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スケール感ゼロの「幼年期の終り」 [テレビの雑感日記]

「幼年期の終り」☆☆★

 私が初めて買ったSFマガジンは1964年の3月号なのでもう半世紀以上も前のことになる。小説、コラムなど隅から隅まで読んだ。印象に残ったのはアイザック・アシモフの「夜来る」。当時のSFマガジンには(もう10年以上買ったことも見たこともないので今はどうなっているのかわからないが)「人気カウンター」というコーナーがあり、私は1位「夜来る」以下順位をつけて葉書を出した。するとこの最初の葉書が見事当選し、賞品として送られて来たのがハやカワSFシリーズの最新刊アーサー・C・クラーク「幼年期の終り」だった。
 さっそく読んだ。
 いやあ、おもしろかった。
 これぞSFと感心した(実はクラークは「技巧」的にはあまりうまい作家ではなく、「2001年宇宙の旅」などもそうなのだが、発想と状況描写の素晴らしさに比べて人物の造型が平凡だと感じるようになったのはその10年も後のことである)。
 それがアメリカでミニドラマ・シリーズになったという話を聞いてネットで見つけたのだが、ナレーションを含めやはりある程度の英語の理解力がないとちょっとついていけない。それが、CS(AXN)でようやく放送されたので「待ってました」と見てみた。
 結果は、・・・・・・ううむ。
 原作プロローグのラストで宇宙ロケットの開発者が空を見上げて詠嘆する「人類はもはや、孤独ではないのだ」という一言が表す圧倒的なスケール感、これこそがクラークの真骨頂だろう(原作は書かれた当時の米ソ対立の冷戦時代をなぞっているが、この部分は後に書き直されたという話をどこかで見た。その新版は読んでいない)。「今この世にいる人間ひとりひとりの背後には、三十人の幽霊が立っている」という「2001年宇宙の旅」にしろクラークは本当に書き出しがうまい)。その、ある意味小さくてとるに足りない人類が、宇宙の深淵を覗き込むようなぞくぞくする緊張感が残念ながらこのテレビドラマにはない。
 また、「2001年宇宙の旅」を見た人ならわかると思うが、木星へ向かうディスカバリー号の中でのコンピュータと人間の闘いの奥には次のステップに進むのはコンピュータと人間のどちらでもいい(勝ったほうが次のステップに進めるのだ)というクラークの想いがこめられていたことは間違いない。このことは「未来のプロフィール」というエッセイでもクラークは明言している(以前読んだSFマガジンの連載を読んだときの記憶で書いている。違っていたら、ごめんなさい)。
 要するに原作の「幼年期の終り」には、人類というものにはこだわらず、人類がついに人類ではないあるものとなって宇宙意思に参加していくという空間と時間の圧倒的なスケール感があるのだが、それがこのドラマには見られないのだ。特撮などもイマイチ。というかイマニ、いやイマサン。以前、ミニ・シリーズとして放送されたブラッドベリの名作「火星年代記」も期待して見たら特撮のチャチさにがっかりしたものだ。予算の関係もあるのだろうが、テレビドラマにあまりスケール感を期待しちゃあかんね。

☆★は、尊敬する映画評論家・双葉十三郎さんの採点方法のパクリで、☆=20点、★=5点(☆☆☆が60点で「可」。合格というか、まあ許せるラインということです)
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