映画の中には出てこないが)ブラザース・フォアの歌のおかげである。
 が、かんじんの内容はというと、うーむやはり退屈だったかなぁ。義和団の乱で孤立した外国人たちが砦をつくって戦い、援軍が来て助かるという話なのだが、助かるという違いがあるだけで要するに「アラモの砦」ですな。「敵」の弾薬庫を爆破しに行くところなんかもそっくり。チャールトン・ヘストンはアメリカ軍の少佐役だが、まんま騎兵隊。おばさんエヴァ・ガードナーとのちょっとしたロマンスもあるが、どうでもいい感じである。若い頃見ておばさんだなぁと思ったが、今の歳になって見てもあまり魅力のないおばさんだった。後に「お葬式」「マルサの女」などを撮る伊丹十三(当時、一三)がちょっとだけ顔を出すのは愛嬌で、全く役に立っていない。
 で、映画の出来だが若い頃劇場(名古屋の今はなき二番館・オーモン劇場)で観たときもやや退屈だったが今観てもやはり退屈だった。ジョン・ウエインの「アラモ」などもそうなのだが、砦の攻防戦だけで2時間半もたせるのはちょっと辛い。それでロマンスを含めていろいろなエピソードを取り込むのだが、本筋に有機的にからんでこないため煩わしいだけでうまく機能していない。結局のところフィリップ・ヨーダンのシナリオが屑だったのだろう。はからずも、
「一流のシナリオから一流の映画が生まれるとは限らないが、二流のシナリオから一流の映画は生まれない」
 という故・黒澤明監督の名言を立証する形になってしまったのは残念。
 という以上はあくまで映画としての評価で、政治的な観点は入れていない。そして、政治的な観点から映画を評価することには反対なのだが、あえて一言。
 自国に外国の軍隊が駐留してある意味好き勝手なことをしているのを怒るのは当たり前だと思うのだが、それを義和団の「乱」「暴動」として描くのはいかがなものか。この映画、中国で上映できたんだろうか?


星は双葉十三郎さんの採点のパクリ
☆=20点 ★=5点
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今年テレビで見た映画1 [映画の雑感日記]

 今年テレビで見た映画の雑感をランダムに書いていきます(3回予定)。☆★は双葉十三郎さんの採点表のパクリで、☆=20点、★=5点です。

『デジャヴ』 ☆☆☆★★★
 暇つぶしにWOWOWの放送を録画しておいた、デンゼル・ワシントン主演の「デジャヴ 」を見た。「デジャヴ 」とは「既視感」なんて訳されることもあるが、初めて行った場所に前に来たことがあるような気がすることなのだが、映画のストーリーとはちょっとずれているような気も。監督があのトニー・スコットなので、全く期待しないで見た。ヒットした「トップガン」はストーリーは付け足しのようなもので、空中シーンというか戦闘シーンだけのような映画だった。原潜の中での確執を描いた「クリムゾンタイド」も目の付け所はシャープなんだが(←おやじギャグ)話の内容からしてもう20分ほど短くしないと退屈する。あまり予備知識なしに劇場で見たときは開始から20分ほどは本当に眠くて辛かった
 そういえば、デンゼル・ワシントンは「クリムゾンタイド」でも主役だった。まあ、情けない初老の黒人というとモーガン・フリーマンになっちゃうように、正義のカッコイイ黒人というとこの人がキャスティングされちゃうんだろうなあ。問題はないけどね。で、映画の出来は、意外と言ってはトニー・スコットに悪いがおもしろく見られた。ちょっと唐突なところもあるが、「機械」の出し方も悪くはないし、その使われ方も納得のいくもの。重要な機密をそう簡単に教えてしまうかね、という疑問はあるものの、なかなかサスペンスもあって十分に合格点をあげられる。ネタバレになるので内容は書かないが十分2時間楽しめた。ラストの処理も(この手のテーマではタイムパラドックスがどこかに起こるのでそれなりに説得力があればいい)同じ空間に同一人物が2人いるのは問題があるのであれはあれでいいと思う。
 「パッション」でキリストを演じたジム・カヴィーゼルがおいおいというような役を演じている。ただ、彼が「悪魔」が「神」がという科白は、「パッション」を見た観客には、ちょっとだけだが笑えるのだが、見ていない観客には、何のことなんだ?といったところか。


『シンドバッド7回目の航海』 ☆☆☆★★★
 4月からCATVで見られるようになった「ザ・シネマ」チャンネルでレイ・ハリーハウゼンのシンドバッド三部作が一挙放送された。レーザーティスクでの題名は「7回目の冒険」になっていたが、原題はThe 7th Voyage Of Sinbadなので「7回目の航海」でいいのでは。なぜかアメリカではシンドバッドでしなく、シンバッドになっているんだけどね。1958年の作品なのでもう50年も前の映画ということになる。
 話は小さくされてしまったお姫様の魔法を解くというものだが、そんなことはどうでもよく、つじつまがどうこうなんて言わずに神業ともいえるレイ・ハリーハウゼンのモデル・アニメーションを楽しむべき作品である。今ではCGでなんでもできてしまうが、そんなものなかった時代に人形を少しずつ動かしてコマ撮りして作ったカクカク動きが私にはなんとも楽しい(1日作業して10秒なんて話を聞いたことがある)。人間の投げた槍が一つ目の巨人サイクロップスに突き刺さるシーンなど、日本の着ぐるみ特撮に慣れてしまった目には、本当に驚きだった。そのサイクロップスを筆頭に、双頭のロック鳥、ドラゴン、そして骸骨戦士まで盛りだくさんに登場して飽きさせない。もう何度も見ているはずなのについ最後まで見てしまった。ロック鳥しろ骸骨戦士にしろ人間の形をしていないものでも自由に動かせるところがモデル・アニメーションの強みだろう。日本の「ラドン」など東宝の怪獣物として上々の出来なのだが、ラドンが博多の街を歩くシーンなど、いかにも中身は人間ですよという映像で興ざめした覚えがある。骸骨戦士に至っては、そもそも向こうが透けて見えるようなものなので着ぐるみでは絶対に無理である。
 この第一作に続いて「シンドバッド黄金の航海」(★★★☆☆。カーリ神との戦いは、エドはるみさんではないが、グー。さらにご贔屓のミクロス・ローザが音楽を担当しているので併せて☆一つプラス)、「シンドバッド虎の目大冒険」(★★☆☆)と連続で放送されたのだが、だんだんつまらなくなってくるのがこの手のシリーズの定番で悲しいところ。ハリーハウゼンの最高傑作はやはり「アルゴ探検隊の大冒険」(★★★★)だろう。ちなみにギリシア神話を元にしたハリーハウゼン最後の作品「タイタンの戦い」は★★★☆☆。


『ナイトミュージアム』 ☆☆☆★★
 夜になると博物館の展示が動き出す。そんなワンアイデアだけで作られた作品。ティラノサウルスの動きなど最新のSFXを駆使しただけあって、ハリーハウゼンのモデル・アニメーションと比べると動きもずっとスマート。だが、さすがにそれだけではもたないと思ったのか、父子の絆の修復や軽いロマンス、そして窃盗(懐かしや「メリー・ポピンズ」「チキチキ・バンバン」のディック・バン・ダイク。悪役だが、なかなかいい感じのじいさんになっているぞ。あ、相棒のチビデブはミッキー・ルーニーだ)などを入れてみたものの、それだけでワンアイデアの長編を支えるのは辛い。長編には短編の寄せ集めではない長編なりの構成が必要なのだが、それがない。各々のエピソードが散発的でいつまでたっても有機的に重なり合ってこないのだ。これは時間の無駄だったかなと思っていたら、うまくクライマックスに収束していったので驚いた。途中かなりダレルのだが、着地がうまく決まるとなんとなく納得してしまうから不思議である。おかげで☆☆プラス。アッチラを演じている役者が山崎邦正に似ているのも笑えたが得点までにはいたらず。
 ところで、「アフリカのほ乳類」と紹介されているサルはフサオマキザル(字幕でもオマキザルと紹介されていた)は南アメリカのサルなのだが……?


『MI(ミッション・インポッシブル)3』 ☆☆☆★★★
 その昔、「おはよう、フェルプス君」という大平透の声で始まり「……なお、このテープは自動的に消滅する」で終わる指令にわくわくしながら「スパイ大作戦」というテレビドラマがあった。地下からの潜望鏡で見える世界を第三次世界大戦があったかのように見せシェルターから出てきた相手を逮捕させたり、金をしまってある金庫に穴を開ける熱源で金を溶かして持ち去ったり、というちょっとエスプリのきいた「頭脳作戦」がおもしろくけっこう夢中になって見ていた。
 それを劇場用映画にしたのがトム・クルーズ主演のMI(ミッション・インポッシブル)ということなのだが、「頭脳作戦」の部分はほとんどなく、タイトルとテーマ曲だけいただいた全く別のアクション映画と考えたほうがよい。今回がシリーズ3作目で、WOWOWで放送されたものを見た。トム・クルーズ君は「頭脳」ではなく「体力」で危機を切り抜け作戦を遂行するのだが、いやあヘリや戦闘機に銃撃されてもミサイルを撃ち込まれても死にません。彼こそターミネーターなんでしょう。とはいえ、こうしたダイハードぶりは007にもあったことで、別に欠点としてあげつらう気はない。きちんとした説明もなく展開が早すぎるのが難点だが、それでもアクションにつぐアクションで、細かい(いや、かなり大きいか)部分に目をつむれば、それなりに退屈せずに見られる。(以下、ネタバレ)厳しくて理不尽なことを言う局長と理解がありトム・クルーズを庇う直属の上司が登場する。で、局長が黒人で直属の上司が白人とくると、最近のアメリカ映画では黒人が悪役になることはまずない。ははあ、最後には逆の結末になるんだな、とそれだけで見当がついてしまう。なんとかならんもんかね。


『ゲゲゲの鬼太郎・実写版』 ☆☆★★
 これはひどい。有名俳優を大量動員してよくここまでの駄作が作れたと感心?するほどの出来映えである。これならフジテレビが深夜枠でやったアニメの「墓場鬼太郎」でも見ていたほうが、よほどマシである。いやこの映画は「墓場」ではなく「ゲゲゲ」なんだから、というのならこれもフジテレビで放送されたアニメの「ゲゲゲの鬼太郎」のほうがまだマシだと言い直そう(ただし、今放送されていいるものは見ていないので昔の白黒版のアニメね)。
 おおくくりで言って「墓場鬼太郎」の鬼太郎はとてつもなく恐ろしく、「ゲゲゲの鬼太郎」の鬼太郎は正義の味方ということになる。今回は「ゲゲゲの鬼太郎」に話を絞るが、では鬼太郎は何に対する正義なのかというと、悪の妖怪&人間と闘う正義のヒーローなのである。そこのところをこの映画のシナリオは何を勘違いしたのか、大きく踏み外してしまっている。誰もベタな親子の愛情劇を見ようとして「ゲゲゲの鬼太郎」を見に行くわけではない。とくに子どもたちは鬼太郎の活躍ぶりを見に行くのである。ところがこの映画、話はいきなりどうでもいいような迷い道に入ってしまうし、クライマックスも不発といったぐあいで救いようがない。
 せっかくウエンツ君に鬼太郎をやらせたのだから(別に似ていなくても問題はない)正義のヒーロー鬼太郎のかっこいいシーンをきちんと作り、ラストはとてつもない悪の妖怪と闘うという設定にしないと映画がもたない。だめシナリオの結果、猫娘の田中麗奈ちゃんやねずみ男の大泉洋の熱演(二人に免じて☆一つ追加)が全く意味のないものになってしまった。映画館なら「金返せー」と叫びたいところである。



『西遊記』☆☆☆
 フジテレビで放送された連続ドラマはひどいものだった。視聴率としては好調だったようなのだが、ジャニーズおたく、SMAPゆたくではない私には全くよさがわからず、二度ほど見てその後はやめてしまった。そもそも三蔵法師に女優(深津)を使うというのは完全にかつての日テレ・夏目雅子のパクリで工夫がないと言わなければならない。香取・内村・伊藤というトリオも堺・岸部・西田のピッタリイメージトリオに比べるべきもない。また、3人の個性が各々生かされていた日テレ版に比べて今回は香取だけが突出して描かれており、内村・伊藤は影が薄すぎる。もう一つ言えば、随所に出てくるギャグというか悪ふざけ。堺の軽いのりが体格のいい香取ではどうしても重くなってしまうので、どうにも笑えない。志が低くて、つまらないとはどうしようもない。映画ではそのあたりが多少は改善されたのかな、と思って見た。
 「西遊記」には様々な妖怪が登場してくるが、今回は金閣・銀閣編(一部を切り取って長編化するとたいていこの金閣・銀閣か牛魔王になる)。名前を呼ばれて答えると吸い込まれる瓢箪も登場してくる。が、ううむ……ともかくお子さま向けに作ったんだろうね。戦いのCGのスピード感などなかなかのものだが、たとえば最後の金閣との闘い。それまであちこちに倒れていた兵士たちどこへ行ったんだろう。金閣の手裏剣でみんなかなりの深手を負ったはずなのに、建物をでたら治ったように見えるのはどういうことなんだろう。おっさんには、そういった細かいところが気になって十分には楽しめなかった(ま、「鬼太郎」よりはマシだったが)。
 俳優では、お姫様役の多部さん、変な顔でとてもお姫様の気品はないのだが、科白もしっかり言えていて、動きもなかなかにシャープでいい。突如出てきた女性は、あれれーっ「医龍」のミキちゃんこと水川さんじゃないか。なんで出てきたんだろうと思っていたら、奥様に「ドラマのときも出ていたから」と言われた。なるほど。それと、最後に出てきた国王はなんと三谷(出たがり)幸喜ではないか。あの時代にメガネはあったのだろうか?


『昆虫大戦争』☆☆★
 タイトルだけは知っていたが、見るのは初めて(チャンネルNECO)。1968年というからもう40年前の松竹映画である。当時の冷戦状態を反映して行方不明の水爆をめぐって東西のスパイが入り乱れ、そうした原水爆戦争の巻き沿いはごめんだと昆虫たちが人間を襲うという(昆虫の毒に犯された主人公が、昆虫の言葉!として語る)、とんでもない珍品というか駄作だった。
 主人公は当時メロドラマなどで人気のあった園井啓介。瞳麗子さんが精神異常をきたした黒人に襲われるところも肩が露出するだけというサービス不足。「くいしんぼうバンザイ」の川津祐介も死に、なんだかめちゃくちゃの展開だなあと思っていたら、最後に水爆が爆発しボートで逃げた新藤恵美以外は全部死んでしまうという意外?な終わり方。というか、作る方もわけがわからなくなってしまって、ええいみんな殺して終わりにしてしまえというやけくそのラスト。だいたい昆虫といっても映し出されるのはハチの群ばかりで、群れのときは明らかに撮影が簡単なミツバチなのに、人を襲う顔のアップになると突然スズメバチになるといういいかげんさ。この映画が公開された1968年にはあの「2001年宇宙の旅」も公開されており、日米の映画作りの落差を痛感しないではいられない。
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今年テレビで見た映画2 [映画の雑感日記]

☆★は双葉十三郎さんの採点表のパクリで、☆=20点、★=5点です。

「HERO」☆☆☆★
 WOWOWで放送された「HERO」を見ました。
 大物代議士のアリバイを証明しているはずの人間が実はその時刻に傷害致死事件の容疑で逮捕起訴されていて……(つまり、その容疑者が有罪になっては代議士のアリバイが崩れてしまう)という話は1本の映画の骨格として十分なものがあります。ですから、その方向でもっと突き進んでもらいたかったのだが、というのが見終わっての率直な感想です。せっかくおもしろい骨格を設定したのに、たとえば韓国のシーンにあれだけの時間が必要だったのでしょうか。イ・ビョンホンの特別出演は置いておくとして、話を長時間韓国に振ってしまったため(お金を使って韓国ロケをしたんだからという馬鹿な理由だと思います)、話の流れが寸断されてしまっています。
 また、映画なんだから出演者も豪華にしたいということなんでしょうが、中井貴一と綾瀬はるかは出す必要があったのでしょうか。映画で初めてこの物語を見る人や前回のSPを見ていない人には何でこの2人が出てきたのかわからないでしょう。SPを見た人だって、何でこの2人を出したのか理解できないでしょう。携帯写真を皆で探すくだりもやや長すぎ。
 130分くらいの長さの映画ですが、このへんを削れば20分はゆうに短くなります。で、その分を法廷でのキムタクと染五郎(親父の方ですよ。松本幸四郎というと私には先代の印象が強くどうもピンときません)の丁々発止のやりとりに回してもらいたかったと思うわけです。伝説的とも言える辞検の辣腕弁護士にしては染五郎がたいしたことを言っていないのが残念です。タモリ(政治家で証人なんだから法廷ではサングラスぐらいはずせよ)が追求されたときなるほどの論陣を張ってくれれば、もうひと盛り上がりあったのにと惜しまれます。「スキヤキ・ウエスタン ジャンゴ」でも怪演を見せた香川照之がもうけ役。
 まあ、がんばって作った2時間ドラマだと思えば合格点だが、1800円払って映画館で見たらちょっと不満が残ったかも。


「スキヤキ・ウエスタン ジャンゴ」☆☆☆★
 WOWOWで放送された「スキヤキ・ウエスタン ジャンゴ」という珍品を適当に見ました。巻頭「キル・ビル」の監督タランティーノがいきなり香取慎吾を撃ち殺すというとんでもシーンから物語は始まります。で主人公の伊藤英明がやってきたところは源氏と平家がまっ二つに分かれて争っている町。と書けばこれはもう黒澤の「用心棒」というか、それをパクッて問題になった「荒野の用心棒」そのもの。伊藤君、何となくクリント・イーストウッドに似てるしね。舞台は日本のようなのですが、会話はすべて英語で服装はもろ西部劇。武器はピストルです(雰囲気としては西部劇というよりタイトル通りマカロニ・ウエスタンですな)。ま、その後の展開はちょっとたるいし、ラストのクライマックスでちょっと愁嘆場があるが、その間ほかの闘いはどうなってたんだという下手な演出があったりします。いきなり雪が降ってきてあたり一面雪景色になるのは特別出演してくれたタランティーノ「キル・ビル」ラストへのオマージュでしょう。一瞬の間での雪景色への変化に「なぜ?」と疑問をもってはいけません。黒澤「用心棒」で三船が刀で仲代がピストルだったのを攻守所を変えたのはちょっとおもしろい。木村佳乃さんも頑張ってはいるけど美人度と色気がちょっと? 佐藤浩市はガトリングガンぶっぱなす快演(これも「荒野の用心棒」に似たシーンがある)でさぞ゛かし気持ちよかったろうと推測。あ、ぶっ放すと言えば桃井かおりさん、ラストで頑張りました。香川照之は竹中直人ばりの怪演ですが、竹中ほどくどくないのがいい。残された少年はその後イタリアに渡りジャンゴ(ってえことは「続・荒野の用心棒」のフランコ・ネロ)になりましたとさ。というような映画なのですが、見ていてソファから転げ落ちそうになったのは最後の歌。「続・荒野の用心棒」の「ジャンゴ……」という歌が流れてきたのはまあ予想の範囲内だったのですが、なんと歌っているのが大御所・北島三郎。ギターを三味線に換えた伴奏に見事に乗って歌います。よっ、さすがサブちゃん!


「バルジ大作戦」☆☆☆☆
 NHK-BS2で放送された「バルジ大作戦」を(昼間の放送だったので)録画しておいて見ました。この70mmシネラマ大作は封切り当時、予備校のレクリエーションということで今は亡き中日シネラマ劇場へ実に照ったのでとくに思い出があり、以前こんな雑文を書いたことがあります。
「「バルジ大作戦」は、第二次大戦末期にドイツ軍最後のといってもいい総反撃に出たアルデンヌの戦いを描いた70mmシネラマ大作。私は、この映画を予備校の映画鑑賞会(いつも勉強ばかりしていて息がつまるだろう、たまには息抜きも必要だよ、という暖かい配慮である。弁当もついていた)で、中日シネラマ劇場へ見に行った。ともかく戦車大隊の迫力に圧倒された。後年のこれも作品としての出来は悪くないアカデミー賞受賞作品「パットン大戦車軍団」と比べてみても、戦車の迫力は質量共に断然こちらの方が上である。今時のCGでは決して味わえない迫力がここにあると言っておこう。また、戦車大隊長のロバート・ショーが完璧なはまり役で、実にいい。ショーと言えば「007ロシアより愛をこめて」のスメルシュの殺し屋や、「ジョーズ」のサメ殺し漁師クイントが有名だが、彼のキャラクターが最も決まった役と言えばやはり「バルジ」の戦車大隊長ヘスラー役だろう。クライマックスにもう一工夫ほしかったかな、という気がしないでもないが、ラストでロバート・ショーの身の世話をしていた老人が鉄砲を捨てて帰路につくあたり、戦争の虚しさも訴えてなかなかうまい締めくくりである。」
 ケン・アナキンという監督はどちらかというとマイナーな二流監督でしたが、前作の「素晴らしきヒコーキ野郎」とこの「バルジ大作戦」だけは大画面のよさを十二分に生かした傑作でした。


「暗黒街の顔役」☆☆☆★
 「日本映画専門チャンネル」で岡本喜八監督の「暗黒街の顔役」をやっていたので録画して見てみました。岡本監督の作品では「独立愚連隊西へ」が一番好きですが、この監督の作品にははリズムが感じられます。ジョン・フォードの「駅馬車」が好きだということですから、あのリズムを出そうという演出を心がけていたのでしょう。この作品もハードボイルドのリズムがとても切れ味よく、日活アクションよりは確実に一枚上です。ともかく鶴田浩二がカッコイイです。特別出演の三船は町の自動車修理工場の経営者。「独立愚連隊」のときの気のふれた隊長といい、岡本作品の三船は変な役が多いです。今回も電気ドリルを持って暴れます(^_^;。岡本作品常連の佐藤允はかっこいい殺し屋で登場するものの意味もなく死んでいきます(^_^;。まあそういった、人は死ぬときには簡単に死ぬ、という戦争体験に裏打ちされた岡本監督のこれも味でしょう。ただ、ラストはいくら何でもちょっと呆気なさすぎませんかね。もう一がんばりラストにクライマックスを設定してもらいたかった。そこだけが惜しまれます。続編(といっても役柄の設定などは全く別もの)の「暗黒街の対決」もやってくれないかなあ。


「ドグラ・マグラ」☆☆☆★★
 雨であまり外へ出る気もしないので(歳をとってくるとそうなります。暑い、寒い、雨だ、雪だ、風が強いなど外出しない理由を常に探しています)、先日CATVの「V☆パラダイス」で録画しておいた「ドグラ・マグラ」を見てみました。「キチガイ」という言葉が氾濫する映画なので、地上波ではちょっと放送できない作品です。「V☆パラダイス」はチャンネル名の通りVシネマを放送するチャンネルで、日本ものだと「くりいむレモン」、洋ものだとラス・メイヤー作品などけっこうお色気ものが多いのですが、ときどき原一男の傑作ドキュメント「全身小説家」などの異色作も放送するという変なチャンネルです。で、この「ドグラ・マグラ」、私の記憶ではもう20年ほど前の作品です(そういえば正木教授を怪演した桂枝雀が自殺したのが10年ほど前だったと思います。いやはや月日の経つのは早いものですなあ)。
 原作は学生時代に三一書房の夢野久作全集の一巻で読みました。ともかく一人称の視点で押しまくった長編で、すべての事象がその視点の主観を通過したものであり、また主人公は精神異常者だと言われ本人もそうかもしれないと思っている部分があるため、いったい何が真実で何が虚構なのか判然としないので、読む方も深い霧の中を彷徨っているような感じになってきます。ストーリーばかりを追うことをせず、主人公といっしょに自分探しの旅にでも出たつもりで読めばなかなかおもしろい小説です。ある意味、一人称という視点を最大限に生かした小説の一つと言えるかもしれません。
 しかし、映画は主人公の姿も含めて外面から映し出すわけですから、果たして原作の一人称のおもしろさが出せるのかどうか。結論から言うと、傑作にはなりませんでしたが「がんばりましたねえ」と言ったところでしようか。原作を読んでいる人間が見ても、それなりに納得できるできにはあります。ただ、いきなりこの映画を見たら「なんのこっちゃ。わけわからん」となる可能性大ですが、まあ原作が原作ですから、と言っておきましょう。最後に、原作に出てくる美少女役の三沢恵里さん、美少女というにはもう一つでしたが、体は完璧に少女でした。


「ゴーストライダー」☆☆☆★
「パンドラ」☆☆★★★
 WOWOWで「ゴーストライダー」という映画をやっていました。ウエスタンに「ライダース・イン・ザ・スカイ」という有名な曲があります。西部劇の時代のゴーストライダーは馬に乗っていましたが、現代のゴーストライダーはバイクに乗っています。主役はB級アクションの雄ニコラス・ケイジで、この人ちょっと貧相くさいというかもともと骸骨っぽい顔をしているところがいいですね。メフィストを懐かしや「イージーライダー」のピーター・フォンダがやっているのはライダーつながりなんでしょうか?
 アメリカ映画の悪魔がどうのこうのという映画にはもうたいていうんざりしていて、この「ゴーストライダー」も退屈な映画なんですが、「300」のようなどうしようもないシロモノを見てしまうと、ま、これはこれでいいか、と寛大な気持ちになってしまうから不思議です。
 WOWOWでは初の連続ドラマ「パンドラ」というのもやっていましたが、収集がつかなくなったらどんどん登場人物を殺して終わらせてしまうという、かつてのピンク映画の結末ような芸のない手法で、とりたててどうこう言う気になれません。ボールは一応外野まで飛んだがフェンスの前で急速に勢いをなくし、難なく捕られてしまったといったところでしょうか。
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今年テレビで見た映画3 [映画の雑感日記]

☆★は双葉十三郎さんの採点表のパクリで、☆=20点、★=5点です。

奇跡の傑作「ビッグウエンズデー」
☆☆☆☆★
 7/21は海の日ということで新聞にはなんとカラー4面にわたってパチンコ「海物語」の広告が載り、WOWOWでは「ビッグウエンズデー」が放送されていた。それにしても、この「ビッグウエンズデー」という映画、不思議な映画である。なんといっても監督が「コナン」や「レッドドーン」などどうしようもない駄作を連発するジョン・ミリアスというのが驚かされる。ようするに下手なんですね。それも並の下手さじゃない。よくこれで監督の仕事がくるなぁ、とびっくりするほどの下手さなのだ。その下手さかげんはもちろんこの「ビッグウエンズデー」でも発揮されていて、つなぎはいいかげんだしストーリーも一貫性がない。そのせいもあるのだろう、今でこそサーフィン映画のバイブルのような言われ方をしているが、70年代の公開当時、私は映画館へ見に行ったのだが、がらがらだった。確かにサーフィンが軸になっていることは確かなのだが、サーフィン映画というにはそれ以外のシーンが多すぎる。メインの3人以外の人物の整理もできていないし(うまくいっているのはかろうじてサーフボード屋のおっさんくらいか)、ベトナム戦争の扱いも全体のバランスを崩している。ストーリーとほとんど関係なくロメロというサーフィンの達人が登場してしまうのも、ある意味すごい。
 というわけで、分析的に見ていくと、いいところは一つもないような映画なのだが、ところが見終わると何ともいえない熱いものが心に残るのである。つまり、「傑作」なのである。凡庸以下の監督が傑作を作ってしまったのだ。これは「奇跡」と言っていい。おそらくミリアスはサーフィンに熱中した自分の青春時代を懐かしみ、ルーカスの「アメリカン・グラフィテイ」のようなノスタルジック映画を作ろうとしたのだろう(「ロコモーション」の音楽の使い方などにそれがでている)。が、それだけに終わらなかったのは、主人公たちがもう一度集まってチャレンジするというラストが普遍的なテーマを内包していたためと思われる。ということはわかるのだが、TBSの「あらびき団」で東野にくそみそに言われたコンビがM1グランプリをとったようなものである。不思議だ。


「ウエストサイド物語」とタッカー・スミス
☆☆☆☆★
 タモリではないが、子どもの頃、ミュージカルというものが嫌いだった。ただこの映画はアカデミー賞を10もとったし、話題にもなっているから一応見ておこうかと当時の洋画の行きつけの二番館「オーモン劇場」で見たのは高校生のときである。いや、正直びっくりしました。驚きました。ビデオなどまだない時代、慌ててLPレコードを買いました。今ではもちろん「ウエストサイド物語」のビデオもLDもDVDも持っているのに、CATVの「ザ・シネマ」で放送されていたのでついつい見てしまった。文学や音楽でもそうなのだが、映画にもその映画を見るのにぴったりの年齢というものがあるのはまちがいない。今見るとこの映画に十代の頃見たときのような感動はないのだが、それでもそれなりに緊張感をもって見られたのは、やはり若者映画だけにとどまらない何かがあるのだろう。
 さて、今はなき二番館「オーモン劇場」は当然のように入れ替え制ではないので入ったら(あとからわかったわけだが)ちょうどリフとベルナルドが死んだ直後のシーン。話もよく知らないのでとりあえず見ていたら始まったのが「クール」というナンバー。歌といい踊りといい最高のミュージカルナンバーで、これ一発で私は「ミュージカル嫌い」の旗を降ろすことになった。私はそのまま「ウエストサイド物語」をラストまで見て、題名も忘れてしまったもう一本の映画を見て(たとえどんな大作であろうとかたくなに二本立てが守られていた)、今度は「ウエストサイド物語」を最初から最後までまるっと見たのである。途中から見て、ということは結末がわかっていてももう一度最後まで見た、ということはとりもなおさず名作の証だと思う。
 そして、このときジェット団の副団長で「クール」の中心になっていたのが、タッカー・スミス。背が高くて踊りも迫力があって、かっこよかったなあ。日本公演のときはジェット団団長リフに昇格し、「クール」のナンバーを披露している(映画と舞台では歌の位置などかなり大幅に異なっており、映画では決闘の後に置かれている「クール」は、舞台では決闘の前に置かれリフが中心に演じられる)。ちなみに、以前持っていたブロードウエイオリジナルキャスト版を見るとジェット団の副団長アイスという名前は見当たらないので、映画のタッカー・スミスに「クール」をやらせたいためだけに作られた役なのかもしれない。タッカー・スミスはブロードウエイでもリフ役もやっていたので、彼の「クール」はそれほど定評があったのだろう。そのタッカー・スミス、そういえばとんと名前を聞かないけれどどうしちゃったんだろう、と思って調べてみたら1988年に咽頭がんで亡くなっていました。52歳。合掌。


「眼下の敵」
☆☆☆☆
 昔録画してあった「眼下の敵」を久しぶりに見た。「眼下の敵」は駆逐艦VS潜水艦の息詰まる戦いを一種ゲーム感覚で描いた傑作で、駆逐艦艦長のロバート・ミッチャムも悪くないが、何と言っても潜水艦(Uボート)艦長のクルト・ユルゲンスの演技が光る。どちらかといえばミッチャムの方に視点が置かれているが、ユルゲンスにも十分配慮がされており、このあたりが(複眼的視点のもてない)スピルバーグ的お子様映画と違う点である。途中ちょっとダレるところがあるのがちょっぴり残念。実測98分のこの映画、後10分カットすれば緊張感の持続する傑作になったのにとは思うものの十分に楽しめる佳作であることはまちがいない。特筆すべきはラストの鮮やかさで、以前「映画の終わり方」という雑文でこんなことを書いている。
「アメリカの駆逐艦の艦長ロバート・ミッチャムがロープを投げたために、助かったUボートの艦長クルト・ユルゲンスがこんなことを言う。『今まで死ぬべきところで死ねなかった。しかし、今回は君のせいだぞ』。ミッチャム『知らなかった。今度は、ロープを投げないでおこう』と、すました顔をして答える。するとユルゲンスは言うのだ。『いや、また投げるよ』。そこでカメラは引きになり、広大な大西洋をバックにエンドマークが入るのだが、敵味方を越えた海の男の心意気を示して気のきいた実に余韻に溢れた終わり方できないか。」
 今回も座布団三枚ほど進呈したくなった。体操競技などもそうだが、着地がうまく決まると全体の印象が2〜3ランクは上がる。「エル・シド」や「華氏451」などが典型だが、この「眼下の敵」も十分にその仲間入りできるラストシーンである。いわゆる「潜水艦もの」としては「クリムゾンタイド」「Uボート」「レッドオクトーバーを追え」、古くは「海の牙」などがあり「海の牙」はルネ・クレマン監督の傑作なのだが、私は作品の格としては多少落ちてもこの「眼下の敵」が一番好きだなあ(ちなみに「眼下の敵」劇場では、大昔に栄の東映地下で「頭上の敵機」と二本立てでやっているのを見た。この映画館、けっこう二本立ての組み合わせに凝っていて「大脱走」+「大列車作戦」なんて組み合わせもありました)。


「大ヒット映画の巨匠たち」
 昔、キネマ旬報から出た「世界の映画作家」というシリーズの「大ヒット映画の巨匠たち」というムックが定価1700円のところが古本屋で200円。さらに本日すべて2割引ということで買ってきました(160円のところさらにサービスで150円)。出版されたのが1980年と古いので「タイタニック」のジェームズ・キャメロンなどは入っていませんが、それでもキャプラからコッポラまで網羅していて初めて知る記述もありそれなりに楽しめます。もちろん私と感じ方がずいぶんちがう論評もありますが、映画の受け取り方は見る人の年齢・境遇などによりそれぞれなので文句はありません。
 が、ただひとつ「荒野の用心棒」セルジオ・レオーネの項だけはちょっといただけませんなぁ。書いているのは二階堂卓也という映画評論家ですが、レオーネの、「荒野の用心棒」は黒澤明の「用心棒」にインスパイアされたもので盗作ではないという発言に、「これを『弁明』ととるか、『いいのがれ』ととるか、その判断はきわめて難しいと思われる」なんて書いています。馬鹿も休み休み言え。寝言は寝てから言え。
 ある町に対立する集団があり、そこへ凄腕の男がやってくる。飲食屋と棺桶屋があり、男はいきなりその腕前を見せる。一方に残酷な男がいて、他人の人妻を無理矢理自分のものにしている。凄腕の男はその人妻の一家を救ってやるが、囚われ暴行を受ける。飲み屋のおやじも捕まって縛り上げられる。そして、最後の対決。悪い奴らを一掃した凄腕の男はまたどこかへ去って行く、と両者のお話は全く同じ。これを盗作でないとすると、世の中に盗作というものはなくなってしまいます。にもかかわらず、二階堂さん「(両者は)比較することができない。どちらも文句なしにおもしろいからだ」と的はずれのトンチンカンなことを言い出す始末。この人、馬鹿ですかね。それとも、レオーネさんからお金でももらったのでしょうか???
(ちなみに、「荒野の用心棒」の続編「夕陽のガンマン」さらにその続編「続・夕陽のガンマン」と見ていくと、結局のところ「荒野の用心棒」だけが傑出しておもしろく、そのおもしろさの大半は黒沢「用心棒」を盗作したおかげであることが、よくわかります。)


「スリーピー・ホロウ」
☆☆☆★★★
 BSiのサタデーシネマで「スリーピー・ホロウ」を見ました。10年近く前の映画だが、監督・ティム・バートン、主演・ジョニー・デップという名前にひかれて見たわけです(正確には以前、導入部分を見ておもしろそうだなと思ったのですが、出かける用事があって全部は見られませんでした)。アメリカでは有名な怪談らしいのですが、首なし殺人事件が連続して起こり、合理主義者を自認するNY市警の「調査官」デップが乗り込んで行くと……、という話で実際に首なしの騎士がでてきて次々と殺人を犯していきます。ま、謎解きはどうでもいいようなものなのですが、感心したのはティム・バートンの色彩感覚。この人、「バットマン」にしろ「シザーハンズ」「マーズ・アタック」にしろ、あるいは私には退屈だった「PLANET OF THE APES/猿の惑星」「チャーリーとチョコレート工場」にしろ色へのこだわりは人一倍、いや人十倍です。今回もスリーピー・ホロウ村では全編アンダートーンのブルー色調で、最初と最後のシーンは普通のカラー色調という凝りよう。村の建物や怪物のようにに見える森の木々などいかにもゴシック・ホラーだぞといった造形でけっこう怖いです。ま、怖いといえばヒロインの女の子がかなり怖い顔をしていて、謎解きが終わったあとも私はこの女の子が……と思っていたのですが、さすがにそれはありませんでした。
 デップ様、さすがに若い。服装も決まっていてかっこいい若者なのですが、クモを見るとウキャァと跳び上がったり、森が静かすぎると怯えたり、首なしの騎士の怯え方なんぞ吉本芸人でもちょっとできないくらい笑えます。役者やのう。首なしの騎士(の首がついている部分)を演じているのはクリストファー・ウォーケンですが、メイクのせいなのかこの人、クリームシチューの有田に似ていますね。また、冒頭に出てくるNY市長をやっているのだかのドラキュラ役者クリストファー・リー(若い人には「スター・ウォーズ2」のドゥークー伯爵といったほうがわかるかな?)なのですが、当たり前のこととはいえ、これは全然怖くなかったですね。


「アーサーとミニモイの不思議な冒険」
☆☆☆★★
 WOWOWで「アーサーとミニモイの不思議な冒険」というCGと実写をごちゃまぜにしたような映画を放送していました。半分時間つぶしのつもりで見始めたのですが、意外におもしろくて最後まで見てしまいました。ミニモイの国が別世界にあるのではなく、現実の世界の中にあるという設定がうまく生かされていました。監督は「グランブルー」「フィフス・エレメント」「ジャンヌダルク」「ニキータ」などのリュック・ベッソン。「バイオ・ハザード」のミラ・ジョボヴィッチと離婚以来このところ不振が続いていましたが、これは名作ではないにしても合格点のできです。ラストのカットやそれに続くクレジッタタイトルもしゃれていて、フランスなんだなあという感じがします。
 えー、それとアーサーをやった男の子(実写のほうですぞ)は「チャーリーとチョコレート工場」の男の子らしいのですが、あの映画私には退屈で(デップファン怒るな)途中で見るのをやめてしまったので全く印象に残っていませんでした。それにしてもミア・ファーローがおばあちゃん役とは。こっちも歳をとるわけですなー。
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年末年始にテレビで見た映画 [映画の雑感日記]

「チーム・バチスタの栄光」 ☆☆☆★
 別のところにすでに書いたが、原作は人物像が明確ではなく、渾名付けなどにも意味はなく、ミステリとしても犯人像が希薄であまり楽しめなかった。また、フジの連続ドラマは話を延ばすのと犯人当ての弱さを補強するためいろいろがんばったのだが、後半の創作部分が安易で残念な結果に終わってしまった。が、それだけに話自体2時間程度のものと考えれば、ちょっと期待が高まるというものである。
 日本映画専門チャンネルで放送されたのでさっそく見てみた(ゴジラ・シリーズもそうだったが、このチャンネル画質がいいのがうれしい)。破天荒な白鳥を阿部ちゃんにし、田口を竹内にしたのはドラマのビーバップ+電車男よりよほどよい。白鳥のような役人がいるわけはないのだが阿部の変人ぶりは妙なリアリティを感じさせる。ビーバップも悪くはなかったのだが、国1を受かりそうに見えないところが減点。竹内もよく見るとボケ顔で感情過多の電車男よりよほどよい(患者の愚痴を聞いてやる医者?なので感情過多では失格だろう)。ただし、執刀医の桐生は映画の吉川よりドラマの伊原のほうがそれらしかったかな。吉川はちょっと天才外科医には見えない。
 犯人の動機は原作でもかなり苦しいものがあったが、この映画を見て納得できた人がいただろうか。原作の海堂尊はこれが処女作のようだが、実は意外でも何でもない犯人を意外な犯人にしようとするあまりびびって隠そうとし結果として犯人のキャラクターを印象の薄いものにしてしまっている。こういうところこそ、シナリオでうまく伏線をはってもらいたいところなのだが、さらに唐突なものになってしまって、残念。
 また、病院内のシーンが多いため場面の変化をつけるため、唐突にソフトボールのシーンやロックのシーンが挿入されるが、流れを中断するだけで逆効果になっている。放送後の対談で軽部は「ソフトボールのシーンが印象的で……」て言っていたが、馬鹿だね。監督の中村義洋は「(ソフトボールの)撮影は楽しかった」とだけ言っている。外部の圧力で入れざるを得なかったのではないか。「ゴッドファーザー」や「エクソシスト」のシーンを参考にしたと楽しそうに語る監督である。部屋の中だけであれだけのドラマを作り上げた「12人の怒れる男たち」を見ていないはずはないと想像するのだが。


「アイ・アム・レジェンド」 ☆☆☆★
 原作のリチャード・マシスンは、昔ハヤカワSFシリーズで読んだ「吸血鬼」(←邦題。この映画の原作)があまりにつまらなかったので、スピルバーグの「激突」にかかわっているなんて聞いてもどうもピンとこない。この作品は30年以上前の公開当時見て死ぬほど退屈だったチャールトン・ヘストン主演「オメガマン」のリメーク(そのまえにすでに映画化されているという話を聞いたことがあるが、未見)。
 「オメガマン」よりはいくらかスピーディーな処理がされており、CGの発達もあって廃墟のニューヨークのシーンなどそれなりの作品には仕上がっているが、展開がたるいので退屈なことにはかわりがない。そもそもウィル・スミスが全く研究者に見えないところが痛い。
 前半、イヌと2人だけの展開が続くが、こういうシチュエーションでは絵によほど力があり、展開に緊張感がないともたない。このままでは、持たないぞと思っているとゾンビを出してきた。ウイルスに感染したイヌもでてきて、主人公を守るためにそのイヌが死んでしまうと、1人っきりになったウィル・スミスはやけくそになって自殺行為。とても科学者・研究者のやることとは思えない。しかも、ゾンビにやられそうになったところに、それまで影も見えなかった正常な人間が登場して救われるとは、信じられないほど運のいい人間である。ラストにはとくに詳しい説明もなしにどういうわけか血清がきいたことになり、ウィル・スミスは血清とそれを持っていく人間を守るために自爆(あ、ネタバレ書いてしまったが、ま、いいか。)。お手軽、偶然、安易、適当の見本のようなストーリー展開である。こんな映画が世界的にヒットしたなんて、ちょっと信じらない、デス。
 最後にどうでもいいこと。ウイルスが広がったのは2009年、つまり今年。まさか新種のインフルエンザ・ウイルスなんてものが登場するってことはないでしょうな。


「飢餓海峡」 ☆☆☆★★★
 日本映画専門チャンネルで「飢餓海峡」が放送されていた。東宝映画がメインのチャンネルなので東映映画の放送はちょっと珍しい。内田吐夢監督の「名作」として定評がある映画でモノクロ・シネマスコープ3時間の大作。主人公の三國連太郎、ヒロインの左幸子、刑事の伴淳三郎なかなかいい味出している(同じく刑事役で高倉健が出ているが、今見ると別人のように若いし、オーラが全くないので笑えます)。画面も当時の社会状況(事件は1954年に青函連絡船洞爺丸が沈んだ事件をモデルにしているので、戦後がまだ色濃く残っていた)や主人公の心情を反映したようなざらざらしたタッチで飽きさせない。内田吐夢という監督は、「宮本武蔵」五部作の「一乗寺下り松の決闘」などでもそうなのだが、モノトーンの画面でざらざら・ぎらぎらした質感を出すのがうまい。長い映画だがあまりだれるところもなく最後まで見られる。ただ、これは別のところでも書いたのだが左幸子が樽見=犬飼(三國連太郎)だと気づくシーンでかなり長く左幸子の独白が流れるのはいただけない。このシーンのおかげでマイナス★一つとなった。こんなに長く独り言を言っているのは不自然極まりないので、まあ心の中の声ということなのだろうがそれにしても不自然さは否めない。そうした心の動きを声に頼らず、表情などできちんと表現するのが監督の力量だと思うのだが、娯楽路線一筋の東映路線の中での作品なので、上層部や観客に配慮したのだろうか?
 この映画の音楽が、「ジャングル大帝」の作曲者でシンセサイザー奏者でもある冨田勲であることは、今回クレジットを見ていて初めて気づいた。こんなころから仕事してたんですねえ。
 「飢餓海峡」は何回かテレビドラマにもなっていて、樽見・高橋幸治、八重・中村玉緒、刑事・宇野重吉がやったNHKのものは最初のほうだけ見た記憶がある。樽見・山崎努、八重・藤真利子、刑事・若山富三郎のものは昼のドラマだったが風邪で会社を休んでいて偶然テレビをつけたらいきなり藤真利子のヌードシーンがあり「おおっ」と起きあがって見た記憶がある(←これでは熱が下がるわけがない(^^*)。その後、ショーケンが樽見で仲代が刑事だったものがあったように記憶しているが、見ていない。


「あさき夢見し」 ☆☆☆
 実相寺昭雄といえば顔もオカルトチックな監督だった。一般には「ウルトラマン」の監督として知られているが、彼が「ウルトラマン」に関する本を書いたりしているためで、実は監督した作品はそんなに多くはなかったと思う(黒部進がウルトラマンのフラッシュビームとカレーライスのスプーンを間違えるという有名なシーンのある作品は実相寺の演出だが、黒部がテーブルを離れるときスプーンを置いていくのがはつきりと見えるので、実はうまくつながっていない)。「怪奇大作戦」の「京都買います」などもカルト的人気がある。後に映画の「ウルトラマン」や「ウルトラQ ザ・ムービー」なども撮ったせいか、すっかりウルトラの顔になってしまったが、ウルトラに関心のない人には「帝都物語」の監督といえばわかりやすいだろうか。私には、「無常」「曼陀羅」そしてこの「あさき夢見し」などATG(昔、「アートシアターギルド」という組織があり、「芸術」映画を輸入したり制作していたんですな)の監督という印象が強い。
 ともかく映像優先の監督で、とくに色や光の処理やレンズの使い方に独特のものがあった。後年、監督をした「ウルトラマン・ティガ」やオムニバス「ユメ十夜」の中の1作など、映像を見ただけで、「あっ、これは実相寺作品だ」とわかるくらいである。そういう意味ではたいしたものだと思う。
 ただ、このての映像優先監督はあのキューブリックも含めて、よほどきちんとしたシナリオで枠組みを作ってやらないと、支離滅裂でわけのわからない作品になってしまう。この「あさき夢見し」も所々にはっとするような鮮烈な場面はあるのだが、いかんせんそれがつながっていかない。ま、時代は13世紀ということになっているが実相寺が描こうとしているのはどこにもない世界なのでとくに王朝物ということにこだわる必要はない。その意味ではジャネット八田のような日本人離れしたコユイ女優をヒロインに持ってきたのは成功といえるかもしれない。が、裸はほんのちょっとなのでそちらを期待した人はがっかりかも(実は、私もその1人だったりして(^^*)。


「スカイキャプテン ワールド・オブ・トゥモロー」 ☆☆☆
 こんな映画があることは知らなかった。全編セピア調というか退色したカラーフィルムのような色彩のオールド冒険ファンタジー映画。劇中映画館で上映されているのが「オズの魔法使い」なので時代設定は1939年頃。つまり、その時代に想像されていた未来世界の物語と言ったらいいのかもしれない。巨大な飛行船、空水両用のプロペラ戦闘機、全身リベットの塊のような巨大ロボット、アナログ式の丸型メーター、人類絶滅の地球浄化計画(World Of Tomorrow計画)を企むマッド・サイエンティスト……、要するにかつてのアメコミやSF雑誌の挿絵をスクリーンで動かしたような映画だった(クリストファー・リーブの「スーパーマン」の第一作冒頭のモノクロ映像やフリッツ・ラングの「メトロポリス」の雰囲気である)。ヒロインが持っているカメラがフィルムというのも当たり前。配役もジュード・ロウ、アンジェリーナ・ジョリーとなかなかに豪華。とはいえ、あまりの通俗ステレオタイプ映画なので通して見るとやや退屈。明らかに「フラッシュ・ゴード」などいわゆる連続活劇のイメージを狙っているのだから、多分、1時間の連続テレビ映画あたりだともう少しおもしろくなったのだろう。
 今回見たのはWOWOWでの放送だったのだが、この映画すでに「ザ・シネマ」でも放送されている。「ザ・シネマ」については、いつもその画質のひどさについて悪口を言っているのだが、この映画については「ザ・シネマ」もWOWOWもあまり画質に違いがないように感じられた。退色したカラーフィルムのような色彩と、全編ソフト・フォーカスという手法のため。この手の映画にどうこう言うのも大人げないが、これが初長編というケリー・コンラン監督あまり大画面に慣れていないようで、スクリーンに映されたときのイメージがうまくできないのか、ちょっと顔のクローズ・アップ多すぎ。テレビだからよかったものの、映画館のスクリーンにこんなに顔のアップが頻出すると退屈しまっせー。

☆★は、尊敬する映画評論家・双葉十三郎さんの採点方法のパクリで、☆=20点、★=5点

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NHKBS-2の黒澤映画ベスト5 [映画の雑感日記]

NHKBS-2の黒澤映画ベスト5
 NHKBS-2では去年(2008年)、黒澤明の全作品を放送したが、視聴者から再放送の要望の多かったベスト5を先日放送。今日(2/7)が最終日で「七人の侍」が放送されている。
1「七人の侍」
2「赤ひげ」
3「用心棒」
4「生きる」
5「天国と地獄」
 という、まあある意味妥当な結果である。ほとんどの人が異論のない結果だと思う。以前、私が雑文に書いたベスト5もは、
1. 七人の侍
2. 隠し砦の三悪人
3. 用心棒
4. 羅生門
5. 生きる
(次点・天国と地獄)
 ということで、「誤差の範囲」に収まっている。処女作の「姿三四郎」や仮家を造るときの迫力に圧倒された「デルス・ウザーラ」(アカデミー外国映画賞受賞)などもいい作品だが、ベスト5ということになると上のような結果に収まる。
 「七人の侍」の1位は以前どこかの雑誌が行った日本映画のオールタイム・ベスト10でも1位だったのでまあ予想通り。野武士はなんで執拗に襲って来るんだ、奪ってきた鉄砲をなぜ使わないんだ、死ぬ4人の侍が全員鉄砲で殺されるというのは芸がないのでは、など小さな疑問がないではないが「映画の力」というものを実感させる名作で、私も1作だけ選ぶとしたらやはりこの「七人の侍」ということになる。常に話題になるラストの土砂降りの中での決闘はもちろん、勝四郎と志乃の逢う森の中に咲き乱れる野菊の美しさ、侍集めのリズムのよさと集まって来る面々の描き分けなど、平八の「切り出したらきりがない」ではないが、書き出したらきりがないので、ここでやめておく。
 ちょっと驚いたのは「赤ひげ」の2位。ベスト5に入っていて不思議のない映画なのだが、2位という順位には正直驚いた。しかし、改めて見るとあまりアクションはない映画なのだが、今見ると黒澤自身が「集大成」と言っただけのことはある立派な映画である。洗濯物のシーン、井戸に呼びかけるシーン、つららが溶けるシーン、そして仁木てるみの光る目など印象に残るシーンも多い。昔々見たときはなんだかヒューマニズムの押しつけのようで退屈な映画のような気がしたが、ここまで堂々と主張されると「確かに」と納得させられてしまう。去年の連続放送で私が最も再評価した映画である。この音楽が聞こえてくるようにならなければダメだと撮影現場ではベートーヴェンの「第九」が流されていたそうだが、確かにラストシーンなどテーマ曲が私には「第九」そのもののように聞こえた。残念なのは、この映画を見たとき加山雄三のことを「東宝もやっと三船(敏郎)の後継者ができた」と考えた私の予想がオオハズレだったこと。という個人的なことはさておき、2位というのが妥当かどうかは別にして、ベスト5に入っていて全く異論はない。
 「用心棒」はやはり入ったかといった感じ。続編の「椿三十郎」もユーモラスな面があっておもしろいのだが、やはり映画の迫力という点ではこちらだろう。三船の動きはスピードがあって力強くて本当に凄い。
 「生きる」ももちろんいい映画だが、今この歳で見ると、若い(といっても黒澤40代だが)人間が死を考えるとき特有の観念的な青臭さが気にならないこともない。役人たちの描写も現実にはありそうなのだが、ややステレオタイプのような感じがする。といいつつも、今でも揺れるブランコのシーンなどくっきりと覚えているのは、やはり映画のもつ力ということなのだろう。
 「天国と地獄」はなんといっても特急こだまのシーンにつきる。これもいい映画なのだが、前半1時間近くある権堂邸のワンシーン・ワンカットのような重苦しいシーンと、特急こだまを挟んだ刑事たちの犯人追跡劇とに二分されているのがやや残念。権堂邸のシーンはもう少し短くし刑事劇をもっと前面に出したほうがまとまりという点でもよかったのではないかと思う。とはいえ、これもテレビ朝日がリメイクしたものと比べると、いかに黒澤作品がすぐれているのかがわかる。
 視聴者のベスト5に入らなかった、私のベスト5について。
 「隠し砦の三悪人」は、こんなおもしろい映画があっていいものだろうかと驚嘆した映画。まあこれといったテーマがあるわけではないが、娯楽映画のどこが悪いと言っておこう。「藤田進の槍がキラリ」で「裏切り御免」のシーンなど映画史に残る名場面だと思うのだが。残念。まさか、出来の悪いリメイク版が足をひっぱったってことはないと思うのだが(あ、そういえばリメイクされた「椿三十郎」も入っていないか)。「羅生門」はともかく志村喬が森の中を歩いていくシーンのドキドキするようなリズムと美しさだけで入れた。ちょっと気取ったところがあるのが残念だが、まあこれも「若さ」ということで、いいんじゃないでしょうかね?
↓黒沢映画については以下にも書き散らしているので、暇な人はどうぞ。
http://meisoud.blog.so-net.ne.jp/2008-10-03

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