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人間コンピュータ [短編・雑文]

人間コンピュータ

「おい、小宮山。小宮山じゃないか」
 日曜日に街をぶらついていたら、いきなり声を掛けられた。振り向くと三十を少し過ぎた、ということは俺と同年代の、少し神経質そうな小柄な男が立っている。
「いやあ、久しぶりだなあ」
 その男は、にこにこと近寄って来ると、俺の肩をぽんとたたいてそう言った。びしっと背広が決まっていかにもエリートサラリーマンという感じである。誰だろう。向こうは俺をよく知っているようだが、俺に心当たりはない。
「あの、…失礼ですが、どなたでしたっけ?」
 どうもまずいことを言ったらしい。
 男の顔に、俺のことを忘れてしまうなんて信じられない、という表情が浮かんだ。
「俺だよ、俺。宇野だよ」
 俺は、ぽかんとしたまま、相手の顔を見た。
「宇野、…政道?」
「そうだよ。大学時代に生協の喫茶でお前にコーヒーを二七回奢って十四回奢ってもらった、あの、宇野政道だよ」
「あ、宇野かあ。いや、悪い悪い。あまりのエリートぶりについうっかりしてしまって。それにしても、いやあ懐かしいなあ」
 俺は、思わず宇野に握手を求めた。
 大学卒業後一度も会っていない相手に偶然街中で出会ったのだ。奇遇と言っていい。十年前と比べると少し太ったようだったが、言われてみると目の前の男は紛れもなく宇野政道だった。学生時代の面影もあった。声を掛けられた時わからなかったのは、忘れていたわけではなく、思いもかけない出来事に咄嗟に彼の名前が出てこなかったためと言える。 しかし、何よりも彼を宇野政道に違いないと俺に確信させたのは、俺自身すっかり忘れてしまっている、そしてそんなことは覚えていても何の役にも立たない、ということは忘れて当然の、学生時代に俺にコーヒーを何回奢って何回奢ってもらったなどというささいな出来事の回数を十年経った今も正確に覚えていることだった。
 なぜなら彼は人間ではないのだから。
 人間ではなくて、コンピュータなのだ。
 宇野政道は、大学時代、本名より「IBM」というあだ名の方が通りがいい男だった。勿論、コンピュータのIBMのことである。人間と違ってコンピュータは一度登録されたことは消去のコマンドがない限り決して忘れたりしないように、記憶力が抜群によかったのだ。しかも、その記憶力のよさは半端ではなかった。性能は、パソコンというよりも、やはりIBMの大型コンピュータといっていいだろう。
 何しろ、試験に教科書を全部暗記して臨むくらい記憶力のいい男だったのである。同じ大学とはいっても、成績はピンとキリ。当然のように請われて全国紙の新聞社に就職したはずである。
「宇野のことだからかなり出世してるんだろ」
 つい、そんな言葉も漏れる。
「もう論説委員くらいやってるんじゃないのか」
「会社か…」
 答える宇野の表情が気のせいか、不意に暗くなった。
「あいかわらずの平社員だよ」
「まさか」
「いや、別に嘘言っても始まらんだろ」
「それはまあそうだが、どうしたんだ。何かあったのか?」
「いや別に…」
 言いながら、宇野はタバコを手にした。
「あったということでもないんだが、…」
「確か新聞社だったよな、就職したの」
「ああ」
「どんな部署にいるんだ。社会部か」
「まあ、社会部は社会部だけど、…社会部の窓際族ってとこかな」
「窓際?」
 宇野は、黙ってうなずいた。
「まさか」
「いや、本当なんだ。会社に行ってもこれといった仕事はないし、毎日定時まで新聞を読んだり、ぼーっとしてるだけだよ」
「どうして。ミスでもやらかしたのか?」
「まあ、ミスといえばミスなんだろうな。明日取材に行きますって約束した財界の大物をすっぽかしたり、記者会見があることを忘れてうちの新聞だけ記事が載らなかったり、なんてことが続いたんだからな。組合が強いから首にこそならなかったけど、窓際も当然といえば当然だよ」
「しかし、人間コンピュータのお前がか?」
 つぶやくように言った途端、宇野は、不愉快そうな顔をした。
「やめてくれよな。その、…コンピュータとかIBMとか言うの」
「いや、お前が厭だと言うのなら、別に言うつもりはないが…」
「ともかくやめてくれ」
「わかった、じゃあ言わないように気を付けよう。ところで、さっきからお前、きょろきょろと何探してるんだ?」
「その、…タバコ、どこへいったのかと思って」
「タバコ?」
「うん。確かポケットから取り出したはずなんだが…」
「タバコなら、手に持ってるじゃないか」
「あ、そうだったな」
 宇野は、照れ臭そうにタバコに火を点けた。記憶力抜群の男がついさっき手にしたタバコの存在を忘れたのである。口では軽く言っているが、学生時代からエリートだった彼のことだ、窓際族という現在の境遇によほど参っているんだな、と俺は思った。
「何か理由があるのか」
「理由って?」
「だから、その取材の約束をすっぽかしたり、ってのは何か止むに止まれぬ事情があったんだろ?」
「いや、単に忘れたんだ」
「忘れた!」
 おもわず声が大きくなった。
「IBMの、…いや、お前みたいな記憶力のいい奴が。まさか」
「小宮山、その、まさかなんだ」
 何か言おうとしたところへウエイトレスがコーヒーを持って来て、俺は言葉を飲み込んだ。
「俺、これ注文しました?」
 宇野が、点けたばかりのタバコの火を消しながら、不思議そうな顔をしてきいている。「したよ、ほら、入って来てすぐ俺の奢りってことで」
 俺は、横から口を挟んだ。
「そうだったっけ?」
 宇野は、コーヒーに砂糖を入れながらウエイトレスに頭を下げる。
「そういえば、そんなような気もするなあ」
「おいおい、ついさっきのことだぜ」
「そうだったっけ。まあ、そんな気もしないでもないけど」
 どうやら宇野は、冗談を言っているつもりらしい。宇野の冗談がおもしろくも何ともないのは学生時代から慣れている。
「そんなことより、さっきの忘れたってどういうことなんだ?」
「そんなこと言ったっけ?」
「言ったよ。おかしいじゃないか。お前みたいな記憶力のいい奴がどうして取材の約束を忘れちゃったんだよ」
「あ、そのことね」
 言いかけて、宇野は、不思議そうにコーヒーカップを見詰めた。
「また、何か?」
「いや、たいしたことじゃないんだけど、このコーヒー、砂糖入れたんだったかな、と思って」
「入れたよ」
「そうだよな」
 宇野は、安心したようにコーヒーを一口飲んだ。
「実はな、小宮山、お前だけに言うんだが、全然記憶が出来ないんだよ」
「記憶が出来ないって、忘れてしまうってことか?」
「そうなんだ」
「ま・さ・か」
 さすがにカップを持つ、手が止まった。
「それこそ冗談だろ」
「そんな。こんな時に冗談言っても始まらないだろ」
「それはまあそうだが、いったい、どういうことなんだ?」
「パソコン使ったことあるか」
 宇野は、いきなり変なことをきいてきた。
「いや。あのてのものは、生れつき苦手で」
「だったら、ワープロは」
「ワープロか。ワープロくらいなら会社で時々」
「だったらわかると思うけど、どのワープロにも内部容量というのがあるだろ。一万字とか二万字程度の」
「ある」
「じゃあ、たとえばフロッピーディスクから文書を呼び出して、その文書が内部容量をオーバーするとどうなるかわかるよな」
「ああ、それくらいなら俺にもわかる。俺の使っているワープロは、フロッピーからどんどん文書を呼び出してワープロの内部容量をオーバーしてしまうと、右下に『エラー』の文字が出るよ」
「今の俺は、まさにそのエラーの状態なんだ、と言ったらわかってもらえるかな」
 目に悲しみの色が浮かんでいる。
「どういうことなんだ。よくわからんが」
「うまく説明できるかどうか自信はないが、要するにこういうことだ。確かに大学時代までの俺は、自分で言うのも何だが、抜群に記憶力がよかったと思う。別に努力しなくても一度見たものは何でも記憶できたんだ。たとえば、大学二年の七月二十三日にやったパチンコでは六二三八発も出したとか、その日は晴れていたけど夜小雨がぱらついたとか、お前は覚えていないかもしれんが学部喫茶の当時のランチのかつ定食のかつは六つに切ってあったとか、ミックス定食は縦半分に切ったかつがやはり六つに切ってありそれに丸ハムを半分に切ったものが四枚ついて二百八十円だったとか、コーヒーは百二十円でなぜかアイスコーヒーは百三十円だったとか」
「そうだったかな、全然覚えていないよ。やっぱり宇野の記憶力はたいしたものじゃないか」
「大学を出るまではな」
「出るまでは?」
 宇野は、もうコーヒーを飲もうともせずに黙ってうなずいた。
「小宮山、人間は忘れるよな。覚えておこうと思っていても忘れてしまう。忘れるからこそ人間だということもできるかもしれん。しかし、コンピュータは忘れることはできない。とんな大型の容量の大きなコンピュータでもメモリーを消すコマンドを入れてやらなければいつかは容量オーバーでエラーの文字が出るんだよ」
 短い沈黙があった。
 俺にも宇野が言いたいことがようやくわかってきた。
 宇野は記憶力が抜群によく忘れるということがなかったために遂に記憶の量が脳細胞の容量をオーバーしてしまったのだ。だから、容量オーバーまでの記憶は未だに鮮明に覚えているが、新しい記憶はエラーの文字と共にすぐに忘れてしまうのだ。取材の約束を忘れたのも、タバコを手にしていることを忘れたのも、コーヒーを頼んだことを忘れたのも、砂糖を入れたことを忘れたのも、おそらくすべてそのせいなのだ。
「でも、…」
 俺は、できるだけ平静を装って言った。
「全く記憶出来ないってわけじゃないんだろ」
「それは勿論そうだが、…」
 宇野は、寂し気に微笑んだ。
「コンピュータだって容量をフルに使うわけじゃなくてソフトを動かすために何メガかの余裕は常に残している。おそらく人間の頭もそうじゃないかと思うんだ。だから、その少ない容量の中でいくらかは記憶できる。ただ、何と言っても容量の絶対値が少ないから、新しく記憶することが出て来ると、前の記憶はすぐに消されてしまうんだ。それに…」「それに?」
「自分でも恐ろしいんだが、余裕の部分が少なくなってきているのか、新しい記憶を覚えている時間がだんだん短くなってきているような気がするんだよ」
「だったら、前の記憶を消せばいいじゃないか」
 つい大声を出し、俺は慌てて冷めたコーヒーを一気に飲み干した。
「十年以上も前のパチンコで何発出したとか、ランチがいくらだったとか覚えていたところで何の役にも立たないだろ」
「そうなんだ。俺も本当にそうしたいと思ってるんだ。何か記憶を忘れる方法さえ見つかれば…」
 そんな方法があるのだろうか、と俺も考え込んでしまう。いかに記憶するのかという本はいくらでも出ているのだが、いかに忘れるかという本は見たことも聞いたこともない。
「あれっ?」
「どうかしたのか?」
「俺、タバコどうしたっけ?」
「タバコなら今消したじゃないか」
「今っていつ?」
「だから、コーヒーが来た時に」
「コーヒー。このコーヒー冷めてしまってるけど、いつ来たんだっけ?」
「おい、宇野。一度、医者に相談したら」
 俺は、かろうじてそれだけ言った。
「相談って、何を?」
 予想もしない返事が返って来た。
「だから、その記憶を忘れる方法を…」
「記憶を忘れる。誰が?」
「だから、…」
 言いかけた俺は、宇野の目を見てぞっとした。そこだけがぽっかりと闇に包まれたように光がないのだ。
「お前、小宮山だよな」
 俺は、うなずく。
「学生時代、生協の喫茶で俺がコーヒー二七回奢ったのに十四回しか奢ってくれていない小宮山だよな」
 俺は、うなずく。黙ってうなずく。
「お前、小宮山だよな」
「……」
「俺、ここで何してるんだ?」
「………」
「何でお前がここにいるんだ?」
                    《完》

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亀山訳「罪と罰」 [短編・雑文]

ドストエフスキー、亀山郁夫訳「罪と罰」は全3巻なのだが、第2巻がでてからもう3か月にもなるのに一向に出る気配がない(なんてことを書くと出たりして)。とりあえず、第2巻までのMEMO書きをアップしておく。

亀山訳「罪と罰」第2巻の余白に 2(2009.02.27)

 今回も私が慣れ親しんできた米川正夫訳(河出書房版「ドストエーフスキイ全集」)と亀山郁夫訳(光文社古典新訳文庫)との違いについての雑文(本当にどうでもいいようなことばかりで、結局のところなかなか第3巻が出ないので第2巻を再度読み返したりしているため、ついつい比較してしまうわけである。第3巻が早く出版されることを祈り続ける今日この頃である)。

☆名前
 「カラマーゾフの兄弟」で亀山訳では「グルーシェニカ」となっているのに、米川訳に親しんできたため、どうしても「グルーシェンカ」と読んでしまうということは、以前雑文に書いたが、今回の「罪と罰」でもやはり似たようなことがあった(亀山訳「ドゥーニャ」を「ドーニャ」と読んでしまうと以前書いたのは私の記憶違いで、今回米川訳で確認してみたら米川訳でも「ドゥーニャ」だった。訂正)。ま、どうでもいいようなことなのだが。
亀山訳「マルメラードワ」 米川訳「マルメラードヴァ」
亀山訳「ラズミーヒン」  米川訳「ラズーミヒン」
 と、微妙に違っている。亀山さんには本当に悪いのだが、「ラズミーヒン」と書いてあるのに、どうしても「ラズーミヒン」と読んでしまうのは「グルーシェニカ」「グルーシェンカ」と同じである。
 まあ気にする方がおかしいといえば、おかしいんだろう。そもそも一般にはドストエフスキーなのに、米川訳ではドストエーフスキイなのだから。

☆ラスコーリニコフの一言
 前にソーニャがラスコーリニコフに「聖書」を読んでやるシーンは「罪と罰」のハイライトではないなんて書いたが、ハイライトあるいはクライマックスではないにしても心に残る名シーンであることは間違いない。とりわけ、その直前にラスコーリニコフがソーニャの足に接吻した後の台詞は後々まで記憶に残る名台詞である。
(亀山訳)
「きみにひざまずいたんじゃない。人間のすべての苦しみにひざまずいたんだ」
(米川訳)
「ぼくはお前に頭をさげたのじゃない。ぼくは人類全体の苦痛の前に頭をさげたのだ」
 どちらもリズムのある名訳だと思うのだが、亀山訳では「人間のすべての苦しみ」と「すべて」は「苦しみ」にかかるのだが、米川訳では「人類全体の苦痛(すべての人間の苦痛)」となっていて「すべて」は「人間」にかかっているように読めるのだがどうだろう。まあ、細かいどっちでもいいようなことなのだが、この名台詞は米川訳でほとんど暗記してしまっていたので、ちょっと気になったわけである。それにしても、この2人の場面は若い頃読んだときはちょっとわざとらしくてかったるい感じがしたのだが、歳をとった今読んでみると実に緊張感あふれた名場面である。「カラマーゾフの兄弟」でアリョーシャが大地に接吻するシーンといい、ドストエフスキーは「キス描写の天才」と言っておこう。

☆月刊か定期か
 ラスコーリニコフは、自分が書いた、超人には(意味のある)殺人も許されるというような論文を読んだポルフィーリーから老婆殺しの犯人ではないかと疑われるのだが、そのときのラスコーリニコフの言葉。
(亀山訳)
「……でもそのとき持っていったのは、『週刊言論』紙で、『月刊言論』じゃない」
(米川訳)
「ぼくはそれを、『エジェネジェーリナヤ・レーチ(週刊新聞)』に持って行ったんで、『ベジオジーチェスカヤ・レーチ(定期新聞)』じゃありません」
 ロシア語のわからない人間にとってはエジェだろうがベジオだろうが関係ないので亀山訳のほうがすっきりしていてよほどわかりやすいのだが、「月刊」と「定期」とでは受けるニュアンスが違うのでちょっと気になった次第。ロシア語の全くわからない私は「定期」の「新聞」ということで日刊新聞を想像していた。まあ考えてみれば、日刊新聞にそんな論文が掲載されるなんてことはまずあり得ないのだが、定期ということなら季刊も年刊もある。亀山訳で「月刊」と断定されたおかげで、とてもすっきりした。
 ま、そうしたことより、その論文が(自分が持って行ったのではない別の新聞に掲載されてしまったため)掲載されたことをラスコーリニコフ自身が知らないというあたりに、単に思想的な問題だけでなく、ドストエフスキーのストーリーテラーとしての才能が発揮されている。だから彼の小説は小難しい理屈抜きにしても「おもしろい」。もし、自分の論文が掲載されていることを知っていたらラスコーリニコフは殺人を決行しただろうか。これは亀山氏の解説で初めて知ったのだが、ラスコーリニコフが老婆の妹まで殺すはめになったのも時刻の聞き違いだった。これらは単なる偶然ではなく、何か大きな意思がラスコーリニコフを破滅に向かって進ませたような気すらする。とてもうまい構成だと思う。



亀山訳「罪と罰」第2巻の余白に 1(2009.02.15)

 光文社古典新訳文庫の亀山郁夫訳ドストエフスキー「罪と罰」の第2巻がなかなか出ないと文句をたれたその翌日に第2巻が発売された。うれしいことではあるが、この調子では第3巻は4月になりそうなので、少し待ってから買おうかとも思ったのだが、我ながら意志の弱さに呆れるばかりで、実は発売日の翌日に買ってしまった。もちろん、もう読んでしまって、現在、再読中である。
 ドストエフスキーのこの名作のハイライトは世間で言われるようにラスコーリニコフにソーニャが「聖書」を読むシーンでも、老婆殺しのシーンでもなく、スヴィドリガイロフの登場シーンだと私は思っている。「この小説(「罪と罰」)が真の意味で大小説になるのは、ラスコーリニコフのドッペルゲンガー(分身)とも言えるスヴィドリガイロフの登場以降である」と前回のブログに書いたのだが、彼の登場シーンこそ、本作のハイライトであるに留まらず、世界文学史上に記憶さるべき名シーンであると言える。
 老婆殺しの後、精神的に不安定なラスコーリニコフは、熱にうなされたように夢を見るのだが、あの埴谷雄高の言葉を借りればこの夢は「現実以上の現実」性をもって読むものに迫ってくる。現実の老婆殺しと、この夢の中での老婆殺しのシーンを比較すれば、夢の中のシーンの方が圧倒的なリアリティーをもって展開されていること明らかである(では、その「現実以上の現実」とはいったい何なのだという問題があるが、ここでは立ち入らない)。そして、まるでその夢の中からこちらの世界にやってきたかのように、それまでドーニャ(ラスコーリニコフの妹。どうしても米川訳で覚えてしまっているのでドーニャと書いてしまうが、亀山訳ではドゥーニャ。ちなみに米川訳ではドストエフスキーではなくドストエーフスキイ)の手紙で名前だけは知らされていた、スヴィドリガイロフが登場してくるのである。夢と現実とをつなぐ小道具としてのハエの使い方も絶品である。
 あまりのすばらしさに私は自分の下手な小説の中に(「カラマーゾフの兄弟」の「若葉」と同じく)取り入れたというか、パクったことがあるが、もちろんうまくはいかなかった。圧倒的なリアリティーをもつ「現実以上の現実」に当たる部分が天才のようには描けないので、「向こう」から「こちら」へやって来るという緊張感がどうしてもうまくでないのだ。
 もう一つ、スヴィドリガイロフはラスコーリニコフの「分身」とも言える存在で、ラスコーリニコフが(深層心理の)明確な思考になっていない暗部に光を当てるという重要な役割を果たしているのだが(第3巻になるが、ラスコーリニコフの「更生」とともに印象的な自殺をする)、それをリアリティーをもって描くのはとてつもなく難しいのだ。トーマスマンの「魔の山」にゼデムブリーニというちょっと世の中を斜に見ているようなおっさんが登場する。そして、その暗部に対応する存在としてナフタという人物が登場するのだが、全く凄みがない。つまり、トーマスマンをもってしてもゼデムブリーニまでが限界で、ナフタ、つまり「罪と罰」におけるスヴィドリガイロフまではもう一つきちんと描けなかったのではないかと思う。そう考えると、本当にドストエフスキーは、凄い。
 閑話休題。
 その夢からスヴィドリガイロフ登場シーンまでの一部を米川正夫訳と亀山郁夫訳とで比べてみる。
★夢の冒頭
(米川訳)
「たそがれの色も濃くなり、満月が刻々にさえていた。けれど、空気はどうしたのか恐ろしくむし暑かった。」
(亀山訳)
「すでに夜も深まっていた。闇は色濃く、満月がしだいに明るさを増していった。ところが、空気はなぜか、ことのほか息ぐるしかった」
★夢の中盤
(米川訳)
「部屋は一面、月の光にさえざえと照らされている。ここは何もかも元のままだった。……大きな銅紅色をした月が、まともに窓からのぞいている。『これは月のせいでこんなに静かなんだ』とラスコーリニコフは考えた。『月は今きっとなぞをかけてるんだ』」
(亀山訳)
「月の光が部屋いっぱいに皓々とあふれていた。すべてがもとのままだった。……大きくてまるい赤銅色の月が窓からまっすぐのぞきこんでいた。『こんなにひっそりしているのは、月のせいだ』ラスコーリニコフはふとそう考えた。『いまに月がきっと謎をしかけてくるぞ』」
★スヴィドリガイロフ登場
(米川訳)
「自己紹介をお許しください。わたしは、アルカージイ・イヴァーヌイチ・スヴィドリガイロフですよ……」
(亀山訳)
「アルカージー・スヴィドリガイロフです。どうぞよろしく……」

 両者を比べてみると、亀山訳のほうが(この場面だけに限らず)クリアな翻訳になっていることがわかると思う。ただ、スヴィドリガイロフ登場のシーンだけは、米川訳のほうが皮肉な性格がでているように思える(もっとも、何度も読んで「自己紹介をお許しください……」のくだりを暗記してしまっているためなのかもしれないが)。



早く出して欲しい亀山訳「罪と罰」第2巻(2009.02.11)

 光文社古典新訳文庫の亀山郁夫訳ドストエフスキー「罪と罰」が全3巻のうち第1巻が出ただけで、以下がなかなか出ない。「罪と罰」はドストエフスキーの長編の中ではまとまりがよく、そういう意味では一気に読みたい小説である。私自身、高校生のときに河出書房のグリーン版世界文学全集の1巻として読んだときも、米川正夫個人全訳「ドストエフスキー全集」の1巻として読んだときも、小沼文彦個人全訳「ドストエフスキー全集」の1巻として読んだときもそういう読み方をしてきた(ちなみに以上は通読したときの話で、米川正夫個人全訳での拾い読み・部分読みは数知れない。ドストエフスキーの「4大長編」(「罪と罰」「白痴」「悪霊」「カラマーゾフの兄弟」)の中で最も読んだ回数が多いのがこの「罪と罰」である)。
 訳者の亀山郁夫氏は同じ光文社古典新訳文庫の「カラマーゾフの兄弟」で一種の翻訳革命を成し遂げた人で、「カラマーゾフの兄弟」を読んで感動した者としてはすぐにでも読みたい作品である(本当は米川訳でややわかりにくいところがあった「悪霊」の訳出を期待したいのだが、出版社も商売だから作品の知名度からいっても、「カラマーゾフ」の後が「罪と罰」になったことは仕方がない)。
 が、上に書いたように一気に読みたい私としては第1巻が出てもじっと我慢をして第2巻が出るの待った。第2巻が出てしばらくしてから第1巻、第2巻をまとめて買って読み始める。そうすれば、およそ2週間ほどかかって第2巻を読了したころ完結編の第3巻が出る。そうすれば、目出度く?全3巻の一気読みができるだろうという綿密な?計算によるものである。
 ところが、その第2巻が、なかなか出ない。
 亀山郁夫氏は、東京外国語大学の学長でもあるので、学長としての仕事が忙しいからなのだろうか。個人的には学長などという「役人」仕事はさっさと辞め、ドストエフスキー「4大長編」の全訳に取り組んでもらいたいところだが、まあそれは部外者の勝手な要望で、そうもいくまい。
 というわけで、昨年末、まだ第2巻が出ていないのに、ついに我慢できずに第1巻を買ってしまった。できるだけ時間をかけてゆっくりゆっくり読んだのだが、それでも年内に読了してしまった。それなのに、年が改まっても第2巻は出ない。まあ筑摩書房の世界古典文学全集のように4年で完結するはずが何十年もかかるというのよりはマシだとしても、遅すぎる。おかげで、第1巻をもう一度通読するハメになった(ま、これはこれでよかったかな)。が、それも1週間ほどで再読終了。ところが、それでも第2巻は出ない。言葉は悪いが、光文社が潰れたのか、亀山氏に不幸があったのではないかと思えるほどの遅さである。
 この小説が真の意味で大小説になるのは、ラスコーリニコフのドッペルゲンガー(分身)とも言えるスヴィドリガイロフの登場以降である。スヴィドリガイロフは後のキリーロフ(「悪霊」)やイヴァン・カラマーゾフに繋がる人物で、ラスコーリニコフがそこまで突き詰めて考えていない心の暗部に光を当てる役目を担っている人物である。またその登場の仕方も素晴らしく、あたかもラスコーリニコフの夢の中から現れたように書かれている。このシーンを読むだけでも、「罪と罰」を読む価値があると言っていい。極論すれば「罪と罰」はスヴィドリガイロフが登場するまでは「よくできた犯罪小説」、彼の登場を待って初めて「世界文学史に残る傑作」になったと言える。彼が登場するのは作品の半ばなので、一刻も早い第2巻の出版が切望される次第である。もちろん、第3巻も続けて出してもらいたい(なんて、こんなローカルなブログに書いたところで、訳者も出版社も見てはいないだろうから、こんなことを言っても意味がないのだろうが(^^*)。
 全体の感想は全巻読了したときにアップするとして、訳者による作品冒頭の違いを書いておく。
★米川正夫訳
「七月の初め、とほうもなく暑い時分の夕方ちかく、ひとりの青年が、借家人から又借りしているS横町の小部屋から通りへ出て、なんとなく思いきりわるそうにのろのろと、K橋のほうへ足を向けた。」
★亀山郁夫訳
「七月の初め、異常に暑いさかりの夕方ちかく、ひとりの青年が、S横町にまた借りしている小さな部屋から通りへ出ると、なにか心に決めかねているという様子で、ゆっくりとK橋のほうに歩きだした。」
 「カラマーゾフ」のときほどの訳による違いはないが、それでも「又借り」しているということはわざわざ断らなくても「借家人」からさらに借りているわけで、「借家人」をすっぱり削除したことによってずいぶん読みやすくなっている。また、ここには引用しないが、老婆殺しの現場からラスコーリニコフが逃れるシーンのイメージ喚起力は明らかに亀山訳のほうがあると思う。ということで、もう一度書いておこう。第2巻、第3巻を早く出せっ!
(という一文を書いて別のブログにアップしたその日の新聞に、「罪と罰」第2巻発売の広告が載った。ま、世の中、こんなものなのかも)


亀山郁夫訳「罪と罰」いよいよ発進!(2008.10.19)
 10/19の朝日新聞を見て驚きました。
 光文社古典新訳文庫ドストエフスキーの作品の全面広告です。
 亀山郁夫訳「カラマーゾフの兄弟」は、ともかく読みやすくて私としては長谷川宏訳のヘーゲルに続く「翻訳革命」だと思っているのですが、今度は同じ訳者でドストエフスキーの「罪と罰」がでました(全3巻のうちの第1巻)。
 個人的には以前、米川正夫訳でよんで今ひとつわかりにくかった「悪霊」の新訳を期待したのですが、営業政策的にはやはり「罪と罰」なんでしょうね。多分、ドストエフスキーの作品ではこれが一番多く読まれているはずです。世界文学の古典と構えなくても、ミステリというか犯罪小説としてもおもしろく読めるはずです。それでいてラスコーリニコフの見る夢の鮮烈さやスヴィドリガイロフの登場や自殺の場面などいかにもドストエフスキーらしい忘れられない印象に残るシーンが多々あります。何度も読んではいますが、私もこの機会に新訳でもう一度読んでみようと思います。
 ただし、トーマスマンの「魔の山」などはゆっくりじっくり読んだほうが味わい深いのですが(私も学生の時の夏休みに1か月半かけて読みました)ドストエフスキーの作品はやはりとぎれなく読みたい。第一巻を読んで次がなかなかでないのは辛いので第二巻が出たあたりで買って読み始めることにします。未読の人には、とりあえず「読むべし」と言っておきましょう(私は別に亀山氏の身内でも光文社の宣伝マンじゃないですよ、念のため)。
 広告によると「カラマーゾフの兄弟」はなんと全5巻累計100万部突破だそうです。
「私達が歴史の大きな流れをすこし注意して眺めてみれば、二十年くらいを周期として、ドストエフスキイ熱とでもいうべき異常な傾倒の時代がやてくるのに気がつきます」と40年前に書いた埴谷雄高の慧眼に今さらながら感心させられます。
 長年慣れ親しんできた米川正夫訳の「罪と罰」の「七月の初め、とほうもなく暑い時分の夕方ちかく、ひとりの青年が、借家人から又借りしているS横町の小部屋から通りへ出て、なんとなく思いきりわるそうにのろのろと、K橋のほうへ足を向けた」という書き出しなどほぼ覚えてしまいました。
 人物や街などどうしても米川訳によるイメージが先行してしまうのですが、亀山訳「カラマーゾフの兄弟」には、今まで抱いていた人物イメージが一変するのを感じました。なんといってもあのフョードル・カラマーゾフが55歳で、よぼよぼじいさんのイメージがあったゾシマ長老が65歳とは驚き。米川訳では10〜15歳上のイメージをもっていました。
 さて、今度の訳ではラスコーリニコフはもちろんドーニャやスヴィドリガイロフ、マルメラードフ、ソーニャといった面々がどんなイメージで浮かび上がってくるのか、今から楽しみです。早く第二巻出ませんかねー。

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亀山郁夫訳「罪と罰」ようやく完結 [短編・雑文]

亀山訳「罪と罰」完結(2009.07.31)
 第2巻がでてから約半年も待たされて、亀山郁夫訳の「罪と罰」(光文社古典新訳文庫)がようやく完結した。いくらなんでも待たせ過ぎだろう。せめてこういうものは最大間を空けても3か月が限度だと思うがどうだろう。ま、私はすでに全集の米川正夫訳で2度(通読)読んでいるので第3巻が出るのを待ったが、初めて「罪と罰」を読む人たちは果たして待ってくれただろうか。少なくとも営業的には大失敗と言わざるを得ない。
 亀山訳はあいかわらず読みやすく、「カラマーゾフの兄弟」のときのような衝撃こそなかったものの、「聞き間違い」「言い間違い」など今まで知らなかった指摘も数多くあり、適度の緊張感を持って読むことができた。人間存在の(覗き込むのが怖いような)深淵を垣間見させてくれる「カラマーゾフの兄弟」と比べるとちょっと落ちるかなという感じがしないでもないが(あくまでドストエフスキーの名作群の中での比較である。勘違いしないように)、作品としてははるかにこちらの方がまとまっている。「罪と罰」「白痴」「悪霊」「カラマーゾフの兄弟」というドストエフスキーの4大名作への入り口としてこれほどかっこうの作品はないと思う。
 ドストエフスキーは生きるという意味を問い続けた作家だと思うが、それは即この作品のテーマでもあるし、レベジャートニコフなんて人物はもう少しきちんと書いて欲しいところなのだが、しかし、この系列は「悪霊」の面々に直結し、また「カラマーゾフの兄弟」のコーリャなどと通ずるものがある。「地下生活者の手記」がドストエフスキーの転換点だとすれば、この「罪と罰」こそ真の出発点と言えると思う。天才と言われる作家の終着点としてもおかしくない出来にあるこの作品が出発点というところに、ドストエフスキーのすごさがある。
 また、今回読んでいてマルクスの「経済学哲学草稿」がふと思い出されたのも驚きだった。もう何十年も前に読んだ(=何十年も読んでいない[たらーっ(汗)])マルクスのこの「草稿」での、人間は自然との絶えざるフェルケール(交通)の中にある、という一文が思い出されたのである。まさしく人も自然の一部である以上、単独では生きられない。人は人とのそして自然との関係性の中でこそ初めて生きられるのである。自意識が逆転し自分だけが自分1人だけが自分1人で生きていると思うのは実は錯覚に過ぎず、実は死んでいるのである。そして、そうした、関係性の中で生きている以上、どんなに高貴な人間であろうと、ゴミのような人間であろうと、その価値は等価であるというメッセージが込められていること自明である。
 今さら細かい感想を書き連ねても意味がないと思うので、それに関連して一言だけ。
 これは死からの再生の物語である。
 ラスコーリニコフもソーニャも、そしてスヴィドリガイロフも死者である(彼らの住んでいる狭く細い部屋を「棺桶」と喝破した亀山氏はさすがである)。彼らは生きているのだが、実は死んでいるのである。スヴィドリガイロフがラスコーリニコフの分身であることはよく言われているが、今回読んでみてソーニャもまたラスコーリニコフの分身であるとの印象を強くした。ラスコーリニコフを真ん中に、死の深淵に引きずり込む者としてスヴィドリガイロフが、そして(「ラザロの復活」を持ち出すまでもなく)死から生への復活を信じる者としてソーニャがいるのである。ラスコーリニコフはそのどちらにでも逝く可能性があったのだが、結果としてソーニャの方を向き、復活した。そして、スヴィドリガイロフは「アメリカ」へ逝った。もしラスコーリニコフがスヴィドリガイロフの方を向いたとしたら、……。我々の生は常にこうした生と死との間を彷徨い、選択を強いられ、どちらにも逝く可能性をはらんでいる。その意味でも、一瞬といえども無限の価値があるというドストエフスキーの価値観を実によく表した名作ということができると思う。
 よく知られていることだが、「罪と罰」は次のような名文でしめくくられている。この部分を読んだだけでも「罪と罰」が死からのよみがえりの物語であることがわかるはずである。
「しかし、もう新しい物語ははじまっている。ひとりの人間が少しずつ更生していく物語、その人間がしだいに生まれかわり、ひとつの世界からほかの世界へ少しずつ移りかわり、これまでまったく知られることのなかった現実を知る物語である。これはこれで、新しい物語の主題となるかもしれない---しかし、わたしたちのこの物語は、これでおしまいだ。」
 私が慣れ親しんでいる米川訳も合わせて載せておく。これもまた名訳である。
「しかし、そこにはもう新しい物語が始まっている---徐々に更生して、一つの世界から他の世界へ移って行き、今までまったく知らなかった新しい現実を知る物語が、始まりかかっていたのである。これはゆうに新しい物語の主題となりうるものであるが、しかし、本編のこの物語はこれでひとまず終わった。」
 「白痴」あるいは「カラマーゾフの兄弟」のラストといい、ドストエフスキーは実にラストのうまい作家だったと思う。

亀山訳「罪と罰」第2巻の余白に 2(2009.02.27)

 今回も私が慣れ親しんできた米川正夫訳(河出書房版「ドストエーフスキイ全集」)と亀山郁夫訳(光文社古典新訳文庫)との違いについての雑文(本当にどうでもいいようなことばかりで、結局のところなかなか第3巻が出ないので第2巻を再度読み返したりしているため、ついつい比較してしまうわけである。第3巻が早く出版されることを祈り続ける今日この頃である)。

☆名前
 「カラマーゾフの兄弟」で亀山訳では「グルーシェニカ」となっているのに、米川訳に親しんできたため、どうしても「グルーシェンカ」と読んでしまうということは、以前雑文に書いたが、今回の「罪と罰」でもやはり似たようなことがあった(亀山訳「ドゥーニャ」を「ドーニャ」と読んでしまうと以前書いたのは私の記憶違いで、今回米川訳で確認してみたら米川訳でも「ドゥーニャ」だった。訂正)。ま、どうでもいいようなことなのだが。
亀山訳「マルメラードワ」 米川訳「マルメラードヴァ」
亀山訳「ラズミーヒン」  米川訳「ラズーミヒン」
 と、微妙に違っている。亀山さんには本当に悪いのだが、「ラズミーヒン」と書いてあるのに、どうしても「ラズーミヒン」と読んでしまうのは「グルーシェニカ」「グルーシェンカ」と同じである。
 まあ気にする方がおかしいといえば、おかしいんだろう。そもそも一般にはドストエフスキーなのに、米川訳ではドストエーフスキイなのだから。

☆ラスコーリニコフの一言
 前にソーニャがラスコーリニコフに「聖書」を読んでやるシーンは「罪と罰」のハイライトではないなんて書いたが、ハイライトあるいはクライマックスではないにしても心に残る名シーンであることは間違いない。とりわけ、その直前にラスコーリニコフがソーニャの足に接吻した後の台詞は後々まで記憶に残る名台詞である。
(亀山訳)
「きみにひざまずいたんじゃない。人間のすべての苦しみにひざまずいたんだ」
(米川訳)
「ぼくはお前に頭をさげたのじゃない。ぼくは人類全体の苦痛の前に頭をさげたのだ」
 どちらもリズムのある名訳だと思うのだが、亀山訳では「人間のすべての苦しみ」と「すべて」は「苦しみ」にかかるのだが、米川訳では「人類全体の苦痛(すべての人間の苦痛)」となっていて「すべて」は「人間」にかかっているように読めるのだがどうだろう。まあ、細かいどっちでもいいようなことなのだが、この名台詞は米川訳でほとんど暗記してしまっていたので、ちょっと気になったわけである。それにしても、この2人の場面は若い頃読んだときはちょっとわざとらしくてかったるい感じがしたのだが、歳をとった今読んでみると実に緊張感あふれた名場面である。「カラマーゾフの兄弟」でアリョーシャが大地に接吻するシーンといい、ドストエフスキーは「キス描写の天才」と言っておこう。

☆月刊か定期か
 ラスコーリニコフは、自分が書いた、超人には(意味のある)殺人も許されるというような論文を読んだポルフィーリーから老婆殺しの犯人ではないかと疑われるのだが、そのときのラスコーリニコフの言葉。
(亀山訳)
「……でもそのとき持っていったのは、『週刊言論』紙で、『月刊言論』じゃない」
(米川訳)
「ぼくはそれを、『エジェネジェーリナヤ・レーチ(週刊新聞)』に持って行ったんで、『ベジオジーチェスカヤ・レーチ(定期新聞)』じゃありません」
 ロシア語のわからない人間にとってはエジェだろうがベジオだろうが関係ないので亀山訳のほうがすっきりしていてよほどわかりやすいのだが、「月刊」と「定期」とでは受けるニュアンスが違うのでちょっと気になった次第。ロシア語の全くわからない私は「定期」の「新聞」ということで日刊新聞を想像していた。まあ考えてみれば、日刊新聞にそんな論文が掲載されるなんてことはまずあり得ないのだが、定期ということなら季刊も年刊もある。亀山訳で「月刊」と断定されたおかげで、とてもすっきりした。
 ま、そうしたことより、その論文が(自分が持って行ったのではない別の新聞に掲載されてしまったため)掲載されたことをラスコーリニコフ自身が知らないというあたりに、単に思想的な問題だけでなく、ドストエフスキーのストーリーテラーとしての才能が発揮されている。だから彼の小説は小難しい理屈抜きにしても「おもしろい」。もし、自分の論文が掲載されていることを知っていたらラスコーリニコフは殺人を決行しただろうか。これは亀山氏の解説で初めて知ったのだが、ラスコーリニコフが老婆の妹まで殺すはめになったのも時刻の聞き違いだった。これらは単なる偶然ではなく、何か大きな意思がラスコーリニコフを破滅に向かって進ませたような気すらする。とてもうまい構成だと思う。



亀山訳「罪と罰」第2巻の余白に 1(2009.02.15)

 光文社古典新訳文庫の亀山郁夫訳ドストエフスキー「罪と罰」の第2巻がなかなか出ないと文句をたれたその翌日に第2巻が発売された。うれしいことではあるが、この調子では第3巻は4月になりそうなので、少し待ってから買おうかとも思ったのだが、我ながら意志の弱さに呆れるばかりで、実は発売日の翌日に買ってしまった。もちろん、もう読んでしまって、現在、再読中である。
 ドストエフスキーのこの名作のハイライトは世間で言われるようにラスコーリニコフにソーニャが「聖書」を読むシーンでも、老婆殺しのシーンでもなく、スヴィドリガイロフの登場シーンだと私は思っている。「この小説(「罪と罰」)が真の意味で大小説になるのは、ラスコーリニコフのドッペルゲンガー(分身)とも言えるスヴィドリガイロフの登場以降である」と前回のブログに書いたのだが、彼の登場シーンこそ、本作のハイライトであるに留まらず、世界文学史上に記憶さるべき名シーンであると言える。
 老婆殺しの後、精神的に不安定なラスコーリニコフは、熱にうなされたように夢を見るのだが、あの埴谷雄高の言葉を借りればこの夢は「現実以上の現実」性をもって読むものに迫ってくる。現実の老婆殺しと、この夢の中での老婆殺しのシーンを比較すれば、夢の中のシーンの方が圧倒的なリアリティーをもって展開されていること明らかである(では、その「現実以上の現実」とはいったい何なのだという問題があるが、ここでは立ち入らない)。そして、まるでその夢の中からこちらの世界にやってきたかのように、それまでドーニャ(ラスコーリニコフの妹。どうしても米川訳で覚えてしまっているのでドーニャと書いてしまうが、亀山訳ではドゥーニャ。ちなみに米川訳ではドストエフスキーではなくドストエーフスキイ)の手紙で名前だけは知らされていた、スヴィドリガイロフが登場してくるのである。夢と現実とをつなぐ小道具としてのハエの使い方も絶品である。
 あまりのすばらしさに私は自分の下手な小説の中に(「カラマーゾフの兄弟」の「若葉」と同じく)取り入れたというか、パクったことがあるが、もちろんうまくはいかなかった。圧倒的なリアリティーをもつ「現実以上の現実」に当たる部分が天才のようには描けないので、「向こう」から「こちら」へやって来るという緊張感がどうしてもうまくでないのだ。
 もう一つ、スヴィドリガイロフはラスコーリニコフの「分身」とも言える存在で、ラスコーリニコフが(深層心理の)明確な思考になっていない暗部に光を当てるという重要な役割を果たしているのだが(第3巻になるが、ラスコーリニコフの「更生」とともに印象的な自殺をする)、それをリアリティーをもって描くのはとてつもなく難しいのだ。トーマスマンの「魔の山」にゼデムブリーニというちょっと世の中を斜に見ているようなおっさんが登場する。そして、その暗部に対応する存在としてナフタという人物が登場するのだが、全く凄みがない。つまり、トーマスマンをもってしてもゼデムブリーニまでが限界で、ナフタ、つまり「罪と罰」におけるスヴィドリガイロフまではもう一つきちんと描けなかったのではないかと思う。そう考えると、本当にドストエフスキーは、凄い。
 閑話休題。
 その夢からスヴィドリガイロフ登場シーンまでの一部を米川正夫訳と亀山郁夫訳とで比べてみる。
★夢の冒頭
(米川訳)
「たそがれの色も濃くなり、満月が刻々にさえていた。けれど、空気はどうしたのか恐ろしくむし暑かった。」
(亀山訳)
「すでに夜も深まっていた。闇は色濃く、満月がしだいに明るさを増していった。ところが、空気はなぜか、ことのほか息ぐるしかった」
★夢の中盤
(米川訳)
「部屋は一面、月の光にさえざえと照らされている。ここは何もかも元のままだった。……大きな銅紅色をした月が、まともに窓からのぞいている。『これは月のせいでこんなに静かなんだ』とラスコーリニコフは考えた。『月は今きっとなぞをかけてるんだ』」
(亀山訳)
「月の光が部屋いっぱいに皓々とあふれていた。すべてがもとのままだった。……大きくてまるい赤銅色の月が窓からまっすぐのぞきこんでいた。『こんなにひっそりしているのは、月のせいだ』ラスコーリニコフはふとそう考えた。『いまに月がきっと謎をしかけてくるぞ』」
★スヴィドリガイロフ登場
(米川訳)
「自己紹介をお許しください。わたしは、アルカージイ・イヴァーヌイチ・スヴィドリガイロフですよ……」
(亀山訳)
「アルカージー・スヴィドリガイロフです。どうぞよろしく……」

 両者を比べてみると、亀山訳のほうが(この場面だけに限らず)クリアな翻訳になっていることがわかると思う。ただ、スヴィドリガイロフ登場のシーンだけは、米川訳のほうが皮肉な性格がでているように思える(もっとも、何度も読んで「自己紹介をお許しください……」のくだりを暗記してしまっているためなのかもしれないが)。



早く出して欲しい亀山訳「罪と罰」第2巻(2009.02.11)

 光文社古典新訳文庫の亀山郁夫訳ドストエフスキー「罪と罰」が全3巻のうち第1巻が出ただけで、以下がなかなか出ない。「罪と罰」はドストエフスキーの長編の中ではまとまりがよく、そういう意味では一気に読みたい小説である。私自身、高校生のときに河出書房のグリーン版世界文学全集の1巻として読んだときも、米川正夫個人全訳「ドストエフスキー全集」の1巻として読んだときも、小沼文彦個人全訳「ドストエフスキー全集」の1巻として読んだときもそういう読み方をしてきた(ちなみに以上は通読したときの話で、米川正夫個人全訳での拾い読み・部分読みは数知れない。ドストエフスキーの「4大長編」(「罪と罰」「白痴」「悪霊」「カラマーゾフの兄弟」)の中で最も読んだ回数が多いのがこの「罪と罰」である)。
 訳者の亀山郁夫氏は同じ光文社古典新訳文庫の「カラマーゾフの兄弟」で一種の翻訳革命を成し遂げた人で、「カラマーゾフの兄弟」を読んで感動した者としてはすぐにでも読みたい作品である(本当は米川訳でややわかりにくいところがあった「悪霊」の訳出を期待したいのだが、出版社も商売だから作品の知名度からいっても、「カラマーゾフ」の後が「罪と罰」になったことは仕方がない)。
 が、上に書いたように一気に読みたい私としては第1巻が出てもじっと我慢をして第2巻が出るの待った。第2巻が出てしばらくしてから第1巻、第2巻をまとめて買って読み始める。そうすれば、およそ2週間ほどかかって第2巻を読了したころ完結編の第3巻が出る。そうすれば、目出度く?全3巻の一気読みができるだろうという綿密な?計算によるものである。
 ところが、その第2巻が、なかなか出ない。
 亀山郁夫氏は、東京外国語大学の学長でもあるので、学長としての仕事が忙しいからなのだろうか。個人的には学長などという「役人」仕事はさっさと辞め、ドストエフスキー「4大長編」の全訳に取り組んでもらいたいところだが、まあそれは部外者の勝手な要望で、そうもいくまい。
 というわけで、昨年末、まだ第2巻が出ていないのに、ついに我慢できずに第1巻を買ってしまった。できるだけ時間をかけてゆっくりゆっくり読んだのだが、それでも年内に読了してしまった。それなのに、年が改まっても第2巻は出ない。まあ筑摩書房の世界古典文学全集のように4年で完結するはずが何十年もかかるというのよりはマシだとしても、遅すぎる。おかげで、第1巻をもう一度通読するハメになった(ま、これはこれでよかったかな)。が、それも1週間ほどで再読終了。ところが、それでも第2巻は出ない。言葉は悪いが、光文社が潰れたのか、亀山氏に不幸があったのではないかと思えるほどの遅さである。
 この小説が真の意味で大小説になるのは、ラスコーリニコフのドッペルゲンガー(分身)とも言えるスヴィドリガイロフの登場以降である。スヴィドリガイロフは後のキリーロフ(「悪霊」)やイヴァン・カラマーゾフに繋がる人物で、ラスコーリニコフがそこまで突き詰めて考えていない心の暗部に光を当てる役目を担っている人物である。またその登場の仕方も素晴らしく、あたかもラスコーリニコフの夢の中から現れたように書かれている。このシーンを読むだけでも、「罪と罰」を読む価値があると言っていい。極論すれば「罪と罰」はスヴィドリガイロフが登場するまでは「よくできた犯罪小説」、彼の登場を待って初めて「世界文学史に残る傑作」になったと言える。彼が登場するのは作品の半ばなので、一刻も早い第2巻の出版が切望される次第である。もちろん、第3巻も続けて出してもらいたい(なんて、こんなローカルなブログに書いたところで、訳者も出版社も見てはいないだろうから、こんなことを言っても意味がないのだろうが(^^*)。
 全体の感想は全巻読了したときにアップするとして、訳者による作品冒頭の違いを書いておく。
★米川正夫訳
「七月の初め、とほうもなく暑い時分の夕方ちかく、ひとりの青年が、借家人から又借りしているS横町の小部屋から通りへ出て、なんとなく思いきりわるそうにのろのろと、K橋のほうへ足を向けた。」
★亀山郁夫訳
「七月の初め、異常に暑いさかりの夕方ちかく、ひとりの青年が、S横町にまた借りしている小さな部屋から通りへ出ると、なにか心に決めかねているという様子で、ゆっくりとK橋のほうに歩きだした。」
 「カラマーゾフ」のときほどの訳による違いはないが、それでも「又借り」しているということはわざわざ断らなくても「借家人」からさらに借りているわけで、「借家人」をすっぱり削除したことによってずいぶん読みやすくなっている。また、ここには引用しないが、老婆殺しの現場からラスコーリニコフが逃れるシーンのイメージ喚起力は明らかに亀山訳のほうがあると思う。ということで、もう一度書いておこう。第2巻、第3巻を早く出せっ!
(という一文を書いて別のブログにアップしたその日の新聞に、「罪と罰」第2巻発売の広告が載った。ま、世の中、こんなものなのかも)


亀山郁夫訳「罪と罰」いよいよ発進!(2008.10.19)
 10/19の朝日新聞を見て驚きました。
 光文社古典新訳文庫ドストエフスキーの作品の全面広告です。
 亀山郁夫訳「カラマーゾフの兄弟」は、ともかく読みやすくて私としては長谷川宏訳のヘーゲルに続く「翻訳革命」だと思っているのですが、今度は同じ訳者でドストエフスキーの「罪と罰」がでました(全3巻のうちの第1巻)。
 個人的には以前、米川正夫訳でよんで今ひとつわかりにくかった「悪霊」の新訳を期待したのですが、営業政策的にはやはり「罪と罰」なんでしょうね。多分、ドストエフスキーの作品ではこれが一番多く読まれているはずです。世界文学の古典と構えなくても、ミステリというか犯罪小説としてもおもしろく読めるはずです。それでいてラスコーリニコフの見る夢の鮮烈さやスヴィドリガイロフの登場や自殺の場面などいかにもドストエフスキーらしい忘れられない印象に残るシーンが多々あります。何度も読んではいますが、私もこの機会に新訳でもう一度読んでみようと思います。
 ただし、トーマスマンの「魔の山」などはゆっくりじっくり読んだほうが味わい深いのですが(私も学生の時の夏休みに1か月半かけて読みました)ドストエフスキーの作品はやはりとぎれなく読みたい。第一巻を読んで次がなかなかでないのは辛いので第二巻が出たあたりで買って読み始めることにします。未読の人には、とりあえず「読むべし」と言っておきましょう(私は別に亀山氏の身内でも光文社の宣伝マンじゃないですよ、念のため)。
 広告によると「カラマーゾフの兄弟」はなんと全5巻累計100万部突破だそうです。
「私達が歴史の大きな流れをすこし注意して眺めてみれば、二十年くらいを周期として、ドストエフスキイ熱とでもいうべき異常な傾倒の時代がやてくるのに気がつきます」と40年前に書いた埴谷雄高の慧眼に今さらながら感心させられます。
 長年慣れ親しんできた米川正夫訳の「罪と罰」の「七月の初め、とほうもなく暑い時分の夕方ちかく、ひとりの青年が、借家人から又借りしているS横町の小部屋から通りへ出て、なんとなく思いきりわるそうにのろのろと、K橋のほうへ足を向けた」という書き出しなどほぼ覚えてしまいました。
 人物や街などどうしても米川訳によるイメージが先行してしまうのですが、亀山訳「カラマーゾフの兄弟」には、今まで抱いていた人物イメージが一変するのを感じました。なんといってもあのフョードル・カラマーゾフが55歳で、よぼよぼじいさんのイメージがあったゾシマ長老が65歳とは驚き。米川訳では10〜15歳上のイメージをもっていました。
 さて、今度の訳ではラスコーリニコフはもちろんドーニャやスヴィドリガイロフ、マルメラードフ、ソーニャといった面々がどんなイメージで浮かび上がってくるのか、今から楽しみです。早く第二巻出ませんかねー。
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視点と理屈 清水義範パスティーシュ100 [短編・雑文]

 という全6冊の文庫が筑摩文庫で出ている。これでも全短編ではなく、いわゆる「選集」だというのだから、まあ書いたほうも書いたほうだが、読むほうも読むほうだ。全6冊のタイトルと内容は以下の通り。
 1「猿蟹合戦とは何か」既存の文学作品の文体を模倣した「狭義の」パスティーシュ。パスティーシュ第1作目の「猿蟹の賦」「笠地蔵峠」「ダイヤの花見」など。
 2「インパクトの瞬間」言葉のおもしろさで遊ぶ「広義の」パスティーシュ。吉川英治新人賞受賞の「国語入試問題必勝法」「CM歳時記」「言葉の戦争」など。
 3「全国まずいものマップ」言葉が暴走する「ぶっとび」小説集。「バールのようなもの」「偏向放送」「おそるべき邪馬台国」など。
 4「接客セブンティーズ」社会をデフォルメしたユーモア小説集。名古屋もの第1作の「蕎麦ときしめん」「秘湯中の秘湯」「戦時下動物活用法」など。
 5「時間線下り列車」人間模様を独自の視点から描いた小説集(区切りがだいぶアバウトになってきている)。「靄の中の終章」「バスがこない」「2010年宇宙の恥」など。
 6「翼よ、あれは何の灯だ」はめを外した超絶あきれ小説集。「永遠のジャック&ベティ」「大江戸花見侍」「三劫無勝負」 
 清水義範は一般にパスティーシュを特徴とする作家と認識されており、この文庫本もパスティーシュ短編を100作収めた全6冊のシリーズですよ、と断られているのでなんとなく納得してしまうのだが、果たして本当だろうか。
 確かに「猿蟹の賦」は司馬遼太郎の、「猿蟹合戦とは何か」は丸谷才一の文体をパスティーシュしたもので、また(元の作家は絶対にこうした対象に意見を述べることはないのだが、もし述べるとすれば)いかにも司馬遼太郎が、丸谷才一が言いそうなことが書き連ねてある。昔、タモリが寺山修司のものまねをしているのをテレビで見て感心したことがある。というのも、声質、口調が似ているだけでなく、たとえば「この赤鉛筆がどうして赤いのかというと、ただ赤いからというだけでは本質をとらえたことにはならないわけで」というような、寺山が絶対に言わないようなことを、しかし、もしこの対象物に関して寺山が発言するとすれば、いかにも言いそうだと思わせることを実に巧みに表現していたからである。このタモリのオリジナルに対する位相と清水のオリジナルに対する位相はほとんど同じである。つまり、パスティーシュの一つの典型がここにあると言っても過言ではない。外形だけでなく、その本質をパスティーシュしているわけで、言葉をかえれば「名人芸」(まねをされる人物がかつて言った言葉、たとえば「来たー」と言わなければ、まねを表現できない山本君なんぞはまだまだ修行が足りないと言わねばならない)。
 このほかにも、清水義範が広く世に知られるようになったの「蕎麦ときしめん」はイザヤ・ベンダサンというか山本七平「日本人とユダヤ人」のパスティーシュだし、「大江戸花見侍」はかつての東映時代劇のパスティーシュだし、「秘湯中の秘湯」は温泉ガイドのパスティーシュ、と確かにパスティーシュ作品は多い。しかし、「靄の中の終章」や「三劫無勝負」「おそるべき邪馬台国」などのように、パスティーシュと言い張るにはちょっと苦しい作品も少なくない。
 こう考えて来るとパスティーシュというのはラベルがあったほうが売りやすいという出版社と作家の便宜的なものに過ぎず、清水義範という作家の一面を表したものに過ぎないことがわかる。いったいその先に何があるのか。100の短編を読んだ結果、おぼろげに見えてきたものがある。
 それは、「視点と理屈」。
 つまり、普通ならなんとなく見過ごしてしまうようなところに目をつける。これが、清水作品の大きな特徴になっている。いや、もう少し正確に言おう。誰もが知っていても、誰一人それが小説になるなんて思ってもいなかったものを小説にしてしまう、独特の「視点」が清水にはあるのだ。たとえば、「言葉の戦争」。先の戦時中、「ストライク」は敵国語なので「よし」と言い換えられたなんて話はよく耳にするが、その場合の主役は戦争であり、野球である。誰も、その言葉そのものを主役にして小説を書こうとは思わなかった。ボケ老人が問題になったとき誰もが問題にするのは福祉の問題であり介護する人間がいかに大変かということである。「恍惚の人」は想像できても、そのボケ老人を主人公に「靄の中の終章」を書こうとは思わないのだ。しかも、それを「しつこく」書いている。
 ここに、清水のもう一つの特徴である「理屈」がある。
このしつこさは、場合によっては「屁理屈」ともいえるのだが(たとえば「バールのようなもの」)、確かに「バール」はあっても「バールのようなもの」は見つからない、いったいどういうものなのだという屁理屈(の「視点」)がおもしろいので、つい微苦笑しながら読んでしまうのである。「インパクトの瞬間」なども同様である。
 清水作品は、このように独特の「視点」としつこい「理屈」をもつところに特徴があり、どの作品もその両方を併せ持っているのだが、そのどちらかに力点がかかっているということはある。
 また、目のつけどころは狭い範囲でかつ「あ、そこに目をつけたのか」という意外性のあるものがよい。つまり、「名古屋」であり「インパクトの瞬間」であり「バールのようなもの」であり、「言葉」である。
 逆に材料が多すぎたり扱う世界が広すぎたりしたものは「視点と理屈」が拡散しすぎて私にはあまりおもしろいものとは思えなかった。たとえば「夕顔殺人事件」。大学の国語科を出た作者には自明なことなのだろうが、円地文子訳の「源氏」を読んでいる私でも、この短編の固有名詞の多さと人間関係にはついていくのに苦労した。「源氏」を読んでいない人間には、ただ作者が蘊蓄を語っているだけのようには思えないだろうか。要するに、「理屈」が暴走しているのである。小説ではないが、エッセー集「いやでも楽しめる算数」にもそれを感じた。「おもしろくても理科」が好評だったので、その後「社会」「国語」などシリーズ化されたものの1冊なのだが、説明のし過ぎで理屈が暴走している。
 同様に平賀源内を扱った「風来山人世界漫遊」などは(長編の「源内万華鏡」にも言えることだが)エピソードそのものが変化球なので独特の視点が定まらず、また材料がが多すぎるため理屈を言っている暇がなく、ということは清水作品の特長が出ておらず、私にとっては退屈なものだった。この短編が抄録されている第6巻は、「はめを外した超絶あきれ小説集」ということなのだが(作者の解説)、「超絶」ということなら同巻収録の「デストラーデとデステファーノ」(の後半の小説部分)がそれこそ超絶していると思う。
 しかし、100編選んでもたとえば列車物ならタイトルにもなっている「時間線下り列車」より私は奇妙な味の「トンネル」のほうが好きだし、初期の佳作「昭和御前試合」や「グローイング・ダウン」なんてところも捨てがたいのだが、残念ながら選外となっている。「大剣豪」の馬鹿馬鹿しさも落とすには惜しい。要するに作者のお気に入りと読者のお気に入りとの間には当たり前のことながら「ズレ」があるわけで、これは「番外編」をもう1巻追加すべきだと思うのだが、どうだろう。
(とりとめのない文章をだらだらと書いてきたら、この文章自体が「しつこく」なりそうなので、ここでとりあえず終わりにする。)
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亀山郁夫・訳「悪霊」いよいよ発進 [短編・雑文]

 光文社「小説宝石」2月号の広告に、
古典新訳・短期集中連載 ドストエフスキー 亀山郁夫・訳「悪霊」
 と、出ている。
http://www.kobunsha.com/shelf/magazine/current?seriesid=104001
 訳者と光文社には申し訳ないが、「古典新訳文庫」で出たとき買うのだから、という名目で本屋で立ち読みしてみた(^^;。
 内容は、第1編・第1章の訳と亀山氏の簡単な解説がついただけのもので、この調子ではとても「短期」ではおわらんぞ、2年以上かかるぞ、と思ってもう一度告知を見直したら「短期集中連載」とあるだけで、短期集中連載で完結までという保証はどこにも書かれていない。そもそも他の掲載作品とは違和感がありすぎるので、まあ、第1編だけでも掲載できればいいほうかもしれない。
 それにしても、と思う。
 訳者はともかくとして、光文社の編集部はよく「悪霊」をやる気になったものである。
 古典新訳文庫のドストエフスキー・亀山訳は「カラマーゾフの兄弟」が第1弾で、「罪と罰」が続いた。一般的に知られているのは「罪と罰」のほうで、私が持っているもう何十年も前に出た河出書房・米川正夫訳の全集では第1回配本はやはり「罪と罰」だった。当時、河出書房、新潮社、中央公論社、筑摩書房といった各社から出されたどの世界文学全集(大系)にも「罪と罰」は必ず入っていたが、新潮社、中央公論社の全集には「カラマーゾフの兄弟」は入っていない。その意味では、一般の傾向とは発売が逆だったわけだが、しかし、知名度という点では「カラマーゾフの兄弟」は「罪と罰」に劣るものではない。それほど知名度のある名作があまり読まれていない。その読まれていない名作が新訳ですらすらと読める。読んでいる人があまりいないので、読むと新鮮なのである(事実、私の知り合いで世界文学入門のような本まで書いている作家も、この亀山訳で初めて「カラマーゾフの兄弟」を読了できたと言っている)。ということから、この亀山訳「カラマーゾフの兄弟」はある意味、古典新訳文庫を象徴するような作品になった。
 私自身もすでにこのブログにも書いているように、「カラマーゾフの兄弟」を買い、当然のように「罪と罰」も買い、それぞれ2回ずつ読んでしまった。で、当然、次は「白痴」だろうと予想していた。
 ドストエフスキーの4大長編「罪と罰」「白痴」「悪霊」「カラマーゾフの兄弟」(実はこの間に「未成年」という作品があるのだが、あまりおもしろくない)のうち、「カラマーゾフの兄弟」と「罪と罰」が出たのだから、次は「白痴」と予想して当然なのだ。というのも、私は一応米川正夫訳で読んではいるのだが「悪霊」という小説はともかくわかりにくい。たとえば、
「わたしは今この町、---べつにこれといった特色もないこの町で……」(米川訳)
 といった具合にこの手の大長編がいきなり1人称で始まるというのも驚きだが、がんばって最後まで読み通しても、主人公スタヴローギンのイメージがどうにもこうにも鮮明にならないのだ。
 日本でも「連合赤軍事件」などあり、「悪霊」はそれを予言したなんて発言もその当時あったのだが(そしてドストエフスキーが執筆に際しネチャーエフ事件をイメージしていたことは確かなのだが)、キリーロフのところなど読めば、この長編がそんな組織と個人の問題だけに留まらないことは、たちどころにわかる。が、しかし、ではいったい何が問題とされているのか、ということになると、残念ながら私には、はっきりとは答えられない。必ずと言っていいほど人が死ぬドストエフスキーの長編にあって、これほど多くの人が死ぬ「悪霊」の核心が、残念ながらどうにも私にはつかめないのだ。
 対して「白痴」は恋愛小説、メロドラマとしても読める。ムイシュキンの語る「処刑」の場面やラストのラゴージンとの場面など実に密度の濃いものなのだが、難しくはない。破綻も少なくまとまりもある。つまり、一般受けするのだ。ふつうに考えて、こちらの方が先だろう。
 にもかかわらず、(たとえ訳者のプッシュがあったにせよ)古典新訳文庫の編集部は、「悪霊」を先にすることに決めた。とは書いてないのだが、「小説宝石」に冒頭が掲載されたのだから、まず間違いあるまい。出版社にとっては、「売れる本」のみが「いい本」であることは長年業界にいた者として承知しているので大丈夫かなという心配もないではないが(データをもっているわけではないが、4大長編の中で「悪霊」がダントツに売れていないし、読まれていないことは間違いない。少なくとも私の周囲の人間で「悪霊」を理解しているかどうかは別にして読了したという人間は皆無である)、一読者としては、喝采を叫ばないわけにはいかない。亀山訳「カラマーゾフの兄弟」を読んで、それまでのイメージが一変したように(米川訳が悪いと言っているのではない。誤解なきように)、亀山訳「悪霊」により今までとは違ったイメージが得られるのではないかと期待するところ大である。こんな些末なブログを関係者が見ているとも思えないが、「悪霊」が一刻も早く古典新訳文庫で刊行されることを切望したい。
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「身もフタもない日本文学史」清水義範 [短編・雑文]

 PHP新書で出ている清水義範「身もフタもない日本文学史」という本を読んだ。
 「源氏物語」から現代までの文学を鳥瞰したもので、別に研究書ではないがとくに難しいところもなく、おもしろく読めた。ただし、ここで言われている文学は基本的に「小説」および「随筆(エッセー)」のことで、詩歌などは最低限触れられているだけである。
 普通、日本文学史というとまず「古事記」から始まり、「日本書紀」「万葉集」とくるのが、普通だが、本書はいきなり「源氏物語」から始まる。本文中でも語られているが、著者の頭の中には、世界文学(外国文学ではない)の中に置いたとき、日本文学とはどの程度の位置にあるのだろう、常にあるのだからまあ妥当な始め方だと思う。
 ちなみに、私は「古事記」は読んだが(もちろん翻訳で)、「日本書紀」と「万葉集」はちょっと覗いた程度である。はっきり言ってしまうと、「古事記」も「日本書紀」も、ちっともおもしろくない。歴史書としての価値がどうなのかは知らないが、少なくともそれより何百年も前に書かれた司馬遷の「史記」と比べれば、歴史観も文学としての達成度も遠く及ばないのがわかると思う。
 最近、友人のIUが「『万葉集』を楽しむ」というエッセイをよせてくれたのでそれを読み、なるほどそこまで読み込めばそれなりにおもしろいものなんだな、と思うようになったものの実際にあの短歌がだらだらと並べられた文面からそこまで読み取れというのは無理である。
 ということで、「源氏物語」になるわけだが、私は新潮文庫の円地文子さんの訳で読んだ(原文で読むのは私の語学力では無理である(^^;)。千年も前の小説だというのに、翻訳とはいえ、普通に読めてしまうのにまず驚いた。書かれているのはある意味、夢のような宮中およびその周辺の人たちの物語なのに、古くさいという感じが全くないのだ。「夕顔」のところなど、ちょっとしたホラーだしね。つまり、現代の目から見ても「源氏物語」は十分におもしろい文学として自立しているわけだが、その成立年代を考えると、やはり奇跡の文学であり、紫式部は天才だったんだなぁ、という思いが強くなる。
 この時代に西洋にどんな文学があったのかを調べてみると、実はこれといったものは何もないのだ。ようやく14世紀になって「デカメロン」、「カンタベリ物語」なんてのが出てくるが、これはある「枠組み」を設定しただけの短編集とでもいったもので、その中での発展といったものがまるでない。ただ、短編が並んでいるだけのもので、文学的に「源氏物語」に比べるべくもないのだ。
 登場人物の心理にまで踏み込み、長編が長編として発展していく「源氏物語」に並べられるような作品は、16世紀後半のセルバンテス「ドン・キホーテ」あるいはシェイクスピアの諸作まで待たなければならない。
 この「源氏物語」に始まり、「短歌のやりとりはメールである」「エッセイは自慢話だ」「紀行文学は悪口文学」「『浮世風呂』はケータイ小説」などといった著者独特の切り方が小気味よい。私は、「太平記」も「好色一代男も近松の戯曲も「浮世風呂」も読んでいないが、なんとなく「そうなのか」という気になった。まあ、このあたりの作品はおそらく一生読むことはないと思うので、これで卒業ということにした。
 明治以降では、漱石の扱いには同意。「こころ」「明暗」など自信を持って世界文学の中に出せると思う(ただし、「草枕」のような好きになれないものもあるが)。著者は、世界文学全集の中に入る日本文学として、「源氏物語」、漱石の著作のほかに、井原西鶴、谷崎潤一郎、大江健三郎をあげているが、私としてはぜひとも室生犀星の「蜜のあはれ」を入れてもらいたいところである。
 それに続く「みんな自分にしか興味がない」は、さらに同意。最も文学作品を読んだ高校、大学時代に名作と言われるものを読んでみて、どうしてもそのチマチマぶりが好きになれなかった日本の私小説のことである。
 ドストエフスキーの「地下生活者の手記」の導入部にこんな一文がある。
「それにしても、ちゃんとした人間が心から、満足しながら話すことができる話題というのは、そもそもなんだろう?
 答えーーー自分自身のことである。
 では、わたしもひとつ自分の話をしよう。」(米川正夫訳)
 すばらしい導入部だと思う。確かに自分のことを掘り下げて掘り下げて書けば、そこには人間が生きていく上で共通する何かが浮かび上がってくるはずなのだが、日本の私小説は果してそこまでいっているのかどうか。白樺派のものは読んでいないので論評できないが、「小説の神様」と言われる志賀直哉の代表作「暗夜航路」も私にはおもしろいものには思えなかった。主人公は祖父が母を犯して産ませた子どもで、その主人公の妻も従兄弟に犯されるなんて、ポルノ小説でも恥ずかしくてやらないようなベタな話で、どうです暗くて悲惨な話でしょうと言われても共感できないのだ。
 自分というものの中には別に多重人格でなくても、いろいろな要素が含まれていると思う。平気で人を殺すような人間が、子どもの手から離れた風船を必死になってとってやったりするのだ。自分の生き方を見てください、ではなくなぜそうした要素を各々の人格として独立させ(そういう人格の人間をいろいろ出せと言っているのではない。誤解しないように)、大きな普遍的な物語に昇華できないのだ、と文句の一つも言ってみたくなるではないか。著者の「私小説という文学の袋小路」という一文はまさしく言い得て妙である。
 最後にエンターテインメント(とくに時代・歴史小説とミステリ、SF)に触れているのも清水義範らしい。いくつか私の感想を書き加えておく。
・大佛次郎は確かに鞍馬天狗の作者だが、代表作となるとパリ・コミューンを題材にした「パリ燃ゆ」だと思う。
・司馬遼太郎の代表作として書かれている「坂の上の雲」「空海の風景」は、私にはどちらも散漫な作品でしかなかった。ともかく、「燃えよ剣」だ。
・横溝正史のところで、「戦後になって名探偵金田一耕助を生み出し、『蝶々殺人事件』『獄門島』『八つ墓村』などのヒット作を連作した。」とある。ただ、「蝶々殺人事件」の探偵は金田一耕助ではなく由利麟太郎。なんとなく「蝶々殺人事件」も金田一耕助物に思えてしまうので、ここは金田一初登場の「本陣殺人事件」か、「悪魔の手鞠唄」あたりのほうがよかっただろう。
 ……等々、楽しく読めて日本文学の大きな流れがわかるという本だった。が、最後に一言。いくら何でも、このタイトルではそれこそ「身もフタもない」だろう。編集者はアホか。
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古本・古典と「現代人の読書」 [短編・雑文]

 夏に名古屋へ帰ったところ、「現代人の読書」(紀田順一郎・三一新書)という本を発見。といっても、大昔に買ったもので、買ったこと自体を忘れていた。いやあ、時の流れは本当に早いものですなぁ。。。しみじみ。
 で、何気に読んでみると、蔵書が増えたらマイクロフィルムにするという手がある、なんて「時代は変わったなあ」と思わせる記述が随所にあり、別の意味でおもしろい。
 古書の売り方・買い方なんてのもある。
 私のイメージする古書店は薄暗く、奥にちょっと気難しそうなおやじがいて、というこの本に書かれた通りなのだが、今の人にとっては、古書店といえばブックオフだろう。私も引っ越しの時、ブックオフに来てもらったことがあるが、文庫本でもなんでもきれいで内容が軽く気楽に読めそうな新しい本は問題なく引き取ってくれるが、ちょっと学術的な本はたいてい引き取り拒否になる(そんな本をブックオフに買いにくる客がいないのだろう)。昔の古本屋だとこれが対照的で、専門書などは問題ないが文庫本などはあまりいい顔をしなかったものだ。店によっては引き取ってくれないところもあった(文庫はもともとの値段が安いのでわざわざ古本屋に求めにくる客が少なく、また売れてももうけが少ないのである)。ブックオフの場合、値段付けも文庫本1冊10円とか決まりがあるのだろう、本の内容には全く関係なく機械的に册数を数えていき、その合計の値段を言い渡される。この岩波文庫は長らく品切れになっていて探している人もいますので色つけさせてもらいましょう、なんてやりとりは全くない。だいたいやってくる若い兄ちゃん、姉ちゃんがそんなことに通じているとはとうてい思えず、そこにあるのは内容とは無関係の、見た目のきれいさと册数のみである。
 ブックオフの店内を見ると新刊を扱う書店同然いやむしろそれ以上に明るく、こと文庫本、新書本、まんが、ゲーム攻略本に関しては一般書店以上に豊富である。先月発売されたばかりの本も並んでいたりする。本をさがしているのもほとんどが若者で、そこには昔ながらの古本屋に来ているという意識は感じられない。彼らにとってブックオフとは、新刊書を扱う書店にはない本を探すところではなく、普通の本屋より安く本を売ってくれる本屋なのだ。これは、別にブックオフを非難しているわけではない。ともかくきれいで新しい本を大量に買い付け、大量に売っていくという手法が現代のニーズにマッチしていたことを言いたいのである。
 本のメンテナンス(日焼け防止、シミヌキ、型くずれした本の再製本依頼など)についても詳しく書かれており、私にはおもしろかったが、読み捨て本がオンリーの「現代人」の90%以上には無用の記述だろう。もし「現代人」がこの記述をおもしろがるとすれば、それは「実用」ではなく、「歴史」としてのおもしろさ(「ほう、昔はそんなことしたんだ」)だと思う。要するに、本というものがこの数十年の間に、より「消耗品」になったということなのだ。
 もちろん出版社といえども慈善事業をやっているわけではないので、「売れる本=いい本、売れない本=悪い本」という図式に反論する気はないが、長年編集に携わってきた者としては、「しかし、それだけでいいのか」という思いはある、と一言言っておきたい。
 この本でもう1つおもしろかったのが、いわゆる「必読書」のリスト。
 たとえば、吉田精一選「五冊の文学書」(1958年)というのがある。「源氏物語」「枕草子」「平家物語」「世間胸算用」「南総里見八犬伝」の五冊で、対象は「多忙な一般読者」となっているが、多忙な一般読者は週刊誌は読んでもこの五冊のうち1冊たりとも読むことはないだろうと断言できる。
 「読まなくてもいい必読書十冊」というのもある。ウェルギリウス「アエネイス」、ボッカッチョ「デカメロン」、スペンサー「仙女王」、ミルトン「失楽園」、バニヤン「天路歴程」、デュマ「三銃士」、ユゴー「レ・ミゼラブル」、ディッケンズ「デビッド・コパフィールド」、ホイットマン「草の葉」、トウェイン「ハックルベリ・フィンの冒険」というラインナップだが、わざわざ言われなくても読む気はない、という人がほとんどではないだろうか。この10冊のうち1冊も読んだことがないどころか、すべてが初めて聞く題名だという人がいたとしても別に驚かない。そういう時代なのである(私は不幸にも「レ・ミゼラブル」と「デビッド・コパフィールド」は昔の新潮社の世界文学全集で読んでしまった。「三銃士」は角川文庫で読んだ。「アエネイス」は筑摩書房の世界古典文学全集で持ってはいるが、読まないまま月日が過ぎてしまった。他の作品については、多分、一生読むことはないと思う)。昨今、ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」が累計100万部も売れたということもあるので断定はできないが、「古典」といっても評価が定まっているわけではなく、今後も読み継がれていくものと、だんだんに読まれなくなっていくものとがあるということなのだろう。映画やドラマにもなった渡辺淳一の「失楽園」ならまだしも、ミルトンの「失楽園」が日本で話題になることなど私には考えられない。
 「必読書リスト」については、今の目から見るとまだまだおもしろい部分や、一言、いや二言三言言いたい部分もあるので気が向いたらまた書きたいと思う。
 それにしても、この本に書いてあることの大部分は私にとって、かつては「ハウ・ツー本」であり「実用書」だった。本に書いてあるようにはうまくいかなかったが、古書店へ本を売りに行ったとき店主とのやりとりの参考にさせてもらったところもある。そんな本が、今では遠い昔のノスタルジックな雰囲気で読めてしまう。時代が変わり、こちらも歳をとったということなのだろう。(^^;
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「現代人の読書」ミステリの余白に [短編・雑文]

 先に紹介した「現代人の読書」には、最近ではほとんど「死語」となった、蔵書の手引きとして、さまざまな「名作リスト」が掲載されている。いわゆる「古典」がメインだが。この手のものにしては珍しくいわゆるエンタテインメントのリストも掲載されている(といっても、当然最近のものは入っていないが、数十年前にこの手のリストにまで目配りした著者の紀田順一郎氏はさすがだと思う)。この中から私自身が読んでみて感心した、あるいは世評と違って落胆したものなど、気になったものをいくつかピックアッブしてみた。

★推理小説の路標的名作90冊(海外ミステリ)
・コリンズ「月長石」
 これは創元推理全集の1冊本で読んだ。いわゆる日記形式で話が進んで行くもので、普通の伝奇娯楽小説としても飽きずに読める。というか、かんじんの謎解きはちょっと腰砕けで途中からどうでもいい感じになってしまい、ほめられたものではない。犯人もとってつけたようなもので、推理小説としては失格。それでもおもしろいのだから、コリンズの作家としての力量は、相当なものなのだと思う。
・ドイル「ホームズの冒険」「バスカヴィルの犬」
 ホームズの短編集の中では、やはりこの第一短編集が最も密度が濃い。「赤毛組合」などトリックも意表をついていて楽しめる。ただし、評判の「まだらの紐」は、つまらなかった。ホームズの推理は、必要条件だけで突き進み必要十分条件を満たしていない場合がほとんどなので、粗がでない短編の方が読んでいて納得できる。4作ある長編ではやはり「バスカヴィルの犬」だろうが、ちゃんとした翻訳より、子どものとき読んだ久米元一訳の講談社版がいちばん怖かったなぁ。
・フットレル「完全脱獄」
 思考機械シリーズの一編で、不可能と思われる脱出に成功する話である。一種の密室もので、この手のリストには必ず取り上げられるが、機械的かつ偶然性に頼ったもので、種明かしされても不満が残る。
・ガストン・ルルー「黄色い部屋」
 ということで、こちらは心理的な部分に目をつけた密室ものの代表作だが、私はなんとなく肩すかしをくらったような気がした。密室もので、「あ、なぁるほど」と思ったのは、ノックスの短編「密室の行者」くらいのものである。
・ベントレー「トレント最後の事件」
 無味乾燥な本格推理に生きている人間が登場し、恋愛もするということで話題となったようなのだが、松本清張以降の推理小説では当たり前のことで、私には退屈、退屈。
・フィルポッツ「赤毛のレドメイン」
 私がベスト10を組んだら間違いなく入れる。それほど読んでいておもしろく、以後、私は似たような状況の小説に接すると(意外と多い)、これを「レドメイン効果」と呼ぶようになった。「本物」の探偵が登場してくるあたり、「あっ、そうだったのか」とゾクゾクするような興奮を覚えたものだ。ただし、評論家の中島河太郎氏推薦の「闇からの声」は、駄作とは言わないが、それほどのものとは思えなかった。
・ヴァン・ダイン「僧正殺人事件」
 これもベスト10級の名作。犯人が天才的な大物なので、そのぶん名探偵の推理も冴えるというものである。ただ、やはり動機が弱く、松本清張が動機というものを重視するようになったのもこうした「名作」の影響だと思う。並び称せられる「グリーン家殺人事件」は退屈。こちらが犯人がわかってしまっているのに、名探偵ファイロ・バンスは右往左往するばかりで、馬鹿に見えてしまう。
・クイーン「オランダ靴の秘密」
 クイーンの「国名シリーズ」からは「オランダ靴の秘密」が入選だが、やはり「エジプト十字架の秘密」だろう。不気味な感じがなかなかよく出ていた。パズルじゃないんだから、やはり小説には雰囲気というものが必要なのである。
・バーナビー・ロス「Xの悲劇」「Yの悲劇」「レーン最後の事件」
 ロス(クィーンの別名)からはなんと4作中3作が入選。「X」と「Y」については全く意義はない。この2作はどちらもベスト10級の名作であると言っても異論はないと思う。が、「最後の事件」は「ウウム……」としか言いようがない。クイーンは、ある大きなトリックの作品を書こうと考えたのだが、クイーン名義の作品はクイーンが活躍する話なのでそのトリックにそぐわない。そこで、ロスというペンネームを新たに作り、4部作として構想したのだが、トリック自体は最後まで書き切ったもののラストは力つきて退屈なものになってしまった。映画に合わせて☆をつけると「Xの悲劇」☆☆☆☆★「Yの悲劇」☆☆☆☆★★「Zの悲劇」☆☆☆★★「レーン最後の事件」☆☆☆といったところか。
・チャンドラー「大いなる眠り」
 尊敬する映画評論家・故・双葉十三郎さんの訳で読んだのだが、つまらなかったなぁ。「長いお別れ」や「プレイバック」「さらば愛しき女」などいつくか読んだのだが、おもしろいと思ったものは1冊もないので、多分、チャンドラー(やハメット、ロス・マクドナルドなどのいわゆるハードボイルド)は生理的に合わないのだろうと思う。
・アイリッシュ「幻の女」
 あの乱歩が絶賛したので評価が上がった、とみる向きもあるが、確かにおもしろい。気取ったムードたっぷりの書き出しにうまく乗れたらもう途中でやめることはできないはずだ。その後、多くのミステリで使われた、いたはずの人間がその後訪ねてみると誰も知らないというパターンの元祖といっていい。犯人は確かに意外だが、そこに至る過程はけっこういいかげんなので、ムード・ミステリの最高峰とでも言っておこう。

★探偵小説名作五十選(日本のミステリ)
・江戸川乱歩「二銭銅貨」「心理試験」「陰獣」「化人幻戯」
 なんと乱歩だけで4作も入っている。乱歩の名前は子どものころから「少年探偵団」で知っており、小学生になって図書館で借りた小説の作者が「エドガー・アラン・ポー」とそっくりなので驚いた記憶がある(^^;。乱歩の初期の短編は、いずれもワン・アイデアで書いていけるものなので、私もいくつか書いてみたがどうもうまくいかない。乱歩の文体、書き方が重要なんだと指摘した清張はさすがである。「化人幻戯」は後期の長編で本格的な構成をもったものだが、やはり長編を支えるにはプロットが弱い。ところで、ここに取り上げられた4作にしろ、「屋根裏の散歩者」「人間椅子 」などにしろタイトルの付け方のうまさか。個人的には乱歩が通俗小説を書いてしまったと自己嫌悪に陥ったという「孤島の鬼」(とくにその前半の「手紙」)が好きである。
・横溝正史「本陣殺人事件」「蝶々殺人事件」「悪魔の手鞠唄」
 横溝は3作。「本陣」は、かの金田一登場の第1作ということもあって選ばれたのだろうが、機械的密室トリックはおもしろくない。「悪魔の手鞠唄」および(選には入っていないが)「獄門島」などは雰囲気もたっぷりで、トリックにも創意工夫が見られるが、いかんせん、動機があまりに適当である。「蝶々殺人事件」はずっと本格的な作りなのだが、いかんせん主人公のキャラクターが弱い。なぜ横溝の書くものが金田一ばかりになってしまったのかがこれを読むとよくわかる(そういえば内田康夫にもいろいろな探偵のシリーズがあったけど、結局のこったのは浅見光彦のシリーズだけだもんね)。
・松本清張「点と線」「目の壁」「ゼロの焦点」
 清張も3作が入選。「点と線」は例の東京駅の4分間があまりにも有名になったが(ミステリにはこのような記憶に残る「ワンシーン」「一言」が重要)、今なら誰しもが真っ先に思いつく乗り物が物語中では盲点になっているのが、時代の変化とはいえちょっと悲しい。個人的に1冊を選ぶとしたら「目の壁」かな。いずれにしても、清張はミステリだけでなく時代小説、ドキュメンタリー(風)小説、古代史や現代史の探訪などいろいろな分野に手を出し、その著作量もはんぱではないが、ほとんどクズがないのが素晴らしい(フアンの人、怒るなかれ。乱歩の「大暗室」や横溝の「白と黒」など読むに耐えなかった)。
・土屋隆夫「危険な童話」
 そんなに読んでいるわけではないが、「危険な童話」のほかにも「天国は遠すぎる」「影の告発」「赤の組曲」「針の誘い」「妻に捧げる犯罪」など、どれも傑作というわけにはいかないが、この人もクズが少ない。確か長編は20作もないはず。きちんと構成された推理小説はそう簡単に書けるものではないのだから、この乱作しないのは評価に値する。あのヴァン・ダインも全12作書いただけなのに相当ひどいものもある(水準以上の作品をコンスタントに生み出したクリスティは例外)。1冊選べと言われたら、「影の告発」かな。

 ということで、またその気になったら「SF」に関するコメントを書きます。さて、いつになりますことやら。。。。。。。
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「現代人の読書」SFの余白に [短編・雑文]

 先に紹介した「現代人の読書」(紀田順一郎・三一新書)には、最近ではほとんど「死語」となった、蔵書の手引きとして、さまざまな「名作リスト」が掲載されている。いわゆる「古典」がメインだが。この手のものにしては珍しくいわゆるエンタテインメントのリストも掲載されている。「清張ブーム」などあったミステリはともかくとしても、数十年前にSFのリストにまで目配りした著者の紀田順一郎氏はさすがだと思う。この中から私自身が読んでみて感心した、あるいは世評と違って落胆したものなど、気になったものをいくつかピックアッブしてみた。
 私もかつて「SF少年」だった時代があり、毎年夏に行われるSF大会に参加するため東京はもちろん、九州まで行ったことがある。掲載されているリストには当然最近のものは入っていないが、私もまた最近はほとんどSFを読んでいないので、ちょうどいいともいえる。いずれにしてもその本を初めて読んだときのことなどが思い出されてノスタルジックになったりもしますね。。。

★世界SF傑作選(福島正実)
・ヴェルヌ「月世界旅行」など
 近代SFというとなんとなくジール・ヴェルヌから始めるのが定番のようなのだが、実は、ヴェルヌの書き方は古い冒険小説そのままで、今の時代に読むとスピード感もなく、ちょっと、いや、かなり退屈である。そののんびりしたクラシック感がいいという人もいるかもしれないが、私は立体感のない構成についていけず、「海底2万リーグ」も「地底探検」も途中が投げ出してしまった。にもかかわらず、最近の「センター・オブ・ジ・アース(「地底探検」の映画化)」にしろ、欧米ではあいかわらず人気があるようです。
・ウエルズ「タイムマシン」など
 ヴェルヌに比べてウエルズの作品は、発想そのものが現代にも通じ、ヴェルヌではなくウエルズこそ近代SFの父と言っていいと思う。「宇宙戦争」「透明人間」などの長編のほか、「新加速剤」などの短編にもSFマインドがあふれている。古いという感じはない。が、ではおもしろいのかというとヴェルヌよりはましだがかなり退屈はする。叙述が平板なのだ。ウエルズの本領はやはり「世界文化史大系」のような「博学」にあり、小説を書くことはあまりうまくなかったと思う。
・チャペック「R・U・R」
 ロボットの名付け作品ということでSFマガジンに掲載されたものを読み始めたのだが、努力もむなしく最後までは読み通せなかった。「山椒魚戦争」もそうなのだが、どうにも展開がたるくて、「古いなぁー」という気がしてしまうのだ。おもしろく読めた人が、果しているんだろうか?
・オーウエル「千九八四年」
 念のために書くが「1Q84」ではないですぞ。ハヤカワ書房「世界SF全集」の第1回配本は、この作品とハックスレイ「すばらしき新世界」の合本だった。すぐに買って読んだのだが、どちらもううむ……。確かに(書かれた当時から見て)未来の世界が描かれてはいるのだが、政治的プロパガンタ優先でつまらないものだった。SFこそ新しい文学と言いつつも、これを第1回配本にもってきたところに福島正実氏の純文学コンプレックスを見た思いがしたものだった。もちろん私の想像で証拠はない。SFフアンだけでなく、一般の文学好きにも知られている本なので、読者書く大(←「かくだい」と書いて変換したら「拡大」ではなく、「書く大」と出た。全くMacの辞書「ことえり」の馬鹿さかげんには……)。
・ブラウン「発狂した宇宙」
 先に翻訳されて話題になった「火星人ゴーホーム」もおもしろいが、こちには文句なしの傑作であり、この手の多元宇宙もののお手本。いろいろな宇宙をさまよった主人公が最後にどうなったしまうのだろうと思っていたら、おいおいそんなんありかよ、と言いたくなるほどのハッピーエンド。考えてみればこのテーマなんだから「あり」なんだな。こういうところがSFの楽しいところなんだ。地味なところで「天の光はすべて星」なんてのも悪くない。もちろん、「未来世界から来た男」「天使と宇宙船」「宇宙をぼくの手の上に」などの短編集も見逃せない。「闘技場」や「緑の地球」「地獄の蜜月旅行」なんて、いいねえ。要するに、フレドリック・ブラウンこそ私をSFワールドの入り口に導いてくれた人で、足を向けては眠れない存在なのである。
・ブラッドベリ「火星年代記」
 なんでも最近組み替えがあったようなのだが(新しく短編が加えられ、削除された短編があるらしい)、そのハヤカワSF文庫は読んでおらず、以前のポケットブック版ハヤカワSFシリーズでも評価だが、これまた文句なしの傑作である。「刺青の男」に収録されている「万華鏡」や「ロケット」もそうなのだが、「決まった」ときのブラッドベリはとてつもない名作を書く(ただし、これは別のところにも書いたことだが、「ロケット」をハヤカワ版の小笠原豊樹訳ではなく、創元SF文庫の別訳者で読んだらそれほどでもなかった。ブラッドベリのようにリズムのある文体で書く作家のものは翻訳の問題も大きいと思う)。ただし、ブラッドベリは本質的に短編作家で、映画にもなった「華氏451」など本当にくだらなかった(それをとりあえず映画にし、あれだけの素晴らしいラストシーンを作り出したトリュフォーは素晴らしい)。
・アシモフ「我はロボット」「ファウンデーション(銀河帝国)シリーズ」「鋼鉄都市」
 アシモフは器用な人で、どの小説もそれなりのレベルのものを書き、科学解説などもこなす。クズがほとんどないのだ。が、一度よんだら長く印象に残り、そのうちにまた読んでみたくなるというような作品は1つもない。SF界のアガサ・クリスティだなと思ったりもする(「アクロイド殺人事件」「そして誰もいなくなった」「ゼロ時間へ」などクリスティもクズの少ない作家なのだが、「Yの悲劇」や「赤毛のレドメイン」のような衝撃を受けた作品がない)。そんなことからアシモフの作品はどれを読んでもがっかりすることはないのだが、晩年、「ファウンデーション」と「ロボット」の両シリーズを統合するために書きすすめられた(と想像する)新規のファウンデーション・シリーズは退屈だった。結論先にありきで、そこに向かって進んで行くだけなので、わくわく感がまるでないのだ(ダース・ベイダーになってしまうとわかっていて3作も引っ張った「スター・ウォーズ」の新3部作と同じである)。
・ハインライン「地球の緑の丘」「人形つかい」「夏への扉」
 ともかくハインラインはアメリカで人気がある(ということである)。いわばSF界のジョン・ウエインといったところだうか、ともかく「アメリカが」という意識が前面に出過ぎていて私としては苦手な作家の1人である。映画化された「宇宙の戦士」(「スターシップ・トゥルーパーズ」)にしても平板な描写は退屈で、軍隊で鍛えられることで若者は一人前になっていくというヨタ話はもういいかげんにしてもらいたい(アメリカにはこの手の話がやたら多く、ヒットした「愛と青春の旅立ち」「トップ・ガン」なども同じである)。その意味では、夫婦喧嘩の劣勢をタイムマシンでひっくりかえした「夏への扉」などのほうが気楽に読めていい。
・シマック「都市」
 初めて読んだハヤカワSFシリーズ(当時は、ハヤカワ・ファンタジイと称していた)で、とびっきりの名作だった。この作品を読んで数年間、私のSFベスト3は、「都市」「火星年代記」そしてクラーク「幼年期の終わり」で不同だった。今でもこの3作はベスト10を選んだら間違いなく入る。驚いたのは、何千年、何万年というそこで扱われている時の膨大さ。なるほどSFではこういうこともできるんだ、とある意味刮目させられた作品である。シマックはブラッドベリほど器用ではなく、1つ1つの短編は今ひとつのものもあるのだが、全体を通して読むと圧倒的な時の流れが実感される不思議な作品である。
・クラーク「幼年期の終わり」
 SFマガジンに「人気カウンター」というコーナーがあった。読んでおもしろかった順位をつけて投稿すると何か月後かにその順位が誌上で発表され、5人に最新のハヤカワSFシリーズがもらえるというものだ。私は最初の投票で当選し、そのとき賞品としてもらったのがこの「幼年期の終わり」だった。SFとはこれだ、と言いたくなるほとの名作である。クラークはアシモフと同じように小説も書けば科学評論も書くのだが、アシモフほど器用ではなく、とくに会話が下手である。本作(および本作をふまえて書かれた「2001年宇宙の旅」)は、会話が少ないために名作になり得たとも言える。
・ベスター「破壊された人」
 SFフアンなら誰もが知っているヒューゴー賞。今ではそれほどでもないのかもしれないが、かつてはヒューゴー賞受賞作というと、それだけで読んでみたくなったものだ。その第1回の受賞作で、この作品に何か賞を与えたくてヒューゴー賞が設立された、なんて風評すらある。それが翻訳されたとなると、もう試験が迫っていようと読まなければならない。で、読んだ結果は、ううむ……。駄作、失敗作とは言わないが、それほどのものとも思えないのだ。むしろ、あまり期待しないで読んだ「虎よ、虎よ!」、これこそベスターの傑作で、まちがいなくSFのベスト10に入る作品である。クライマックスのジョウントの迫力たるや、……ネタバレになるのでこれ以上は書けないが騙されたと思って読んでほしい。
・パングボーン「観察者の鏡」、ウインダム「トリフィド時代」
 この2作は、創元の厚木淳氏の「SFへの招待」にも選ばれている。「観察者の鏡(オブザーバーの鏡)」は名作「都市」と同じ「国際幻想文学賞」を受賞、「トリフィド時代」は古典中心の「ペンギンブックス」に初収録されたSFであり映画化(「人類SOS」)もされた。と書くとどちらも文句なしの傑作に思えるかもしれないが、信じられないほど退屈な作品だった。とくに前者は途中で断念、後者は、淡々と抑えた描写がよいなどという人がいるが、淡々としすぎて読み進むのが苦痛だった。SFはなによりもまずエンタテインメントである。おもしろくないものに価値はない。

 このリストが発表されたときにはまだ「宇宙の眼」くらいしか紹介されていなかったディックの「ユービック」と、キイスの「アルジャーノンに花束を」(短編の方)は、ぜひSF傑作選には加えたい、と最後に書いておこう。
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買ってしまいました亀山訳「悪霊」 [短編・雑文]

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 光文社の古典新訳文庫で亀山郁夫訳・ドストエフスキー「悪霊」第1巻が出たのでつい買ってしまった。全3巻ということなので本当は3巻を一気に読んでしまった方がいいのだが、とりあえずこの第1巻を2度ほど読んで第2巻が出るのを待とうと思う。
 「悪霊」を最初に読んだのは学生のときで、平凡社のロシア文学全集・米川正夫訳の「悪霊」でした。これはフランス装で箱も機械折の軽装版でしたが、ともかく「読む」ことを最優先した結果です。当時、ドストエフスキーは米川訳、トルストイは中村白葉訳といったイメージがあったので訳も信頼して買いました(紙がクリーム色ではなく白い紙でちょっと読みにくかったのですが)。で、読んだ結果は、「……???」 いったい何なんだこれはという感じでした。当時、「罪と罰」「カラマーゾフの兄弟」(河出のグリーン版世界文学全集)「白痴」(平凡社のロシア文学全集)はすでに読んでいたのですが(いずれも米川訳)、こんなに戸惑うことはありませんでした。
 その後、米川正夫個人全訳の「ドストエフスキー全集」(河出書房)を購入。上記の「4大長編」はすべてこの全集版で再読し、それなりに理解も深まったと思うのだが、「悪霊」だけはやはり薄いベールに包まれたままで今ひとつその本質を表してはくれなかった。
 では、「悪霊」は魅力のない小説なのかというと、そうではない。いや、それどころか読んでからもう何十年にもなるのに未だに鮮明にイメージが残っているシーンがいくつもある。だから、困るのだ。
 たとえば、スタヴローギンがリーザと共に対岸の火事を見るシーン。実に神秘的である意味美しいシーンなのだが、実は……という恐ろしいシーンでもある。そして、キリーロフの象徴的な自殺。「白痴」のムイシュキンが語る死刑前のシーンなど、「一瞬と言えども永遠を超える価値があるのだ」というドストエフスキーの信念に裏打ちされたものなのだが、「悪霊」に登場するキリーロフはまさにその信念の具現化したものと言っていい。
 さて、今回の亀山訳で、「悪霊」はその全体像をくっきりと現してくれるのだろうか。久しぶりに、わくわくしたものを感じながら読み始めることにしたい。

↓おまけ 河出書房版・全集
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