SSブログ

独断と偏見・私の「世界の十大文学」 [短編・雑文]

 サマセット・モームと言っても最近はすっかり忘れられた作家の仲間入りしてしまったが、新潮社から「選集」が出ていたほどの「文豪」である。代表作「人間の絆」はキム・ノヴァク主演で映画にもなった。そんな彼のエッセーに「世界の十大小説」というものがある。現在は岩波文庫に入っているようだが、私の青春時代には岩波新書に入っていて、それを読んだ。なんとなく世界文学の古典は一通り読んでいるというのが「常識」のように考えられていた時代である。そうした背景もあって新潮社、河出書房、筑摩書房からそれぞれ特色のある世界文学全集が刊行されていた。新潮社が50冊(各290円)、河出書房が80冊(各330円)、筑摩書房(基準価格500円)に至っては100冊という大全集なので(このあたりぼんやりとした記憶で書いているので冊数は違う可能性が高い)いったい何を読んだらいいのか見当もつかない。重複するものも多くあり、三つの全集すべてに入っているものもあったが、たとえば当時世界文学の最高峰の一つと考えていたトルストイの「戦争と平和」が新潮社のものには入っていないなどということもあって判断に迷う。また、新潮社、河出書房の全集はシェイクスピア以降で19世紀のものがメイン、対して筑摩書房のものはギリシア・ローマのものから中国の古典まで網羅していて、これは比較ができない。少ない小遣いで迷いに迷うわけである。
 そんなとき、「ううむ、これだけは絶対に読んでおかなければ」と思わせたのが文豪モームの選んだ「世界の十大小説」で、リストは以下のようなものだった。

☆フィールディング「トム・ジョーンズ」
☆オースティン「高慢と偏見(プライドと偏見)」
☆スタンダール「赤と黒」
☆バルザック「ゴリオ爺さん」
☆ディケンズ「デビッド・コパフィールド」
☆フロベール「ボヴァリー夫人」
★メルヴィル「白鯨」
★ブロンテ「嵐が丘」
★ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」
★トルストイ「戦争と平和」

 順位はついていない。☆印は買ったもの(要するに「世界の十大小説」なんだから読まなければと、すべて買ってしまったわけだ)。「トム・ジョーンズ」「赤と黒」は途中まで読んだものの断念。「高慢と偏見」「ゴリオ爺さん」「デビッド・コパフィールド」「ボヴァリー夫人」に至っては買って解説を読んだだけで本文は全く読んでいない。買って持っているという状況だけで安心し満足してしまったのである。★は買ってなおかつ読了したものだが、ごらんのように半分までいっていない。情けない。

 後に知ったのだが、モームには「世界文学100選」という短編のアンソロジーもあり、その前書きの中で「Tellers of Tales」つまり小説の中の小説として10編が選ばれている。つまり、モームの考える「これだけは読んでおかなければ話にならないよ」という古典中の古典である。

★セルバンテス「ドン・キホーテ」
☆ゲーテ「ヴィルヘルム・マイスター」
☆オースティン「高慢と偏見(プライドと偏見)」※
☆スタンダール「赤と黒」※
☆バルザック「ゴリオ爺さん」※
☆ディケンズ「デビッド・コパフィールド」※
☆フロベール「ボヴァリー夫人」※
★ブロンテ「嵐が丘」※
★ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」※
★プルースト「失われた時を求めて」

 7編が「世界の十大小説」と重複しているが(※印)、なんとこちらも★は過半数に届かなかった。スタンダールは「赤と黒」「パルムの僧院」ともに所持しておりこの二大名作には何度もチャレンジしているのだが生理的に合わないというのかどうしても読み通すことができない。「ヴィルヘルム・マイスター」は「修業時代」「遍歴時代」を合わせた筑摩世界文学大系の分厚い一冊本を買ったのだがその中の「美しき魂の告白」と題された短編部分を読んだだけである。情けない。

 最近読んだ清水義範「早わかり世界文学」(筑摩新書)の中にも「私が決める世界十大小説」というコーナーがあった。もっともここには叙事詩や戯曲も入っているので正確には「十大文学」と言うべきだろう。リストは以下の通り。

★ホメーロス「オデュッセイア」
★紫式部「源氏物語」
★シェイクスピア「ハムレット」
★セルバンテス「ドン・キホーテ」
☆ゲーテ「ファウスト」
☆バルザック「ゴリオ爺さん」
☆フロベール「ボヴァリー夫人」
★ドストエフスキー「罪と罰」
★トーマスマン「魔の山」
★プルースト「失われた時を求めて」

 おおっ、やっと過半数を越えた。「ファウスト」は第1部は読了しているから(あ、手塚治虫のまんがも読んでいるぞ)これを1/2と考えると全体の3/4、75%という数字になる。まずまずというところではないだろうか(と自己満足)。というようなことを書いていたら、自分でも「十大文学」を選んでみたくなった。

 というわけで、独断と偏見・私の「世界の十大文学」。
 世界文学の名作をすべて読むなどということはしょせん不可能であり、いわゆる「文学全集」に収録されたものですら全巻読んだことはない。まあ一般的な生活を送っている人よりは多少多くの作品を読んでいるのかもしれないが、私の読んだ名作・古典に対する割合など所詮たかがしれており、実に惨憺たるものである(情けないことに19世紀のフランス古典文学がどうしても読めず、ゾラ、バルザック、フローベルといった名だたるところが全滅)。
 当然入っていて当たり前のようなダンテ「神曲」、ゲーテ「ファウスト」、あるいはラブレー「ガルガンチュアとパンタグリュエル」、シェエラザードには悪いが「千夜一夜」などの諸作は入ってこない。本を買ってはみたものの、読んでいないからである。確かに若いころに乱読の時期がありアナトール・フランス「神々は渇く」、ゲオルギウ「25時」、ジュル・ロマン「プシケ三部作」など今ではほとんど読む人もいないようなものからギリシア・ローマ時代の「ダフニスとクロエ」「ビリティスの歌」「サテリコン」なんてマイナーなものまで手当たり次第に読んだのだが、当然のように「世界の十大文学」には入ってこない。ユゴー「レミゼラブル」、デュマ「モンテクリスト伯」、デュ・ガール「チボー家の人々」なんて長いものも読んだが、長いというだけではランクインできない。
 当然、客観的評価などというものも不可能である。要するに「私が読んだものの中で」というきわめて限定的なある意味偏見に満ちた選出であることをお断りしておきたい。人によってはベスト10入りしてもおかしくないフォークナー「八月の光」「寓話」「サンクチュアリ」なども読んだのだが生理的に合わないので落選してしまった。
 では、この私的リストを読むことで何か得るものがあるのかというと、実は何もない。単なる自己満足といういいかげんなものである。まさかそういう人はいないと思うが、ここに書いてある評価を盲信し読書の指針にしないようにお願いしたい。順位はつけておらず、だいたい書かれた時代順である。

★1★ホメーロス「イーリアス」
 大学に入れることが決まって真っ先に読んだのがこの本。歴史超大作映画大好き人間なので、要するに「ベン・ハー」などのスペクタクル大作として読んだのである(蛇足だが「ベン・ハー」の原作は駄作だった)。前回アップした清水義範リストでは「オデュッセイア」が選ばれているが、私は断然「イーリアス」の方である。多分、ロードムービー風の「オデュッセイア」より、長いトロイア戦争の中の断片をアキレウスの怒りとその結末という集中した形で描き出した「イーリアス」の方が生理的に合うのだろう(もっとも前半ちょっとよけいな寄り道があったりするのだが、おそらく後世の挿入だろう)。
 アキレウスが出陣しないので親友パトロクロスはアキレウスの武具を借りて出陣するがヘクトールに討たれる。アキレウスは母(女神テティス)から、ヘクトールを討てば自分も死ななければならないと告げられるがついに出陣し、ヘクトールを討つ。このあたりの手に汗握る迫力たるやブラピの主演した映画「トロイ」の及ぶところではない。ラストのヘクトールの葬儀も心に迫る静けさが満ちていて見事。
 「憤りの一部始終を歌ってくれ、詩の女神よ……」(「イーリアス」)「かの人を語れ、ムーサよ……」(「オデュッセイア」)なんて冒頭の一節を今でも覚えているくらいだからかなりの影響を受けたことは事実である。ただ、翻訳なので根拠はないが「イーリアス」と「オデュッセイア」では、どちらが出来が上かというようなことを抜きにしても、なんとなく語り口が違うような気がする。つまり、ホメーロスというかこの劇詩をまとめた人物がいたにしてもそれは両方を一人がまとめたのではなく、それぞれ別人がまとめたのではないだろうか、と思うのだがどうなんだろう?

★2★司馬遷「史記」
 「史記」は文学ではなく歴史書だろうが、という意見があるのは承知の上。もちろん「史記」は中国史の筆頭におかれる歴史書である。ただ、おいおいどこでそれ聞いてきたのというような奇譚や、おおっと思わず叫びたくなるようなエピソードなど満載なので文学として読めないこともない。
 周知のように著者の司馬遷は、李陵を弁護した罪で宮刑に処せられた男である。その深い思いが「史記」に投影されているのは言うまでもない。「史記」の最後にあたる「大使公自序」には次のような一文がある「……楚の屈原は放逐されて離騒を表し、左丘は失明して国語があり、孫ぴんは脚を切られて兵法を論じ、……韓非子は秦に囚われて説難・孤憤があり……、要するに、人はみな心に鬱結するところがあって、その道を通ずることができないために、往事を述べて未来を思うのだ」。
 この一文を読んだだけでも、「史記」が単なる歴史書ではなく、司馬遷の熱い想いを託された書であることは明白である。要するに、この「史記」の中に司馬遷の想いのすべて、全存在が投入されているのである。「項羽本紀」「高祖本紀」「越王句践世家」「留侯世家」「孫子・呉起列伝」「伍子しょ列伝」など、ううむとうなる名品揃い。しかも、話の後におかれている「大使公曰く」がこれまた絶品。たとえば「伍子しょ列伝」の後におかれた「伍子しょは……小義を棄て、……名を後世に垂れたのである」を読めば、司馬遷の生き方と重ね合わせざるを得ない。私は「大使公自序」の最後「百三十巻をもって終わった」という一文を読んだとき思わず拍手したくなった。読んだ人に生きる勇気と力を与えてくれる書物としては、これが第1位かもしれない。

★3★紫式部「源氏物語」
 なんとなく日本文学を代表するのはこれだろうなあと思いながらなかなか読めなかった。古文はそう苦手でもなかったのだが、ともかく「源氏」は難しすぎるのである。日本人なんだから原文で読もうと岩波の日本古典文学大系の一冊(全五冊)を借りてはきたのだが、少し読むたびに下の注釈を読まねば意味がとれず、そうなると全体のイメージがつかめなくて断念。その後、谷崎潤一郎訳の「源氏」が原文の雰囲気を残してとてもいいという話を聞きチャレンジしてみたのだが、それでも難しすぎて断念。今度は与謝野晶子訳を開いてみたのだが、これはちょっと現代的すぎてまたまた断念。もう「源氏」はダメかと思っていたところに円地文子訳に出会い、その新潮文庫五冊本でようやく読了できた。
 シェイクスピアの諸作や「ドン・キホーテ」などより600年以上もの昔にこれだけのものが書かれていたというだけでも驚きだが、そういった時系列を度外視してもこれは単なるエピソードの羅列ではない堂々たる構成をもった見事な長編小説である。全体としては親の因果が子に移りという流れなのだが、「夕顔」のようにホラーな部分もあって飽きさせない。「宇治十帖」は本当に必要だったのかという気がしないでもないが、最後の「夢浮橋」がいわゆる「意識の流れ」に大きな影響を与えたというのは容易に理解できる。プルーストがやろうとしたことを千年も前にやったということだけでもすごい。ちょった残念なのは本編の中に多くの和歌の評価。円地訳では和歌はそのまま載せ見開きページの最後に簡単な訳をつけるという構成で、それはそれでいいのだがその和歌がうまいのか下手なのかさっぱりわからないこと。「……という歌を詠まれ皆が感心した」というような記述があると、へえそうなんだと思うだけでなんとも歯がゆかった。

★4★セルバンテス「ドン・キホーテ」
 最初に読んだのは河出書房版の一冊本で全体を1/2ほどにダイジェストしたものだった。想像していた以上におもしろかったので筑摩の全訳二冊も読んでみたのだがやや退屈した(訳者はどちらも会田由)。途中で「無分別な物好き」「捕虜の話」など本編と全く関係ないような短編がいくつか挿入されていて流れが分断されるため、ストレスがたまるのである。
 なんとなく「おもしろ文学」の代表のように思われている(そして当時はおもしろくて笑えたのだと思う)のだが、有名な風車事件にしても私には痛々しくてとても笑えるものではなかった。少なくともデリケートな(^_^;私はそうだった。いったい、どこがおもしろいのか?と思いながら読んでいった。そんな「ドン・キホーテ」ががぜんおもしろくなってくるのは後編からで、前編が短編小説の羅列のようになっていて一向に深化してこないのとは対照的に、後編は魔法で田舎娘にされた姫の魔法(もちろん魔法とは関係なく本当の田舎娘である)を解くという本筋があり、これはエピソードの羅列ではない立派な長編小説の構成である。この後編があって初めて「ドン・キホーテ」は世界文学のベスト10入りができたのだと思う。
 後編における贋作の存在もまた作品の幅を広げている。ドン・キホーテはその贋作を読んでいるのである。だから作品の中でその贋作を罵倒したり、贋作に書いてあるからと行き先を変更したりというシュールな出来事が続出する。爆笑とはいえにいがニヤリの連続である。「アラビアのロレンス」ピーター・オトゥールが主演した「ラ・マンチャの男」はそんなセルバンテスを主人公にしたミュージカルで、ちょっと退屈なところもある映画だったが、牢屋の中のセルバンテスが読んで聞かせる「ドン・キホーテ」がそれを読むセルバンテスの生き方とオーバーラップする二重構造は「ドン・キホーテ」と贋作との関係をも思わせて見事。小説とは関係ないが「見果てぬ夢」を聞くと、これも生きる力を与えられ、感動で目頭が熱くなるのは歳のせいだけではないと思う。

★5★トルストイ「戦争と平和」
 今となってはいかにも19世紀的な長編で、少し古いかなという感じもしていた。それで今回この雑文を書くために少し読み始めてみた。すると菊判三段組みの筑摩世界文学大系の本がどんどん読めてしまうのだ。危ない危ない。うっかりすると向こう一か月仕事を放棄してずーっと「戦争と平和」を読み続けることにもなりかねない。これはおそらく「小説」という形式が19世紀でいったん完成し、その典型の一つが「戦争と平和」であるということなのだと思う。ともかく、「戦争と平和」はこの長い作品の全編に渡って安定していて揺るぎがない。
 「彼らのための三章」にも書いたことだが、アウステルリッツの空の記述などただ淡々とした空の描写があるだけなのだが、そこに恐ろしいほどの静けさと永遠が感じられる。もちろんトルストイはそうした意図をもってこの大長編を書いたわけだ。そのドラマの中でナポレオン戦争を軸にヨーロッパとロシアという「世界全体」を小説の中に封じ込めようという意図は見事に成功している。ふつう全体小説を書こうとすると細部がおざなりになるものだが、主要人物はもちろんのこと脇役まできちんと性格付けられ書き分けられている。ともかくこれだけの大長編なのに退屈せず、安心して読め、読後にある種の満足感を得られるという意味では比類のない小説である。
 小説の最後につけられているトルストイの歴史哲学エッセーにしても単独で提示されたら「なんじゃこりゃあ」というようなものだが大長編の締めくくりとして読むと実に味わい深い。それほど「戦争と平和」を高く評価しているにもかかわらず、三大長編の残りの二つ「アンナカレーニナ」と「復活」は未だに読み通せないでいる(「彼らのための三章」で読んだことにしてあるのは嘘です)。なぜだ?

★6★ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」
 「罪と罰」「白痴」「悪霊」「カラマーゾフの兄弟」というのが、いわゆるドストエーフスキイの四大長編。海外の作家の個人全集を買ったのはドストエフスキーだけで四大長編については斜め読みではあるが全集(米川正夫個人訳)に入っていた創作ノートも読んだ(ただし全集すべてを読破したわけではない。およそ2/3に留まる。長いところではどうしても「未成年」と「虐げられた人々」を読了できない)。
 というようなことはともかくとして、ドストエフスキーの作品には一度読んだら一生忘れられないような印象的なシーンが必ずある。たとえば「罪と罰」の主人公ラスコーリニコフは老婆を殺す夢を見るのだが、実際の老婆殺しよりもこの夢の老婆殺しはリアリティーをもって読む者に迫ってくる。現実以上の現実と言ってもいい。そんな夢の中からやってきたように、それまで名前だけは出ていたスヴィドリガイロフが登場するシーンなど、私なら文句なしに座布団十枚進呈してしまう。「白痴」のムイシュキンが語る処刑のシーンや異様なほどの静けさが世界を支配している中でのラストシーン、「悪霊」のキリーロフの「ある一瞬があるのだ」と確信しての煌めくような自殺のシーンなど読んでもう何十年も経っているのに鮮やかに記憶している。
 そんな名作揃いの中でも一作だけということになると(本当は四作とも「十大小説」にランクインさせたいのだが)やはり「カラマーゾフの兄弟」ということになる。人間に本当の「自由」いうものがあるのか、あるとしたらその「自由」の重荷を背負って人間は生きていけるのかといった重いテーマをかかえながら、文句なしに話自体がおもしろい、というのがすごいところである。ただ、今回、亀山訳を読んだところ今まで以上にこれが未完の小説であることを痛感させられた。13年後のアリョーシャがどうなったのか、少し大げさに言えば人類にとって失われたものはあまりに大きいと言わざるを得ない。「カラマーゾフの兄弟」の感想についてはこのブログにも「亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』雑感」と題した一文をアップしてあるので参照していただきたい。

★7★ロマン・ロラン「ジャン・クリストフ」
 まあふつうこの小説は「十大小説」には入らないだろうなと思いながらもあえて入れてみた。理由は私が初めて読んだ「世界文学」だから(詳しくはこのブログにアップしてある「彼らのための三章」を見ていただきたい)。
 ベートーヴェンをいくらかモデルにしたような音楽家ジャン・クリストフの一生を描いた物語である。ちょっと鈍くさくて退屈するところもあるのだが、ともかく読み終えた。読んだのは高校生のときなので「三十歳までに何かを成し遂げられない奴は馬鹿だ」みたいな発言にも素直にうなずくことができた。なにしろ三十歳といえばそれまで生きてきた倍近い時間があるのだ(と思っていたら、「あっ」という間だったなあ(^_^;)。今、この部分を読むのは、さすがに辛い。ラストシーンの音楽が聞こえてくるところなど今にして思えばちょっとあざといのだがこれも高校生としては素直に感動でき、読み終わったときにはまちがいなく「読み終えた」充実感があった。私に「世界文学」の扉を開いてくれた小説として「十大小説」にランクインされる資格は十分にある。
 ただ、彼のもう一つの代表長編「魅せられたる魂」は内容もよく知らないのに読む気がせず、本を買ってもいない。ちなみに、こうした「成長小説」としてはトーマス・マンの「魔の山」も読んだ。これもそれなりにおもしろい作品だったのだが、主人公を取り巻く人間としてゼデムブリーニはよく描けているが、ナフタは(悪魔的人間を描こうとする作者の意図はわかるのだが)、たとえば「罪と罰」のスブィドリガイロフあたりと比べると完全にかすんでしまい、不満が残る。今ではあまり話題にもならない「チボー家の人々」なんてのも読んだが退屈なだけの長編だった。ジャックの父親などフョードル・カラマーゾフの生々とした造形と比べるべくもない。要するに、天才と単なる作家の差だと思う。あ、ドストエーフスキイと比べるなんてのは、ちょっと大人気なかったか。

★8★プルースト「失われた時を求めて」
 トルストイの「戦争と平和」が地理的な世界の全体像を描こうとした作品なら、「失われた時を求めて」は時間的な世界の全体像を描いた作品と言える。世間的にも20世紀を代表する小説という評価がほとんど定説になっており、私も反論するつもりはない。ただ、この小説、正直私には辛い部分がかなりあった。いわゆる「意識の流れ」という手法が難しいわけではない。作者に確固たるイメージがあるのだろう、ある意味、非常に論理的に描写されていて迷うところはない。
 困難なのは、そこに描かれている「文化」である。プルーストはさすがフランス人というか、絵画、音楽、演劇、から料理まで事細かに描写するのである。それが文化的素養のない私には何をいいたいのかさっぱり理解できない。ところが、そうした文化が物語に大きな変化をもたらしたりするのだから始末が悪い。途中何度も投げだそうかと思いながらも最後まで読み切ったときには苦役から解放された気分だった。
 それでも時の流れに風化しない小説を書こうと主人公が決意するラストは感動的であった。あまりにうまい締めくくりなので以後多くも小説が「採用」することとなる。私も「彼らのための三章」でちょっと真似てはみたのだが、比較できるレベルにないのはもちろんである。「失われた時を求めて」についてはなんとなく未消化な気がしているので近々、集英社文庫のダイジェスト版(それでも厚い文庫本で三冊もある)を読んで少しイメージを整理したいと思っている。
 「失われた時を求めて」の題名がでると必ず話題になるジョイスの「ユリシーズ」は新潮の全集の2巻本の上巻1/3ほどで断念。さっばり理解できませんでした。この手のものではビュトール「時間割」、ブロッホ「ヴェルギリウスの死」なども読んでみだがさっぱり。ロブ・グリエ原作の映画「去年マクエンバートで」は私が見た中での(出来が悪くて以外の)理解不能ナンバーワンである。

★9★室生犀星「密のあはれ」
 これまでの大作群と比べると中編で小粒だが日本文学からもう一つ。「おいおい、いくらなんでも『十大小説』には入らないだろう」と言われるのを承知でこの作品をあげておきたい。最初に断ったようにたいして読んでもいないような人間がおもしろがって「十大小説」を選んでいるのである。客観的な基準など初めっからないし、そんなものどこにもないと考えている。そう考えると、私としては「密のあはれ」をはずすわけにはいかない。日本の作家はたいていが若いころ書いたものが代表作になっているのだが(「雪国」の川端康成など)犀星は70歳を過ぎてから「密のあはれ」と、もう一つの代表作「かげろうの日記遺文」を書いている。こういう特異な作家はあと谷崎潤一郎くらいのものか。
 ともかくこの「密のあはれ」、全編会話の小説なのだが、別に難しい小説でもないので未読の人はぜひ一度読んでみるといいと思う。話自体も犀星を思わせる老作家(上山)が金魚とたわむれるというたわいのないもの。ところがこの金魚、人によって若い娘に見えたり金魚に見えたりするところがとんでもないのである。上山が講演会の席を見渡すと、金魚がいる。来ちゃだめだと言ったのにあいつ来てしまったんだ、と思っているとそのころ金魚は席が隣のおばさんに上山の知り合いで、「おじさまのむねや、お背中の上に乗って遊ぶ」こともあるなんてとんでもないことを言っている。おばさんには若い娘に見えるのである。上山のファンだというおばさん、呆れかえり、娘がしょっちゅう水筒の水を飲むのを不思議がるのみである。また、金魚は買い物に街へ出たりする!のだが、街の人たちには娘に見えるのに、その金魚を売った金魚屋からは「おーい金魚、元気にやってるかい」なんて声をかけられたりする。「(男は若い女が好きだが)きみより若いひとはいないね、たった三歳だからね」という上山の科白には抱腹絶倒。犀星作品としてはあまり有名ではないが、若い娘であり、金魚であるという二つのイメージを同時に成立させているこの「密のあはれ」は、世界文学としてみても言語表現の最先端を示しているような気がしてならない。

★10★フィリップ・K・ディック「ユービック」
 古典文学を読むにはそれ相応の知識と、ある程度の努力が必要である。プルーストなど読むと、自分の「文化」というものに対する知識の乏しさを痛感させられてちょっと情けなくもなる。が、そういった古典や大作だけが文学ではないのは当たり前のこと。娯楽として楽しんで読んで、しかも感動したり勇気が湧いたりするエンターテインメント作品ももちろん数多くある。最後にそんなエンターテインメント作品をアップしてみた。10番目の作品として選んでも問題ない水準だと思う。ただし、この最後の「座」はそのときの気分で変わるので、次回には全く違う作品がランクインしている可能性は大いにある。
 ディックの「ユービック」。SFである。ディックと言われてモビィ・デック(白鯨)しか浮かばない人には、映画「ブレードランナー(アンドロイドは電気羊の夢を見るか?)」の原作者である、と言っておこう。シマック「都市」、ブラッドベリ「火星年代記」、ベスター「虎よ!虎よ」、ブラウン「発狂した宇宙」、カートヴォネガット「タイタンの妖女」、クラーク「幼年期の終わり」「2001年宇宙の旅」など読み終わって、ううむ……とうなったSFはかなりあるが、今のところこれが1位か。ディックは人物の造形があまりうまくないので最初の1/3はちょっと苦労するかもしれないが、ともかく読んでみたらとしか言えない。主人公たちが地球へ帰ってきてからの展開は、エンターテインメントでありながら人間の存在と認識の不確実な深淵をのぞき込むようで、その怖さは比類がない。この作品のキーポイントは、「半生死」というイメージを考えついたところにあるのだが、考えてみればこのテーマは初期の「宇宙の眼」から一貫している。ただし、「宇宙の眼」では「半生死」の世界はただ並列的に並んでいるだけなのだが、この「ユービック」では直線的に掘り下げられている。そこにディックの作家としての成長があったのだろう。ミステリ的な味付けのある作品なのでネタを割らないように書いているが、デカルトの「我思う故に我あり」の成立しない世界の怖さが実感できる作品である。

☆以上。9と10については客観的にみて「十大小説」には入ってこないだろうなあと思いながらも個人の好みというか、オースティン「高慢と偏見」ならぬ「独断と偏見」で選んでみた。「そんなものに意味があるのか」と問われれば、私の個人的なMEMO以上の意味は全くないと答えるしかない。そもそもこんなブログに意味など全くないのである。こんなブログを読んでいる時間があるのなら、世界文学の名作でも読んだほうがよほど人生が豊かになる。これだけは断言できる。


☆どうしても読めない世界文学の名作・古典

 別に世界文学の名作を読まなくったって生活できないということはないのだが、名作と言われている作品が本当に名作なのかどうか確かめたい気持ちは若いころからずーっと継続してある(もちろん、そんなことには全く関心がないという人もいるだろう。批難しているのではなく、単に個々人の資質の問題だと言いたいのである。誤解なきよう)。
 そんなわけでとくに高校時代からかなりの文学作品を読んできた。納得の名作もあれば、よくわからない作品もあれば、明らかな駄作(あくまで私の評価である)もあった。社会人になってからも作家やいわゆる文芸評論家といった文章でなりわいを立てている人は別にして、ふつうの人より多少はその手の文学を読んでいるはずである。と思っていた。ところが、清水義範「独断流『読書』必勝法」を読んで驚いた。けっこう未読の名作があるのだ。それも古典的名作と言われるものがかなりある。
 焦るではないか。(^^;;
 まあ世界文学の名作を全部読破するなんてことはこの歳になっては、いや百歳の寿命があったところで間違いなく無理である。そこで、かつては読もうと思って買ったのにそのままになっている作品にはどんなものがあるのか、反省の意味も多少込めながら思い出して書き留めておくことにした。また、なぜ読まないのか読めないのかについても若干は考えてみた。時間がないわけではない。とすればつまらないのか、それとも難解なのかというようなことについても少し書いておく。(もっとも筑摩書房「世界古典文学全集」の収録作品については基本的にはここでは取り上げない。「仏典」や「禅家語録」まで広げたら収拾がつかないし、またモンテーニュ「エセー」など気が向いたときにぱらぱらと読むもので通読するようなものではないと思っている)
 
 ということで取り上げるのは、基本的に読むつもりがあり読みたいのだが読めない古典(小説)ということになる。まずフランス文学の文豪バルザック。
 文豪というと誰よりもまずバルザックの名前が思い出されるくらいの大物である。「谷間の百合」は高校生のかなり早い時期に「ゴリオ爺さん」と1冊になっている新潮社の世界文学全集で買った。が、解説を読んだだけで本文は10ページほど読んだところで早くもリタイア。バルザックの作品はある作品の脇役が別の作品では主人公だったりその逆だったりする形でつながっており、全体を「人間喜劇」なんて称するという生半可な知識があったため「幻滅」「従姉ベット」なども買ったのだが同じく沈没。バルザックに続く人物再登場作品が並ぶエミール・ゾラも「居酒屋」(これは「太陽がいっぱい」のルネ・クレマン監督の映画は見た。見ごたえはあったが重い映画だった)や「ボヴァリー夫人」など買ったものの、これまた全滅。
 いずれも社会全体をまるごと作品の中に入れ込んでしまおうとした長編だが、長さでいえば3倍も長いフランス文学のヴィクトル・ユーゴー「レ・ミゼラブル」やは読了できたのだから、やはり生理的に合わなかったと言うか原因はほかにあると考えるしかないだろう。
 では、作家によって生理的に合う合わないは決まるのかというと、バルザックやゾラは明らかにそうなのだが、そうでもない場合もあるから困ることになる。たとえば、ロマン・ロラン。高校生のとき彼の「ジャン・クリストフ」を読んで大きな感動を受けた。長さも「レ・ミゼラブル」と同じくらいでバルザックやゾラの諸篇よりも長い。ところが同じ作者で長さも同じくらいの「魅せられたる魂」はどうしても読み進めることができない。わずか数ページ読んだだけで眠くなってくるのである。私にとって作品の長さというのは全く苦にならないのだが、これはもう作品そのものに対する生理的関心度によると思うしかない。そうそう長いといえばマルタン・デュガールの「チボー家の人々」も長かった。最初の3巻は勢いでいけたが、後半はかなり苦しかった。これは作者や作品と生理的に合わないというよりも、その程度の作品だったということにしておこう。

 それでも、長さは関係ないと言ってはみたものの、プルーストの「失われた時を求めて」を読了したときは、ほとんど内容を理解していなかったにもかかわらず(演劇、美術、そして料理の話がけっこう出てくるのだが、そのあたりには全く疎いので理解不能)ともかく「読んだ〜」という自己満足的感動があった。存在するのは現在だけであり、過去は幻に過ぎず、未来はまだ来ぬ妄想にすぎないという時の流れを作品の中に固定してしまおうとする壮大な試みには惜しみなく拍手を送りたい(第一編の後半部「スワンの恋」など独立している部分はともかく、読み終わったときにはほとんど忘れているというのも、凄いというか情けない。さすがにもう一度読み直す気力はないので、集英社文庫の抄訳本でも読んでみようかと思うのだが、抄訳本でも3巻もあるのでまだ手が出せずにいる)。とまれ、ミッシェル・ビュトールの「時間割」なんていうアンチロマンも読んでいるくらいで、いわゆる「意識の流れ」を扱った小説が苦手というわけでない。
 にもかかわらず、ジェームス・ジョイスはどうしても読めないのが不思議。「若き日の芸術家の肖像」はそんなに長い作品ではないし難解なところなどないのだが、それでも読み通すのにえらく苦労した。「フェネガンス・ウエイク」は最初から諦めるとして、代表作の「ユリシーズ」は何度も挑戦してみたもののものの見事にその都度玉砕。「ユリシーズ」の骨格をなしていると言われるギリシア文学の古典「オデュッセイア」は読めてもジョイスの「ユリシーズ」は読めないのである(ついでに書いておくと、同じくホメーロスが書いたと言われる「イーリアス」の方が集中した劇的効果があり、ロードムービー風の「オデュッセイア」よりワンランク上というのが私の意見である)。「失われた時を求めて」と「ユリシーズ」は20世紀を代表する作品だという論も多く、そうなのかどうか自分自身で検証してみたいのだが、どうにもその一方が読めないのは我ながら情けない。

 高校時代に読んだサマセット・モームの「世界の十大小説」(岩波新書)にはトルストイからは「戦争と平和」ではなく「アンナ・カレーニナ」が選ばれている。「戦争と平和」を読んで感銘した私としてはぜひとも読みたい、いや読まなければと思うわけである。で、さっそく読んでみると「幸福の家庭はどこも同じようなものだが、不幸な家庭はその不幸な様子がそれぞれに異なっている」なんて名文句から始まる。ふむふむと読み始めたのだが10ページも読むと早くも退屈を覚えてしまい、それでも頑張って100ページ強まで読み進んだもののさっぱり頭に入ってこなくて遂に断念。数年経っての2度目のチャレンジも150ページあたりでまたしてもリタイア。別に文章が難しいわけでも構成が複雑に入り込んでいるわけでもないのに全く興味がわかず読み進めないのだ。「アンナ・カレーニナ」が読了できないので(というのも変だが)「復活」も買ってはみたものの解説を読んだだけで本文は全く読んでいない。世界文学の代表的な古典とも言うべきこれらの諸作が読めていないというのは情けないことだが、事実なのだから仕方がない。要するに「彼らのための三章」にこのトルストイの三大名作を次々に読んでいったように書いてあるのは大嘘である。
 トルストイと並ぶロシアの文豪ドストエーフスキイは米川正夫個人全訳の全集を買ったくらいで、主要な作品はほぼ読んでいるのだが、どっこい「未成年」だけはどうしても読み進めない。長さでは「罪と罰」と同じくらいの大作なのだが、富と権力を手に入れロスチャイルドを目指すというテーマがドスト先生にはちょっと異質だったのでは。「罪と罰」「白痴」「悪霊」「カラマーゾフの兄弟」を俗に4大長編と言うが「未成年」を入れて5大長編とは言わないので、まあパスOKということにしておこう。

 次、ドイツ文学。ドイツ文学の古典と言えば、まずゲーテということになるのだろうが、そのゲーテがどうも……なので辛いところである。青春時代の読書のバイブルとも言える「若きヴェルテルの悩み」が読了こそしたものの(そして、この本を読んだときは私も十分に若かったのだが)、ぐじゃぐじゃ言って何悩んどるんだ、という感想しか持ちえなかった。これがつまずきの始まり。名作中の名作「ファウスト」に挑んだものの、第2部の途中で話がわからなくなり、それでも数十ページは頑張って読んでみたものの、ついに沈没。ならばと気を取り直して「ヴィムヘレムマイステル」に取り組んでみた。筑摩書房の世界文学大系の巨大1冊本を買ったのである。「修業時代」と「遍歴時代」の2部に別れていて、とくに「遍歴時代」は「ファウスト」第2部と同じように話が錯綜していてわかりにくいと親切にあらすじまで載っていたのだが、そこまで行かず「修業時代」の途中で断念、全く修業ができていないと言わざるを得ない。
 そのゲーテの正統的後継者はトーマス・マン。「魔の山」「ブッデンブローク家の人々」「ファウスト博士」と買って最後まで読み通せたのは「魔の山」だけというこれも情けない状態。「魔の山」は「彼らのための三章」にも書いたように夏休みいっぱいかけてじっくり読んだのがよかったのか、久々にいいものを読んだという気持ちで読了。ただし、トーマス・マンって悪人は書けない作家なのか、ゼデムブリーニまではそれなりの造形なのだが、ナフタは形にもなっていないのが残念。その勢いで後の2作にもチャレンジしたのだが、いずれも数十ページでかったるくなって断念。

 まあこのあと何年世界文学の傑作、大作がよめるのかはわからないが、まああまり無理せずに読めるものから読んでいこうと考えている今日この頃ではある。
nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
映画監督雑談2風魔異形伝09(25-27) ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。