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再度・今こそ「西部戦線異状なし」を見よう [映画の雑感日記]

 戦争大好き安倍政権の唱える「集団的自衛権」に疑問を呈すれば、議論なんてものは素通りで「非国民」「臆病者」なんてコメントがやって来る。政権=国では絶対にないはずだし、戦争なんて事態になったらコメントをくれたネトウヨたちが最前線に立つということは絶対にないだろうと思う。
 一強をいいことに「上級国民」は、噓はつき放題、身内贔屓はやり放題。もちろん、責任など誰1人としてとらないその周囲には利権のおこぼれにあずかろうという人物や、虎の衣ならぬ安倍の衣をまとって意見の違う者を罵倒し日頃の憂さ晴らしをしているネトウヨたちが群れている、というのが今の日本だろう。
 もし、将来、日本という国がもう少しマシになったとしたら、おそらく「あの時代の連中は何やってたんだ」ということになるのだろうと思う。何も言わなかった、やらなかったと思われるのも不本意なので以前書いた雑文(少し加筆してある)を再度アップしておこうと思う。
西部戦線.jpg
 「西部戦線異状なし」の原作はレマルク。
 私は半世紀も前の高校時代にこのルポルタージュ日記風の小説を読んだがあまり感心しなかった。生意気盛りで刺激に飢えている高校生には、あまりに淡々と進んで行く物語が、どうにももの足りなかったのだ。が、大学に入ってから見た映画(もちろんリバイバル上映)はその1万倍もおもしろい大傑作だった。見たのは名古屋の名宝会館内のスカラ座。70mm上映可能館なので、左右はスタンダードサイズなのだが天地いっぱいの大画面でこの映画を見られたのは、本当によかった。あまりのすばらしさに映画が終わってもすぐには立ちたくない心境だった。この映画については、以前こんなことを書いている

「(戦争映画があまり好きではない)私が唯一名作と認める戦争映画の例外中の例外がある。ルイス・マイルストン監督の『西部戦線異状なし』である。アカデミー賞をとったのは当然で、これは、戦争映画という枠組みを超えた「映画」として掛け値なしの名作である。未見の人は、レンタルビデオでもいいから、ぜひ見て欲しい。
 出征兵士を送り出す華々しいパレードが行われている場面をずっと引いてくると、教室の中で教師が、今こそ銃をとって戦えと演説している場面、靴の主が銃弾に倒れて次々と変わっていくシーン、蝶を採ろうとした主人公が銃弾に倒れ無数の十字架が並ぶ画面にオーバーラップしながらまだ生に未練があるように振り向きながら去って行くラストなどは、おそらく映画史に残る名シーンだと思う。
 が、私が『西部戦線異状なし』は名作だ、と言うのはそういう(所謂反戦的)場面があるからということだけではない。実は、これほど迫力のある戦闘シーンを他の映画で見たことがないのである。塹壕で待機していていよいよ敵が攻めてくる場面の迫力たるや思わず体に震えが来たほどである。ソ連(という国がかつてあったのだ)の「戦争と平和」や、アカデミー賞を授賞した「パットン大戦車軍団」など大規模な戦闘シーンを描いた映画はあるが、緊張感で震えが来るなんてことはなかった。画面にそれほど迫力があり、(第一次世界大戦の映画なのに)現実感があるということなのだろう。
 二回にわたって行われる戦闘シーンを見るだけでも映画の力というものを感じさせる、文句無しの名画である。逆に、生々しい戦争というものを映画が扱う場合、この『西部戦線異状なし』くらいの名作の域に達していないと現実の重みに負けて、映画が自立出来ないのだろうと思う。」

 名作なので記憶に残っているシーンは多いが、塹壕に身を隠した主人公がそこへ飛び込んできた敵兵を、自分の身を守るためとはいえ刺してしまい、その瀕死の敵と一晩同じ塹壕で過ごすシーンなどとくに印象に残っている。敵兵が死んだあとポケットをさぐると身分証書に挟まれていた1枚の家族の写真、・・・思わず目頭が熱くなった。かつて日本では鬼畜米英なんて教えられていたようだが、このワンシーンを見ただけで敵も(自分と同じように)決して鬼畜ではない普通の人間だとわかる。相手もまた同じように無事の帰りを待ちわびている家族のいる人間なのだ。そして悲しいことにそんな普通の人間が殺し殺されていくのが戦争なのだ。
 それを何よりも明確に表しているのがタイトルで、レマルクの原作では「Im Westen nichts Neues」(西部戦線には報告すべきようなニュースはない)。映画のタイトルも「All Quiet on the Western Front」(西部戦線は何事もなく静まり返っている)。「西部戦線異状なし、報告すべき件なし」これが、主人公が死んだ日の前線からの報告なのである。

 映画を見終わった後には深い感動と、私利私欲のために戦争を起こした者や組織に対する憎悪が残る。言うまでもなく戦争の最大の犠牲者は戦死者である。そして、死んだ者は何も語らない。だから、それをいいことに前線からは遠い安全なところでうまいものを食べ、無理矢理の命令を下して多くの者たちを死地に追いやったにもかかわらず生き残った為政者たちは再び威勢のいいことを声高に叫ぶ。この映画の冒頭、ドイツは今や危機的状況にある若者は今こそ銃をとれ、と叫ぶ教師のように。教室内は熱狂の嵐となり、ここで立ち上がらない者は臆病者、祖国に対する裏切り者だといった雰囲気の中、主人公も軍隊に志願するのだが・・・。
↓ここで全編が見られます。
https://www.youtube.com/watch?v=rBLJcMAC7Gk
https://www.youtube.com/watch?v=ZdUA0nVXIpY

 久しぶりに見て、今という時代がまさに同じ閉塞状況の時代であることに気づかされる。誰かが威勢のいいことを叫べばそれを聞く者はストレス解消になるわけだ。「集団的自衛権」「原発」「秘密保護法」・・・安倍独裁政権からは威勢のいい叫び声ばかりが聞こえてくる。反対はもちろん、疑問を唱えるものは、すぐさま「非国民」。
 「集団的自衛権」にしても、国を守るのは当たり前だろう、という一言で終り。ここでも、反対はもちろん、疑問を唱えるものは、すぐさま「臆病者」。都合が悪くなると話をそらして逃げる安倍こそ臆病者の小心者だと思うのだが、そこでは真っ当な議論は拒否され、何時間も「議論」したからもう十分だろうという結論がポンと出される。
 そこではなぜ今まで法制局は「集団的自衛権」は憲法に抵触するとしてきたのか、なぜこの時期に抵触しないと方向転換したのか(独裁者が自分の意のままになる人物を長官に据えたからである)、新たな法律を制定しないと国を守れないような状況にあるのか、などといった議論すらなく、反対する者は非国民と言われかねない状況だ。しかし、本当にそれでいいのか。安倍や麻生、「生産性」の水田や「恥」も知らない三原などは絶対にこの映画は見ないと思うのだが、今こそ1人でも多くの人にこの映画を見てほしい。

 もう1本今だから見てもらいたい映画ということになれば、「ローマの休日」「スパルタカス」の脚本家ダルトン・トランボ渾身の映画「ジョニーは戦場へ行った」だろう。これも劇場で見たが出てきて周りの景色に色があることにとても感動した記憶がある。この映画については、こんなことを書いている。
 「『ジョニーは戦場へ行った』は1939年にトランボ自身が書いた小説。その後、第2次世界大戦や朝鮮戦争が起こるたびに発禁処分になった。まあこういう話を知るとアメリカも決して民主主義のモデル国で言論の自由が保障されているなんてことは幻想であることがわかるのだが、その自身の原作を1971年ベトナム戦争の最中に自身が監督(最初にして最後の監督)して映画化してしまったところに、『生きる』ということの意味を問い続けたトランボの気骨というか執念を感じざるを得ない。実際、私はこの映画を映画館で見たのだが、呆然としたまま見終わってすぐに席を立つ気になれなかった。映画館を出ると平日の昼間で、頭上には青空が広がり、すべてのものに色があるのがとても素晴らしいことのように感じられたものである(映画を見た人だけにわかるように書いている)。生きていることを実感させる、そして生きていることの意味を否応無しに問いかけてくる、とてもいい映画だ。『映画の力』とは、こういうものなのだろう」
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