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ミスキャストで減点「一週間フレンズ」 [映画の雑感日記]

「一週間フレンズ」☆☆★★★

 このところ大流行?のファンタジー恋愛映画。前回の、設定に全くついていけなかった「忘れないと誓ったぼくがいた」に続いての鑑賞。「忘れない」はヒロインの周囲の人たち全員がヒロインの存在を忘れてしまうというかなり無理矢理の設定のためついていけなかったのだが、この「一週間」ではヒロインの記憶が一週間でリセットされてしまうというヒロイン限定のものなので、多少はついていくことができた。
 つまりは、一週間で記憶がリセットされてしまう女子高生と男子校生とのちょっと切ない青春物語というわけだ。まあ、こういう話は多分、悲劇にはならないだろうなという予感があるので、安心して見ていられる。ただ、大きな枠組みで「ぼくは明日、昨日のきみとデートする」などと同じカテゴリーなので、比較してしまうと「深刻度」が浅い(相手がいなくなってしまうわけじゃあないんでね)だけ、やや損をしている。また、大学卒業までほぼ毎日日記をつけていた人間としては、一週間克明な日記をつけ、リセットされたらまずその日記を読み、先週の出来事を復讐すればいくらかは深刻度が減るんじゃないのか、というのがその理由だ。
 原作はまたまたしてもマンガで、アニメや舞台にもなったようだが、もちろ知らない(アニメを見ていた人の話だと、アニメではヒロインがその日の出来事を忘れないように日記に書く設定になっているそうだ)。映画の監督は村上正典。主演は川口春奈と山﨑賢人。ふたりとも演技自体はそれほどうまくはないが高校生らしい雰囲気があって合格。それを取り巻く松尾太陽や高橋春織も微笑ましく意外といい味出している。とくに松尾くんがいい。問題はある意味敵役になる上杉柊平。この人、演技もうまくないし華がないというか、よさがさっぱりわからない。どこから見ても山﨑くんのほうが上でしょう。
 このての映画は敵役がそれなりにカッコよく、行動や発言に一理も二理もあって、山﨑くん大丈夫か、がんばれ、と思わせないと盛り上がらない。その敵役がただ自分勝手で見てくれもイマイチでは、ただ嫌みなデリカシーのない奴にしか見えない。話がつまらなくなってしまうばかりである。だいたい、昔の話を持ち出してぐたぐた言うのが男らしくない。ヒロインの記憶障害の理由が、このダサ男が原因でクラス女子のいじめにあい、事故にあったというのも、それほど注目を集める男とも思えないので、説得力がない。だいたい、今どき「おれの女」てきに振る舞うなんざあ、流行らないでしょうが。明らかにミスキャスト+下手シナリオで、★マイナス1。
 ま、それでも学園祭の終りに松尾くんと話しながら交換日記を燃やしてしまう山﨑くんなどうまく描かれている。日記がなくなれば川口さんは山﨑くんを忘れてしまうわけで、切ないものがある。前半と後半にある降雨時の傘のシーンも状況の変化をうまくとらえていて悪くない(ネタバレしないように書いている)。山﨑くんがマンガ同好会に入っているという設定も最後にうまく生かされている。「忘れないと誓ったぼくがいた」よりは出来がいい映画だった。

 最近、このての映画を見て思うのだが、おっさんが何とか見られるのは大学生以上で、高校生の恋愛物はさすがにちょっと厳しいですなあ。多分、同年代の人が見ると★1つか2つはプラスになるのではないかと思う。

↓予告編
https://www.youtube.com/watch?v=XNAh3ps_TKU
一週間.jpg

【追記】上でふれた「ぼくは明日、昨日のきみとデートする」が、ブログ元がEMWからLIFECLIPと代わり、この「迷走ダイアリ」に引っ越しするとき消えてしまったようなので、元原稿から再録しておく。

「ぼくは明日、昨日のきみとデートする」☆☆☆★★★

映画にはほとんどの人が高く評価するものと(「アラビアのロレンス」「ベン・ハー」「駅馬車」「七人の侍」など)、評価が分かれるもの(「シン・ゴジラ」「タイタニック」など)、ほとんどの人がくだらないと思うものとがある(「アナコンダ」「テラフォーマーズ」「珍遊記」など)。
「ビッグ・ウエンズデー」や「ブレードランナー」「ルパン三世カリオストロの城」など私は映画館で見たが、平日の昼ということもあったのか館内はガラガラ。おもしろい映画だと思ったのにほとんど話題にもならなかった。それが年々評価が上がり、今ではカルト名作なんて呼ばれたりもする。
そんなわけで、映画の評価というものは見る人によって異なり、また固定的なものではないのだが、この映画は、人によってかなり評価が分かれるのではないかと思う。

例によってこの映画の存在は全く知らなかったが、劇場で見たという知り合いからファンタジー映画でそこそこおもしろかったという話を聞いたので、暇潰しのつもりで見てみた。何を隠そう(といって別に隠しているわけではないが)私は昔、「SF青年」だったのだ。
アメリカに「ファンタジー&サイエンス・フィクション」という雑誌があり、初期のSFマガジン(早川書房)が提携していたこともあって、SFとともにファンタジー作品もずいぶん読んだ。だから、このてのものには興味があるのだ。

ただ、この映画、確かにファンタジーなのだが、ファンタジー要素は設定をつくるための道具に過ぎず、むしろ恋愛映画、青春映画だった。監督は「アオハライド」(この映画、本多翼ちゃんが棒演技で、話自体もつまらなかった)の三木孝浩。主演は福士蒼汰と小松菜奈。
今どきこんな初で純真な若者がいるのかいなとは思うものの、ファンタジーであり、ある意味おとぎ話のようなものなのだから、違和感はない。二人ともなかなかいい感じを出していて、適役(主役2人については後でもう一度書く)。美大生の福士の友だちに東出昌大、父親に大鷹明良、母親に宮崎美子といったところが主なキャスト。いやあ、いいキャスティングなんだけど、地味ですなあ。

で、かんじんの映画だが、結論から言うと、私はおもしろく見た。
あまりネタバレは書きたくないのだが、この映画についてはどうしても触れないと話が始まらないので書くことにする。見る予定でまだ見ていないという人は、以下スルーのこと。

キーポイントは、福士と(福士の視点で描かれているのでつまり観客が見ている世界と)小松の世界では時の流れが逆だということ。まあ、それを認めたところで時の流れは連続的なものなので、何で深夜零時にリセットされるのかという疑問は残るわけで、映画のようにその1日の中では同じように時を過ごせる展開になるなどということはあり得ないのだが、これは大前提なので「そういうことなのだ」と受け入れよう。

また、なぜ2人が会っていられるのが30日間に限られており、出会えるのがなぜ5年ごとなのかと疑問をもってはいけない(片方が5歳のときもう片方は35歳、以下10歳と30歳、15歳と25歳というかたちでですれ違っていくので、恋愛対象になるのは互いが20歳の「今」しかないというところがミソだ)。時を扱った話にはタイムパラドックスがつきものなのだから、そこを突っ込んでもいけない。くどいようだが、「そういうものだ」という前提を受け入れないと話についていけない。その前提が受け入れられない人はこの映画は見ないほうがいい。時間の無駄だ。

整理すると20歳の2人が会っていられるのは30日間。日にちのリセットが逆なので、福士にとって始まりは小松にとっての最後。福士にとっての未来は小松にとっての過去(小松から見れば逆)。だから、福士にとっての出会いは小松にとっての別れということになり、福士の明日は小松の昨日なので、2人のデートは、タイトルのようになるわけだ。映画が始まって半分近く進んでから=40分過ぎになってようやくタイトルが出るのは内容から考えるととてもうまく考えられていて感心した。

さて、そういう前提にたって、無理矢理の設定・展開が観どう客の共感を呼ぶように描かれているかが、この映画の評価のポイントになる。ただし繰り返すが、2人にとっての時の流れが正反対だというファンタジー設定を受け入れたとしても、意味不明な説明に納得できたとしても、細かいところで、こういうことにはならないだろうなどと考えてはいけない。かつてのSF青年の目から見るとあまりに抜け穴だらけのザル設定で、黒板に描かれたクルクル画像やパラレルワールドの話はとても受け入れられるだけの説得力がない。一応、説明だけはしておきますね、という一種のアリバイ工作に過ぎない。それをわかった上で、ファンタジーなんだからと無理矢理にでも納得して画面と向かい合うというのが大人の態度というものである。

要するに、作り手は、出会って、一緒の時を過ごして、別れなければならないという究極の切ない恋愛ストーリーを描きたいために無理矢理作り上げた設定と考えるべきだろう。そのどう考えても現実にはあり得ないような話を、どれだけリアリティをもってうまく処理するのかが制作者の腕である。
結論からいうと、福士、小松共に役に合っていることもあって、私はそれなりにリアリティをもって見ることができた。「事実関係」がわかってしまった後の処理も悪くない。というか、映画はそのあとのほうが切なくておもしろい。最後のほうで福士君の両親に2人で会いに行くところなどいいねえ。父親役の大鷹明良など絶品。最後に彼女の絵を描きながらの会話などけっこう泣かせる。泣くといえばこの映画、主人公の2人ともが実によく泣くのだが、泣くたびに2人は「強く」なり、涙が心地よく感じられるのは合格点。

最終日(福士にとっての。小松にとっては初日)ここからテンションを落とさず別れのシーンまでベタだがきちんと描き切っていて悪くない。そして、2人が別れたあとの5年後、彼女15歳に福士25歳が「最後の日」に描いた彼女の絵を見せ、二十歳の私たちに会いたくなった、ということで彼女の1日目(福士の最後の日)が始まる。絵を描く用意をして福士が待っている教室に彼女が入って来たとき、「1日目」と文字が出るのだが、正直感動し、「うまいなあ」と感心した。今まで福士の視点から見せられてきた物語を、ここからは彼女の視点からフラッシュバックで見せられる納得の展開。そして、彼女の最後の日(福士の最初の日)がやってくる。こちらはすでに話を知っているので、彼女の言う「また明日ね」という言葉に悲しさと優しさと緊張感が込められており、映画の初めのときと同じ言葉なのに別の意味でこちらの胸をうつ。

この後の暗転で終りということで私はいいと思うのだが、その後まだ短いエピソードがあって、私にはこのエピソードがよくわからなかった。
(以下、どうでもいいようなことをああだこうだと書いています。かつてSFが好きだったおっさんの「悪い癖」です。めんどくさいと思う人は、この字色の部分をスルーしてください。)

暗転の後、5歳の福士が35歳の小松に救われる逆で、5歳の小松が35歳の福士に救われるシーンがある(本編の15年後、15年前ということになる)。その後、映画冒頭の電車のシーンになり、「彼のもとにたどり着いた」という彼女の言葉で映画は終わる。5歳のとき助けてくれた彼とは上に書いたように、15歳のときにも会っているわけなので、2人にとってはさらに時が進んだあとでの再会となる。なぜ、彼女が5歳のときのエピソードをここにわざわざ置いたのだろう。端で繋がっていると言いたかったのだろうか。
この短いシーンを挟んで再び登場してくる、彼女はどういう彼女なのか。まあ20歳の小松と考えるのが妥当だろう。

 彼女にとって最後の日である。福士とのホームで電車での出会い・別れの後に、昔、福士が住んでいたアパートを訪ねて懐かしむとともに自分の気持ちに区切りをつけるということは十分に考えられる。1日の中での時間は同じように流れていることを考えると若干不自然だが、朝イチでアパートを尋ね、その後電車の中で福士に出会ってラストといのも考えられないわけではない。しかし、そのどちらにしても再び彼女が電車に乗り込み、「彼のもとにたどり着いた」という最後の一言がどうもしっくりこない。

なぜなら、すでに書いたように「すれ違いは日単位(午前零時)」で行われ、その日の2人にとっての時の流れは同じなので(完全に時の流れが逆なら彼から見て、彼女はムーンウォークのように歩きながら後ずさって行くはずだし、言葉も逆、食べ物は口から出て皿に戻るという大変なことになる)。そのため、彼女にとって最後の別れとなるシーンの後の最後の最後に電車での最初の出会いのシーンがあるということが、私としてはどうもスッキリしない。

【補足】この部分の説明がちょっとわかりにくいというメールが来たので補足しておく。1日の中での時間の流れは逆さ回りではないので、「別れ」→「アパート」と考えるのが自然。つまり、アパートを尋ねるのは、別れの後ということになる。しかし、そうなると「出会い」のラストは遡ることになって不自然。ところが最初にアパートを尋ね、「アパート」→「出会い」と考えるとこの部分は自然だが、別れの後にこのシーンがあるのは時間の流れからしてやはり不自然。・・・ということで気になった次第。

それとも2人の関係は「端と端を結んだ輪になって、一つに繋がっているんだ」という劇中の台詞のように、互いにループしていて繰り返すのか(お互いが35歳のとき5歳の相手の命を救っているので20歳に会えているのだから)。いやいや、電車を降りて告白され別れて電車に乗り込むシーンの後なので、ラストはただ電車の中で福士との出会い(つまり、本当の最初と最後)というだけのもので、彼女の泣き声で終わってはあまりに切ないので、観客の「幸せ」のために、ここだけ前後をあえて入れ換え、2人の出会いをラストにしたのか・・・。

と書いてきて、エンディングソングが「ハッピーエンド」というタイトルであることを思い出した。ハッピーエンドならもしかすると最後の「彼のもとにたどり着いた」彼女は、(ちょっと無理矢理だが映画そのものが無理矢理なのだから)すれ違っていく彼女ではなく、彼と同じ時の流れの中で一緒に寄り添っていく彼女だと考えられなくもない。だったらハッピーエンドだろう。
いやあ、頭が混乱してきますなあ。・・・タイムパラドックスが関係している話はいくら考えても(とくに年寄りの硬直した頭では)結論が出ない。誰か、うまく説明してくれないかなぁと、思うのだがそもそもタイムパラドックスとはそういうもので、いくらでも仮説が成り立つものなのだからちょっと強引に思えても大枠の設定を受け入れ、年寄りとしては、若い男女の切ない青春を応援してあげればいいのかなとも思う。

いずれにしても、ピュアで切ない恋愛映画はもともとファンタジーの要素を内包しているわけで、ファンタジーの設定についてあれこれ理屈を考えるのではなく、純粋に青春恋愛映画として見るのが正しい見方なのだと思う。この映画、若いころというか同年齢のころに見たらけっこう感動できたかも、と還暦を過ぎたおっさんは考えたり残念がったりするわけである。見終わって、おもしろかったと思った人は、そのあともう一度見てみるといい。けっこう無理のある設定のリアリティを福士、小松の2人の好演が支えている(2時間の映画をほとんど2人で支えている)のがわかると思う。

上に書いたように、情弱の私は小松菜奈という女優を全く知らなくて、電車の中での最初のシーンを見たとき、おバカキャラで売っている藤田ニコルが出ている!と思ったのだが(小松フアンよ許せ)、話が進んでいくうちにどんどんかわいくなっていくので安心した。佐々木希のようなお人形的美人ではなく中の上程度の美人(小松フアンよ再び許せ。美人と断言するには目が離れてないかい?)なのが、リアリティがあっていいのだろう。
「あまちゃん」の「先輩」で売り出した福士蒼汰も最初はダサイかっこうをしているのだが、だんだんカッコ良くなっていく(不細工俳優をカッコ良く見せるのは難しいが、カッコイイ俳優を不細工に見せるのは簡単なんだね)。こういう変化はおそらく監督の狙い通りなのだろうが、2人のがんばりに座布団1枚、いや★1つ進呈。
この監督、最後のクレジットシーンで並行するレールが映し出され2人の生きる世界は結局のところ平行線かと思わせておいて、そのレールが交差するのも、けっこう芸が細かい。

最後にちょっと書いておきたいのは、ファンタジー故についつい絵空事になってしまいそうな展開の中で見るものを現実に引き止めてくれるのが、気が利いた中にリアリティのある台詞だということ。
「抱きしめ・たい」
と言う福士君に対して、小松さんが、
「抱きしめたら・いいんじゃない・の・かな」
と答えるやりとりなど、初な2人の切ないような甘酸っぱい感じが台詞でとてもうまく表現されていて感心した。ちなみに、この2人が結ばれるシーンが30日間しか会えないうちの真ん中というのもよく考えられている(どちらかが最後のとき相手は最初なのでメイクラブに進むのは不自然ではないにしても初な2人にしては唐突)。
最近はかつての映画青年だったころのように脇役や撮影監督、シナリオライターなどに注意を払うこともないのだが、今回は、「脚本家はどんな人なんだろう?」と思いながらクレジットを見た。吉田智子さん、いい仕事しましたねえ。ちょっと甘いが、これもおまけで★1つプラスしておこう。

↓予告編
https://www.youtube.com/watch?v=nqzjv3TWvA0

☆★は、尊敬する映画評論家・双葉十三郎さんの採点方法のパクリで、☆=20点、★=5点(☆☆☆が60点で「可」。合格というか、まあ許せるラインということです)
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