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「迷走中」からの引っ越し01 映画あれこれ [「迷走中」より]

 すでにお知らせしてあるように、このブログに下書きをし再考しながら原稿をアップしていた「現在迷走中」が元会社の業務終了により今年いっぱいで閉鎖になります。「現在迷走中」にアップするにあたりかなり大幅に加筆したものや、あちらにだけしかアップしていない記事を中心にサルベージしたものをこちらに引っ越しさせておきます。

★今こそ「西部戦線異状なし」を見よう★
 「西部戦線異状なし」の原作はレマルク。
 私は高校時代にこのルポルタージュ日記風の小説を読んだがあまり感心しなかった。が、映画はその一万倍もおもしろい傑作だった。見たのは名古屋の名宝会館内のスカラ座。あまりのすばらしさに映画が終わってもすぐには立ちたくない心境だった。この映画については、以前こんなことを書いている。
「(戦争映画があまり好きではない)私が唯一名作と認める戦争映画の例外中の例外がある。
ルイス・マイルストン監督の『西部戦線異状なし』である。アカデミー賞をとったのは当然で、これは、戦争映画という枠組みを超えた「映画」として掛け値なしの名作である。未見の人は、レンタルビデオでもいいから、ぜひ見て欲しい。出征兵士を送り出す華々しいパレードが行われている場面をずっと引いてくると、教室の中で教師が、今こそ銃をとって戦えと演説している場面、靴の主が銃弾に倒れて次々と変わっていくシーン、ラスト、蝶を採ろうとした主人公が銃弾に倒れ無数の十字架が並ぶ画面にオーバーラップしながらまだ生に未練があるように振り向きながら去って行く場面などは、おそらく映画史に残る名シーンだと思う。
 が、私が『西部戦線異状なし』は名作だ、と言うのはそういう(所謂反戦的)場面があるからということだけではない。実は、これほど迫力のある戦闘シーンを他の映画で見たことがないのである。初めて見たのは名古屋のスカラ座という映画館でのリバイバル上映だったが、塹壕で待機していていよいよ敵が攻めてくる場面の迫力たるや思わず体に震えが来たほどである。画面にそれほど迫力があり、(第一次世界大戦の映画なのに)現実感があるということなのだろう。二回にわたって行われる戦闘シーンを見るだけでも映画の力というものを感じさせる、文句無しの名画である。逆に、生々しい戦争というものを映画が扱う場合、この『西部戦線異状なし』くらいの名作の域に達していないと現実の重みに負けて、映画が自立出来ないのだろうと思う。」
 塹壕に身を隠した主人公がそこへ飛び込んできた敵兵を、自分の身を守るためとはいえ刺してしまい、その瀕死の敵と一晩同じ塹壕で過ごすシーンなどとくに印象に残っている。敵兵が死んだあとポケットをさぐると身分証書に挟まれていた1枚の家族の写真、・・・思わず目頭が熱くなった。かつて日本では鬼畜米英なんて教えられていたようだが、このワンシーンを見ただけで敵も(自分と同じように)決して鬼畜ではない普通の人間だとわかる。相手もまた同じように無事の帰りを待ちわびている家族のいる人間なのだ。そして悲しいことにそんな普通の人間が殺し殺されていくのが戦争なのだ。 
 それを何よりも明確に表しているのがタイトルで、レマルクの原作では「Im Westen nichts Neues」(西部戦線には報告すべきようなニュースはない)。映画のタイトルも「All Quiet on the Western Front」(西部戦線は何事もなく静まり返っている)。「西部戦線異状なし、報告すべき件なし」これが、主人公が死んだ日の前線からの報告なのである。
 この映画を見終わった後には深い感動と、私利私欲のために戦争を起こした者や組織に対する憎悪が残る。言うまでもなく戦争の最大の犠牲者は戦死者である。そして、死んだ者は何も語らない。だから、それをいいことに前線からは遠い安全なところでうまいものを食べ、無理矢理の命令を下して多くの者たちを死地に追いやったにもかかわらず生き残った為政者たちは再び威勢のいいことを声高に叫ぶ。この映画の冒頭、ドイツは今や危機的状況にある若者は今こそ銃をとれ、と叫ぶ教師のように。教室内は熱狂の嵐となり、ここで立ち上がらない者は臆病者、祖国に対する裏切り者だといった雰囲気の中、主人公も軍隊に志願するのだが・・・。
 久しぶりに見て、今という時代がまさに同じ閉塞状況の時代であることに気づかされる。
 誰かが威勢のいいことを叫べばそれを聞く者はストレス解消になるわけだ。
 「集団的自衛権」「原発」「秘密保護法」・・・安倍独裁政権からは威勢のいい叫び声ばかりが聞こえてくる。「集団的自衛権」にしても、国を守るのは当たり前だろう、という一言で終り。そこではなぜ今まで法制局は「集団的自衛権」は憲法に抵触するとしてきたのか、なぜこの時期に抵触しないと方向転換したのか(独裁者が自分の意のままになる人物を長官に据えたからである)、新たな法律を制定しないと国を守れないような状況にあるのか、などといった議論すらなく、反対する者は非国民と言われかねない状況だ。しかし、本当にそれでいいのか。今こそ多くの人にこの映画を見て考えてほしい。
↓予告編
https://www.youtube.com/watch?v=0jN5i2fwv-M
↓全編
http://retrofilms.in/index.php?productID=241
↓淀川長治さんはこんなことを言っています。
http://www.ivc-tokyo.co.jp/yodogawa/title/yodo0028.html
 もう1本今だから見てもらいたい映画ということになれば、「ローマの休日」「スパルタカス」の脚本家ダルトン・トランボ渾身の映画「ジョニーは戦場へ行った」だろう。これも劇場で見たが出てきて周りの景色に色があることにとても感動した記憶がある。この映画については、こんなことを書いている。
「『ジョニーは戦場へ行った』は1939年にトランボ自身が書いた小説。その後、第2次世界大戦や朝鮮戦争が起こるたびに発禁処分になった。まあこういう話を知るとアメリカも決して民主主義のモデル国で言論の自由が保障されているなんてことは幻想であることがわかるのだが、その自身の原作を1971年ベトナム戦争の最中に自身が監督(最初にして最後の監督)して映画化してしまったところに、『生きる』ということの意味を問い続けたトランボの気骨というか執念を感じざるを得ない。実際、私はこの映画を映画館で見たのだが、呆然としたまま見終わってすぐに席を立つ気になれなかった。映画館を出ると平日の昼間で、頭上には青空が広がり、すべてのものに色があるのがとても素晴らしいことのように感じられたものである(映画を見た人だけにわかるように書いている)。生きていることを実感させる、そして生きていることの意味を否応無しに問いかけてくる、とてもいい映画だ。『映画の力』とは、こういうものなのだろう」
↓予告編
https://www.youtube.com/watch?v=K7AFmXc0wK0
最後に墨子の「非攻」を引用しておこう。
http://www.geocities.jp/sei_taikou/bokushi_2.html
http://www42.tok2.com/home/yasuiyutaka/chinashisoushi/2bokushi.htm


★「スパルタカス」再論★
 かつて「史劇の2大名作」として「スパルタカス」と「ベン・ハー」のことを書きましたが、必要あってちょっと書き足したので「スパルタカス」の部分を再録しておきます。
 ひところ大作と言えば史劇という時代があった。それは同時に、その手の作品が大好きな私にとっても映画の黄金時代であった。私は、小遣いの許す限り西洋チャンバラ映画を求めて主として映画館に通い続けたのである。そうした史劇鑑賞半世紀の上に立って、さて史劇の名作は、と考えるとすぐに浮かんでくるのが史劇の二大名作「スパルタカス」と「ベン・ハー」なのである。
 まず「スパルタカス」だが、この映画は、主役の二人カーク・ダグラスとジーン・シモンズに目をつむってさえいれば、実に語るところの多い名作である。私は、スタンリー・キューブリックの代表作として「2001年宇宙の旅」「博士の異常な愛情」と合わせてこの「スパルタカス」を挙げるのに躊躇しない。
 ところが、どこかでキューブリックが「あれは私が全権を取れなかった唯一の映画で、商業映画の監督に心ならずも撤して作った作品だ」というようなことを言ったのを鵜呑みにして、「あれはキューブリック唯一の駄作だ」みたいなことを訳知り顔に言う奴がいるから困ったことになるのである。いったい、お前本当に映画を見たのか、と言いたい。キューブリックの失敗作と言えば「ロリータ」と「シャイニング」に止めを刺し、「突撃」や「バリー・リンドン」「フルメタルジャケット」などがやや退屈な水準作。
 キューブリックが監督として思い通りにやれたのかどうかということと、出来あがった作品の価値とは全く関係ないことを一言言っておきたい。トルストイだって晩年は「戦争と平和」を否定する発言をしているが、たとえ作者がそう言ったところで「戦争と平和」は、大それたことに世界をまるごと写しとろうとし、しかもかなりの程度に成功した歴史的大傑作なのである。
 出来上がった映画は製作者のものでも映画評論家のものでもなく、独立した「命」である。インターネットの時代になり映画についてはあれやこれやいろいろな情報が飛び交うが、映画は映画そのもので評価したい。
 閑話休題。
 スパルタカスは、紀元前70年頃に実在した人物。こう書くと高校時代ちゃんと授業を受けていた人の中には「そういえばスパルタカスの乱というのが世界史で出てきたなあ」と思い出す人もいると思う。原作ハワード・ファスト、脚本ダルトン・トランボ(赤狩りでハリウッドを追われた一人。ダグラスの「ガンファイター」のシナリオも書いており、その縁で起用されたのではないかと思う。後にワイラーの名作「ローマの休日」のシナリオは赤狩りで有罪判決を受けていたトランボが匿名で書いたものであることが判明した。「ジョニーは戦場へ行った」というすさまじい映画の監督もしている)。
 奴隷の反乱の物語なのだから「自由」ということが大きなテーマになるのは当たり前だと思うのだが、そのためにアメリカのいくつかの州では上映禁止になった、というような話を聞いたことがある。アカデミー賞を4部門受賞しているが、助演男優賞(ピーター・ユスチノフ)など地味なものばかりで、興行的にも大ヒットとはいかなかったようである。
 ただ、初めてこの映画を見た時(例の二番館のオーモン劇場)、「あれれー]と思った記憶はある。東映時代劇のような調子で「いい方」「悪い方」と単純に分類して見ていると、いい方はどんどん死んでいってしまい最後には全滅してしまうからである。「ウエストサイド物語」や「北北西に進路を取れ」などのタイトルデザインをしたソウル・バスが絡んでいると言われる合戦シーンにしても、堂々の布陣はじっくり見せるが戦いが始まるとあっと言う間に終わってしまい、「いい方」の大敗北である。
 ところが、何となく気になるものがあったのだろう、リバイバル上映をスカラ座の70ミリ大画面で見たときは感動の嵐。これは別に画面が大きかったからでもない。その数年の間にこちらが成長したからである。この後、東京に出てきてからも「スパルタカス」は映画館で2回見ているが、オールタイムでのベスト10に入るべき名作という評価は、ますます揺るぎのないものになった。
 スパルタカスの奴隷時代から剣闘士養成所の反乱まで、反乱軍の巨大化とローマ守備隊の壊滅まで、自由を目指しての反乱軍の進撃と壊滅、スパルタカスの死まで、という4章が交響曲のように織り成す見事な構成である。しかも、ただ奴隷軍とローマ軍という単純な図式ではなく、元老院の中でも勢力争い(チャールス・ロートンとローレンス・オリビエという二大名優の駆け引きは迫力満点)があり、そのことがラストでスパルタカスの妻と子が自由になる伏線となっているといううまさ。最後の決戦を前にしてのローマ軍総司令官クラサス(オリビエ)と奴隷軍のスパルタカス(ダグラス)の演説を交互に見せる手法も見事としか言いようがない。
 捕まった奴隷たちにクラサスの代理が「司令官の計らいで、お前たちは、許されることとなった」そう告げると死を覚悟していた奴隷たちの間にざわめきが起こる。が続けてこう告げられるのだ「ただし、条件がある。その条件とは、生きていればスパルタカスその者を、死んでいればその死体を指し示せ。そうすればお前たちは許される」というものである。皆を救うためにスパルタカスが名乗り出ようとする。と、それより一瞬早くトニー・カーチスが立ち上がって叫ぶ「アイム・スパルタカス」。スパルタカスであれば、殺されるのである。が、皆が口々に「アイム・スパルタカス」と言って立ち上がり、ほとんど全員が「アイム・スパルタカス」と叫ぶシーンもやや通俗的とはいえ、感動的なシーンである。
 「金持ちにとって死はすべてを失うことになるが、奴隷にとって死は苦痛からの開放だ」という台詞なども味わい深い。ダグラスとストロード(黒人俳優でこの映画でも印象を残す)の2人の剣闘士が命をかけた闘いをしているのを(それを要求したオリビエたちが)見もしないでローマでの政局の話をしているシーンなどもうまい。さすがにトランボのシナリオはよくできているなあ。
 ジーン・シモンズの「この子は、自由です。あなたの名前と、あなたの夢をこの子に教えます」というラストの台詞に至っては、心の奥底に響いて今でも目頭が熱くなるのを禁じ得ない。何度見ても感動が味わえると断言できる映画というものは数少ないが、「スパルタカス」は、その数少ない映画の1本である。
 もう一点だけ付け加えておくと、この映画は芸術映画でもなく政治映画でもなく、まぎれもないスペクタクル娯楽映画であること。トランボのシナリオもそのところはきちんとわきまえて書かれている。しかし、娯楽映画であるにもかかわらず、制作者の言いたいことは質を落とさず主張され、それがこちらの心にストレートに伝わってくるという名作である。このことは、「娯楽映画とは何か」ということを考える上で、忘れてはならない点である。最近は「お子様ランチ」ばかりになってしまったが、よくできたアメリカ映画はやはりすごいと思うわけである。
↓予告編
http://www.youtube.com/watch?v=u_C21N1UabM
 再録の原稿を探していたら「スパルタカス」の字幕についての原稿も見つかりました。ずいぶん前のものなのであわせて1部アップしておきます。関心のある人だけ読んでみてください。
「スパルタカス」の字幕改悪は許されない
 ・・・(ザ・シネマで放送された「スパルタカス」の字幕を)NHKの最悪の字幕と比較したわけではないのですが、「死んで」「死んで」の連発で、エンドタイトル直前なのに見るのをやめてしまいました(もしかして、同じもの?)。確かに「DIE」と言ってはいるのでかが、それを「死んで」と訳したのではそこに込められたニュアンスは全く伝わりません。戦争映画など見ていると、「退却」のとき「GO BACK」という言葉が使よくわれるのですが、これをそのまま「後ろへ行け」と訳すようなものです。翻訳家として無能というしかありません。問題は、このアホ字幕、馬鹿字幕が今後一般的になってしまうのではないかということです。おそがいことです。恐ろしいことです。断言してもいいのですが、この部分はラストのクライマックスでもあり、英語に弱い私など、字幕ひとつで見終わったときの印象がまるで違うのです。「悪貨」を駆逐するためにも、WOWOWあたりでぜひまともな字幕のものを放送してもらいたいと切に願う今日この頃です。
↓以下に、以前このブログに書いた「NHK-BS2の『スパルタカス』の字幕」を再録しておきます。
 NHK-BS2で「スパルタカス」が放送されました。
 今回、見ていて思ったのは、「ジョニーは戦場へ行った」というすさまじい映画を作ったダルトン・トランボの脚本は実によくできているということでした。「同じ死でも自由人と奴隷では、その意味がちがう。自由人の死はそれまでの快楽を失うことを意味するが、奴隷の死は苦痛からの解放だ」「闘うことは獣にでもできるが、詩を唄うことができるのは人間だけだ」なんてちょっとした台詞にも納得の重みがあります。放送も以前の「西部開拓史」のときのように序曲をカットするなどという暴挙はなく、ちゃんと間奏曲も入っていて合格。画質もレーザーディスクと比べると少し色が浅いかなという気がしないでもないですが、これも十分に合格点。
 しかし、字幕に関してちょっと、いやかなりの違和感がありました。たとえばトニー・カーティス演じるアントナイナス(劇場公開時、レーザーディスクでの字幕)がアントニウスになっていたり、ピーター・ユスティノフの演じるバタイアタスがバティアトゥスになっていたりと、私の記憶と今回のNHK字幕は微妙に違っています。
 まあ人名は原音により近づけたためなのかもしれないので許すとしても、絶対に許せないぞと思う違和感があったのはラストシーン。ジーンシモンズ演ずるバリニア(スパルタカの妻)が十字架につるされているスパルタカスの所へふらふと歩いて行く。それを見たローマ兵士が「女を歩かすな」(レーザーディスク訳)。ところがNHK訳では「道草は困るな」。まあ直訳だとそういうことなのかもしれませんが、すぐそこの見えるところ相手がいるような状況なんです。たとえばバス停でバスを待っているとこ子どもがうろちょろするのを「道草しちゃだめだよ」ってあまり言わないのでは。
 さらにその後、スパルタカスと別れる直前、バリニアがスパルタカスの足にすがるようにして言う言葉「愛する人を苦しめないで」(LD訳)。これがNHK訳だと「お願いだから死んで」。確かに訳としてはNHK訳で間違いではないのでしようが、なんだか彼女が非情な女でスパルタカスを「早く殺してくれ」と言っているように聞こえます。十字架上の苦痛から逃れるために早く死なせてほしいということはわかっているのですが、それでも「死んで」という訳は日本語としてどうなんでしょう。NHK関係者や翻訳家が、横のものを縦にするのが翻訳だと考えているのだとしたら、能がないと言うしかありません。というか、馬鹿ですね。普通に考えて、レーザーディスク訳の方がはるかに妥当だと思うのですが。
 字幕の対照表を貼っておきます。NがNHK、Lがレーザーディスクの字幕です。
N  道草は困るな。
L  女を歩かすな。
N  教えます。父親が誰で、何を夢見たか。
L  父の名と父の夢を教えます。
N  いとしいあなた、
  どうか死んで
  お願いだから死んで
  なぜ死ねないの
L  愛する人、私の命
  愛する人を苦しめないで
  どうぞ早く
N  さようなら、私のいとしい人、さようなら
L  さようなら、いとしい人、私の命
 ちなみに、映画のラストを飾るジーン・シモンズのこの台詞は「グッバイ、マイ・ラブ、マイ・ライフ。グッバイ、グッバイ……」というもので、むしろLDの字幕の方が直訳に近いものです。ダルトン・トランボのシナリオはとても重層的に書かれており、「私の命」というとき、それは死んでいくスパルタカスのことだけを差すのではなく、去っていくバリニア(シモンズ)がひしと抱いている2人の間にできた子どものことも差し、1人の人間が死んでもその意志は受け継がれていくということまでをも示しているのは明確です。ここはぜひともマイ・ライフ=私の命の一言を入れたいところなのですが、なぜかそれまで直訳にこだわっていた?NHKの字幕には入っていません。
 以前、ブラッドベリの「ロケット」という短編をハヤカワSFシリーズの翻訳(小笠原豊樹)で読んで感動したのに、創元推理文庫の翻訳で読んだときはさほどでもなかったという経験があります。昨今話題になったドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」も米川正夫、小沼文彦、亀山郁夫それぞれの訳で印象がかなり違います。「ザ・シネマ」で放送されたものがNHKの改悪版と同じものなのかどうか比較検討したわけではありませんが、どうやら「死んで死んで」が今後の字幕の定番になりそうな嫌な予感がするのです。映画の印象をまちがいなく悪化させるこのアホ字幕版は一刻も早く「絶滅」させてもらいたいと思う今日この頃です。きっぱり。


★「独裁者」と「ライムライト」
 「独裁者」は1940年、「ライムライト」は1952年の作品である。ぼんやりした記憶では、「独裁者」はチャップリン初めてのトーキー、「ライムライト」はもちろんトーキーだが、どちらも白黒映画である。後に「チャップリンの伯爵夫人」(だったと思う)というカラー作品を見たことがあるが、正直退屈だった。私にとっては、チャップリンは「黄金狂時代」に始まり「ライムライト」で終わったということだ。もう少し詳しく書くと1925年「黄金狂時代」、1928年「サーカス」、1931年「街の灯」、1936年「モダン・タイムス」、1940年「独裁者」、1947年「殺人狂時代」、1952年「ライムライト」と続くわけでどれもが映画史に残る傑作である(とくに「街の灯」と「モダン・タイムス」は、アウトスタンディングな傑作である)。いずれにしても、これだけの傑作を作ったのだ。「素晴らしい」の一言に尽きる。 
 「独裁者」は中学生のとき劇場で見た。同級生が「おもしろい」と言うので、つられて見に行ったのだ。スカラ座だったか名宝文化だったかあるいは別の劇場で見たのか覚えがない。全くボケとは悲しいものだが、こればかりは仕方がない。冒頭の戦場シーンでは大笑いしたものだ。巨大大砲など見ただけで笑えるし、高射砲(高射機関銃?)のシーンなど大爆笑した記憶がある。飛行機のシーンなど、後にドリフターズが何度も盗用して笑いをとっていたことでもレベルの高さがわかる(ネタバレしないように書いている)。
 チャップリン初のトーキーで、トーキー嫌いだったチャップリンが、しゃべりにしゃべったラストの名演説は映画史に残るものだし(そのためにトーキーで撮ったという噂もある)、椅子の上げ下げや地球風船など笑える場面もあるし(これもネタバレしないように書いている)、1940年というあの時代にこういう映画をつくったという勇気はそれだけでも賞賛されてよい。ただ、最初に見た当時、こちらは生意気盛りの若者。メッセージ性が強すぎる、演説の中身は悪くないのだが語るのではなくもっと映像で押すことはできなかったのだろうか、なんて上から目線で思ったものだ。
 もちろん、今もそういう気持ちが全くないというわけではないのだが、それよりも、チャップリンの演説が現代にも十分通用することに驚いた。あの小泉元首相ではないが「感動した」。本当にアメリカ、北朝鮮、そして日本のお偉いさんに聞いてもらいたいものだ。日本の独裁者とそのご夫人が「DESTINY 鎌倉ものがたり」という映画を見に行ったという記事を読んだが、このバカップル、チャップリンの「独裁者」は見たこともないだろうし、これからも絶対に見ないんだろうなあ。いや、こういう映画があることすら知らないんだろうな(「云々」を「でんでん」と読むおっさんと、乱痴気騒ぎの半裸写真をネットにあげるおばさんなので、まあ常識はないと推測。間違ってはいないと思う)。
 「ライムライト」は、リバイバル上映されたのが東京に出てきてからのものなので、劇場で見た記憶があるのだが、池袋だったかどこだったかこれもよく覚えていない。ある時期にこの「ライムライト」「モダンタイムス」「街の灯」など連続して劇場で見た記憶があるので、チャップリン週間とかチャップリン・フェスティバルのようなものがあったのかもしれない。いずれにしても「ライムライト」は、映画の宣伝のためにチャップリンがイギリスに渡る船の中で「国外追放」になるという曰く付きの作品である。もちろんマッカーシーイズムによる「赤狩り」にひっかかったわけだ。現在のトランプといい、20世紀初頭の禁酒法といい、拳銃・ライフルなどが簡単に買える(いつまで西部劇なんだ(^^;)などアメリカという国はどこか変なところがある。そうした「危険」が自分に迫っていることを察知していてチャップリンはこの映画を作ったのだろうか。主人公の老喜劇役者はどう見てもチャップリンそのものである。マッカーシーの反共の嵐が吹き荒れる中、徹底的に自分に同情が集まるように作られていて、私はチャップリンの映画人としての「したたかさ」に感心したものである(トレードマークの山高帽とちょび髭を封印し、素のままの老人として出演しているのは間違いなく計算の上でのことだと思う)。
 もう1つ今回久しぶりに見て感じたことは、若いころはもっと「乾いた笑い」が好きで、チャップリンもおもしろいのだがどうも人情的な御涙頂戴的なところがつまらないなあと思ったものなのだが、今回、それを全く感じなかったことだ。「独裁者」の演説シーンはネットに動画があがっていたので下にリンクを貼っておくが、素直に感動して聞くことができた。「ライムライト」にも名台詞があふれている。「死と同じく、生も避けられない」「人生に必要なもの。それは勇気と想像力、そして少しのお金だ」。さすがサイレント(の字幕)で鍛えられた人だけのことはある。こういう台詞は若いころなら反発したのだろうが、今は、その通りだなあ、と聞くことができる。こちらも歳をとったのだ。
 そんなわけで、私としてはやはりチャップリンといえば「街の灯」と「モダンタイムス」なのだが、この2作も十分に見て楽しめるものだと保証できる。楽しめるだけでなく、見てよかった、と感じられる映画は、最近は多くはないので、とても貴重である。
 ↓「独裁者」での伝説の名演説
https://www.youtube.com/watch?v=biAAmqaMCvo
【追加】
 ラストシーンの名手チャップリンの「モダン・タイムス」について、かつてこんなことを書いた。
「チャップリンがポーレット・ゴダードと並んでとことこと向こうへ歩いていく有名なラストシーン、歩いていったところで何かいいことがあるという保証は全くないのだが、『何もいいことはない。死んでしまいたい』と言う彼女に対して、チャップリンが言う『笑って。さあ、笑って』という台詞がきいているので、観客も何となくいいことがあるに違いないという気になってしまうのである。」
http://www.youtube.com/watch?v=Ps6ck1ejoAw
 だから、「なんとなく」幸せな気分で見終えることができる。「街の灯」のラストもうまい。「目が見えるようになった彼女が汚い浮浪者のチャップリンが、かつてそれが自分を助けてくれた紳士と気付かず、手に触れて初めて『あなたでしたの?』ときくシーンは、ぞくぞくするくらいの上手さで多くの模倣作も産んだ。あのギャグまんがの王様を自称する赤塚不二夫ですら『おそ松くん』の中でイヤミをチャップリンにこのシーンを使っていたほどである。」
http://www.youtube.com/watch?v=C_vqnySNhQ0
 作品の出来としてはちょっと落ちるが、「ライムライト」「黄金狂時代」「独裁者」「殺人狂時代」など、どれもラストはうまく締めくくっている。「殺人狂時代」の「1人殺せば殺人者、百万殺せば英雄」なんてラストの台詞は覚えてしまうほどである。「ライムライト」などはある意味通俗的にお涙ちょうだいラストなのだが、1952年という制作年度を考えるとアメリカは赤狩りマッカーシー旋風が吹き荒れている時代。容共的と目をつけられていたチャップリンはこの「ライムライト」の公開に合わせてイギリスに向かい途中に国外追放命令を受けるのだから、そこまで計算して自分(トレードマークの山高帽とちょび髭ではなく素顔で出演しているチャップリンが演ずる老道化師の主人公は誰が見たってチャップリンだ)に同情が集まるようにラストを作ったのではないのか。というのは私の推測だが、もしそうだとしたら二重の意味での名ラストシーンと言える。


★欠点のない名作「第三の男」
 どんな名作にも欠点はあるのだが(たとえば「スパルタカス」のような名作でもヒーロー、ヒロインの配役には疑問が残り、あの「アラビアのロレンス」にも後半に乱れがある)、世の中は広いもので、ほとんど欠点のない映画というものも存在するのである。
 キャロル・リード監督の「第三の男」である。
 この映画、あの有名なテーマ曲と共にツィターの弦が振動するタイトルシーンから、並木道での別れを長回しで撮ったラストシーンまで欠点らしい欠点が見当たらない、という稀有の映画である。私は、グレアム・グリーンの原作も読んだが、グリーン自身が言っているように「映画が完成版である」という意見に同意するしかなかった。グリーンの原作にもそれなりのおもしろさはあり、決して失敗作ではないのだが、映画のレベルの高さには到底及ばない。
 まず、ジョセフ・コットン、オーソン・ウエルズ、アリダ・ヴァリ、トレ・ハワードといった出演者がいい。どの俳優も「いかにも」という感じが漂い役そのものになり切っているのだ。で、もちろんシナリオがいい。様々な国の思惑が入り乱れている第二次世界大戦後のウイーンを舞台にした、というところですでに「何かが起こるぞ」という期待感を観客に与えるのである。話が埋葬で始まり埋葬で終わる、というのもよく考えられている。
 暗がりに靴が見え、それにハリー・ライム(ウエルズ)にしかなついていない猫がじゃれ、警察の尾行と勘違いしたコットンが「出てこい」と叫ぶとアパートから「うるさいぞ」と声と共に明かりがつく。すると、そこに悪戯を見つかってしまった子供のような顔をしてウエルズが立っている。ウエルズ初登場のあまりにも有名な場面だが、十分に計算されたシナリオと、コントラストの強い映像、それにツィターの音が加わって映画史上屈指と言っていい名場面になっている。ウエルズには、自ら監督した「市民ケーン」という名作もあるが、ウエルズといえば、やはり「第三の男」のこのシーンが即座に浮かぶほどインパクトが強い。とくに晩年のウエルズは、世間から「怪物」と呼ばれ、自身も「怪物」を演じていたが、そのルーツは「市民ケーン」ではなく、「第三の男」のこの登場シーンに由来するものだと私は思っている。
 建物の裏に出ると瓦礫の山になっている、といったような当時のウイーンの世相も(私自身が見たわけではないが)よく出ていたと思う。たとえば、今では取り壊されてしまったという、あの大観覧車。
 「血で血を洗うボルジアの時代は絢爛たるルネッサンスを産んだが、スイスの平和は鳩時計を産んだだけだ」云々の名台詞と共に記憶される名場面も、あの大観覧車があってこそのもので、ここでもシナリオと映像とが高い次元で調和しているのがわかる。すでに取り壊されているのだが、私は今でもウイーンと聞くと、真っ先にあの大観覧車が頭に浮かぶほどである。
 地下道を使った光と影との追跡シーンは、光と影と音響が交差する映画のお手本とでもいうべきもので、以後多くの模倣者を生んだが、しかし、やはりこの本家本元にかなうものはない。ハリー・ライムの最後のマンホールというか鉄格子というか、そこから出てうごめく指のシーンなど、シュールとリアリズムが入り交じった一編の名画を見る思いがするほどである。
 ラストの並木道でのジョセフ・コットンとアリダ・ヴァリとの別れの長回しのシーンにしても、きちっと整理された絵画のようなシンメトリカルな並木の映像の中をヴァリが歩いてきて、コットンを無視して去っていく、というそれだけことなのだが、画面に緊張感があり、はらはらと落ちてくる落ち葉と、断続的なツィターの音とがあいまって、映画史に残るラストシーンになった。「第三の男」というと、真っ先にこのラストシーンを思い出す人も多いと思う。
 天国と地獄(の英語)を逆に覚えているおっさんがいたり、突然走り出した車の中のコットンがどこへ連れて行かれるのだろうと思っていると講演会場だったり、とユーモアにもこと欠かない。サスペンスシーンの連続では観客は息がつまり、こうした上質のユーモアを適時はさんでやることにより、より一層サスペンスが盛り上がることはヒッチコックの映画で証明済みである。「第三の男」は、そういったところにも手抜かりはないのである。
 このようにサスペンスドラマの枠組みをもちながらも、「第三の男」は社会派ドラマとしても一級のものをもっている。友人なのだが、しかし彼の売りさばいた偽ペニシリンで多くの人が死に、さらに彼の恋人にほのかな想いを寄せるトレバー・ハワードの悩みは現代的でかつ深い。「第三の男」は、このように、人間ドラマとしても深いものをもち、さらに一場面、一場面が綿密な構成の上に見事に映像化されているという、稀有の名作なのである。この原稿を書くにあたって「どこかに欠点はないかな」と、この映画に関してだけは例外的に今回ビデオを見直してみたのだが、敢えて取り上げねばならないような欠点は、どこにも見つからなかった。
 キャロル・リードの作品は「落ちた偶像」(「第三の男」と同じくグレアム・グリーンの原作。駄作ではないが、「第三の男」とは比べるべくもない)や「華麗なる激情」(チャールトン・ヘストン主演のミケランジェロの生涯を描いた70ミリ大作。TV放映ではカットされてしまうのだが、物語が始まる前に映し出されるミケランジェロの作品の数々が普通見られないような角度からも撮影されていてけっこう感動させるだけの退屈な大作)、「邪魔者は消せ」なども見たが、どれも凡庸な出来で、「第三の男」ただ一作のみが映画史に残る名作になっているのである。
 では、これほどの、ほとんど欠点のない傑作なのだから、私がベスト10を作れば当然第1位かというと、そうでもないところに映画というもののおもしろさがある。もちろん、ベスト10には当然のように入ってくるのだが、せいぜいその真ん中あたりで、ベスト1になったことは一度もない。ベスト10などといういいかげんなものは、その時々の気分で変わるもので、私の場合、「スパルタカス」だったり「2001年宇宙の旅」だったり「アラビアのロレンス」だったりする。「駅馬車」や「太陽がいっぱい」がベスト1だと決めていた時期もある。にもかかわらず、「第三の男」は、ベスト1はもちろん、一度もベスト3に入ったことすらないのだ。
 これは、おそらく「第三の男」があまりにも欠点のない映画だからではないかと思う。欠点がなさすぎて、映画そのもので完結してしまっているのである。その完結した世界を見て、私は「ううむ」と納得し、感心するのだが、しかし、そこには間違いなく私の生きている世界とは距離がある。完結してしまっているので現実の世界への問いかけがない、とは言わないが非情に弱い。だから魂を揺さぶられるような感動がない。そのため、素晴らしい映画だとは認めつつも、ベスト1とかになるとどうしても多少の欠点はあっても自分の生き方、考え方に影響を与えた作品を優先してしまうのである。
 要するに、キャロル・リードの「第三の男」は、完璧な作品なのだが、欠点がないのが欠点ではないかと思うのである。



★侍=「宮本武蔵」★
 アメリカのサイトに「SAMURAI」という映画があがっていた。なんじゃそりゃあ、と思いながら見てみたら稲垣浩が監督し、三船敏郎が主演した「宮本武蔵」(3部作の第1作)だった。海外では侍=「宮本武蔵」ということなんだろうか。昔、「日本剣客伝」というテレビドラマがあったが、その第1話が宮本武蔵だった。塚原卜伝、千葉周作、小野次郎右衛門、上泉伊勢守などそうそうたる剣客シリーズの中で最初に選ばれたのは、少なくとも最も知名度が高いと考えられたからだろう。その意味では侍=「宮本武蔵」という海外でのイメージは日本でもあまり変わりはないのかもしれない。ということで、宮本武蔵に関するどうでもいい話を、だらだらとしてみることにする。暇のある人だけ読んでくださいと、最初に断っておく。
 まずは大昔の話。
 といっても宮本武蔵の生きた時代ほども古い話ではない。たかだか半世紀ほど前、つまり私がまだ若かったころのの話である。講談社から「吉川英治全集」が出ていた。国民作家と言われる吉川英治だが、私はそれまでただの1作も読んだことがなかった。家に父の買った「新・平家物語」があったのだが、長過ぎて読む気がしなかった。そこでも気にはなるので、本屋で手に取ってみたたのが「宮本武蔵」である。
 もちろん、宮本武蔵のことは知っている。人をバカにしてはいけない。(といっても、巌流島で佐々木小次郎と闘って勝ったという知識くらいしかないのだが(^^;)。それでも、後で書く稲垣浩監督、三船武蔵の3部作もテレビで見ていたし、何より島田省吾・武蔵、辰巳龍太郎・小次郎の新国劇を名古屋御園座で見ているのはプラスポイントだ。巌流島への行き帰りはロープで引っ張られた船が花道をガラガラと進んで行くという豪華版だった。新国劇自体が今ではなくなってしまったが、この舞台を見た人ももうそれほどいないと思う。何を言いたいのかというと、要するに自慢である。
そんなわけで、原作はどんなものなのだろうと素朴に思ったわけだ。
 全3巻のまず第1巻を買った。まあ、第3巻目から買う人間もいないと思うが、とりあえず家に帰ってきて読み始めた。ところが、これが全然おもしろくないのだ。剣豪小説だと勝手に決めつけて買い求めた私が悪いわけだが、なんともスピード感がなく、ゆったりしている。とても、手に汗握るチャンパラ小説ではなかった。残念。というわけで、この第1巻はあっという間に古本屋行きとなったわけだが(第1巻だけという中途半端なものは引きとってくれない可能性があるので他の本と一緒に売った。まとめていくらという値段が出るので、この第1巻がいくらだったのかは永久にわからない)。
 ついでに書いておくと知り合いに親がエレック・レコードの社長をしている奴がいて、エレックが潰れたとき、「おもしろいレコードがある」と言われて見せられたのが「宮本武蔵」。徳川夢声が吉川英治の「宮本武蔵」を朗読したという伝説のラジオ番組(だったと思う)をそのままレコード化したもので、何十枚あったのか数えなかったが大きな箱に入っており、とても1人では運べないようなシロモノだった。せっかく来たのだからと1枚目を聞かせてもらったのだが、「・・・それを聞いた竹蔵は、・・・」てな調子で本当に朗読だけのレコードで、すぐに眠くなった。当人には言わなかったが、こういうものを作っていたんじゃあ潰れるわなあ、と思ったものだ。「タダであげるから」と言われたが、「置き場所がない」と丁寧にお断りした。
 では、映画の「宮本武蔵」はおもしろいかというと、これがまた微妙なのである。東宝版3部作と東映版5部作が代表だと思うので、以下にだらだらとその感想を書くことにする。
 まずは、東宝版。
 稲垣浩監督の「宮本武蔵」「続宮本武蔵 一乗寺の決斗」「宮本武蔵 巌流島の決斗」の3部作。1954年から年1作ずつ作られた。昔々の大昔、NHKだったかの放送で見たのだが、当時家にあるのは当然のように白黒テレビだったので大人になってから見たとき、カラーなのにびっくり。キャスティングを見ると、
宮本武蔵:三船敏郎
佐々木小次郎:鶴田浩二(第2作から登場)
沢庵:尾上九朗右衛門
本位田又八:三國連太郎
お通:八千草薫
お甲:水戸光子
朱実:岡田茉莉子
吉岡清十郎:平田昭彦
吉岡傳七郎:藤木悠
宍戸梅軒:東野英治郎
 当時の東宝時代劇の2枚看板だった三船と鶴田を出しているのだから、相当力がはいっているのがわかる(この2人は同じ稲垣浩監督の「柳生武芸帳」や岡本喜八監督の「独立愚連隊」「暗黒街の弾痕」などでも顔を合わせている)。では、おもしろいのかというと、・・・ううむ、微妙。三船の台詞が聞き取りにくいのは黒澤映画以来の伝統で仕方ないにせよ、八千草薫のあの棒読みは何だ。朱実役の岡田茉莉子のほうがよほどうまいぞ(歳をとって八千草がきれいなおばあさんになり、岡田が化け物になってしまったのは、また別の話)。八千草薫は今でもヘタクソだが、もうここまでくると「ヤチグサカオル」として成立してしまっているので、文句は言わない。佐々木小次郎の鶴田浩二と吉岡清十郎の平田昭彦はピッタリのはまり役。鶴田はちょっと歳なのが残念だが、天才美青年でかついかにも強そうなのがいい。しゃべり方も天才にありがちな「上から」の感じがよく出ている。平田は東宝特撮映画の常連で私のご贔屓なのだが、ちょっとインテリ的な感じがよくイメージにマッチしていた。
 まあ、全体としては可もなく不可もない映画なのだが、東宝マークのとともに始まる團伊玖磨の音楽はワクワクする感じでとてもいい。東映版も伊福部昭(「ゴジラ」の作曲家)でがんばってはいるのだが、記憶に残っていない。音楽は東宝版に軍配だな。
 続いて、東映版。
 内田吐夢監督の「宮本武蔵」「宮本武蔵 般若坂の決斗」「宮本武蔵 二刀流開眼」「宮本武蔵 一乗寺の決斗」「宮本武蔵 巌流島の決斗」の5部作。これも1961年から年1作ずつ作られた。こちらは、名古屋東映、SK東映という封切館で全5作とも見た。こちらの出演者は、
宮本武蔵:中村錦之助(断固、萬屋錦之助ではない!)
佐々木小次郎:高倉健(確か第3作から登場)
沢庵:三國連太郎
本位田又八:木村功
お通:入江若葉
お甲:木暮実千代
朱美:丘さとみ
吉岡清十郎:江原真二郎
吉岡伝七郎:平幹二朗
 さすが東映映画というか、看板スター中村錦之助を筆頭に御大・片岡千恵蔵なども出ているのでこちらも力が入っている。で、どちらの出来がいいのかという話になるわけだが、この2つのシリーズを両方見た人に感想を訊くとまず90%がこの東映版のほうがおもしろいと言う(尊敬する故・双葉十三郎さんもそうだ)。私も、異論はない。中村錦之助がアイドルから俳優になった転機の映画である。では双手を挙げて東映のシリーズは傑作かというと、それがそうでもない。
 まず、お通を演じた入江若葉の小学校の学芸会以下の下手さ。東宝の八千草薫も下手では人後に落ちないが、入江若葉はそんなもの問題にしないほど突き抜けた下手さなのである。いくら大女優・入江たか子の娘とはいえ、金をとって見せるものではない。小学校の学芸会だってもう少しマシだと思う。マジ開いた口が外れてしまう。それくらい下手なのだ。世界演技下手リンピックなんてものがあったら、金メダル間違いない。どえりゃあ下手、ドベタ、超絶下手と断言できる。
 それと、小次郎の高倉健。東宝の鶴田浩二が適役だっただけに、その下手さが際立ってしまう。そもそも私のイメージでは小次郎は女性の着物が似合うようなスラッとした美男子で、動きも踊りを踊るような美しさがなくてはダメなのだ(実物は大男だったという説もある。あくまでイメージ)。その点、健さんは武骨だし、力強さはあっても動きが重い。朴訥で、華麗さがないのだ。健さんが女着物着て踊る姿を想像できる人がいるだろうか。絶対に想像できないとは言わないが、それはもう完全に喜劇だ。私は、健さんフアンでオールナイト上映にも何度も足を運んだくちだが(昭和残侠伝」の池部良と殴り込みに行くシーンなど感涙ものだ)、このときの小次郎役は間違いなく健さんの黒歴史だと思う。
 あと、悲しいほどの巌流島のショボさ。
 第1作以外退屈だった東宝作品でもさすがにこの最後の決闘だけは打ち寄せる波が朝日に輝く美しさといい素晴らしい出来映えを見せているのに、東映作品では波もほとんどなく、ただ鈍重に見える健さんが死んで終りという呆気なさ。キネ旬だったか何かで、予算の関係で琵琶湖で撮ったとかいう記事を読んだ記憶がある。最終話なんだからいいかげんな映画でもそれなりに客は来るはずだという計算なんだろう。観客をバカにしているとしか思えない。いや、完全にバカにしている。アホウ、そんなのそっちの都合だろう、こっちは金払って見に来てるんだぞ。最終話まで作ったんだから、なんて言い訳にもならんだろうが。5本も作ったそのクライマックスがこんなんでいいと思っているのかっ。波が打ち寄せてこそ、巌流島だろうが。責任者、出て来ーいっ!
 落ち着いて、落ち着いて(^^;。
 別に評論でも何でもないので、だらだらと思いつくまま書いている。繰り返しになるが、東宝作品では1番出来のいいのは第1作、最低は第2作。東映作品では最高が第4作で、最低は今書いた通り最終の第5作。それまでの貯金があるので全体としては東映作品のほうが出来はいいと思うのだが、だからといって傑作シリーズと言い切れないのはこの最後の決闘シーンにひどく落胆したからである。
 モンテーニュも「エセー」で人の死に際の大切さを説いているが、途中がよくても、最後の最後で大コケしたんじゃあ、身も蓋もない。くどいようだが、第5作は、巌流島の決闘という誰もが知っているクライマックスがないままシリーズを打ち切ってしまったのでは非難囂々なので、仕方なく最終話を作ってみましたという感じなのだ。これではスタッフ、キャスト、そして何よりも観客が浮かばれない。
 ほとんどの人が亡くなっており、半世紀以上も前の映画なので、今となっては不可能な話なのだが、両方のいいほうをとって作られていたらなあという思いは今でもないわけではない。以後、「宮本武蔵」は私が知っている限りでも、高橋英樹、役所広司、北大路欣也、市川海老蔵、上川隆也、最近では木村拓哉なんてところが演じているが、どれももう1つピンとこない。正直、新しいものが作られるたびに、時代劇特有のあの「空気」とでもいうものがだんだん希薄になってくるなあというのが、率直な印象である。それと、やはりビデオはダメだね。輪郭がくっきりし過ぎていて、フィルムのときのようなひとつ違う世界を見ているという「時代」の感じがどうしても出ない。
 ところで、武蔵といえば小次郎だが、「佐々木小次郎」(1967年東宝)という映画を名古屋の名宝劇場で見たことがある。三船3部作の稲垣浩監督なので、「あの話」を小次郎の視点で作ったらどんな作品になるんだろうと思って見に行ったわけである。小次郎は尾上菊之助(七代目尾上菊五郎)。緋牡丹博徒の藤純子(富司純子)と結婚した人で、子どもは寺島しのぶと五代目尾上菊之助。七代目は今は確か人間国宝になっているとはず。菊之助の小次郎は歌舞伎俳優だけにヅラがよく似合い颯爽としていて悪くはないのだが(無論、高倉健の小次郎よりいい)何と言うか天才的剣士という感じがしないのが残念。はっきり言って強そうな感じがしないのだ。途中で登場し最後に戦うことになる宮本武蔵(仲代達矢)の荒々しいイメージのほうが(結末はわかっているとはいえ)断然強そうに見える。
 それにしても、平日の昼間とはいえ、広い名宝劇場はガラガラのがら空き。閑古鳥すら(鳴くどころか)いないという悲惨なものだった。映画の出来自体もイマイチだったが、やはり主人公が負けるとわかっている話は受けないんだろうなぁ。今ではこの映画を話題にする人もいないし、今までこの映画を見たという人に会ったこともない。それなりに金をかけた映画だと思うので、この映画で最も大きな傷を負ったのは、佐々木小次郎ではなく東宝だったのだろう(^^;。
 以上、「宮本武蔵」雑談でした。(^^)/
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